4 octobre 2009
このところほとんど触っていなかった別ブログ 「パスツールからのメッセージ」 を何気なく覗く。こちらに来る1年ほど前の2006年5月から始めている。日本パスツール協会から依頼され、パスツール研究所のプレス・リリースを訳すというお手伝いをしていたが、その内容を紹介するブログになる。内容が専門的になるので、これまでも読み返すことはなく、資料置場のようになっていた。
今回、僅かながらの懐かしさも手伝い、時を遡ってみた。もちろん内容を読むところまではいかなかったが、3年ほど前からの記事にある写真を眺めていると、その時以来見ていないのでどれも非常に新鮮に感じられた。しかも、その何気ない写真が当時の心象風景をはっきりと思い出させてくれる。
今日の写真は、その最初の記事にあったものになる。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭でのショット。この音楽祭では毎年ある作曲家を取り上げて集中的に演奏会をやるが、この年はモーツアルトであった。前ブログにも関連記事がいくつか見つかった。今回も心に軽い風が吹き抜けるという経験をした。
昨日の夕方、まだ明るいうちからバルコンに出る。仕入れたばかりのシガーを燻らしながら空を眺める。20羽くらい群れをなして小鳥が飛んでくる。丁度上に来た時、羽音が耳に入る。遠くには夕陽に光る飛行機が1機、2機、3機と尾を引きながら飛んでいる。すべてが視界から消えると、また1機現れた。この動きを見るのが楽しみの一つになっている。目を右手のビルに移すと、限りなく満ちてきた若い大きな月が顔を出している。次第にビルとの隙間が広くなり上に昇って行く。左に目をやると薄い灰色の雲がゆっくりと空を覆ってゆく。今まで見えていた月が掻き消されてしまった。
音楽を聴いているような時の流れであった。
mercredi 7 août 2019
lundi 5 août 2019
エリー・ウォルマン記念シンポジウムへ
3 octobre 2009
シンポジウムはこの方の業績を讃え、人間を記憶に留めるための会になる。
エリー・ウォルマン(Elie Wollman, 1917-2008)
実はエリー・ウォルマンのご両親(ユージン、エリザベス)も研究者で、同じくパスツール研究所で研究をされていた。彼らは1943年に研究所で捕まり、アウシュヴィッツから戻ってくることはなかった。当時の研究所はどのような立場に採っていたのだろうか。すでに明らかにされているのだとは思うが興味がある。息子のエリーはレジスタンスとして戦った。
さらに、エリー・ウォルマンの名付け親が昨年ここでも触れた免疫は細胞が媒介するという説を提唱したエリー・メチニコフだということを知った。メチニコフはロシアの放浪の研究者だったが、パスツールに声をかけられ、新しい研究所で一生を過ごしている。このウォルマンさんもパスツール研究所で生まれ、そこで亡くなったことになる。研究所の生き字引のような存在だったようだ。
このような人間的共感がもとになった会に参加するのは、いつも気持ちがよい。午前中の最後に、「地獄の微生物」 の著者フォルテールさんも発表していた。非常に面白くなっている分野との印象を持った。例えば、最近発表された論文とあなたの発表は全く違いますが、という質問に対して、「その通り。その論文は古いドグマに固まっていてわたしはその論文を全く好きになれない」とはっきりとした対決姿勢を取っている。このような論争が起きる分野など、今どれくらいあるだろうか。それだけでも惹き付けるものがある。何かが起きようとしている予感のようなものを感じ、興味が尽きない。
昨日は流石に前日の疲れが残っていたようだが、朝一番から始まるシンポジウムに出かける。メトロで印を付けながら本を読んでいる時、なぜか持っていたペンがぽとりと落ちて、前の女性のバッグの中に入ってしまう。説明すると "Allez-y !" と笑顔で答えてくれ、気持ちよく一日が始まった。
シンポジウムはこの方の業績を讃え、人間を記憶に留めるための会になる。
エリー・ウォルマン(Elie Wollman, 1917-2008)
パスツール研究所には、分子生物学の黎明期に遺伝子の発現調節機構を解明してジャック・モノー、アンドレ・ルヴォフとともにノーベル賞を受賞したフランソワ・ジャコブが現在もいる。彼は科学のみならず哲学的な書物も物しており、世界的な影響力を持つフランスが誇る科学者の一人と言ってよいだろう。ウォルマンはパスツール研究所でこのジャコブとにとともに最後まで仕事し、亡くなるまで研究所に顔を出していたようだ。彼がいなくなり、パスツールを知る研究者を知っている人が研究所にいなくなったと言われている。ジャコブはウォルマンを讃える言葉を発表するために会場に顔を出していた。指名されてから、杖を頼りにゆーっくりとステージまで歩いていたが、それまでとは全く違う永遠とでも言えるような時間が会場を静かに満たしていた。堂々としたフランス語で発表していた。
実はエリー・ウォルマンのご両親(ユージン、エリザベス)も研究者で、同じくパスツール研究所で研究をされていた。彼らは1943年に研究所で捕まり、アウシュヴィッツから戻ってくることはなかった。当時の研究所はどのような立場に採っていたのだろうか。すでに明らかにされているのだとは思うが興味がある。息子のエリーはレジスタンスとして戦った。
さらに、エリー・ウォルマンの名付け親が昨年ここでも触れた免疫は細胞が媒介するという説を提唱したエリー・メチニコフだということを知った。メチニコフはロシアの放浪の研究者だったが、パスツールに声をかけられ、新しい研究所で一生を過ごしている。このウォルマンさんもパスツール研究所で生まれ、そこで亡くなったことになる。研究所の生き字引のような存在だったようだ。
このような人間的共感がもとになった会に参加するのは、いつも気持ちがよい。午前中の最後に、「地獄の微生物」 の著者フォルテールさんも発表していた。非常に面白くなっている分野との印象を持った。例えば、最近発表された論文とあなたの発表は全く違いますが、という質問に対して、「その通り。その論文は古いドグマに固まっていてわたしはその論文を全く好きになれない」とはっきりとした対決姿勢を取っている。このような論争が起きる分野など、今どれくらいあるだろうか。それだけでも惹き付けるものがある。何かが起きようとしている予感のようなものを感じ、興味が尽きない。
英語とフランス語が入り乱れる会であった。午前中で会場を後にし、図書館、それから迷ったが夕方まで街に出て読むことにした。途中、カフェの周りが騒々しくなってきた。老婆がポリスに両手を後ろに回され、大きなしっかりした声で訴えるシーンが現れた。そこに若い男性や中年の女性が何人か寄ってきて、これはあまりにも酷いのではないかとポリスに訴えているように見えた。しかし、3人ほどいたポリスは首を横に振っていた。それから人垣ができ見えなくなったが、次第にそれもなくなり普段の街に戻って行った。
もうひとつだけ。シガーを仕入れるために偶に顔を出すお店へ。いつもは女性がお相手をしてくれるのだが、今日は若い男性が棚を開けてくれる。そして、一つひとつの値段を打ち込んでほしいとマシンの前にいる中年の女性にこうお願いした。 " Jeune fille ! " いつか見た光景が目の前に再現された。女性の顔が一気に光を発し、完全に開いていた。横にいた女性と何やら笑いながら言葉を交わしていた。
夜バルコンに出ると、ほぼ満月のきれいな月が出ていて、疲れが飛んで行くような軽い気分になる。
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