亡くなった人と話すということをよく耳にしていたが、その意味がよくわからなかった。
ああそうですかという程度の反応で、じっくり考えることもなかった。
ところが今朝、それがわかる
ような気がしたのである。
ブログを読み直している時、日本の知り合いがそれを論評している姿が浮かんできたからだ。
話の内容まではっきりと聞こえてきた。
これこそ亡くなった人との会話だと思ったのである。
今、日本で生きている方を亡くなった人に譬えるのもどうかとは思うのだが、、。
身近で親しい人が亡くなるという経験がそれほどないので、深く考えることも感じることもなかった。
だが、そういうことは確かに起こりうるということを実感した。
長く付き合っているとその人の特質が自然にどこかに溜まっているものなのかもしれない。
意識して観察してきたという実感がなくともである。
これに関連して、以前ハンモックにパスカルの言葉について書いたことを
思い出した。
パスカルによる 「私」 の定義 (2007-01-29)
パスカルによる 「私」 の定義 (2007-01-29)
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13 juillet 2015
この時期にこのようなテーマの記事に出遭うというも不思議である
7年前には身近の人間が亡くなることも少なかったが、ここに来て急に増えてきた
特に、身内を送るという経験が重なると死者との会話という営みの意味が迫ってくる
体は確かになくなっているが、その人は今でもそこにいるように感じることがある
過去が現在と溶け合っているような感覚である
これは時間が存在するのかという問題とも関連してくる
時間が存在しないと主張する人は、この宇宙のすべてが詰まった一瞬しかないという
これまでのすべてがこの一瞬に詰まっているとすれば、人間が亡くなるということはないとも言える
死者や過去の出来事は、「いま・ここ」に一体となってあることになる
逆説的だが、この一瞬は記憶の中にしかないのかもしれない
この一瞬を充分に味わうためには、記憶を動員しなければならないということである
それは取りも直さず、善く、十全に生きるために欠かせない営みだということでもある
この7年の間に、この問題に対する見方がここに収斂しつつある
そして、人間存在、さらに言えば生きとし生けるものの本質が見えてくる
それは、ほんの一瞬だけどこからともなくこの世に現れ、そしてどこへともなく消えてゆくということ
それは、ほんの一瞬だけどこからともなくこの世に現れ、そしてどこへともなく消えてゆくということ
それ以外の時間にはわれわれは存在していないのだろうか
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