vendredi 31 juillet 2015

生きるために生きるのか、死ぬために生きるのか Vivre pour vivre ou vivre pour mourir

31 juillet 2008


厚労省から平成19年度の平均寿命、平均余命が発表された。

平均寿命・平均余命

平成19年簡易生命表(男)
平成19年簡易生命表(女)

こんな数字が出されても、今までであれば他人事のように見るか、全く無視していた。自分には関係のない数字に思えたからだ。今若い方も同じような感覚ではないかと思う。あるいは、お年を召している方の中にもそういう方はおられるかもしれない。

しかし、今の私は違うようだ。これまでは永遠に生きると信じていた。それがやっと数年前、そうではないと初めて悟ることになった。この数字に従えば、あと20数年でこの世から跡形もなく消え去ることが確実であることを理解したのだ。

こんな数字にお構いなしに現世を謳歌しましょうという考えではなくなった。つまり、生きるために生きるというところから、終わりを意識した生き方に変わって行ったのだ。死ぬために生きるのである。こう書くと、どこかに悲愴感が漂っているように見えるかもしれないが、その反対である。この世のすべてが全く違っ て見え始めたのである。この世のすべてが輝きを持って見え始めたのである。

われわれは死に至る病を抱えている存在であるとはっきり理解できた時、病める人、死に至る病を持っている人が向こう側にいる人から実はわれわれと何も変わらない、われわれと全く同じ側にいる人間として戻ってくる。これこそしばしば忘れられている医療の原点になければならない認識ではないだろうか。いつまで生かされるのかはわからないが、その最後までの時間が何ものにも替え難いものに思えてくる。そして、今更のように一期一会というありふれた言葉が大きな意味を持ってくる。


パリの夏も結構な暑さであるが、今日の夕方は少しだけ湿ってくれた。
遠く雷光も時折眼に入る。
今、涼しい風が流れている。


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31 juillet 2015

わたしの死生観とでも言うべきものが、ここに書かれてある

この見方は、今も変わっていない

この記事のタイトルに絡めて言えば、死(終わり)を意識して生きるということになるだろうか


昨日、2014年の日本人の平均寿命が発表になった

女性86.83歳、男性80.50歳で、いずれも過去最高を更新したという

女性は前年より0.22歳延びて3年連続で長寿世界一

男性も0.29歳延び、香港(81.17歳)、アイスランド(80.8歳)に次いで3位タイ

3位にはシンガポール、スイスが並んでいる

因みに、2007年の平均寿命は、女性が85.99歳、男性は79.19歳

7年で、女性が0.84歳、男性が1.31歳延びている    


素晴らしいことだが、その間活力を保つことができるのかがより重要な問題になるだろう

そして、いくら寿命が延びようが最期が来ることに変わりはない

この認識からしかこれから先の歩みは見えてこないのではないか

終りを知り、初めて人間は意味を探るようになるからである





jeudi 30 juillet 2015

この一年

30 juillet 2008


もうすぐ8月。1年前のことを思い返すと、猛暑の中を引越し準備に明け暮れていたような気がする。それから8月末にこちらに来てひんやりする気候の中に身を置き、気分がすっきりしたことも浮かんできた。先日届いた日本の元同僚からのメールには、もう1年も経ってしまったのかという驚きの声があった。日本の時間はあっという間に過ぎているようだ。しかし、私のこの1年は実に長いものであった。日本での数年分にはなるのかもしれない。今は読み返す気がしないが、このブログにはその一部が表れているはずである。

このところ、大学のクールで読んでいた本を読み返しているが、よく理解していたとは言いがたいことが明らかになっている。それまでじっくり哲学書、いや本そのものを読むということがなかったし、本の読み方もいい加減な自己流であった。大きな流れの中で読むというよりは、科学の断片的な知識を積み重ねていくというやり方ではなかっただろうか。特に後半の研究生活では、その傾向が見られた。科学からこちらの世界への移行の過程で感じた抵抗感は今でもあるのだから、昨年の段階では相当なものがあったはずである。いずれにしても、この一年の総まとめとなるメモワールを何とか終らせて、本当の夏休みに入りたいものである。


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30 juillet 2015

当時の新鮮な気持ちを再現することが極めて難しくなっている

ただ、1年目の終わりにメモワールを書いて、早くすっきりしたいという気持ちはよく理解できる

7年後の今、同じように学生生活の総決算をしなければならない状態にある

残念ながら、昔のような燃えるものが見られない

人生で一回限りのことなので大切にしなければ、と言い聞かせてはいる

しかし、無為の6年の後にその状態に入るのは至難の業である





mercredi 29 juillet 2015

杉山杉風、柏木如亭 Sugiyama Sanpu et Kashiwagi Jotei

29 juillet 2008
Alexandre Bourganov (Né en 1935 à Bakou)


昨日、俳句に打ち込んでいるクリスさんから仏版ブログにコメントがあった。その中に、俳人の杉風を知っていますかという質問が添えられていた。残念ながら初めての人だったので、ネットで少し調べてみた。

杉山杉風(さんぷう、1647-1732)は江戸前期の俳人。通称、藤左衛門、市兵衛。号を採荼庵(さいとあん)と言った。彼は芭蕉門下十哲の一人であり、 幕府とも交渉があった魚問屋鯉屋の主人で成功していたため、芭蕉のために家を建てたり、経済的支援を惜しまなかった。最後まで芭蕉には忠実な弟子だったようだ。

面白いことに、彼の末裔が栃木市倭町に平成17年夏までホテル鯉保(こいやす)を経営していた山口家で、その長女が女優の山口智子さんとのこと。そんなような話はいつか聞いたような気もするが、杉風が頭に入っていないと何の意味も成さない情報なので、右から左だったのだろう。別のサイトで紹介されていた杉風の句をいくつか。

  馬の頬(つら)押しのけつむや菫草

  きのふ今朝足の早さよ若菜売り

  川沿ひの畠をありく月夜哉

  がっくりとぬけそむる歯や秋の風

  野の露に汚れし足を洗いけり

  すっと来て袖に入りたる蛍哉

  朝顔のその日その日の花の出来

  空も地もひとつになりぬ五月雨

  五月雨やながう預かる紙づつみ


それから、日本の新聞の書評で柏木如亭(1763-1819)という江戸時代の詩人の本 『訳注聯珠詩格(れんじゅしかく)』が紹介されていた。とにかく破天荒な人生を歩んだ人のようだ。「詩と女と食を愛しすぎたために下級幕臣の地位を辞し、漂泊漢詩人として処々を行脚し、結局は京都で窮死した」 との解説がある。他にも 『詩本草』という食に関する本も書いている。その人生とともに興味が湧いている。

もうひとつ本に関連して、岩波新書が創刊70周年を記念して復刊書を出すという。
読んでみたい本が何冊か見つかった。

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夕方と言っても9時半くらいになるが、いつものセーヌを見に散策に出る。

今日の川面はとろけるような滑らかなたゆたいを見せている。

空には5-6機が 夕焼けの飛行機雲を残して進んでいる。

これまで他の町の空をじっくり見たことはないが、パリに特徴的なのではないかと思っている。


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29 juillet 2015

こちらに来た最初の内はフランス語の中に埋もれていた

ここ1-2年はその中に英語が大っぴらに出てきて、今は仕事のために英語中心になっている

さらに、今年の初めまで書いていた日本語のエッセイも中断している

日本語に触れるのは、この場のようなネットの上だけになっている

ということで、日本語に対する感受性が著しく下がってきたように感じる

この記事を読み、そのことを確認した






lundi 27 juillet 2015

C.P. スノー 「二つの文化」考 "The two cultures" by C.P. Snow (II)

27 juillet 2008

C.P. Snow の "The Rede Lecture, 1959" の4年後に書いたエッセイをバルコンと近くの公園で読む。基本的なところはリード講演と変わっていない。この4年間で世界中から(彼にとっては未知の日本、ハンガリー、ポーランドも含まれていたとのこと)届いた賛否に跨る反響を受けての省察が書かれてある。この間、その論争に参加して気分を晴らすというのではなく、そうした論争でしばしば見失われがちになる真理を見極めるために、寄せられた反応が自分の中に沈殿し、ある意味を持ってくる(sink in)のを待っていたようだ。

それにしてもなぜこれだけの反響があったのか。また、それ以前にも同様のことを書いている人がいるのになぜ反響がなかったのか。まずその反響の大きさから、ここには独創的な考えは含まれていないとはっきり言っている。それはすでに多くの人が感じていることを言ったに過ぎず、その反響の大きさはそのタイミングと関係があるのではないかと推測している。ドイツ語で言う Zeitgeist (時代精神) に合致したのではないかと考えている。

反響の中には、彼が言うところの "The Two Cultures" の言葉に対するものがあった。なぜ "Two" でなければならないのか。100であり、1000では駄目なのか。こうなると、言い掛かりの雰囲気もある。それから "Cultures" とは何なのか。これに対しては辞書的な意味と実際的な意味合いでは、ある環境に住む習慣や生活様式を同じくするグループという人類学で用いられる説明を用いて解説している。ただ、"The" だけにはクレームがつかなかったと皮肉っている。scientific と literary の間の理解を深めるには教育、しかも早い時期からの教育しかないと考えている。もちろん、当時でもルネサンス・マンの育成は無理であり、パスカルゲーテピエロ・デラ・フランチェスカのように世界を理解する人間を輩出するのも難しいだろうが、かなりの部分を芸術と科学に無知ではない人間に仕上げること は可能であり、それしか方法がないと考えている。

全く同感である。両分野に感受性のある受容体を持った人間が多数いることによる社会の利益は計り知れないだろう。目に見えない効果だけではなく、例えば科学政策の立案などに際して政治や行政の側がそのすべてを科学者に任せてしまうのではな く、そこにある視点を持って参加することができるようになり、今とは決定過程が変わってくると予想される。また、それを見ているわれわれの見方もより重層的なものになり、具体的な関与ができるようになるのではないだろうか。

この中に面白い対比が書かれてあった。彼は若い時にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が最高の小説だと思っていたが、年輪を経るに従ってトルストイに傾くようになったという。一つには、ドストエフスキーの日記に見られるその思想を知ったからだろう。ドストエフスキーは激しい反ユダヤ主義者で、独裁を経済的に支援し、戦争を希求し、奴隷解放には反対し、一般人の生活向上にも強く反対していた。一言で言えば、悪辣な超反動であり、その発言が時代に浸透していた可能性もある。もう一つの対比は、ドストエフスキーとは対照的に社会正義や良心に溢れ、世界の未来を明るく語るチェルニシェフスキーという人とのものである。その善き人のことは今やほとんどの人は忘れているだろう。ドストエフスキーほどの才能がある場合に限り、その人間性による評価が時代とともに薄らいでいくことを感じているようだ。

今や科学の進歩は著しい。その流れを止め、逆流させることは不可能だろう。この書でも産業革命前の世界の方が素晴らしく(エデンの園で)、この革命により人間性 が奪われてしまったとする人がいるようだが、一体エデンの園で人間がどのような生活をしていたのか、正確な知識はあるのだろうかと問うている。現実的に考 えると、人間が楽な生活を求める存在である以上、大多数の人はこの流れに逆らうことはないだろう。そして、ある思想をもって古き善き時代を大多数の人に強要することもできないだろう。もしそうだとすると、われわれにできることはこの流れにブレーキをかけ、ある場合には流れの方向を変えることくらいになりそうだ。これにしても大仕事になるだろうが、、。そして広い文理に跨る蓄積がブレーキをかけるタイミングやどの方向に流れを向かわせるのかを決める時に不可欠になるのだろう。その意味でもスノーの半世紀前の提言は今でも全く色褪せていない。

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28 juillet 2008

昨日、一昨日と取り上げた C.P. Snow の本について一つだけ言い忘れたことがある。

それは、この本が極めて簡明な言葉による簡潔な表現で貫かれていることである。

日頃、フランス哲学の文章を読んでいるせいか、それが際立って見えた。

ご本人は時代精神などと人のせいにしている。

しかし、この本に訴えかける力があった大きな理由にこの点があるような気がし ている。

一週間ほど前から、静かにしていてもじわーっと汗が出てくるようになった。

パリも本格的な夏到来ということだろうか。





dimanche 26 juillet 2015

C.P. スノー 「二つの文化」考 "The two cultures" by C.P. Snow (I)

26 juillet 2008

先日届いた C.P. Snow の名著 The Two Cultures and a Second Look (Cambridge University Press, 1987)を読む。学生時代に訳本を買ったような気もするが、どこか遠くの出来事のように感じていたのか読んだ記憶はない。今回は興味津々で、いつものようにバルコンに出て彼の言葉を追う。第一部 "The Rede Lecture, 1959" の第一章が "The Two Cultures" で彼の基本的な認識が語られている。この発表の3年前に雑誌 New Statesman にスケッチを発表している。またこの本のタイトルにもあるように、初版の4年後の1963年に新たな見解を発表している。こちらは明日にしたい。

著者 Snow は科学のトレーニングをケンブリッジ大学で受け、職業として物書きになったためにこのような視点が得られただけで、同様のキャリアがあれば同じようなことを考えただろうと述懐している。若き日に物理学が花開くのを傍から見ていたことや1939年の寒い朝にケタリング駅で W.L. Bragg に会ったことも大きな印象を残していて、その後科学から目を離すことはなかったようである。その間、文学と科学(文理:literary vs. scientific)の間を行き来するうちに "Two Cultures" と彼が名づけた現象に気付くようになる。それは大洋を隔てたほどの、あるいはそれ以上のものがある。大西洋を渡ればそこでは英語が話されていて話は通じるが、文理の隔たりが行き着いたところではチベット語が話されているようなものだと喩えている。

科学者は未来が骨の髄まで染み付いている (Scientists have the future in their bones)が、文系は本質的に反科学的(anti-scientific)であり、彼らにとって未来は存在しない(The future does not exist)。この傾向は私自身が理から文へ移行する過程で、そのニュアンスがわかるようになっている。自らを振り返っても、科学の未来信仰、楽天性は益々明らかになってくるし、文系はむしろ過去にまず目が向かうように感じている。むしろ、そこにしか確実なものはないという哲学があるかに見える。科学者個人のレベ ルでは必ずしもそうではないにせよ、科学という営みを見た場合には否定しようがない真実がありそうだ。

ここで取り上げられている逸話も興味深い。例えば、話好きのオックスフォード大学の学長がケンブリッジ大学での食事会で会話を楽しんでいる時、その話はさっぱりわからないという声を聞き、驚 く。そこで助け舟を出したケンブリッジ大学の学長の言葉は、「彼らは数学者ですから」 というもの。また、文系の人が考えている "intellectuals" の中には、RutherfordEddingtonDirac も入っていないらしいという話を聞いたというエピソードもある。それから、彼の観察によると文理の乖離は特に若い層で大きく、時には敵意にも近いものを感 じると書いてある。理の方に勢いがあり、文に比して就職率もよい。当時は物理学が理を代表していたのかもしれないが、それが今は生物学に置き換わっただけで、その本質はほとんど変わっていないかに見える。いや、むしろその程度が激しくなっているかもしれない。文系の人に熱力学の第二法則は?と聞くといやな顔をされるが、同様のことは理系の人にシェークスピアを読んだことはありますかと聞いた時にも起こるのだろう。

