昨日は外に出て関連の本を読み、帰ってからも遅くまでやる気にならず。今朝は5時に起床してから少し眺めた後、大学近くのカフェに向かいさらに読む。教室には10時頃に着いた。3名ほどいる。他に2つのクールの試験用に紙が張られているが、人はいないので午後からだろう。
今回も基本中の基本の問題が出たが、それだけに難しい。このクールは最も科学に近いが、それだけに空想が広がらないので、今ひとつ好きになれなかったもの だ。そのためかどうかわからないが、ヴァカンス前にはこの夏じっくり読みましょうなどと計画は立てていたのだが、毎日メモワールに精神が向かっていて結局 ここに来るまで手付かずであった。そして当然のことだが、不本意のまま終ってしまった。まともにやっていなかっただけに後味が悪い。これからも続けて読んでいかなければならないだろう。
大学内は今もまだ休みの雰囲気があるためか、こちらもゆったりした気分で話し始めた(諦めも交じっていたか?)。先生の方もそうなのだが、突っ込みは相変わらず厳しい。その度に自己嫌悪に陥っていた。そんな中、口頭試問についてはっきりわかったことがある。 それは、フランス語で話をしなければならないという思いが強すぎで、難しい、大変だと感じていたのだが、私のフランス語レベルでもちゃんと聞いて話を進め てくれていることである。つまり、話すこと自体は余り問題にならないということである。問題は、そのために準備が浮き足立ってしまい、話すべき内容が整理 されていなかったことの方だろう。要するに、平常心でやるしかなさそうだ。
終った後、近くのカフェで本やノートを見直してみたが、突っ込まれたところは私のノートにもメモされていたので、ごくごく基本のところが理解されていなかったということになるのだろう。知識を問われる問題については、何度も触れておかなければ記憶に残らなくなっているようなので余り好みではない。こういう時は、今の立場をどのように捉えたらよいのかを考えてしま う。つまり、これまでの自分をもとに考えると何でこんなことをしているのかということになる。もっと自分の興味に沿ったことを、それだけをやればよいのではないのか、という声が聞こえる。一方、学生という立場だけに目をやると、与えられた課題についてはそれをマスターするように努めるのが当たり前になる。 まだ、その間を行ったり来たりしていて自分の中でも徹底されていないように感じていた。少し離れてみれば、一方にだけ身を置くにはいろいろな歴史の澱が溜まっていて難しそうにも見えるし・・・。
秋が深まっていく広場を静かに眺めながら、そんなことを考えていた。それからMDにメモワールの コメントをお願いするために研究所まで出かける。ビルの前で立ち話をしていた研究室の二人と挨拶をしていると、ポルトガルから来て25年になるというAFと連れ立って彼が戻ってきた。来週初めまでにはコメントを寄越してくれるとのことでありがたい。ところで、AFとは春の会議で個人的なことを少し踏み込んで話していたので、大きく腕を前に出し握手を求めてきた。こういうところはなかなか気持ちがよい。
それからビブリオテクに行き、科学関連の論文をPDFでおとし、その中に新たな繋がりが見えてこないか探っていた。帰りはトロカデロで降り、食事をしてから帰ってきた。久しぶりのことである。
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vendredi 4 septembre 2015
再試の記事を読み直すと嫌な感じが押し寄せる。ただ、7年も経つと、そんなこともあったのかという気分であることも確かである。ここに書かれてあることには理解し難いところがあるが、自分の立場をどう見るのかについて考えていたことを思い出す。つまり、それによって生活の仕方が変わってくるからである。
こちらに来た当初は、観光気分が半年くらい続いたのではないだろうか。それは勉強しに来たのではなく、こちらの様子を見に来たということである。その場合、大学はさておき、見学が第一になる。それに対して、あくまでも学生として来たのだとすれば、大学の勉強が中心の生活になる。
そもそもを思 い出せば、最初から学生になろうと思っていたわけではなく、それ以外のことをやるための方便であった。それがあるために、アンビバレントな気分を引き摺っていた。これはかなり長い間続いたのではないだろうか。最終的には最初の気分が優勢になり、これだけの長きに亘る滞在となった。そして今、学生本来の生活に戻らざるを得なくなり、苦しんでいるということになっている。
しかし、今の苦しみは仕方のないことではないだろうか。最初からこのよう な生活をするために来たのだとしたら、何ともつまらない滞在になったはずだからである。今の精神状態からここ4-5年の状態を思い出しても、なぜそれが可能だったのか分からないくらい浮き浮きした状態であったことが分かる。おそらく、これからも当時の気持ちを再現することはできないのではないだろうか。それくらい貴重な経験をしたのだから、今は諦めて耐えるしかなさそうである。
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