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samedi 21 juillet 2007

人生ただ一つの後悔 mon seul regret


fraises des bois


ホテルにある le figaro を毎日見ているが、夏の特集として人生における唯一の悔いを各界の名士に語ってもらう企画と歴史に残る毒殺者 empoisonneurs を紹介する1ページの記事が面白い。例えば、「悔い」 シリーズの昨日はハンモックでも取り上げたことがあるベルナール・ピヴォー Bernard Pivot 氏 (5 mai 1935 -)。

彼のことを知ったのは、TV5の番組 "Bouillon de culture" や "Double je" (これはフランコフォンの外国人にフランス語との付き合いなどを聞く興味深い試み) で、その人懐こい笑顔と博識が印象的であった。彼の記憶力は作者も驚くほどであるが、第二次大戦後に結核にかかってから努力しなければ覚えられなくなったという。もう一つの大きな問題は、15年ほど前から人の顔をおぼえることができなくなり、悪評を受けるようになる。例えば、前の週に番組に出ていたにもかかわらず、空港で会っても知らん振り。その態度が侮蔑的で高慢だ (c'est du dédain, de l'orgeuil.) と写ったらしいが、そういうハンディキャップを知らなければ当然の反応だろう。このインタビューの最後にインタビュワーを写真に収めていたという。

本日悔いを語っているのは、Europe 1 の会長を務めるジャン・ピエール・エルカバッハ Jean-Pierre Elkabbach さん (29 septembre 1937 -)。こちらの悔いはより生々しい。40年ほど前にシャンゼリゼで青いドレスの魅力的な女性に会う。振り返ると彼女もこちらを見ている。それから彼女は道に入り、追いかけるが遂に見つけることができなかった。若き日のある一瞬に声をかけなかったことを一生の悔いとして持っている。また、文学的な悔いとしては、アルベール・カミュに会っておかなかったこと。共通の友人がいて、その友人宅にはカフェの時間に行っていたが、そこには彼が吸ったタバコの灰が残っているだけであった。

彼らの年齢を見ると、自らの悔いを語るのはもう少し先になりそうだ。



vendredi 20 juillet 2007

存在が本質に先行する l’existence précède l’essence



不動産屋に寄った帰りに Fnac に入る。そこでこの本に手が伸びた。

Jean-Paul Sartre « L’existentialisme est un humanisme » (folio essais)

「存在が本質に先行する」 、これが実存主義の本質で、ハイデッガーにも見て取れる人間の捉え方だという。

彼の提唱する実存主義が2つの方向から非難されていて、1945年に行われたコロックで自らを弁護したのがこの書となった。一方の非難は、実存主義はヒトを絶望の淵に誘うもので、解決法がないため瞑想的哲学へ行かざるを得ない。瞑想というのは一つの贅沢なので、この考えがブルジョワ的であるとして非難するのは共産主義者。もう一方は、人間の醜い側面 (l'ignominie) を強調し、卑劣さ (le sordide)、胡散臭さ・いかがわしさ (le louche)、不品行 (le vicieux) を至るところに明らかにし、人間のよいところを見ようとしないとして非難するのはキリスト教者。

最初の方に、無神論実存主義 (l’existentialisme athée) という項目があり、その中に私の見方に近いものが言葉になっていた。これは先日、別ブログ 「フランスに揺られながら」 に漢江様から何のために外国語を学ぶのかについてのコメントがあり、その答えとして次にようなことを書いた。

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同様のことがフランス語の場合にも当てはまります。この世界に入る切っ掛けは、全く予想もできないものでしたが、とにかく始めました。これも何かのためにということはありませんでした(カテゴリ 「フランス語学習」 で少し触れています)。しかし、その後の経過を見ていると、フランス語を読むうちに、「言葉」 の意味を考えるようになりました。その結果、日本語をより深く読めるようになったと感じています。また、フランス文化に触れるうちにフランス人の頭の働きを感じるようになりますので、その視点からしか見えない世界を見ることができるようになりました。またフランス語のブログを始めるようになってからは、私のレベルの中ではありますが、フランス語圏の方ともお話ができるようになりました。これらの経験は私を促す効果があったようで、私自身の人生を見直さざるを得ないような重要な影響がありました。

以上のような私の経験から見ると、何のために外国語を学ぶのかは、学びを始めなければわからないということになります。これは私自身の事に当たる時の、まず始めてから後でその意味を探るという姿勢とも関係があるのかもしれません。
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サルトルの方に次のようにある。

L’existentialisme athée, que je représente, est plus cohérent. Il déclare que si Dieu n’existe pas, il y a au moins un être chez qui l’existence précède l’essence, un être qui existe avant de pouvoir être défini par aucun concept et que cet être c’est l’homme ou, comme dit Heidegger, la réalité-humaine. Qu’est-ce que signifie ici que l’existence précède l’essence ? Cela signifie que l’homme existe d’abord, se rencontre, surgit dans le monde, et qu’il se définit après. .... L’homme n’est rien d’autre que ce qu’il se fait.