このような文理の分離がなぜ問題なのか。それは単に残念なことというだけではなく、もっと酷いものだと彼は考えている。それは二つの異なるもの、異なる原理、異なる文化がぶつかり合うとこ ろにしばしば創造の機会が訪れるからだ。しかし、その二つが出会う機会がそもそもないのである。これは双方にとって、われわれにとって大きなものを失って いることになる。この点は自らを振り返っても痛いほどわかる。もし科学哲学における厳密な思考方法について少しでも知っていたら、過去の科学者がどのよう に問題と対峙していたのかを知っていたら、仕事の進め方が変わっていたかもしれないという具体的な影響を想像できるからだ。

この書では、二つの文化の問題はイギリスに限らず西洋すべてに行き渡っているとしているが、東洋でも例外ではない。その意味では人間の頭の働き方の普遍性を示して いるもので、半世紀を経た今でも傾聴に値する声だろう。20世紀には両者の接触が見られなかったが、21世紀にはそれが可能になるのだろうか。その真空地帯に足を踏み入れてみたいという思いが湧いているのを感じる。





jeudi 23 juillet 2015

時間を遡る Remonter le temps

23 juillet 2008

昨日は久しぶりに研究所へ。注意しなければならない論文をPDFでダウンロード。その中の一つ、30年前の科学雑誌 Science に発表された新しい医学モデルについての論文を読む。還元主義、心身二元論が主体の医学では患者さんの部分が強調される結果、満足のゆく患者ケアはできな いとして、"biopsychosocial model" というものを提唱している。科学としての真理の追求に加えて、患者さんの心理的、社会的要素も考慮に入れた全的な (holistic/integrated)対処が求められているとしている。そのためには、単に医者の権威やカリスマだけでは駄目で、例えばインタ ビューについての考え方や実際のやり方、病気の概念やケアについての知識を学ぶ必要が出てくる。その実現のためには教育制度に手をつけなければならないだ ろう、としている。

還元主義を標榜する科学雑誌に出た論文のためか哲学的な香りは薄いが、ポイントになる点がはっきり書き出されていてわ かりやすい。私の中ではごく当たり前のことを言っているように感じるが、30年前に新しかっただろうこの考えが今でも重要なものに感じるのはなぜだろう か。この問題が厳然として今もそこにあるからではないのか。あの課題を解決するには、そこに課題があることを認識できなければならない。ここが心底理解さ れていないように感じるのは私だけだろうか。最後は教育に行き着くようにも思うが、日本ではどのような教育が成されているのだろうか。

科学の分野にいた時には考えられないことだが、最近古い論文を読む機会が増えている。30年前とは言っても、若い時に感じる30年と今の30年では全く違 う。今の私から見ると、30年という時間はほとんどつい最近と変わらない。自分の中にその時間があるからだろうか。あるいは、古代ギリシャにまで遡った人類の歴史が前提として出 来上がりつつあるからだろうか。いずれにしても現実の激しい動きの中から身を遠ざけていることがそういう目を育てていることは間違いなさそうだ。そうでも しなければ時間の流れを止めてものを眺めることができないのかもしれない。時間の流れの中から蒸留されて見えてくるものが掴めないのかもしれない。

お昼休みに紙のル・モンドを久しぶりに手にする。1週間以上前の本紹介のセクションだった。その中に、いくつか興味深いものがあった。

まず、日本関連の話題から。一つは深沢七郎の「楢山節考」のフランス語訳が Gallimard の "L'imaginaire" というシリーズから "Narayama" として出るという。1956年に出版されているようなので半世紀ぶりに訳されたことになる。この作品は19世紀の日本が舞台だが、姥捨ての風習は古代ロー マから南仏、アフリカ、エスキモー、中国などでも見られたようだ。この本もまだなので近いうちに読んでみたい。なお、このシリーズはDVDが一緒になって いて、今村昌平監督の作品が付いている。もう一つは特派員のフィリップ・ポンス氏から、小林多喜二の「蟹工船」が日本の "nouveaux pauvres" に共感を集めているという話題。さらに、ニーチェ特集があり、Michel Onfray がニーチェとの個人的な関わりやニーチェの現代的な意味について語っていたり、倫理に関する古代人の考えを調べた研究書3冊の紹介もあった。



帰りにモンマルトルまで足を伸ばす。高低差の激しい場所を歩き、カフェで仕入れたばかりの論文を読みながら、アコーディオン演奏を聞く。目の前の教会の鐘が 7時と7時半に鳴っていた。そのカフェは8時には店終い。店員さんとよい会話を楽しむ。それから少し歩くとどこかでみた風景が現れた。去年の3月こちらに来た時にFと歩き疲れて入ったカフェではないだろうか。こんなところを歩いていたのか、という思いである。こちらに住むようになり、こういう経験がよくある。旅行者で歩いていた場所が、実はこういう周囲との関係の中にあった場所なのかと改めてわかることが。その感覚は何とも言えずよいのだが、、、


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23 juillet 2015

哲学に入り、科学における時の流れの特徴に気付いたことが書かれてある

その違いは益々明確になり、今では特に驚かなくなった

科学の世界にいる時には、数年前と言えば大昔に感じたものである

次々に出される新しい成果を必死に追っているため、捉えている時間の幅が狭くなっていたからだろう

ただ、哲学の領域に入り、それだけでよかったのかという疑問が頭を過る

哲学的な視点を持っていれば、違った研究生活になったのではないかという思いも湧いてくる


哲学は二千数百年の成果を横に携えて歩むところがある

新しいものが大きなものを齎しているとは限らない

ひょっとすると、その逆かもしれない

そういう中で生活していると、新しい成果を追うという姿勢は随分と弱くなる

慌てなくともそこにあるものは逃げて行かないという感覚があるからである

これなども、哲学に入ってから実感することになった科学と哲学の違いの一つと言えるだろう







mardi 21 juillet 2015

ボルタンスキー兄弟 Les Boltanski

21 juillet 2008

今日、乾いた涼しげな風を受けながらこのところご無沙汰していたセーヌの顔を見に出かける。途中、薄紫の植物が目に留まり茎を引き寄せてみると、花の直径は5ミリ程度で5枚の長方形の花弁がどれも規則正しく付いている。少しすると下から蜂が上がってきて少し驚く。おとなしくその行動を見ていたところ、次から次に花の芯に長い針?を伸ばして蜜を吸っている。一つ残らずである。自然の何気ない一こまに感心していた。それから程なくセーヌに着く。いつものことだが、この姿を見ると気力が蘇る。

Le Monde で "Frères et soeurs" という15回シリーズの特集を始めた。今回読んだのはその3回目で、ボルタンスキー兄弟が紹介されている(7月16日)。理・知・言葉の学者と言葉を超えた本能の芸術家との対比に興味を持ち、最後まで付き合ってみた。

リュック1940年生、68歳)は社会学者で Sociologie pragmatique の父と言わる。現在存続が危ぶまれている大学院大学 EHESS の研究部長をしている。弟クリスチャン(1944 年生、63歳)は現在世界の二十指に入るフランス屈指の芸術家。すべての面で対立する。その生い立ちから現在までがそれぞれの特質を絡めて語られていて、人間の不思議さ、強さや面白さが表れている。ま た兄弟の歳の取り方やその過程での兄弟の付き合い方もユニークで参考になる。ところで長兄は言語学者のジャン・エリー。大変な環境から出発したが、それぞれ特徴を持った人間が出来上がっている。

