mardi 17 novembre 2015

自らに照らすという作業

19 novembre 2008
 


こちらに帰ってきて体重計に乗ってみる。予想通り数キロの増加。充実した食事と歩く距離の減少がその原因だろう。今では致し方ないと諦めている。

ところで昨日のクールでも改めて感じたことだが、アメリカの文化を見る時にまず自らの文化に照らして見直すという作業が一つ入っている。アメリカのことを知った時、それを自動的に取り入れ自らの考えを作ることをよしとすることにはなっていない。あるいはアメリカのことを知っていてそれを紹介できることが教養人の条件のように考えているところはみられない。これは昨日の教授だけではなく、M1から聞いてきた中でほとんどすべての先生に見られる特徴のように感じてきたことである。そこに落ち着きや教養の成熟のようなものを感じて、こちらもじっくりものを見て考えてみましょうかという気分にさせてくれる。これは日本では感じることが難しく、日本の状況が生み出しているふわふわしたところもこの態度の欠如ではないかと考えられる。インテリと言われる人の教養に重厚さが欠けて見えるのもそこに原因があるのかもしれない。



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mardi 17 novembre 2015


自らに照らす(self-referential)とか振り返る(reflect)という言葉の意味を知ったのは、残念ながらこちらに来てからである。それは意識した結果ではなく、長い間の経験から体得できたと感じるようになったものである。そして、古くから言われている哲学の一つの営みがその中にあることの意味も分かるようになってきた。これは言葉を読んでいるだけでは学び得なかったことである。それだけでもこの滞在はわたしにとって大きな意味があった。

フランス人教授の話を聴く中で、別の方向からそのことを感得できたとも言える。外からの刺激に対して無条件に受け入れるというのは、単に刺激に反応しているだけである。刺激が入った時に一旦自分の中で受け止めて、その刺激を見直すという精神の運動を日常化することが重要になるだろう。それによって、外界は全く違う姿を現すはずである。別のレベルの意見交換が可能になるはずである。






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