dimanche 31 mai 2015

「人生に意味を」 "Donner un sens à sa vie" de Jacques Lecomte

31 mai 2008

メトロの中は静まり返っている

真昼時で旅行者が最も少ない時間

車内は割合がらがらである

30代の男が入ってくる

もし彼が突然大きな声を張り上げなければ、おそらく誰も彼のことには気づかなかっただろう

「いいえ、これからみなさんのところへ施しのために行くのではありません。わたしには仕事があり、ちゃんと生活しています。ただ、わたしはこう訊きたいのです。みなさんにとって人生は意味がありますか、と。朝起きて仕事に行くのは何のためですか。わたしにはわかりません。どうしても知りたいのです。これからみなさんのところに伺います。もし、どなたか一人でもわたしにその訳を教えていただければ助かります」

その若い男は人生に再び自信を与えてくれるかもしれない言葉や眼差しや微笑みを求めて通路を大股で歩き回り、何事か口ごもりながら再び出て行った。

十年ほど前に居合わせたこの情景は、わたしを強く揺さぶった

なぜ誰も反応しなかったのか

なぜわたし自身もこの男に答えなかったのか

当時、わたし自身の人生に意味があるということに確信が持てなかったからだろうか

おそらく、そうかもしれない

わたしの存在についての羞恥からだろうか

多分そうだろう

この短い経験が何年もの間わたしに付き纏ってきた

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このエピソードをもとに、ジャック・ルコント(Jacques Lecomte, 1955-)というパリ第10大学で教えている方が Donner un sens à sa vie という本を書いている。



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31 mai 2015

生きる意味については、こちらに来てからの見えないけれども常にそこにあるテーマになっている

いろいろなところに書いた記憶があるが、今のところの結論は次のようになる

おそらく、生きる意味は生きる意味を探るためではないか

 つまり、この問いに対する究極の答えは、最後の最後まで分からない

それを求めて生きることになる

ただ、それぞれの時点での答えを用意することはできるはずである

わたしの場合、答えにはなっていないが、上に示した通りである

別の言い方をすれば、生きる意味などないのであって、それ故自らが与えるものではないのか

哲学はその時の一助となる、というのが今の感触である



この問いに曲がりなりにも声を発することができた大きな理由

それは、静かな中で自らとの対話を続けてきたからだろう

そのための自由な時間を持つことができたからだろう
  
ミシェル・フーコーがよく言うところの « le souci de soi »、« la culture de soi » である

つまり、自分の内面、精神、魂の面倒を見ること、耕すことである

そのためには、 「汝自身を知る」 ための自己との対話が不可欠になる

これはソクラテスの時代から哲学の根底にある営みである

どんな問題について考える場合でも、この営みを伴っていなければ真の哲学とは言えないだろう

図らずも 「哲学はどうあるべきか」 に対する一つの答えを出したことになる

しかし、「哲学とは」 という問いにも生きる意味と同質のものが求められる

最後まで考えて行かなければならないという意味で

したがって、この問いに対する解は必然的に生きる意味と絡んでくるはずである

絡んでこなければならないはずである






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