jeudi 23 juillet 2015

時間を遡る Remonter le temps

23 juillet 2008

昨日は久しぶりに研究所へ。注意しなければならない論文をPDFでダウンロード。その中の一つ、30年前の科学雑誌 Science に発表された新しい医学モデルについての論文を読む。還元主義、心身二元論が主体の医学では患者さんの部分が強調される結果、満足のゆく患者ケアはできな いとして、"biopsychosocial model" というものを提唱している。科学としての真理の追求に加えて、患者さんの心理的、社会的要素も考慮に入れた全的な (holistic/integrated)対処が求められているとしている。そのためには、単に医者の権威やカリスマだけでは駄目で、例えばインタ ビューについての考え方や実際のやり方、病気の概念やケアについての知識を学ぶ必要が出てくる。その実現のためには教育制度に手をつけなければならないだ ろう、としている。

還元主義を標榜する科学雑誌に出た論文のためか哲学的な香りは薄いが、ポイントになる点がはっきり書き出されていてわ かりやすい。私の中ではごく当たり前のことを言っているように感じるが、30年前に新しかっただろうこの考えが今でも重要なものに感じるのはなぜだろう か。この問題が厳然として今もそこにあるからではないのか。あの課題を解決するには、そこに課題があることを認識できなければならない。ここが心底理解さ れていないように感じるのは私だけだろうか。最後は教育に行き着くようにも思うが、日本ではどのような教育が成されているのだろうか。

科学の分野にいた時には考えられないことだが、最近古い論文を読む機会が増えている。30年前とは言っても、若い時に感じる30年と今の30年では全く違 う。今の私から見ると、30年という時間はほとんどつい最近と変わらない。自分の中にその時間があるからだろうか。あるいは、古代ギリシャにまで遡った人類の歴史が前提として出 来上がりつつあるからだろうか。いずれにしても現実の激しい動きの中から身を遠ざけていることがそういう目を育てていることは間違いなさそうだ。そうでも しなければ時間の流れを止めてものを眺めることができないのかもしれない。時間の流れの中から蒸留されて見えてくるものが掴めないのかもしれない。

お昼休みに紙のル・モンドを久しぶりに手にする。1週間以上前の本紹介のセクションだった。その中に、いくつか興味深いものがあった。

まず、日本関連の話題から。一つは深沢七郎の「楢山節考」のフランス語訳が Gallimard の "L'imaginaire" というシリーズから "Narayama" として出るという。1956年に出版されているようなので半世紀ぶりに訳されたことになる。この作品は19世紀の日本が舞台だが、姥捨ての風習は古代ロー マから南仏、アフリカ、エスキモー、中国などでも見られたようだ。この本もまだなので近いうちに読んでみたい。なお、このシリーズはDVDが一緒になって いて、今村昌平監督の作品が付いている。もう一つは特派員のフィリップ・ポンス氏から、小林多喜二の「蟹工船」が日本の "nouveaux pauvres" に共感を集めているという話題。さらに、ニーチェ特集があり、Michel Onfray がニーチェとの個人的な関わりやニーチェの現代的な意味について語っていたり、倫理に関する古代人の考えを調べた研究書3冊の紹介もあった。



帰りにモンマルトルまで足を伸ばす。高低差の激しい場所を歩き、カフェで仕入れたばかりの論文を読みながら、アコーディオン演奏を聞く。目の前の教会の鐘が 7時と7時半に鳴っていた。そのカフェは8時には店終い。店員さんとよい会話を楽しむ。それから少し歩くとどこかでみた風景が現れた。去年の3月こちらに来た時にFと歩き疲れて入ったカフェではないだろうか。こんなところを歩いていたのか、という思いである。こちらに住むようになり、こういう経験がよくある。旅行者で歩いていた場所が、実はこういう周囲との関係の中にあった場所なのかと改めてわかることが。その感覚は何とも言えずよいのだが、、、


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23 juillet 2015

哲学に入り、科学における時の流れの特徴に気付いたことが書かれてある

その違いは益々明確になり、今では特に驚かなくなった

科学の世界にいる時には、数年前と言えば大昔に感じたものである

次々に出される新しい成果を必死に追っているため、捉えている時間の幅が狭くなっていたからだろう

ただ、哲学の領域に入り、それだけでよかったのかという疑問が頭を過る

哲学的な視点を持っていれば、違った研究生活になったのではないかという思いも湧いてくる


哲学は二千数百年の成果を横に携えて歩むところがある

新しいものが大きなものを齎しているとは限らない

ひょっとすると、その逆かもしれない

そういう中で生活していると、新しい成果を追うという姿勢は随分と弱くなる

慌てなくともそこにあるものは逃げて行かないという感覚があるからである

これなども、哲学に入ってから実感することになった科学と哲学の違いの一つと言えるだろう







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