ロシアからのユダヤ人で医者であった父と零落れた貴族の家庭出身の母親の間に生れる。父親は後にキリスト教に改宗。母親は22歳でポリオに罹り、学業を諦める。戦争が始ると反ユダヤの法律が施行される。7区にあったアパートでは争いが始る。そして、リュックが2歳の時父親がいなくなる。戦争が終わり、父親が戻ってくるところに居合わせたが、実は狭苦しい部屋や床下に隠れていた。1944年生れのクリ スチャンは言う。「父は夜になるとそこから出てきて、そして私が生れることになったのだ」

母親は大部分ペタン主義者だった彼女の家族とは疎遠になり、レジスタンスの革命的な考えを抱くようになる。家にはカトリックの家族、ユダヤ人共産主義者、それから一握りのホモセクシュアルの芸術家などと共同生活をしていたのをリュックは覚えている。そこで見られたある種の緊張感が彼を社会科学へ導くことになる。それは、社会科学にこのような緊張関係を解く手段としての希望を見たからだろう。後に、それこそまさにこの世界そのものであることを知ることになるのだが、、。

1950年代初めからグルネル通りのアパートで大家族生活が始る。子供たちは床に寝る。ヴァカンスでも同じで、車の中で寝る。クリスチャンはここで観察眼を養う。しかし、同時に世界に対して恐れを抱くようになったという。彼は今で言えば登校拒否児童。20歳まで一人で外出したことはなかった。彼の兄弟以外に話をしたこともなければ、読むこともできなかった。彼を助けたのは兄弟と芸術。それがなければ今頃は路頭に迷っていたのではないかとさえ言っている。

長兄のジャン・エリーによると、家で芸術家と目されていたのは詩や絵を愛したリュック。彼が人類博物館を教えてくれた。そこで英雄でもない人たちの存在や失われた世界を知ることになる。その影響は決定的だったと語っている。それからクリスチャンが写真を始めるようになる。

今では毎日曜、ジャン・エリーが今でも住み、リュックが越してきたグルネル通りにすべての家族が集まる。リュックは持ち込んだ本について語るが、クリスチャンは別に読む必要はない。最近では奴隷やニューギニアの信じられない部族について教えてくれた、とクリスチャン。さらに、兄は現代芸術はブルジョアを驚かすものとしか見ておらず、私のことをペテン師くらいにしか思っていないのでは、と続ける。それに対して、彼は偉大な創造者で彼の仕事は気に入っているとリュックが訂正。そして、彼には心眼があり、世界を切り取り浮かび上がらせている。文章の中には何も見えないのだが、と付け加えるのを忘れない。

わたしたちは本当に違う、とクリスチャン。兄は家族の食事を用意する時ほど幸せな時はないようだが、私は子供も犬も嫌い。私はユダヤ的だが兄はカトリックであり神秘主義者だと続けると、リュックは反論。私は神秘主義者ではない。内的生活はないし、興味があるのは外の世界。しかし、こうも言う。それにしてもどうして近・現代的なるものが人間性をここまで切り刻まなければならなかったのかわからない。悪魔、儀礼、亡霊。少なくともカトリック?と問われると、こう答える。私はラベルに影響されるのを拒否してきた。すぐに裏切りたくなるのだ。私は人生を通して逃げ、裏切ってきた。家族、最初の妻、私の師ブルデュー。アイデンティティ、それは混じりけのないもの、最悪の罪、精神の毒。

最後のところは寺山の言葉を思い出した。
私は何でも 「捨てる」 のが好きである。少年時代には親を捨て、一人で出奔の汽車にのったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を 「捨てる」 ことだと思うことがある。
- 競馬無宿 -
最近、二人の役割に変化が見られる。インテリが詩を愛し、自由を渇望するようになり、芸術家が歴史や世界の物語の虜になっている。

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クリスチャンの興味深い言葉がウィキに紹介されていた。
"We are all so complicated, and then we die. We are a subject one day, with our vanities, our loves, our worries, and then one day, abruptly, we become nothing but an object, an absolutely disgusting pile of shit. We pass very quickly from one stage to the next. It's very bizarre. It will happen to all of us, and fairly soon too. We become an object you can handle like a stone, but a stone that was someone."


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21 juillet 2015

兄弟の間の性格や嗜好の違いは、実に興味深いものがある

父親と母親の特徴が異なる時、兄弟に別々に伝わることがある

それが生き方の違いをも生み出す

これだけは予想できない

振り返ると、それを変える機会があったはずだが、その機会を見逃したり、無為に見送ったりする

それにより、その後の人生が決まってしまう

この真理をその時に知っていれば、とも思うが、それは難しい

そこにそんな問題が隠れていることには、なかなか気付かないからだ

それに気付くためには、広い経験が必要になるだろう

読むことが欠かせないだろう


最後にあるクリスチャンの言葉は、人を送った後には特に印象深い

われわれはほんの僅かの間、この世界に現れ、主体として生きる

しかし、その時間が終わるとそれ以前にあったように無機物に返っていく

生物とは実に不思議な存在である

主体である時期をどう生きるのか

この世界をどう理解しようとするのか

これが大問題でなくて何が大問題になるだろうか





samedi 18 juillet 2015

AIDS に触れる "Access to Life"

18 juillet 2008

写真家集団マグナムの8人が世界9カ国、30人のAIDS感染者を追った記録 Access to Life

いずれも見応えがある

すべての国を見終わった時、なぜかこの1月に聞いた軽快な歌を聞きたくなっていた。キューバの歌手シルヴィオ・ロドリゲスSilvio Rodríguez, 1946-)さんが作った歌を若い女性が軽快に歌っていたあの歌である。ところがリンクがつながらなくなっている。仕方なくネットサーフで見つけたロリータ・トーレス(Lolita Torres, 1930-2002)さんの歌を何度も聞き返していた。たまにこういうことが起こる。





Lolita Torres さんはアルゼンチンの女優で歌手。

ニューヨーク・タイムズによると2002年に72歳で亡くなっている。

貫禄十分の彼女の歌声を聞いているうちに、気分が落ち着いてきた。


シルヴィオ・ロドリゲスさんのバージョンはこちら。




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18 juillet 2015

7年前の記事のビデオやリンクを補強した

 AIDSと言えば、1989年12月にアフリカに派遣されたことを思い出す

ザンビア、ケニアを中心に母子感染の現状を視察するためである

初めてのアフリカだったが、そこはこれまでに経験したことのない別世界であった

当時、AIDSによって滅びるのではないかと言われる国があった

分かりやすい現状を目の前にして考えたことが蘇ってきた

それは、研究よりも目に見える成果を上げることができる領域がここにあるのではないかということ

暫くの間、その考えを弄んでいた

また、 一面に広がるルサカの草原に沈む太陽の形容できない赤と見たこともない大きさも蘇ってきた



Por Quien Merece Amor のビデオが流れて暫くすると当時のことを思い出した

懐かしい響きだ

記憶に残っているものである




vendredi 17 juillet 2015

ヴァカンスの散策?、あるいは日米年金比較

17 juillet 2008

先日、税金のことでアメリカ大使館まで足を伸ばした。細かい話になるが、私はアメリカで5年ほど働いていたので教師年金をもらっている。保険の支払いは研究所がやってくれていた。日本に帰ってきてしばらくしてからの40代から支給をお願いしたので、もう長い付き合いである。当然のことながら、遅く始めた方が支給額はよいのだが、当時はいつまで生きるのかわからないとでも考えていたのかもしれない。

日本にいる時には、日米の協定があり税金は取られなかった。 しかしフランスとアメリカとの協定はすでに廃止されているので、こちらに移ってきてから税金が引かれている。何とそれに気付いたのがつい最近といういつものお粗末さ。本来であれば4月に tax return の手続をしなければならないのだが、アメリカに問い合わせたところまだ大丈夫ですというのでその詳細を聞くために大使館に出かけた。ところで、問い合わせの電話で久しぶりに滑らかな転がるようなアメリカ英語を耳にしてなぜか元気になった。

当日はルーブルの方からテュイルリー公園を左に見な がらリヴォリ通りを歩いて行った。暑いがからっとしていて余り気にならない。ここを歩き終わった時、スケールは小さいがニューヨークのセントラルパークと5番街に当るのかなどと考えていた。ところで途中嬉しいものを発見した。人の流れが滞った時、ちょっと横を見ると扉の飾りに医学の象徴になっているアスクレピオスの杖が縁取られてあり、そこから視線を上げたところにこのプレートがあった。その瞬間、江戸時代にタイムスリップする。



大使館に近づくと、周辺の警備が厳しいことがわかる。gendarme の車と人が目に入る。入り口ではパソコンを持っていますかと訊かれる。パソコンがある場合、たとえそれを外に置いても中に入れないという。科学的(統計的)根拠があるのだと思うが、よくわからない。とにかく警備の決まりがそうなっているので日を改めることにした。

ところで年金の話であるが、私の場合アメリカで5年、日本ではその5倍は働いているだろう。しかし、最近日本の年金を計算してもらったところ、僅か5年のアメリカからもらっている2倍ほどにしかならないことがわかった。もし今からアメリカの年金を受け取ることにしていれば、ひょっとする同じような額になったかもしれない。アメ リカで普通に働いていた場合、一体どのくらいになるのだろうか。これまでは特に感謝することもなかったが、アメリカが研究者を大切にしてくれていたことがわかり、少し見方が変わってきている。野茂の年金と比較する気はないが、プロ野球にしても日米では雲泥の差だ(野茂英雄 Hideo Nomo, a Trailblazer 2005-05-17)。少し話はずれるが、この記事がハンモックでよくアクセスがある。その検索に使われているキーワードが 「野茂 年金」。本当にどんな人が見ているのか、予測不能だと改めて悟った次第。





その日は大使館の後、シャンゼリゼ通りを久しぶりに散策。ちょっと足を伸ばすと、この不思議な世界に足を踏み入れることができる。ヘミングウェーではないが、まさにパリは毎日が移動祝祭日。日本から来るのとは全く異なる精神状態での観光気分を味わって帰ってきた。

と、書いた時、最初にシャンゼリゼを歩いた時のことを思い出した。大学院1年の夏、父親のお供で旅行したが、午後シャンゼリゼのどこかのレコード店に入り、その夜は誰かのコンサートに出かけたことが浮かんできた。当時メモを書いていたかどうかわからないが、初めての海外旅行だったのでどこかに何かが残っていそうな気もする。もしメモが見つかればこの旅行を再現できるかもしれない。
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今、日本のサイトに行ったところ何という偶然だろうか。
野茂が現役を引退したという。
彼の持っている描いたものを実現しようとする精神の強靭さは
道を開くためには不可欠のものだろう。
今、いろいろなところで求められている精神のあり方かもしれない。


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17 juillet 2014


これほど年金の細かいところまで書いていたとは知らなかった

年金は日本でも再び問題になっていると聞く

若い時には気にかけていなかったが、その時が来ると意外に重要であることが分かる

仕事をしない場合には尚更だ

いずれ、いろいろなことを総合的に考えなければならない時が巡ってきそうな気配である





jeudi 16 juillet 2015

ジェルメーヌ・ティヨン Germaine Tillion, ethnologue et résistante

16 juillet 2008

昨日の夜9時から1時間ほど散策に出る。

まだ明るい。

途中、お店の窓ガラスにあった小さなポスターが気になり見てみた。

ジェルメーヌ・ティヨン(Germaine Tillion)という人の展覧会が人類博物館(Musée de l'Homme)であるという。

初めての人だったので帰って調べてみた。

この4月に101歳目前で亡くなった民俗学者にしてレジスタンスの闘士であることがわかった(追悼記事)。

権力に立ち向かう理論だけではなく、そこに行動が伴った立派な人がいるものである。

そして、大統領がその生き方とそれを貫いていた理念に対して賛辞を送る。

目に見えない価値のために戦い、その人生を捧げた人をはっきりと評価する社会の姿勢をそこに見る。

このような抽象的な価値を抱きしめる激しい哲学は日本には余り見かけない。

あるのかもしれないが、それが評価される社会のようには見えないと言った方が正確だろうか。


ティヨンさんがレジスタンスとアルジェリアについて語っているビデオが見つかった。

何歳の時かはわからないが、しっかりしていて感動的でさえある。

時間を取って展覧会にも足を伸ばしてみたい。













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16 juillet 2015


その後触れることにはならなかったのだろう

日常の記憶からは消えていたが、この記事を見て思い出した

このような営みは、記憶を補強する上では有益なようである

元の記事ではビデオがうまく見られなかったので、今回新しいものに入れ替えた

こちらの方が彼女の見方をより広く知ることができそうである






mercredi 15 juillet 2015

一体彼女に何が?

15 juillet 2008


昨日、ヘリコプターの編隊が三度四度とアパート上空を通り過ぎて行った。8機ほど集まると普段聞き慣れない響き渡る音を出す。血が踊る人がいても不思議ではないだろう。脳の深いところを刺激するかのような音である。日本では目にすることのない革命記念日の朝の出来事。われわれの歴史とは大きく違う人間の歩 みを想う。

昨夜、寝る前に本棚で目に留まった Lee Silver Challenging Nature という本と摘み読みしていた。この本は2年前に買ったことになっている。著者のSilver は私のニューヨーク時代に同じ研究所にいたので彼の話はよく聞いていたし、何度か言葉を交わしたこともある。体の動きが鋭くエネルギーが漲っていて、それは精神の活動からきていることがはっきりとわかった。弁舌爽やかで才気煥発というのが第一印象。彼のようなタイプは日本の研究者には見かけないが、アメ リカのエリートの中では稀ではない。冴え渡る才気を見る思いであった。

この本であるが、科学の歴史やその中に出てくる科学者、哲学、科学と宗教の関係、さらに最近の倫理に絡むような話題まで軽い調子で書かれている。こちらに来てから読んでいるような本では味わえないテンポがあり、テレビ番組を見るような雰囲気さえある。そこにはアメリカ的とでも言えるだろう現実的で楽観 的、やや小児的率直さと明快さと活力がある。哲学を語っていても哲学臭さをほとんど感じない。今ではそれが浅く感じられるのだが、、。それにヨーロッパの老練さや思索のしつこさ、あるいは科学への本質的な懐疑はないように見える。このような大西洋を隔てた違いの手触りまでがこれほどはっきりと感じられるように なるとは、こちらに来る前には予想もできなかったことだ。

その本の中に思わず噴き出してしまったエピソードがあった。彼が教えているニュージャージーにあるプリンストン大学の女子学生の話である。ある日、その学生が卒業論文のテーマについて相談するために訪ねてきた。実はその前日に 30人くらいの3年生を相手に彼がこう話したという。チンパンジーと人間の遺伝子は99%同じなので、人の受精卵のある遺伝子をチンパンジーのものに置き 換えても全く同じ人間が生まれるだろう。脳の遺伝子についても人間とチンパンジーではほとんど変わらない。両者の違いはそれぞれの遺伝子がいつ活性化したり不活性化するのかによる。それからやり取りがあり、彼がこの両者の遺伝子の違いが少ないので、掛け合わせればハイブリッドができ正常に子供が生れるかも しれないと付け加えた。

そこで、これまでにその実験をやった人はいますかと質問したのがこの女子学生だったのだ。彼はこう答えた。チンパンジーが妊娠すると人間の胎児が大きすぎるのでうまく行かないと思いますが、その逆であればうまく生れるかもしれません。ただ、こんな実験をやりたい人などいないとは思いますが、と。しかし、何とその彼女が卵子を提供してチンパンジーの精子で受精させ、自分の子宮に戻して子供の育つ過程を論文にしたいと真剣に言ってきたというのだ。言葉を失うことはそんなにないさすがの彼だが、これにはびっくり仰天。

彼はさらにこう聞いた。ところで、もし生れたらどうするつもり?もしチンパンジーだったら、動物園に預かってもらうか、もし人間であれば赤ん坊として育てるか、養子にでも出すの?でも、もし人間でもないようだったら?

