lundi 1 juin 2015

わたしはどこに?

1 juin 2008

木田元氏の「ハイデガーの思想」という解説書をパラパラとやっている時、哲学発祥のギリシャという言葉が出てきた。そしてギリシャを想っている時、日本からギリシャを眺めていた。今はパリなので、南の方を見なければならないはずなのだが、、世界地図で言えば左の方を見ていたのだ。

ネットで地図を見ている時、今自分のいるところがどこなのかわからなくなることがある。地図の上ではパリにいるという感じがしないということである。昔アメリカにいた時のように日本を離れて遠くにいるという精神的な気負い・緊張感のようなものが全くないのである。まだ東京の上空に浮いたような感覚で生活 しているようだ。

ただ、意識的に自分を日本に置いてこちらを見直してみると、随分と遠くで暮らしているという感慨が沸いてくるから不思議である。自分では日本に居る感覚でパリの生活を味わっているところがあるが、日本の方から見れば、やはり地球の裏側で何やらやっているようにしか映らないだろう。当然と言えば当然なのだが、自分にとっては発見であった。

日本に居ながらにしてのパリ生活という感じだが、この間に降りかかってきたフランス語の量は圧倒的なものになる。こちらに来た当初感じた、無理やり口を開けさせられてフランス語を流し込まれているような印象は薄くなっている。しかし、実質的には何も変わっていないどころか、むしろその程度は増しているような気もする。目に見えないそれらのフランス語が何かを変え始めていると考えるのが妥当だろう。


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1 juin 2015

ここで指摘されている 「頭の中は日本」 という感覚は長く続いた

今でもどこかにそういうところがある

より正確には、日本とフランスが溶け合い、混然としたところにいるという感覚になってきた

どこかに根を張っているよりは、世界が広がって見える


若き日にアメリカから戻り、2年ほどは問題がなかったが、それを過ぎると外の世界が遠くなった

地理的にも世界とは隔離されているし、日本の情報は極端に日本に限られていたからである

以前に 「日本は屋根のかかったドーム球場」 と形容したことがあるが、家の中、長屋の話に終始する

その状態でも十分に生活できるし、日本ではそうした方が生きやすいところもある

ただ、一見快適に見えるその世界で本当に満足していたのだろうか

おそらく、日本で展開されていた精神世界の幅に狭さを感じたのではないか

そして、多様なものに触れることのできる空間を心の底で求めていたような気がする






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