lundi 7 décembre 2015

ハンナ・アーレント 「精神の生活」 La Vie de l'esprit - Hannah Arendt

7 décembre 2008



このところ冷え込みが厳しさを増しているように感じる。今日は午後から読むために資料持参で出かけた。やる気だったようで、寂聴源氏を持たずに出ていた。先日も降りたレピュブリクでしばらく散策。その時に入ったリブレリーに再び入る、今回はハンナ・アーレントHannah Arendt; le 14 octobre 1906 - le 4 décembre 1975)を手に取っていた。
La Vie de l'esprit (精神の生活)

その時に何を手に取るのかは、いつもスリリングである。しかもそれがよく入ってくるものだった時にはある種運命的なものを感じる。そのような瞬間をいつも待っているような気配もある。彼女の名前はもちろん聞いたことがあり、その人生が少しだけ耳に入ってきたこともあるが読もうとは思いもしなかったし、そんな時間もないだろうと考えていた。しかし、今日は予定した資料は持って出たものの、どこかまだゆっくりしたいという気持ちを抱えていたようだ(例の怠け心である)。そのタイトルに惹かれたのかイントロを立ち読みを始めたところ、幸せな驚きが襲っていた。彼女はこんなことを考えていた人だったのかという思いと、その対象が今の私の中にあるテーマと余りにも重なっているので目を見張ったのだ。

その時の印象をもとに書いてみたい。確度の保証のない瞑想になる。帯には "Le dernier Hanna Arendt" とある。解説によると死後に出された本のようだ。彼女はアイヒマンのイスラエルでの裁判を傍聴し、その報告を出しているが、そこでの経験を語っている。昔から悪は悪魔の形相で現れると言われているが、この裁判で感じたことはそれとはまったく異なるものだったようだ。それを彼女は "banalité du mal" と形容している。悪が余りにもありふれた姿しか見せなかったためのものだろう。深い悪意があったわけでもなく、ましてやその哲学があったわけでもない。そこで感じたのは考えることの欠落 (manque de pensée) であった。この本で考えるとはどういうことなのかを考えてみたいという意図があったのだろう。それを職業思想家(カントの Denker von Gewerbe という言葉を知る)に任せておいてよいのかという思いもあったようだ。

この思索の欠落はまさにわれわれすべての問題であることがわかる。われわれは日々の仕事や日常に追われ、考えることをしなくなっている。日常の中ではなく、仕事の中でもなく、そこから離れてものを見直すことができなければ考えたことにはならないからだ。この状態はわれわれの中にすでに悪の種が宿っていることにはならないだろうか。しかもそのことに気づくことはない。哲学が役に立つか、立たないかという問を未だに目にするが、哲学こそわれわれの正気を保つために必須のものであることを職業哲学者はどうして説かないのだろうか。それから彼女は la vie active と la vie contemplative の対比を出してくる。前者はある意味で日常生活をすること、後者は一人の世界に入って思索することを意味しているのだろう。この両者をどのように捉え、どう扱ってゆけばよいのか。この疑問もここ数年私の中に生まれており、前ブログから触れている。

さらに哲学、形而上学をどう扱うのかという問題も出てくる。科学の台頭のもとに哲学、形而上学を捨てたことにより、われわれが失ったものはないだろうか。その結果、われわれに見えてくるものも失われていないだろうか。先日、科学者の国際会議で哲学をどのように見ればよいのか、哲学と科学の関係はどうあるべきなのかについて私見を発表した際に予想外の反響があったことは、このことに科学者も気づき始めているということなのだろうか。ロゴスをもとにした考えから生まれるもの、その世界と感覚で捉えられる世界との乖離に気づいた時、人は哲学、形而上学に向かうという。科学哲学者カルナップはハイデガーを生贄として哲学は詩と同じだと過小評価したらしいが、彼女は詩も哲学もまさに考えるという共通の行為から生まれると考えているようだ。ただ、哲学を捨てることにより過去の蓄積の呪縛から解き放たれ、全く新しい目で過去を見ることができるという側面もあるだろう。

しかし、どうだろうか。これは最近の感触にしか過ぎないが、哲学や形而上学の香りのない世界から真に新しいものが生まれる可能性はあるだろうか。そういう疑念が生まれている。少なくともそこは余りにも無味乾燥で底の浅い世界にしか映らなくなってきている。それはそのまま、そのような香りが漂っている世界で生きていきたいという私の願望を反映しているのかもしれない。いずれじっくり読んでみたい人を新たに発見する散策になった。


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samedi 26 décembre 2015


その後わたしが考えることになる核のようなものが、ここで芽生えていたことが分かる


今では一般的な問題を超えて科学にも形而上学的思索を持ち込む必要があると考えている

それを「科学の形而上学化」と呼び、自然のより深い理解には欠かせないと考えている

この過程については、まだ練り込まなければならないのだが、、






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