その学生の答えは、「生れる前に中絶します。もう論文はできているし、卒業したいから。ところで先生この計画どう思います?」

最近の若い女性は自分の体をこのように扱うことを何とも思っていないのだろうか。私も彼女の頭の中でどんなことが起こっていたのか興味が湧いていた。その後、彼はもしその子供が生れて育てることになった時の状況について考察していたようだが、眠くなりフォローできなかった。


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15 juillet 2015


アングロサクソンとフランス人が科学について書くスタンスには大きな違いがある

この時すでにそう気付いていたようだが、それ以後この考えが強まることはあれ変わることはなかった

一つの対象に対して異なる見方があることは素晴らしいことで、豊かさを齎してくれる


それはそうと、リー氏が科学を取り巻く問題について語っているビデオが見つかった

こちらから

語り口は若い時と余り変わっていない

科学の普及に尽くしたカール・セーガンは正統なる科学界からは認められなかった

わたしもそのことが問題になった時期にアメリカにいて、同時代で見聞きしている

そのことを The Strange Resentment of Popular Scientists の中で論じている

その他にバイオテクノロジーに関する問題点についても語っている


ただ、これらの話から霊感を得ることができるかと言えば、今のわたしには難しい

思考が 「いま・ここ」 に集中し、歴史的な視点が欠けているように見えるからだろうか

科学が嫌う哲学的なニュアンスがないからだろうか

そう感じるのは、この7年間でものの見方が変化したからなのか

あるいは、それ以前から求めていたものが顕在化してきただけなのか

その両方ではないかとも思うが、いずれにせよ科学についての新しい切り口が必要な気がしている





mardi 14 juillet 2015

モンテスキューとともに気候を考える Penser au climat avec Montesquieu

14 juillet 2008
(1689-1755)
2009年 02月 07日撮影


パリの天候が変わりやすいことについては、私の観察として以前に書いた。昨日も何度か通り雨にあった。すぐに止んでくれることがわかっているので、今ではかわゆい存在になりつつある。ああ、また始ったか、という感じである。

ところで、最近ここで取り上げたニーチェによる風土と精神に関する文章を仏版ブログにも出したところ、モンテスキューにも気候の理論(La théorie des climats)というのがありますよ、というコメントがお馴染みのクリスさんから届いた。モンテスキューと言えば、中学か高校で習った「法の精神」 (De l'Esprit des lois)というキーワードしか残っていないが、それが急に息を吹返してくる。自分の中が何かで洗われるという印象がある。こういう出会いにはいつも岩清水が湧き出るような悦びが込み上げてくる。

18世紀の啓蒙の時代。理性と科学と人間尊重という新しいパラダイムが生れたこの時代は、ディ ドロとダランベールの百科全書ルソーヴォルテールの時代でもあった。モンテスキューは多種多様な法律がそれぞれの国の人びとの思いつきで作られているのではなく、ある法則に則っているのではないかと考え、その法則を説明しようとしたのが「法の精神」となった。その要因として、物理的なもの(風土など)、道徳的なもの(宗教、伝統、風俗・風習など)を考えていた。ここに出てくるのが、今日のテーマになる気候と法律、政治体制との関連の分析である。

彼は決定論者ではなかったが、気候がそこに住む人の気質や習慣に影響を及ぼすと信じ、そのことを考慮に入れた法による支配が成されなければならないと考えて いた。例えば、気温の影響は大きく、寒い環境の人間は頑強で大胆、知識も多く快楽を求める傾向が少ないが、暑い国の人間はだらしなく臆病で決断力がなく、情熱的で快楽に溺れやすい。前者は王政を持ち、後者は専制を好む傾向がある。

また、土壌の豊かさも政治形態に影響を及ぼすと考えていた。王政は土地の肥沃なところに多く、共和制は土地の痩せたところによく見られたが、モンテスキューはその理由として以下の三つをあげている。第一に、肥沃な土地の人間は現状に満足しているため、自由を求めるよりはむしろ安全を求めること。第二に、肥沃な国は常に平坦な土地の上にあり、人民はより強い力に抗う ことはできない。征服しやすいし、一旦屈服してしまうと彼らの精神に自由は戻ってこない。モンテスキューは王政は共和制よりも征服戦争をする可能性があると考えていた。第三には、痩せた土地の人は生きるために必死に働かなければならず、勤勉で真面目、勇敢で辛苦に慣れており、戦争に適している。したがって、彼らは自らの防衛に長け、侵略者から自由を守ることができるとしている。痩せた土地が彼らにこのような特質を与えていることになる。

モンテスキューはアジアや日本の状況についても言及している。アジアになぜ専制が多いのか、そこにはヨーロッパと異なる2つの理由がある。第一に、アジアには緩衝になる地域がない。そのため、北の寒冷地帯がヨーロッパよりも南に達していて、その移行が急激ですぐに熱帯に入ってしまう。従って、勇敢で活力溢れ る者が怠惰で女々しく臆病な者たちを直ちに制圧してしまうのだ。これに対してヨーロッパでは、北から南に向けて徐々に気候が変わるため、強い国と強い国が 対峙して存在している。第二の理由として、アジアはヨーロッパに比して平野が広いことがあげられる。山岳地帯が離れ、川も侵略の障害にはならない。ヨーロッパには小国が乱立しているので一国がすべてを制服することは難しい。アジアでは巨大な帝国が生まれ、そこは専制の温床になりやすいのである。

モンテスキューの解析がどの程度的を射ているのかはわからないが、気候、風土や地理的条件がわれわれの政治行動や考え方に影響を及ぼしているという点には同意できそうな気もする。決定論に立つわけではないが、それほどまでに大きな要素である印象を拭えない。日本の若者を世界の同年代の人と比べて際立って見えるのは、ヨーロッパはいうに及ばず例えば中国、インドの若者を比べた時でさえ世界の中の自分、日本を世界の中で相対化する視点が非常に希薄なことである。 ある意味では自分の若い時とも重なるような気もするが、自由とか社会体制とか国家という視点の中で自らを見るところもないように見えて仕方がない。

私がアメリカに行った時、まず自分のことをうまく説明できないという症状で現れたが、時代を経ればこのようなことはなくなるのではないかと思っていた。しかし、どうもそうではなかったらしい。まともな教育が成されていると仮定した場合、教育だけではこれらの条件を乗り越るところまで行かないのかもしれない。自然がわれ われに課している目に見えない影響はそれほどまでに大きいのかもしれない。日本の世界における存在感が国内でしばしば問題にされるが、昨日のコメントでも 少しだけ触れたが、日本という家の中に入ってしまえばそんなこと(外とか他ということ)はどこ吹く風と言わんばかりである。日本は肥沃な土地なのだろう か。再び外に出て遠くから眺める機会を得た今、そう感じることが益々増えている。もちろん決定論には与したくないのだが、この問題はほぼ絶望的な眺めにさ え見えてしまうのである。


