vendredi 30 octobre 2015

インタビューの翌日に、そしてパリで chic なこと

30 octobre 2015
 


昨日のインタビューは調べ物をしながら本を読んでいる人が周りにいる中で行われた。この様子を見ながら、日本ではノーベル賞受賞者のインタビューをこのような状況ではしないだろうという思いでいた。大仰にならず、何気なく事を進めてしまう彼らのやり方や事に対する感じ方はやはりよい。

ところでフランソワーズ・バレ・シヌシさんの話を聞きながら、余り感動しなくなっている自分を確認していた。確かに一つの病気の原因に迫る研究成果は素晴らしいものがあるが、体全体が震えないのである。現役の研究者から確実に退きつつあることを感じていた。そして、インタビューの受け答えを聞きながら、この感覚はおそらく彼女も共有しているのではないかという印象を持った。確かに賞を貰いある満足は得られたのかもしれないが、それで死んでもよいというほどのものではないだろう。今の私から見ると20-30年というのはそれほど前には感じないのだが、彼女にとってはかなり昔のような話し振りで、当時の感触(感激)を今のものとすることが難しくなっているように感じた。さらにエイズの問題は全く解決していないということもあるだろう。彼女の場合には患者さんのもとに下りて社会とのつながりを意識したような研究や社会的活動により深い満足を求めようとしているのではないかと想像していた。結局、人は人間全体を使うようなところでしか満たされないのではないだろうか。そして科学は一つの大きな入り口ではあるだろうが、人間活動のほんの一部にしかなりえないような印象がある。ただ、科学の世界がすべてだと思える人は幸せなのかもしれないという思いでもいた。


今日のENSでのクールは新しい先生(40代前半か)が担当。頭を短く刈っているためか仏教の僧侶の風貌がある。学生がなかなか集まらないので、こんなことを言っていた。パリでは5-6分遅れてくることが chic なんでしょうかね。こういう言葉が出てくるのを興味深く聞いていた。そして18世紀フランスの数学者にして生物学者、博物学者であるのみならず、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーとともに18世紀の四大文章家としても名を馳せたこの人の話を始めた。パリ15区、パスツール研究所の近くには彼の名を冠したリセがあり、しばしばその前にたむろする学生さんを掻き分けて通り過ぎる。


-------------------------------------------
vendredi 30 octobre 2015


この記事では、かなり本質的な指摘がされている。
 

それは現在のわたしの認識にも近いものがある。
 

当時の観察が7年の間に確信に近いものに変容してきたとも言えるだろう。

それは、科学だけで人はどれだけ満足を得られるのか、という問題である。
 

ノーベル賞と言えども一つの賞にしか過ぎない。
 

それで人類の問題を解決することなど不可能だろう。
 

一見解決したかに見える発見でもその後に新たな問題を生み出している。
 

例えば、ペニシリンの発見などはその中に入るだろう。
 

エイズウイルスの発見にしても入口に立ったにしか過ぎないことが明らかになっている。
 

同様の例がいくつも浮かんでくる。

 

それでは何が人間に幸福を与えるのだろうか。
 

その解はあるのだろうか。
 

今は分からない。
 

しかし、科学が人間を幸福にするとは考え難いという感触だけは確かなものになりつつある。







Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire