dimanche 7 juin 2015

フリーマン・ダイソンを聴く Ecouter Freeman Dyson

7 juin 2008
 

Freeman Dyson (15 décembre 1923-) という名前をどこかで聞いたような気がするが、思い出さない。イギリス生まれの数学者・物理学者で、アメリカに渡り最後はプリンストンの高等研究所で研究をしていた。今回、科学と宗教について語っているビデオに出くわしたので聴いてみることにした。










印象に残ったことについて、少しだけ触れてみたい。宗教的立場を問われて、"religion without theology" と答えている。彼の世界観は agnostic に近い。神の存在を求めるというよりは、彼にとっての宗教はその文学であり、音楽であり、絵画である。つまり、宗教が生み出した具体的な芸術になる。さらに、人間関係を結ぶもの、コミュニティを支えるものと捉えている。人間は self-sufficient ではない。一人では生きられない。何かに頼らなければ生きていけない存在である。生きていくためには大きな目的が必要であり、それがないところに行動は生れない。

彼は3つの心・精神を提唱している。一つは human mind。それから micro (atomic, subatomic) mind と macro mind を考えている。ミクロの方は原子などの世界で、マクロは宇宙の世界になる。これを聞いた時、すぐにパスカルの二つの無限を思い出した。ダイソン氏によれば、量子物理の世界では原子が崩壊するか否かは予想できない。その意味では原子(の心)に選択の自由があることになる。これはあくまでもモデルだとしているが、この考え方に従えば、宇宙に存在するものすべてに精神が宿っていることになる。「蛋白質の精神」 などという表現も思い出す。

それから、Edward Wilson がその著書 Consilience において、科学によってすべてが解決できるとの考えを発表した時、書評でそれを批判したという。ダイソン氏は、科学はあくまでも限られた領域のことにしか答えを用意していないと考えていることが分かる。先日のトルストイとメチニコフとの行き違いを思い出すエピソードでもある。

科学も宗教も神秘的なものに向かう活動である。彼は科学を取り巻く世界を語る時、ある詩の一節を思い出すという。それは科学とは草原のようなもので、その周りには鬱蒼とした森が取り囲んでいる。世紀を経て草原が広くなろうともその森は決してなくならないというもの。科学と宗教は外に広がる宇宙を見るための 2つの窓のようなもので、別の視点から同じものを見ていると考えているようだ。また、ダイソン氏が宗教を詩のようなものとして捉え、科学とともに大切なも のに感じている様子が伝わってくる。

われわれの未来のことを問われたダイソン氏は、こう答えている。彼が子供時代を過ごした1930年代のイギリスでは、先がほとんど見えない hopeless な状態を経験した。そこから現在を見ると、全体としてはよい方向に進んでいる。神の存在は分からないが、その方向は大きな(神の)目的とは矛盾しないのではないか。現在も多くの問題を抱えているが、彼が子供時代に感じた絶望感を抱くところまでには至らないと結んでいる。

イギリス紳士をそのまま科学者にしたような方で、その落ち着いた真摯な受け答えに好感を持った。

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Wikiを調べていたところ、彼がイギリスの大学について印象に残る言葉を残していたことが分かった。

"My view of the prevalence of doom-and-gloom in Cambridge is that it is a result of the English class system. In England there were always two sharply opposed middle classes, the academic middle class and the commercial middle class. In the nineteenth century, the academic middle class won the battle for power and status. As a child of the academic middle class, I learned to look on the commercial middle class with loathing and contempt. Then came the triumph of Margaret Thatcher, which was also the revenge of the commercial middle class. The academics lost their power and prestige and the business people took over. The academics never forgave Thatcher and have been gloomy ever since."

「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのが私の見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。私はアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッ チャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」


ところで、この解釈から現れる図は、最近の日本の状況と重ならないだろう か。経済原理だけが優先される大学となり、そのことに疑義を唱えるどころか率先して従う今の大学人からは、大学に生きる自由人としての誇りや哲学が消えているように見える。思えば、この改革が始まった時に大きな異議も行動も見られなかった。その結果が、目の前だけを見た技術者の闊歩する一見華やかだが精神性に乏しい大学だったのだろうか。


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7 juin 2015

思索を刺激する考えがいくつも出てくるインタビューであった

当時ははっきりと気付かなかったが、彼の心や精神に関する言葉から次のことが見えてくる

それは、"mind" を人間に限られたものとしてだけではなく、最大限に広く捉えていることである

つまり、心というものが原子・素粒子の世界からこの宇宙全体にまで存在するという考えである

この考えはわたしが現在までに辿り着いた世界観にも通じるもので、興味をもって読んだ






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