昨日は流石に前日の疲れが残っていたようだが、朝一番から始まるシンポジウムに出かける。メトロで印を付けながら本を読んでいる時、なぜか持っていたペンがぽとりと落ちて、前の女性のバッグの中に入ってしまう。説明すると "Allez-y !" と笑顔で答えてくれ、気持ちよく一日が始まった。
シンポジウムはこの方の業績を讃え、人間を記憶に留めるための会になる。
エリー・ウォルマン(Elie Wollman, 1917-2008)
パスツール研究所には、分子生物学の黎明期に遺伝子の発現調節機構を解明してジャック・モノー、アンドレ・ルヴォフとともにノーベル賞を受賞したフランソワ・ジャコブが現在もいる。彼は科学のみならず哲学的な書物も物しており、世界的な影響力を持つフランスが誇る科学者の一人と言ってよいだろう。ウォルマンはパスツール研究所でこのジャコブとにとともに最後まで仕事し、亡くなるまで研究所に顔を出していたようだ。彼がいなくなり、パスツールを知る研究者を知っている人が研究所にいなくなったと言われている。ジャコブはウォルマンを讃える言葉を発表するために会場に顔を出していた。指名されてから、杖を頼りにゆーっくりとステージまで歩いていたが、それまでとは全く違う永遠とでも言えるような時間が会場を静かに満たしていた。堂々としたフランス語で発表していた。
実はエリー・ウォルマンのご両親(ユージン、エリザベス)も研究者で、同じくパスツール研究所で研究をされていた。彼らは1943年に研究所で捕まり、アウシュヴィッツから戻ってくることはなかった。当時の研究所はどのような立場に採っていたのだろうか。すでに明らかにされているのだとは思うが興味がある。息子のエリーはレジスタンスとして戦った。
さらに、エリー・ウォルマンの名付け親が昨年ここでも触れた免疫は細胞が媒介するという説を提唱したエリー・メチニコフだということを知った。メチニコフはロシアの放浪の研究者だったが、パスツールに声をかけられ、新しい研究所で一生を過ごしている。このウォルマンさんもパスツール研究所で生まれ、そこで亡くなったことになる。研究所の生き字引のような存在だったようだ。
このような人間的共感がもとになった会に参加するのは、いつも気持ちがよい。午前中の最後に、「地獄の微生物」 の著者フォルテールさんも発表していた。非常に面白くなっている分野との印象を持った。例えば、最近発表された論文とあなたの発表は全く違いますが、という質問に対して、「その通り。その論文は古いドグマに固まっていてわたしはその論文を全く好きになれない」とはっきりとした対決姿勢を取っている。このような論争が起きる分野など、今どれくらいあるだろうか。それだけでも惹き付けるものがある。何かが起きようとしている予感のようなものを感じ、興味が尽きない。
英語とフランス語が入り乱れる会であった。午前中で会場を後にし、図書館、それから迷ったが夕方まで街に出て読むことにした。途中、カフェの周りが騒々しくなってきた。老婆がポリスに両手を後ろに回され、大きなしっかりした声で訴えるシーンが現れた。そこに若い男性や中年の女性が何人か寄ってきて、これはあまりにも酷いのではないかとポリスに訴えているように見えた。しかし、3人ほどいたポリスは首を横に振っていた。それから人垣ができ見えなくなったが、次第にそれもなくなり普段の街に戻って行った。
もうひとつだけ。シガーを仕入れるために偶に顔を出すお店へ。いつもは女性がお相手をしてくれるのだが、今日は若い男性が棚を開けてくれる。そして、一つひとつの値段を打ち込んでほしいとマシンの前にいる中年の女性にこうお願いした。 " Jeune fille ! " いつか見た光景が目の前に再現された。女性の顔が一気に光を発し、完全に開いていた。横にいた女性と何やら笑いながら言葉を交わしていた。
夜バルコンに出ると、ほぼ満月のきれいな月が出ていて、疲れが飛んで行くような軽い気分になる。
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