ここでは、サルトル自身が無神論実存主義者であり、この考えが理に叶っているとして次のように書いている。もし神が存在しないとしたならば、少なくとも存在が本質に先行する存在、あらゆる概念で説明される以前に存在する存在があり、それが人間で、ハイデッガーの所謂人間的実在性というものがあると無紳論実存主義者は宣言する。それでは、存在が本質に先行するとはどういうことか?それは、まず人間が存在し、その人間同士が出会い、世界に出現する。そうした後に、自らを定義するということである。・・・人間はつくられるもの以外の何物でもない。


人間存在の捉え方、あるいはこの世の歩き方が彼らと近いことに驚いている。突然のサルトルになったので、専門家のコメントをお待ちしております。


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今日、快晴の中歩いているうちに喉が渇いたのでマクドに入ると、インターネットをやっている人がいる。聞いてみると Wifi で接続が可能だという。やってみると確かにつながる。この記事はフランス初のマクドからの発信になった。知は生活を豊かにするのだろうか。今までのサイバーカフェでの散財は何だったのか、、、今となっては致し方ないが、、



mercredi 18 juillet 2007

時差ぼけの朝、あるいは重層的にものを見る au matin de décalage horaire, regarder de vue multiple



時差ぼけのため、朝4時頃に目が覚める。テレビをつけると Inside the Actors Studio という以前にも取り上げた番組の最後の方が流れている。今回はシシー・スペイサックで、学生の質問に答えている。フランス語の字幕が出ているので、英語を聞きながらフランス語を口に出してみる。ある感情を表すためにはこういう表現があるのかということがわかり、英語を介してフランス語の話し言葉を覚えるというのも案外面白いかもしれな い。

さらに続けて、Science en Conscience という番組では生命倫理の問題を取り上げられている。

● éthique と économie が incompatible。
● 市場があるのか、ないのかが問題になる。
● 生物学研究に市場の原理が入り込んできている、それが大きな問題。
● 国が研究に入りこむためには限度がある。
● 研究は本来 philanthropie でされるべきもの。
● 遺伝子の特許の問題、成果は本来共有すべきはずのものだが、それが妨げられる可能性がある。それはすなわち、進歩の阻害につながる可能性を含んでいる。
● 遺伝子を含めた人体が商売の対象になっている。= "人体の商業性 commercialité de corps humains"
● あることがどういう意味があるか、考える前に、意味がわかる前に、物事はどんどん先に進んでいる。意味よりも市場原理が事を動かしているからだ。

病気の起源、治療の方法などは遺伝子の配列からある程度わかるようになるだろう。その場合、哲学の出番などないのではないか。哲学の中に閉じ篭るのではなく、科学データを想像力を交えて考えるという哲学のやり方を考えなければならないのかもしれない。あるいは、それしか有効な方法はないのかもしれない。

テレビを見ながら、手に入る情報は日本と余り変わらないのではないかと感じる。もちろん、カバーされる領域が、たとえば地理的な要因で変わってくることはあるだろうが、、。その情報を受け取る側が今までと同じところにいた場合には、そこから得られるものは少なくなるだろう。場所を変える意味は余りないかもしれな い。問題は、受け取る側が元の立場を離れることができるか、そこから飛ぶことができるか、彼らの視点の根に入ることができるかどうかが事を決めるような気 がする。それができれば、情報の意味がこれまでとは変わってくる可能性があり、その時初めて事の重層性に触れ、より深い理解につながるような気がする。物事の多面性、その陰影を感じ取ること、それが取りも直さず 「この世」 (現在、過去、未来のすべて) を理解する上で大切になるのではないだろうか。そんなことを時差ぼけのパリで考えていた。


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写真を見ていて、こちらで撮った空の色が違うことには気付いていたが、今回もそういう写真が多い。そしていつものことながら、雲の姿にも惹き付けられている。



mercredi 23 mai 2007

タンパク質に精神はありますか?



昨年の夏になるだろうか。その夜、私は食事のためにあるレストランに入った。その時、偶然に隣り合わせた方とのやりとりでこう聞かれたのである。後でわかったことだが、この方はおそらく50代の精神科の先生であった。当時、この手の話には全く耳を貸さない、現場に身を委ねている科学者であった私は、おかしな質問をする人だなというのが第一印象であった。しかし、酔いも手伝っていたのか、少し経って自らに問い直してみたところ、面白い質問だなと思っていた。このような疑問がありうるのだということ、自分の発する疑問が余りにも制約の多い中でのものでしかなかったことに気付き、大げさに言うと精神が開かされていた。この質問は同時に、科学と言われているものを非科学者がどのように見ているのかという問題にも目を向けさせることになった。科学を哲学的に見ようという人が多くはないにしても確実に存在しているという感触を私に与えてくれた。今まで意識はしていなかったが、この小さな出会いがその後の私に全く影響がなかったとは言えないだろう。

初めてリチャード・ドーキンスの 「利己的な遺伝子」 を読みながら、この経験を思い出していた。それは読み始めてすぐ出てくる次のようなところ、あるいはそのような雰囲気に溢れていそうな予感に誘発されていた可能性がある。

「かつて私は、偉大な分子生物学者ジャック・モノーが科学における創造性について話すのを聴くという光栄に浴した。彼が使った正確なことばは忘れてしまったが、おおむね次にようなことを言ったのである。すなわち、彼が化学の問題について考えようとするときには、もし自分が電子だったらどうするだろうと自問するのだという」

この他にも、科学を外から見直そうとする身にとって大きな励みになりそうな言葉が、1989年版へのまえがきに見つかった。

「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。・・・見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる」

「私は科学とその 『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる」



vendredi 18 mai 2007

若い世代との接触



私の関係している大学で大学院の学生に向け、研究をどのようにやってきたのかというお話をするようにとの依頼があった。私が少し早めの退職をしてパリに学ぶことにしたことを伝えていたからである。最終講義という意味合いになる。数年前までは今にしか生きていなかったので、現在と将来しか見ていなかった。このお話を受けて、これまでを振り返ってみると、よくもこれだけの長い間この道に携わってきたな、とまず驚いた。さらに、そこから生まれたものを思い返してみると、やはり愕然とする。また、もしあの時に何も見つかっていなければ、ここまで来ることができなかったな、という出来事もある。なぜここにいるのかが不思議にさえ思える危うい歩みであった。

進化生物学者の Ernst Mayr は、生物学を Functional biology と Evolutionary biology に分けて考えている。 前者は、生物現象がどのようにして起こるのかを解析するもので、科学者は "How?" という問題提起をするが、後者においては生物現象がどうしてそうなるのか、その意味を問う "Why?" という疑問に答えようとする。この話をしながら、私はこれまで How を問う研究者であり、そのことに少し飽いてきたのではないか。それは自分の精神のごく一部しか動員されていないように感じたからである。これからは "Why?" という問に答えようとする精神の状態、自らのすべてを立ち上げて立ち向かうような状態を保ちたいという思いが湧いていた。

それは自分の中では次の出来事とも比較できるものである。フランス語の試験に日本では仏検という試験があり、フランスには国民教育省の試験、DELF-DALFがある。DALFーC1を受けた時に私の頭の中で起こっていたことが、まさに自分のすべてを使うという運動であった。それは仏検を受けた時に感じることのできなかったものであり、終わってみると快感に近いものをもたらしてくれた。仏検では頭のごく一部しか活性化しないような問題が出される。文字通り、小手先の出来事で、自分が動員されないのだ。これからは自分のすべてを活性化できるようなところに身を置きたいという想いが芽生えていたということになるのだろうか。

1時間半ほどの会が終わり、声をかけていただいた先生の部屋で15人ほどの学生さんとざっくばらんに話をする。研究を実際に動かす原動力は、やはり若い力が担わなければならないが、これまでの経験を語ったり、「意味」 を探る思索を続け、その成果を世に問うということはわれわれでなければできないだろう。これからの歩みがそこに何らかの漣を立てることができれば素晴らしいのではないか、ということを確認していた。