dimanche 21 octobre 2007

時間が寄り添う ― 科学とは



大学での講義が始って1週間。コースの外に目をやると、これまでになく快適である。最近感じ始めていること、それが今日のタイトルになった (ショーペンハウアーから酷評されそうなフランス語の影響を受けた日本語か)。時間に寄り添うのではない。時間の方から寄り添ってきてくれるという感覚である。そのお陰で時間の流れを時間とともに感じながら歩んでいるようで、日々の流れが非常に濃く感じられる。そして、あるいはそれなのに時間があっという間に過ぎていく。時間に乗っているのがはっきりわかり、密な関係にありながら、あるいはそれゆえに気がつくとひと日が終っているという感覚。日本で感じていた時の流れが速い、という感覚とは明らかに違うのである。まだその違いを旨く説明できない。

昨日、荷をいくつか開いた。やはり送ってよかったというものが多い。すべてを忘れて新たに始めるという可能性も考えたが、それには忍びなかった。この1-2週間ほど、文科系の人の気晴らしは何になるのか考えていた。昼間は関連の文献を読み、夜も同じようなことをしなければならないのでは耐えられない、と思ったからだ。理系であれば、私のような生命科学の場合には昼間は全く別の世界で過ごすことができ、それが故に仕事を離れ文系の本を読むと気晴らしになり、人生について考えることもあった。しかし文系の場合にはその境目がないのではないかという疑問である。この疑問に少しだけ答えが見つかりつつあるように感じている。これは私の短い経験からのもので、後に修正を余儀なくされるものだとは思うが、今の印象を書いてみたい。

講義が始り、読まなければならない本が山盛りである。少しずつ始めているのだが、読んでもすんなりと入ってくるものはなかなかない。読みながらいちいち意味を探らなければならないのである。その過程で気付いたのだが、これはある意味で私がこれまでやってきた科学論文を読むのと余り変わらない頭の使い方をしなければ理解できないからではないのか、ということである。私がこれまで閑を見つけて読んでいた文学のようなものとは明らかに異なる文章が並んでいる。その前提になっている事実を知らなければならないのはもちろん、書かれている文章の中にある概念の意味、論理のつながりなどを批判的に見ながら読み進まないとすんなり入ってこないのである。哲学をする前に、まず学習が必要だということだろう。この分野がなぜ人文科学、社会科学などとわざわざ 「科学」 と銘打っているのかが少しだけ体でわかりつつある。

確かに、夜これまで読んでいたようなものに触れるとほっとする。最初の問に戻ると、人文科学系の人も昼は自然科学系の人と同じような頭の使い方をしているので、全く心配には及びません、ということになるのだろうか。専門家のお話を聞きたいところである。ところで、「そもそも科学とは?」 という問題は依然私の前に大きく横たわっている。



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