ところで、今回のような出会いでいつも感じるのは、モンテスキューの考えはずーっと前からそこに転がっ ていたということ、それは当然のことながら専門家にとってはいわば当たり前のこと、知らなかったのはそれを取り上げている自分だけということだ。この世は自分の知らないことで溢れているということに改めて目を見張る。われわれはその膨大な宝の山から自らに飛び込んでくる何か拾い上げている存在だろう。 言ってみれば、人間はその組み合わせの違いによって特徴付けられている存在であり、どの組み合わせを取っても同じものはないと推測される。この厳粛な事実が身に沁みると、人と会うということがどれだけ貴重な経験なのかがわかってくる。


今日は革命記念日。しかし、それはどこか遠いと ころの出来事というような一日になりそうだ。吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の世界にいるので、そのニュースも入ってこないだろう。それはそうと、先日ご主人様のちょっとした手の縺れからワインを浴びてしまったこのパソコン。キーボードがどこかにへばりついているようで、何とも打ちにくい。ところが、数日のうちに最初覚えたその抵抗感が次第によくなってきている。何をよいと思うのか、人の好みはわからない。


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14 juillet 2015


モンテスキューのお説を興味深く読んだことが、鮮明に蘇ってくる

この翌年ボルドーを訪問した際、彼の私生活に触れる機会があり、さらに近い存在になった

 いずれ落ち着いたところでその著作に触れてみたい

そう思わせてくれる人物がどんどん増えていく

それはやはり嬉しいことと言えるのだろう


ところで、革命記念日は当時よりもさらに遠くの出来事に見える

Kurisu さんの名前が出てきたので、最初の仏版ブログ DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ に行ってみた

長い間の御無沙汰で、懐かしい記事ばかりだ

こちらに来る前の心象風景が浮かび上がる

新しいブログに移る前の最後の記事は、IL FAUT TOURNER LA PAGE となっている

こちらに渡る2か月前の2007年7月3日なので、丁度8年前に当たる

今この言葉を読むと、前に進むことを運命づけられた生き物の性を感じる

ここでリンクを張っていた多くのブログが見つからないか、中断されている

夢の跡という感じで、何とも寂しいものがある

その中で、Kurisu さんのブログは新しく tabi2 となって続いている

僅かな救いであった






lundi 13 juillet 2015

亡くなった人と会話する Converser avec le défunt

13 juillet 2008

亡くなった人と話すということをよく耳にしていたが、その意味がよくわからなかった。

ああそうですかという程度の反応で、じっくり考えることもなかった。

ところが今朝、それがわかる ような気がしたのである。

ブログを読み直している時、日本の知り合いがそれを論評している姿が浮かんできたからだ。

話の内容まではっきりと聞こえてきた。

これこそ亡くなった人との会話だと思ったのである。

今、日本で生きている方を亡くなった人に譬えるのもどうかとは思うのだが、、。

身近で親しい人が亡くなるという経験がそれほどないので、深く考えることも感じることもなかった。

だが、そういうことは確かに起こりうるということを実感した。


長く付き合っているとその人の特質が自然にどこかに溜まっているものなのかもしれない。

意識して観察してきたという実感がなくともである。

これに関連して、以前ハンモックにパスカルの言葉について書いたことを 思い出した。

パスカルによる 「私」 の定義
 (2007-01-29)



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13 juillet 2015


この時期にこのようなテーマの記事に出遭うというも不思議である

7年前には身近の人間が亡くなることも少なかったが、ここに来て急に増えてきた

特に、身内を送るという経験が重なると死者との会話という営みの意味が迫ってくる


体は確かになくなっているが、その人は今でもそこにいるように感じることがある

過去が現在と溶け合っているような感覚である

これは時間が存在するのかという問題とも関連してくる

時間が存在しないと主張する人は、この宇宙のすべてが詰まった一瞬しかないという

これまでのすべてがこの一瞬に詰まっているとすれば、人間が亡くなるということはないとも言える

死者や過去の出来事は、「いま・ここ」に一体となってあることになる

逆説的だが、この一瞬は記憶の中にしかないのかもしれない 

この一瞬を充分に味わうためには、記憶を動員しなければならないということである

それは取りも直さず、善く、十全に生きるために欠かせない営みだということでもある

この7年の間に、この問題に対する見方がここに収斂しつつある

そして、人間存在、さらに言えば生きとし生けるものの本質が見えてくる

それは、ほんの一瞬だけどこからともなくこの世に現れ、そしてどこへともなく消えてゆくということ

それ以外の時間にはわれわれは存在していないのだろうか




dimanche 12 juillet 2015

"Never Retire" by William Safire

12 juillet 2008
Lovis Corinth (1858-1925)


数日前に読んだ資料の中で、私にとっては懐かしいウィリアム(ビル)・サファイア(William Safire,born December 17, 1929) さんに思わぬ形で再会した。

私のニューヨーク時代、ニューヨーク・タイムズ(NYT)で彼のコラムを読み、そこから本になった On Language にもよくお世話になった。安定感のある人という印象。私が若い時のNYTの記者と言えばジェームズ・レストンが記憶に残っているが、今では彼がそのようなNYTを象徴するような立派な、しかも親しみのある記者になっているのかもしれない。

今回彼が再び浮き上がってきたのは、"neuroethics" (脳神経倫理学)という言葉の生みの親ということにされていることを読んだからだ。いつから倫理などに興味が湧いていたのか知らないが、出版された大統領生命倫理評議会報告書に序文まで書いている(日本語訳:『治療を超えて: バイオテクノロジーと幸福の追求 : 大統領生命倫理評議会報告書』)。2005年にはNYTを辞め、今はニューヨークに居を構える神経科学や免疫学を中心にした科学、健康、教育をサポートするDana Foundationの理事長として活躍している。現在78歳。以下のビデオでもわかるように、まだまだお元気である。アメリカの学者も精神が活発に動いている様子が伝わってきて気持ちがよい。


これから今日のタイトルになったお話になる。この言葉は彼がNYTを辞める時(2005年1月24日)のコラムのタイトルである(原文はこちらです)。そこには、最後までしっかりと生きるためにはどうしたらよいのかという彼の考えが独特のユーモアを交えながら綴られていて元気になる。3年以上も前のものなのですでに読まれている方もいるとは思うが、簡単に紹介したい。

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数年前に、DNAの構造の発見者であるジェームズ・ワトソンが私にこう言った。

"Never retire. Your brain needs exercise or it will atrophy"
 (決して辞めるな。脳はトレーニングが必要、そうしないと萎縮するぞ)

現在75歳で至って健康。誰も辞めろとは言わないし、最近書いた記事には32年間で最高の反応があった。それなのになぜ辞めるのか。

50年前にインタビューした晩年のブルース・バートンがいつも新しいことにチャレンジすることが大切と言ったことに対して、私がこうまとめた。それ以来、彼の言葉として使っている。

"When you're through changing, you're through."
 (変わることを止めた時、人生は終わるのだ)

この二つのアドバイスをまとめると、次のようになるだろう。

"Never retire, but plan to change your career to keep your synapses snapping"
 (決して辞めるな。そして、シナプスが活発に活動し続けるようにキャリアを変える工夫をしなさい)

この一世紀で寿命は30年も延びた。すでに聖書にある70歳という限界も優に超えている。脳がおかしくなっているのに体だけこの世に留まっていても自分だけでなく社会の負担になるだろう。寿命が延びて意味があるのは、精神の命が保たれている場合である。

Dana 財団では neuroethics のフォーラムを開いて、討論する機会を作っている。そこで問題になるのは次のようなことだ。
  1. 脳の病気を治療するだけではなく、その機能を高めようとするのは正しいか?
  2. 成長ホルモンで身長を調節すべきか?
  3. クローンは道徳的に正しいか?
  4. 薬で幸福感を得るのは真の幸福を蝕むか?
  5. 早期に芸術に触れると数学、建築、歴史などに対する認識過程に影響があるか? 
最後の問いに対しては、新しいイメージングの研究により肯定的な答えが出ており、学校における芸術教育の予算にも影響を与えるまでになっている。

人生の最後に必要なのは、新鮮な刺激を保つこと。そのためにはキャリアの早い時期からリラックスするための余技 (avocation) を始めること。それが 精神を働かせることになる最終ステージでの仕事 (vocation) に必要となるのだ。仕事 (job) を辞めて精神的な危機に陥らないためにも。爽快な二度目の風を捉えるためにも。

"When you're through changing, learning, working to stay involved -- only then are you through. Never retire."

