dimanche 4 octobre 2015

ジョン・テンプルトン、あるいは宗教と科学 John Templeton, ou la religion et la science

4 octobre 2008 
 

昨日、そう言えばまだM2の授業料を払っていなかったな、手続きについて聞かなければならないなどと思っていたところ、今朝その手続きについての郵便が来ていた。非常にタイミングがよい。2年目の場合には大学本部まで出向く必要がなく、ネットで手続情報を得て郵送で片付くようだ。ありがたいことに、相変わらず230ユーロというところで値上がりはしていない。去年はじっくり見ていなかったが、その内訳は以下のようになっている。

授業料   184 ユーロ 
図書館    29 ユーロ 
検診      5 ユーロ 
学生生活  13 ユーロ   

午後から久しぶりに研究所へ。現役時代には同じ領域で同じ分子について研究していたイギリス人のDAさんが宗教と科学についてNature誌にコメントしているのを見る。彼の研究室とは交流があり、人が実際に行き来したこともあった。多くは語らなかったが(話が通じないと思っていたかもしれない)、彼は以前からこの問題に興味を持っていたようで、確か関連の本も物しているはずである。研究所を定年の後、科学の分野にも足を残しながら、科学と宗教をテーマとしたケンブリッジの研究所の所長として研究を続けている。宗教を哲学に置き換えると、どこか私の歩みとも共通したところがありそうだ。意識の中ではイギリスというとまだ遠いところにあるような気がしていたが、海峡を渡るとすぐである。ひょっとすると、これまでとは違う新しい領域で再びディスカッションの機会が訪れるかもしれない。  

ところで、外に出ていると、このような人との接触に要する物理的・精神的なエネルギーは日本にいる時とは比べものにならないくらい少なくて済む。これは大きな利点だろう。日本では異種との接触が大仰なものになるか、面倒になり諦めてしまうことになりがちである。日常的な感覚での交流が可能になるのが嬉しい。  

話はずれたが、彼のコメントに至る流れは次のようなものである。ジョン・テンプルトン財団の主、ジョン・テンプルトンが今年亡くなった時に、宗教や精神的なことについて科学研究をしている人を援助する財団の行動についてNature誌が論じたことに始るようだ。そこでは、もちろん注視しなければならないが、これまでまともな科学者がはなから拒絶していた宗教や精神の問題について科学研究するということ自体を全否定することはないのではないのか、という論調だったと思う。

それに対して、そうではなく科学が宗教によって汚染される危険性があるというようなコメントが雑誌に寄せられ、それに対してDAさんが改めて、宗教が科学に与える影響をネガティブに捉えるのではなく、時に科学の発展に重要な役割を果たす存在として積極的な評価をしたいというコメントを出したという経過になる。私自身、宗教と科学の関係について深く見ているわけではないが、前向きで明るさのある彼の受け止め方は、今私が漠然と感じていることに近い。引き続き考えて行きたい問題である。




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dimanche 4 octobre 2015

今日のお話は実に興味深く読んだ。

まず、DAさんとはこの翌年、ケンブリッジであったダーウィン2009という『種の起源』出版50年、ダーウィン生誕100年の会があった時、わたしは彼が講演することを知らなかったので聞き逃してしまったが、直接話をする時間があった。その時、彼の講演を聴いたと思われるオーストラリアのご婦人が神の存在の証明に悩みを持っていると言って、彼に話しかけてきた。それを聞いていて驚いたのは、神の存在を徹底した論理で最後まで考えている姿だった。われわれとは根本から違うと感じたことを思い出した。

それから、彼が宗教と科学との対立について寛容さをもって対応すべきではないかと主張していることについて。この記事では、宗教と哲学を入れ替えれば、彼と私がやっていることは同じことになると書いている。今回纏めたテーズでは、科学と哲学はもっと深い関係になる必要があるという主張を展開したので、7年前の観察は正しかったと言えそうである。また、わたしの考えは当時より具体的に固まってきたように思う。その意味では、感慨深いものがある。

 





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