dimanche 6 septembre 2015

その翌朝に

6 septembre 2008



昨日の再試のせいか、この季節のせいかわからないが、夏休み気分や腰掛け気分は消え失せ、この土地の生活者のような感じになっている。浮ついたところがなくなり、妙に落ち着いている(神妙になっている)のは気持ちが悪い。

今朝起き掛けに、これまで考えていたことが塊になって現れたのでメモに控える。こういう時に思うことは、起きるタイミングで浮かんできたのか、浮かんだから目が覚めたのかということだ。無意識の中でも思索が進んでいて形になるということを信じたい節がある。このあたりの科学についてはフォローしていないが、科学的にはどうなっているのか興味があるところだ。

日本ではブラックで飲むことのなかった珈琲だが、こちらに来てからはエスプレソに慣ら されたためだろうか、ミルク入りが気持ち悪くなっている。朝、インスタントで我慢しながら、昇る朝日を眺める。ゆっくりと静かに秋が深まっているのを感じ ながら・・・。日本でいただいた風鈴をバルコンに据えてみたが、この時期の音色には寂しさが付き纏う。

この一日はどんなことになるだろう か。思い返せば、日本ではこのような時間がほとんどなかったことに改めて驚く。今日は、今朝浮かんだ塊を砕いて見やすい形にするためにビブリオテクに向か うことにする。それがダイヤモンドになるのか(こんなことは、まず起こらない)、路傍の石になるのか(これがほとんど。どうしてそんなに興奮したのかと思 うことばかり)、結末を見ることにしたい。

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(20h01)

今朝出 かける時に何と形容したらよいのかわからないが、全身からモヤモヤが消えていくような、洗われるような感覚が襲ってきた。結果はどうであれ、気になってい た何かが終ったためだろう。高い秋の空と頬を撫でる風を感じながら、久しぶりに突き抜けるような気分になっていた。もちろん一瞬のことであったが、、、


雨の日もあれば 晴れる日もある
そのすべてを味わいたいものだ
雲の上はいつも晴れ
しかし さらに進むとそこには漆黒の闇が待っている
この星からの眺めは やはり素晴らしい


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samedi 5 septembre 2015

どんな結果であれ、気になっていたことが終わるとすっきりした気分になる。それがよく分かる記事である。7年後の今、まさにその気分を味わえるのかどうかの境目に立っている。これまで何度も同じようなことを経験してきたが、この時期が一番嫌な時になる。そして、すべてが終わると何であんなことに悩んでいたのかと 振り返ることになる。大袈裟に言うと、それは生まれ変わり、脱皮の時期に当たるので、苦しいながらも喜んで耐えなければならないのかもしれない。

この記事に書かれているように、目覚めの時期にはいろいろな考えが浮かんでくる。それから寝る前のベッドの中、洗面中やシャワーを浴びている最中に同様のことが起こる。これらはそれ以前と一線を画しており、ある意味では移動の中にあるとも言える。これまでの経験から、その時に記録しておかなければ、その考えはすぐにどこかに跡形もなく消えていくことを学んでいる。例えば、寝る前に浮かんできた考えなどは年を重ねるに従い、考えの中身だけではなく、そんな考え が浮かんだということさえも記憶から消えていく。それらの中には参考になることも少なくないので、必ずメモを取るようになった。

7年前の一日は、哲学的生活の一日と形容しても良いのかもしれない。
こう言った哲学者がいた。
「哲学者かどうかは哲学的生活をしているか否かの一点で決められる」と。

いつも旅の中にある、移動中であるという感覚も重要な要素かもしれない。
旅に出ると、目の前に展開するすべてが新鮮に見えるというあの感覚である。






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