12 octobre 2008
昨日のセミナーで私の質問に対してローゼンバーグ氏が 「・・・をやっても答えは出ないかもしれませんが、、、」 と最後に言った時、これこそ科学と哲学を分けているものではないかという思いが巡った。科学は答えの出る問しか出さない、あるいは答えが出るような問の出し方をするのが優れた科学者と言えるかもしれない。ただ、その守備範囲は非常に狭いものだ。それに対して、哲学はその姿勢として専門を持たないのが特徴である。もちろん、哲学という学問の中にも相当に細かい専門はあるが、基本姿勢としてできるだけ広い範囲に目を向け、世界の全体を理解しようとするところがある。しかし、それゆえに答えに辿り着かないことが多い。ほとんどそうかも知れない。そして彼はこう結んだ。「ただ問い続けなければならないでしょう」 と。この言葉こそ哲学者のものであった。それはすべてを理解しようとする (全的な理解に辿り着こうとする) 者への罰だろうか。いや、むしろそれこそわれわれに生きる力を与えるものではないだろうか。役に立たないと言われている哲学の力が実は計り知れないということを示すものかもしれない。
以前にも触れたパスカルの "tout d'une chose" (ひとつについてすべて) と "peu de tout" (すべてについて少し) の対比にそのすべてが表現されているように思う。パスカルは言う。人間はひとつのことのすべてを知ることができないのだから、すべてについて少しずつ知るべきである。私の場合、結果的にはパスカルの言葉に従ったことになるが、そうすることにより世界が全く変わって見えてきたことも事実である。当然のことながら世界が広がり、そのため受け入れることのできる幅が以前では考えられないほどになっていることに驚く。文化的なものに限らず、人間についてもその見方が変わってきているように感じる。
パスカルに自分を見る S'ENTREVOIR CHEZ PASCAL (2007-02-18)
パスカルは昨日の話題にも通じる次のようなことも言っている。
« Toutes choses étant causées et causantes, aidées et aidantes, médiates et immédiates, et toutes s'entretenant par un lien naturel et insensible qui lie les plus éloignées et les plus diverses, je tiens pour impossible de connaître les parties sans connaître le tout, non plus de connaître le tout sans connaître les parties. » (Pensées)
「すべてのものは引き起こされ引き起こし、助けられ助け、間接的であり直接的であり、すべては最も離れたものや最も多様なものを結びつける自然で感知できない結びつきにより維持されているので、全体を知らずに部分を知ることも、また部分を知らずに全体を知ることもできないと考える」
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lundi 12 octobre 2015
日本にいる時にカーテジアンとパスカリアンの違いを知り、それまでは科学者として生きたカーテジアンであったのが、それでは満足できなくなり、人間のすべて
を動員して考え生きなければならないと言わばパスカリアンへの転身を心に決めたことを思い出させる。あれから9年が経過することになるが、その決断に誤りはなかったと言えるだろう。それ以降の生活が想像以上に満ちたものになったからである。これは、何事も形が見えるまでには10年という歳月がかかるという
ことの証左かもしれない。
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