vendredi 29 mai 2015

ピューリタニズムと科学、そして日本の現状 Le puritanisme, la science et le Japon

29 mai 2008
(1910-2003)


アメリカの社会学者で科学社会学の創始者とされるロバート・キング・マートン氏の最初期の仕事 "Le puritanisme, le piétisme et la science" (1936年)を読む。その中で、17世紀イギリスを対象に社会と文化と文明の関わりを見ようとしている。特に、清教徒(ピューリタン) が掲げる価値と科学の目指すところを概観し、宗教と科学の関係を比較解析している。例を挙げて指摘するところから数値を使って証明する方向に向かっている。その結果、ピューリタンの倫理が科学の発展をもたらしたという結論に達している。

神の創造物である自然を理解することにより創造主を賛美し、人間に幸福をもたらすことがプロテスタントの倫理であり、それが科学の目的とも合致した。自らの興味に基づいて、などという甘い動機付けではとても叶わない大きな力を感じる。17世紀の中頃に王立協会(Royal Society of London)が設立されるが、その憲章にもこの二つが掲げられている。ドイツの敬虔主義でも同様の現象が見られた。科学への参加は、カトリックよりはプロテスタントが優位だったようだ。これを読むと、日本の徳川に当る時代から "why question" や "how question" について議論されており、その歴史の重さには如何ともしがたいものがある。

日本には優れた科学者はいるが、科学という文化はないと言った人がいるらしい。的確な観察だとは思うが、それはヨーロッパ3000年と日本の100年か200年という歴史の長さとその質の違いから来るものだろう。アメリカの歴史も短いが、そもそもアメリカはピューリタンの国。彼らは新大陸に辿り着いて16年後の1636年にはボストンに大学を創り、そこの学長は哲学協会まで創設している。国の成り立ちが日本とは全く違うのである。日本でも科学を若い人や一般の人に浸透させようという動きが盛んになっているが、それは学会の内発的な動きではなく、行政レベルで考えられたものである。文化としての科学を育てなければ、という思惑もあったのだろう。

この手の問題に対してテクニックで解決されると考えている節があるが、そんなに簡単ではないことにすぐ気付くだろう。 まず、その文化がないと言われている科学者が先頭に立つのである。科学の発祥を辿っていけば、批判的なものの見方や自立した考え方がなければそもそも科学が生れなかったとされている。そういう精神のないところに科学文化が生れてくるだろうかという素直な疑問がある。その精神が生れるにはどう したらよいのかを考えることが先決のような気がする。しかし、この問いは科学を超えて途方もない大きさのものになるので、正面を見据えた大計が必要になるだろう。

この話題に関連して、あれだけの科学的才能を発揮したパスカルが科学の虚しさを感じたのが、ジャンセニスムに改宗してからであるという史実も興味深い。ジャンセニスムの教えでは、永遠の真理についての瞑想を妨げ、限られた知性の中で満足させるに過ぎない科学に対して虚しい愛を抱くことを諌めているからである。

科学の発展に宗教の果たした役割は計り知れないというマートン氏の指摘。宗教が科学を脅かす可能性が懸念され、論じられている現代。歴史の大きなうねりにも興味尽きないものがある。
 



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29 mai 2015

科学と宗教の関連は、日本では殆ど議論されることがなく、視界に入ってこなかった

アメリカに比べるとフランスは穏やかに見えるが、それでもどこからともなく聞こえてくるテーマである

当時、ロバート・マートン氏の分析を読み、頭の中がすっきりしたことを思い出す

この問題については、時間ができてからさらに考えてみたい






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