変わること、学ぶこと、関わり続けようとすることを止めた時、その時こそ君の人生は終るのだ。決して辞めるな。


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 12 juillet 2015

学び続けること、そのためには好奇の心が欠かせない

アリストテレスが言ったフランス語で passion に当たるものが必要になる

そもそも哲学とは知への愛である

その愛が高じると、具体的な対象を超え、欲することを欲するようになる

そうなれば、愛はひとりでに動き出し、持続性を持ってくる

これが哲学の源泉であり、人間が生きる上でのモーターになるのではないだろうか

変わること、関わり続けようとすること、それはその後から自然についてくるような気がしている







samedi 11 juillet 2015

医者の言葉を考える Les paroles de médecin

11 juillet 2008
(born August 22, 1920)

七夕の日の午前中、定期検診へ向かう。ランデブーの時間に少し遅れたが、フランスではそれほど問題にはならない。検査結果を持参して診断を聞き、その後にいつものように別室に移り視診、触診、聴打診、体重・血圧測定、さらに今日は指先から血液を採り血糖値を計っていた。それが終った後、いつも雑談に入る。今回もその時間があった。前回、私の方からフランスの哲学者について話したらしく(思い出さないのだが)、大学の話になる。そこからメモワールとして 医学の歴史において病気がどのように見られてきたのか、患者と医者の関係はどのように変化してきたのか、、、などについてまとめようとしているという話をする。それに対して、医学についてそのような側面から哲学するのは素晴らしいですね、という反応(前回は、フランスで哲学を勉強するなんて素晴らしいですね、という言葉をもらった)。さらにフランスでもその辺はいろいろと研究されているようですが、医者と患者との関係についてはモリエールがすべてを語って くれていますね、と付け加えていた。上から諭すような話し振りではなく、自らがそう感じ取っていることを話すというスタンスを感じ、患者と医者が同じ平面にいることを意識させられる。それだけで大きな勇気を与えられるように感じる。最後はいつもの握手と「ボン・ヴァカンス」という言葉で送り出してくれた。 来る前はよもやモリエールの話が出るなどとは考えてもいなかったので、妙に嬉しくなっていた。私は特に病気ではないのだが、こういう時間こそ患者にとって癒しを与えてくれるものになるのではないだろうか。

私は医者の言葉のみならず、言葉を超えた何気ない仕草などを含めた、言ってみれば存在そのものが癒しの力を持っており、そのことが今忘れられているのではないかと思っている。これが改善されるだけで、医療に対する不満や不信のかなりの部分が解決されるような予感さえしている。そういうこともあり、こちらに来る前から病院での経験を注意深く観察するようになっている。こちらに来てからも病院だけではなく検査をするラボラトワールでの様子とそこで起こる自らの内なる変化にも目をやるようにしている。今回のLH医師との会話を思い出しながら、本来医学の中心の置かれなければならないこの問題について考えていた。

ドイツの哲学者ガダマーも医者の言葉が持つ癒しの重要性を考察している。患者になった方であればわかるだろうが、患者というものは医者と出会った瞬間から最後に別れる時まで全身の神経を医者の言葉に集中している存在である。それだけの集中力で人の話を聞くことはないだろうというくらいにである。そこで吐かれる言葉の力はいくら医者の権威が地に落ちたとは言え、無視できないものが残っているだろう。医学の基本の基本にあるべきはずのこのことが忘れられているのではないかと感じる場面にこれまで幾度も遭遇してきた。この事実に医の側(医者を含め医療に携わるすべての人)は真剣に目を向けるべきではないだろうか。医療に身を置く人は、単に医学の科学的・技術的側面だけに身を捧げるテクニシャンを目指すのではなく、そこを超えて人間を理解したいという熱い意志(passion)を持っていなけ ればならないだろう。

アメリカの心臓外科医デントン・クーリー博士は『健康と病気の概念』(Concepts of Health and Disease: Interdisciplinary Perspectives)という本の巻頭言で医学の現状を考察している。その文章には単に言葉として語っているのではない、これまでの経験から滲み出た深い思索の跡が見られる。
「医科学の中心をなす概念について哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がない限り、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」

「医学教育に携わる者が現代社会における医師に求めるのは、純粋科学以外の領域に触れること、それはまさに哲学教育に匹敵する広い人間教育である。歴史、哲学、倫理などに精通した医師こそ人間を取り巻く種々の問題について判断を下す資格を持つだろう。これからの医師は単なる医学や科学の徒であるだけではな く、教養と智慧を備えた学徒でなければならない」
これは1981年に出版された本での発言である。当時の状況は今と変わらないどころか、彼の言葉が益々重みを持ってきている状況にあるというのが私の印象である。この言葉を医の側が聞き流しているうちは何も動かないだろう。しかし、これを真に受け止めることができた時、そこに関わるすべての人が新たな方向に向けて動き出さざるを得ないだろう。それくらい大きな問題である。これは余りにも大きな問題なので、今日はその存在を指摘するだけで終わりにしたい。


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11 juillet 2015

この問題については、これ以降もいろいろな場面で経験が積み重なり、考えてきた

 基本的なスタンスは、ここに書かれてあることと変わっていない

 医療の現場は、わたしの若い時とは比べ物にならないほど注意を払っているように見える

それが過度になっているためか、精神的な遊びの部分が殆どないように感じる

あるいは、これは国民性の違いで、患者さんの方もそのような要素を求めていないのかもしれない





mardi 7 juillet 2015

空は芸術家 Le ciel est un artiste !

7 juillet 2008



まだ夏休みである

夕方はバルコンに出て空を眺めるのが日課になりつつある

空とそこに現れる雲の奏でる音楽を味わう

そして予想もしないような鳥の動きが加わる

そのすべてを目にする

そこに尽きせぬ喜びがある

自然はまさに芸術家!

今 虹が現れるというプレゼントまで付けてくれた

一度ならず 二度までも

フランスでは初めてだが 虹を見るのも久しぶりだ


今日は街に出た

その景色をいくつか

ヴァンドーム広場が虚飾に満ちて見えてくる






気が付くと今日は七夕であった

何かよいことでも起こるのだろうか



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8 juillet 2015

 こちらに来てから一番よく見たのは空である

そのためか、映画や写真を見ても最初に目に入るのが空ということになった

それが生き物のように浮き出して見えるのである

これは何ものにも代えがたい財産になっている

8年に及ぶ無為の時間の賜物とも言える


ヴァンドーム広場の印象は今でも強く残っている

この広場に限らず、現世の活動(特に経済活動)が虚飾に塗れて見えたのである

今は完全に精神の中に入り込んでいた当時の状況から少しずつ抜け出しつつある

未だに当時の見方はしっかりと残っているが、どこか穏やかさが加わってきたようである