Jean-Louis Giovannoni (né en 1950)
このラントレを迎えてから、アパルトマンのビルから第一歩を外に踏み出した一瞬に、古代人が毎日狩りに出る時に思い描いていたと想像される思いが過ぎる。今日は一体何を収穫できるのか。
今月の初めになる昨日はお昼から外に出ることにした。近くのカフェでやるつもりで向かったが、丁度デジュネ時でいつものカフェ数軒が満席。仕方なくメトロで街に出ることにした。まずセーヌ脇のカフェで2時間ほど読みかけの本を読む。昨日の影響か、周りに溢れている微生物とともにいることを感じる。椅子に触る時、水を飲む時、そしてカフェを飲む時も。目の前の樹の中にも溢れているはずだ。寒い風が吹いていたせいか、よく集中できた。
それから当てもなく歩き、途中で小さなリブレリーに入る。久しぶりに Le Point の特集に目が行く。ペタン政府をなぜフランス人は熱狂的に愛し、ある時を境に全く見向きもしなくなったのか。なぜ同じフランス人がこういう態度をとったのか、という問を投げかけている。これはフランス人に限らず、人間は、と置き換えることができる問いになるだろう。この時代を扱った " Le naufrage - 16 juin 1940 " という本が10月15日に出る機会にその抜粋を載せている。
2軒目のカフェでこの記事を含めて Le Point の文化欄を読む。ここでも集中は全く切れず。久しぶりなので気分がよくなり、夕方になっていたがさらに当てもなく歩く。そこでこのリブレリーに入ることになった。
お店により強調されている本が違うので、いつも発見がある。ここでも2-3冊気になる本が見つかった。しばらくすると、マイクのテストや椅子のセットアップが始まった。聞いてみると、夜に詩人の朗読会があるという。店員の応対が非常によい。思わず机の上に並べられていた本から次の2冊を仕入れる。
" Ce lieu que les pierres regardent : Variations, Pas japonais, L'invention de l'espace "
" Garder le mort "
時間があったので近くで簡単な食事をして戻ってみると、丁度始まったところであった。
上の2冊から5編ほど朗読。死、体、他者、運動など哲学的な要素もある詩であった。終わってから質疑があり、2時間ほどで終わった。お店の方が飲み物を出してくれたので、赤ワインを含みながら横になった方と言葉を交わす。この詩人はかなり前から読んでいるという。それから何かの縁だと思い、本にサインをしてもらう。そして、少し雑談をする。
例えば、最初の本の冒頭にはヘルダーリンの次の言葉が引かれているので、なぜなのかを聞いてみた。
"Tout est un intérieur
Et pourtant sépare."
ジャン・ルイさんは、これを読んだ時に何かがどんと入ってきたと言って胸に拳をあてた。自分の中にもやもやとしてあったものがここで言われていると感じたようだ。その感覚は、外にあるもの、初めて出会うもののすべてが実は自分の中に前からあったように感じるということになるのだろうか。われわれの体が免疫というシステムで外に対する時、これから出会うものに向かうものはすべて体に備わっている。外にあるものと同じイメージが体の中にすでにあると主張する人さえいる。年代から言うとヘルダーリンが免疫のことを描いていたとは考えにくいが、科学者の方が文学から霊感を得ることはあり得るだろう。
それから、このことを聞いてみた。今夜のあなたの朗読会は全くの偶然で聞くことになった。この人生はこの偶然 (le hasard ; les contingences) で溢れている。それで成り立っていると言ってもよい。いつもその意味を考えるようにしているが、あなたはこのことをどう思うか、と。彼の答えは、全くその通り。ただ、その偶然に気付くかどうかは、ここでもよく話題になる 「開いているか」 「閉じているか」 で変わってくる。開いていること、開く用意ができていること、これが人生を豊かにするかどうかを分けているのではないか、とのこと。パスツールの言葉を待つまでもなく、そこには真理がありそうである。
今日の意味は今はわからない。いつかその意味が浮かび上がることを期待して、その記録としてブログに綴っているのかも知れない。