mercredi 2 septembre 2015

科学の現状 La situation actuelle de la science

2 septembre 2008



久しぶりに大学に行ってから研究所へ向かう。その途中、研究所のMDにばったり会う。久しぶりだったのでメトロ近くのカフェまで戻って2時間ほど話をする。私は近況(メモワールや大学での様子、満足度など)を話し、彼の方は雑誌のレフリーの異常な細かさ(本題とは余り関係のないことまで実験をやらせようとするなど)について苛立ちを漏らしていた。現状ではインパクトの高い雑誌に出すことと若い研究者のキャリアが自動的に絡んできている。これが科学のやり方と して健全なのかという疑問がある。これと全く同じ問題提起をMartin Raff氏(免疫学から神経科学に転向した方で、いずれの領域でも画期的な仕事をされている。また、仕事場をカナダからイギリスに変え、2001年65歳で定年になった)が7月4日号のScience誌でしている。この雑誌のエディターもそう考えたようで、その号のEditorialでもこの問題を取り上げていた。傾聴に値する意見だと私も考えていたのでその記事をあとでMDに送ったところ、Martin Raffであればそう言うのは全く驚かない、彼はそれだけ優れた科学者なのだ、との返事が届いていた。

科学の成果を雑誌に発表しようとする時には、仲間の評価を受けるという(ピア・レビュー)システムを考えたのは科学者である。この行き過ぎを修正するのも科学者でなければならないだろう。 そして、その背後にある科学者の評価の問題も大きな問題になる。優れた研究がインパクトの高い雑誌に出るというのではなく、そういう雑誌に出た研究は優れているという論理になっている。強いから勝ったのではなく、勝ったから強いのだというあの論理である。それでレフリーの言葉にひれ伏して仕事をし、そうすることが恰も優れた研究者のようなことになっている。科学をする快活な悦びが失われ、ゲームに堕している。どう見ても異常ではないだろうか。よい企業は多 くの不動産を持っている、不動産を持っているから優良企業だという以前の銀行の論理と重なって見えてしまう。つまり、よい研究なのか悪いかの判断を研究者ができなくなっている可能性がある。どこに発表されたかだけが問題になり、科学の内容について論じ合うこともなくなっているのではないだろうか。銀行が破綻したように、そういう科学(者)はいずれ破綻するのではないかという危惧を抱く。

もう一つの話題は、フランスの研究機構INSERMで変革の予兆があり、その様子を見守っているとのこと。現在一つであるものをいくつか(5-7つくらい)のテーマ別に研究機構を作り直そうとしているようである。もしそうなれば、彼などはそのうちの一つを任される可能性があり、大変だろう。

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(3 septembre 2008)

本文中に引用したMartin Raff氏のNature Medicine誌による紹介記事を読む。その中に興味深いコメントが残っていた。仕事を辞めることについて聞かれて、彼はこう答えている。

"I can't tell you how much I'm looking forward to it. I've been planning it for years. It's made the last five years just wonderful, knowing that I'm going to retire. There's nothing odd here, people do retire at 65. The Americans have lost their way by giving up on retirement."

「私がどれだけ定年を待っていたかわかりません。何年もそのために計画していたのです。辞めることがわかって、最後の5年間はただただ素晴らしいものになりま した。65歳で定年になるのはイギリスでは何らおかしなことではありません。アメリカ人は引退を放棄することによって道に迷うことになりました」

今の日本はアメリカの後を追っているようだ。人生には限りがある。科学的な問には限がない。それにけりを付けてくれるのが定年だろう。彼は残りの時間を少なくとも二つの問題について考えて過ごしたいという。一つは安楽死の問題。もう一つは精神分裂病について。若き日にボストンで臨床神経学をやっていたことと 関係があるのだろうか。

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(9 septembre 2008)

ヴァ カンス中に届いていたScience誌を見ていたところ、8月22日号のコメントにこの記事の本文中に書いたこととほぼ同じ認識の持ち主を見つける。"High-profile journals not worth the trouble" を書いているイェール大学のジョエル・ローゼンバウム氏である。彼の研究室では、どんなに重要な発見でもScience、Nature、Cellというよ うなインパクトの高いといわれる雑誌には出さないことにしているという。これらの雑誌で見られる競合をしなくても他に充分に優れた雑誌があるからだとしている。

それからこのような異常な競争を助長している背景に、研究者のキャリアが上記のようなインパクトの高い雑誌に発表しているかどうかにかかっているという現実がある。彼は研究費の審査に関わる時には、このような審査基準に対して闘ってきたという。重要なことはどこに発表したかではな く、審査員が研究者の論文を実際に読んでその重要性や意義を判断することでなければならない、と結んでいる。

このような意見は表明はされないものの多くの人に共有されているのではないかと推測される。しかし、彼のような闘う研究者が増えてこないと現状はなかなか変わっていかないだろう。


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mercredi 2 septembre2015

現在の科学の状態を肌で感じることはできなくなっているが、上で取り上げた科学の現状は増悪することはあれ、改善することはないのではないだろうか。最近日本から届いた便りでも、現状がそうなので抗いようがないというニュアンスであった。これは仕事をするということそのものであり、経済活動も密接に絡んだ世界的な動きなので、一国、一現場からだけでの改革は不可能だろう。

当時、Martin Raff 博士の話を自らに重ねるように読んだ記憶が蘇ってくる。博士の場合は65歳での定年後、新しい問題について考えることにしたようだ。それ以後の状態を Wiki で検索したところ、お孫さんが自閉症と診断されたのを機に、この病気の神経生物学的基盤に興味を持っているとのことである。科学者が、さらに言えば人間がどのような後半生を送るのかは人それぞれだろう。ただ、多くは何らかの形でそれまでの領域に関わっているのではないだろうか。平均寿命が確実に伸びている現在、科学の領域で求めたのと同じように、それぞれの生き方を創造的に展開することが益々重要になるだろう。






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