jeudi 8 octobre 2015

下村脩氏ノーベル化学賞受賞で想う

8 octobre 2008
 

不思議である。どうも数日前の夢は正夢だったようだ。今日受賞が発表になった化学賞の業績は、生命科学に関わっている人であればどこかでその恩恵に与っているはずの仕事である。その貢献度を選考委員会が高く評価したのだろう。Shimomura氏は、グリーン・フロレセント蛋白(GFP: la protéine fluorescente verte)という蛍光物質を発見精製した方である。結局、これまでのところ日本人が日本人と考える人が4人も(うち1人はアメリカ人)ノーベル賞を受賞している。この世界が遠くの出来事ではなく身近なものに感じられるということは、これからの人にとってはよいだろう。到底歯も立たないと思われていた大リーグに野茂が道を開き、それ以後はそれなりの人であれば充分に活躍できることが示されることになった。われわれは同じ人間である。精神的な壁を取り払うことができれば、東も西を恐れるに足らずということになるかもしれない。精神が体を動かし、頭脳をも動かしていると想像されるからである。

昨日の物理学賞の日本人お二人は、この機会に文化勲章に推薦されるようである。今回も日本人独自の評価ができていないということになるのだろうか。日本自らが日本人の仕事を正当に評価できるようになるにはまだ時間がかかりそうである。そこには濁りのない目で真理を見極めようとする精神のあり方が必要になるのだろう。外から日本を見ていると、余計なものがいろいろなところに纏わりついているように見える。真理に絶対的な価値を置く科学精神こそわれわれが必要としているものではないだろうか。いろいろな功罪が言われているノーベル賞であるが、何が本質的に大切なのかという視点を示してくれるところはあるようだ。われわれがその視点で仕事を評価し遇することができるようになるまでは必要な賞かもしれない。

Osamu Shimomura (1928-)


-----------------------------------
(9 octobre 2008)

今日ある方から下村氏の国籍は日本だと本人が話していましたとの話を聞く。ノーベル財団のページからアメリカ人研究者としたが、その部分を変更した。

-----------------------------------
(11 octobre 2008)

コメントとして書いた中に、タイトルの「・・・想う」にぴったりするところがあるので、ここに転載したい。

<9 octobre 2008>

ご指摘の精神的余裕の大切さは、こちらに来ると強く感じます。日本の学生さんと比べると落ち着いて見えます。自分の周りを取り巻く空間が見えるようにも感じます。逆に日本の状況を思い出してみたり、今遠くから現状を眺めてみると、すべてが浮き足立って見えてきます。姑息になり、深い哲学(時間軸の長い考え方)がなかなか生まれないようにも感じます。それはおそらくは伝統が生み出す精神の成熟と言うべきものの差かもしれません。まだ1年程度の観察でしかありませんが、、、

科学の分野もその例外ではないと思います。今やグローバリゼーションの影響でどの国も科学のやり方が変わってきていますが、日本の場合は反射的に方向を変えたのではないかとさえ思えるくらい、アメリカの思想がそのままの形で入ってきています。何がよい研究なのかという議論や哲学がないまま、影響力のある雑誌に発表することが目的化している状況です。これは以前にも触れたと思いますが、ある結論に至る条件にその結論が来ているという論理矛盾に陥っているようです。どんな研究が素晴らしいのかという問を考えることなく、何処何処の雑誌に出ることがよい研究の証であると論理が逆転しているのが現状になっています。そこには溌剌とした将来に結びつく科学は生まれないように感じていますが、ほとんどの研究者がこの商業主義に毒されているようです。自ら評価する必要がないという点では楽なのかもしれませんが、落ち着きや余裕につながる真の科学文化はなかなか育ってこないように思います。

詳しくはわかりませんが、今回ノーベル賞を受賞された日本の研究者を取り巻く環境や考え方は今とは大きく異なっていたのではないかと思わせるものがあります。仕事をする時の前提が今とは違っていた(上述の論理矛盾のない状態だった)のではないかと想像していますが、、、

<10 octobre 2008>

今回受賞された方の映像を見る機会がありませんので感触は掴めないのですが、記事を読む限りでは私の頭にある古き日本人を思わせるものがありました。ノーベル賞の後にはダグラス・プラッシャーさんのような悲喜こもごものお話が出てくることがあるようです。かなり前になりますが、ボストンで乗ったタクシーの運転手がMITで学位をとった人で、職がなかったのでと言っていました。

今回の受賞(特に下村博士の)を見て、今の日本の研究費の配分方法が本当にこれでよいのかというこれまでの疑問が強い疑念に変わっていました。すぐに結果が出そうなところに膨大な資金をつぎ込むというやり方ですが、そこからは一時凌ぎのそれらしい成果は出るかもしれませんが、10年20年先につながるものが出ることは稀ではないかと思います。それよりは、もっと広く、もう少し篤く配分していろいろな芽を育てることの方が結果的には豊かなものをわれわれにもたらしてくれるのではないか、研究者の社会ももう少し潤いのあるものになるのではないか、などと考えておりました。



------------------------------------
jeudi 8 octobre 2015

7年後の物理学賞が発表になり、日本人の梶田隆章さんが受賞。昨日発表になった化学賞には日本人はいなかった。その日の新聞は「化学賞には日本人なし」というような記事を出していた。一昔前でさえ考えられなかったことである。世界の情勢が急激に変わっていることを示す一例だろう。

われわれの人生の晩年についても、今や同様の急激な変化が訪れているように見える。今想像していることとは全く違う人生がこれから待っている可能性がある。わたしの若い頃、将来を想像することはなかったが、70歳と言えばよぼよぼという感じでいた。それと同じように感じるのは、今では90歳代になるのではないだろう か。

先のことを考えてもあまり意味がないということを示す一例になるのだろうか。
ただ只管、今に打ち込むのが良策のようである。





Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire