jeudi 11 juin 2015

知のヒエラルキーを乗り越えて

11 juin 2008

まだ終っていないが、こちらの一年目は大変だった。新しい学問領域の考え方の枠組みに付いて行けなかったことが大きい。本を読むと眠くなる一つの理由がこれだったかもしれない。今、教科書の類に目を通し、こちらに来た時のことを思い出してみると、若干の進歩は見られるようだ。当時感じた取り付く島もないまっさらな印象から、若干の陰影を見ることができ、その中に入る手掛かりが得られたように感じるところが増えている。短い間だったが、それまでに凝り固まっていた頭の筋肉を解し、少しだけ柔軟に動かすことができるようになりつつある。その準備運動の期間がマスターなのかもしれない。あと1~2年は必要なの だろう。

一つの専門を持ち、その中に落ち着いてしまうと、それ以外の領域に目が行かなくなる。あるいは、目を行かせないようにする意識的、無意識的な運動が起こる。その過程で、無意識の内に学問の中における序列が生れていたようだ。それは先日のゲルラック氏とコイレ氏の指摘にもあった自分の領域が最高で他の領域を無視する尊大な態度へと導くことになる。その方が楽だからということもあるのか、歳とともにその傾向が増大する。そういう精神状態で、自らの中に生まれた知のヒエラルキーとでも言うべきものを打ち崩すのは並大抵のことではない。まずその存在を意識できるかどうか。その上で、それを乗り越えることができた時、初めて専門の外に広がる豊かな人類の遺産を受け入れる素地が生れてくるのだろう。一学徒となることができた背景には、この過程も含まれていたような気がしている。


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11 juin 2015

知のヒエラルギーはそれぞれの中に生まれてくるはずである

それは、時間とともに誇りと重なるようになることが多いのではないか

これが益々 「その外」 に目を向けることを難しくする

年齢を重ねるほど、inclusive な視点を持つことが難しくなる理由でもある

当時は新しい領域に入ったばかりだったので、内に出来上がっていた知のヒエラルキーに気付いたのだろう

現在では意識せずに inclusive な心持ちであらゆる 「こと」 に向かっているようだ

それは良いこととして感じている





mercredi 10 juin 2015

仕事とは、そして贅沢な旅

10 juin 2008

何でそんなことを・・・などともう自問・自責する必要のない生活に入っているのではないか

月曜の昼間から真夏の日差しを浴び散策している時 この疑問が浮かんできた

時間が前に転がっている

それを思うように使えばよいだけなのである

これに文句のある人はいないだろう


なぜ人は働きたがるのだろうか

その必要がある人は別である

そうでない人まで なぜ

この地上にはそれ以上に素晴らしいことが隠れている・・・はずだ

それに気付かずに終るのは何とももったいない

そんな思いで歩いていた


今の私にとって 学生生活も仕事のようなものかもしれない

しかし どこか違う

お金をもらっていないことからくる 責任のなさだろうか
 
いや むしろ 仕事から解放され 今や自らへの責任だけになったためだろう

何とも心地よい気分だ 

このことに気付くために 人は働き、そして働くことを辞めなければならないのか

これから見えるであろう新たな景色を その心持で 自らの足を使いながら鑑賞する

とても贅沢な旅が始まっているような気がしてきた


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10 juin 2015

この時に感じたこの気持ち

それ以後、今日に至るまで殆ど変わらない

「仕事への責任」 から 「自分への責任」 への転換が起こった

そこで求められるのは、人間への視点の回帰である

この視点は仕事の中にある時、しばしば忘れ去られ、軽視・無視される

それを取り戻すことであった

その後の時間の中で行われていたのは、何ものの介入もない自らとの対話であった

これは特に意識的にやっていたわけではない

しかし、この営みこそが 「人間への視点の回帰」 の基礎にあるべきだと考えるようになっている

それが見えてきたことは、大きな収穫ではないだろうか





mardi 9 juin 2015

ペール・ラシェーズ、あるいは生は死 Père Lachaise, ou la vie c'est la mort

9 juin 2008
Le monument du "Mur des Fédérés"


足が自然にペール・ラシェーズに向かっていた
 
初めての訪問になる
  
まず その横にある Jardin Samuel de Champlain に入り 坂を上る
   
丁度よい傾きの芝生があったので その上に体を横たえ空を眺める

芝の上に横たわるのは 久しぶり
     
下から微かな車の行き来が聞こえるだけ

空に吸い込まれるようだ



中に入り モンパルナス墓地のように 彷徨い歩く
 
誰かのお墓を探すために歩くのを嫌っているかのようだ
 
しばらく行くと 日本女性の前にいるバルザックに出会った


 さらに振り返ると そこにはネルヴァルが眠っていた



新しいお墓や手入れの行き届いたものに混じって

最早手も付けられていないようなお墓もある
  
いずれはすべてが朽ち果てて行くのだろうか
     
われわれは ほんの一瞬の時間をこの地上に過ごす

そして この沈黙の中に消えてゆく


La vie, c'est la mort.

生は死
      
死を意識しない生に どれほどの意味があるのだろうか

    La mort, c'est la création.

死を意識することにより はじめて生が創造性を持つ

過去人はこの真理を見抜いていた


Tombeau de Victor Noir (1848-1870)
journaliste français, tué par le Prince Pierre Bonaparte
Jules Dalou (1838-1902)


ご婦人方のこの元気に 束の間 現世に戻ってくる




そして最後には プルーストに会うことができた



静かなディマンシュ ・・・

   ・・・ 帰りのメトロで親父が現れた  






lundi 8 juin 2015

イェルネという科学者 Le scientifique dit Jerne

8 juin 2008
Niels Jerne writing in a church somewhere in Europe
 

今年To氏から届いた年賀状に、わたしの姿がこの方と重なったとの言葉が添えられていた。免疫学をやっている人ならば知らない人はいない方である。何とも過分な 言葉だったのでこれまでどこかに引っ掛かっていたが、振り返る余裕がなかった。To氏は大学院時代の後輩で、私がアメリカに行く前の1年間一緒に仕事をしていた。その後ニューヨークでも1年ほど時期が重なり、彼がイギリスに移ってからも学会参加の折に訪ねたこともある。彼はイギリスに10年ほどいたのではないだろうか。ヨーロッパの空気を長い間吸っていた彼がどうしてそのような印象を持ったのかはわからないが、この機会にニールス・イェルネという人間について読んでみることにした。

Thomas Söderqvist Science as Autobiography: The Troubled Life of Niels Jerne
(Yale University Press, 2003)

とにかく、興味深いエピソードに溢れている。とてもすべては紹介できないが、まず各章のタイトルを眺めて驚いた。そこにはわたしの発言ではないかと思われるものがいくつも並んでいたからだ。例えば、こんな具合である。

 1. "I have never in my life felt I belonged in the place where I lived"

 3. "I wanted to study something that couldn't be used"

 4. "I have the feeling that everything around me is enveloped in a mist"

 21. "Immunology is for me becoming a mostly philosophical subject"

最後のタイトルはわたしの願望であったかもしれないが、彼はそれを実現させてしまったということだろう。この本を読んでまず感じるのは、当然のことながらいかにもヨーロッパ的な科学者がそこに描かれているということである。今こうしてパリにいることが、そのことを体で理解させてくれる。デンマークの人であるが、オランダに移り住んだこともあり、デンマーク語、オランダ語、ドイツ語、英語を操るこちらでは稀ではないポリグロットであった。そういうこともあり、第一 章の発言になったのかもしれない。

若き日の考え方は "art-for-art's sake" というロマンティックなもので、機械文明を軽蔑していた。重要なことは他にあり、それは考えることであり、感情であり、愛情であった。それも "love for someone" ではなく、"love for love itself"。当然のことながら哲学にも興味を示し、ニーチェ、キェルケゴール、ベルグソンを読み、文学ではジードとプルーストを愛したようだ。

将来の専門を決める時、彼は役に立たないことをやりたいと考えた。数学が浮かび、文学、歴史にも興味を示したが、結局すべてのことに興味があるのだから哲学をやるべきだと結論する。しかし、物理学のアドバイザーと父親の意向を受け入れ、ライデンで物理学を学ぶことにする。ところが酒に溺れたり、文学や哲学に凝る生活で学業の方は思わしくなく、この間の成果は個人授業で習ったラテン語とギリシャ語だけだとまで言っている。社会な成功を目指す姿勢を示す同僚には軽蔑を覚え、他の人と同じではいやだと考えていたことが紹介されている。それでは一体何をやるべきかという問題に再び直面する。法律、工学、教師の道には興味はなく、残ったのが医学であった。そこでは広い視野が要求され、科学としてだけではなく、哲学、心理学、社会的要素も学ばなければならないところが気に入ったようである。

この著者はイェルネのメモや日記なども見ることを許されていたようで、人間イェルネが至るところに顔を出す。彼の私生活も相当生々しく語られている。基本的には自分が満足する人生を選び取った人で、家庭は顧みなかったというのが正確だろう。夫として、あるいは父親と しての人生には耐えられなかったかのようだ。画家であった最初の妻はおそらく彼の女性関係によると思われる原因で自殺している。二番目の妻はその時の女性 らしいが、結局満足できなくなっている。

 
 デンマーク国立血清研究所 (コペンハーゲン、1950-1951年)
左がガンサー・ステント、右端がジム・ワトソン、後ろで立っているのがイェルネ


この本を読むと、後に名を成す科学者の接触がいくつも見られる。例えば、この写真にあるように若き日のジム・ワトソンやガンサー・ステントが彼の研究室に滞在している。その後、ワトソンはクリックと運命の出会いをするイギリスのキャベンデッシュ研究所へ向かい、ステントはパスツール研究所を訪ねることになる。また後年、アメリカが気に入っていたドイツ人のマックス・デルブリュックの誘いでカリフォルニア工科大学に短期滞在することになるが、その時の様子はまさにヨーロッパの科学者が砂漠の中で迷っているように見える。そして再びヨー ロッパに戻り、かけがえのないもの、とてつもなく重要なものに帰ってきたことを悟る。それは数千年に及ぶヨーロッパの歴史であり、ヨーロッパ精神であり、 素晴らしい活力であり、想像力であった。またカリフォルニアでは助手がいないので実験ができないとこぼしている。彼は実際のウサギも見たことがないのではないかという話も紹介されている。机に向かい考えるだけの理論家としての面目躍如というところか。

彼の考え出した自然選択説は、われわれの体を守る抗体がどのようにして出来上がるのかという問題についての新しい仮説である。それまで支配的であった考え方は、外から入ってきた抗原が抗体を作る指令を出すというもので鋳型説とか指令説と言われていた。しかし、彼は抗原には何ら積極的役割はないと考えた。そうでなければしっくり来ないと思えたようだ。ある種の直感、美的センスというものだろう。しかし、この説は20世紀初頭に唱えられ忘れられていたポール・エーリッヒの側鎖説の単なる焼き直しで、その仕事を引用しないのは不当ではないのかという批判が出された(以前に少し触れている)。彼がそれを知っていて触れなかったのか、あるいは知らなかったのかは分からない。ただ、このことについて悩んでいた記録が残っているようだが、結局彼はエーリッヒに言及することはなかった。最初、ワトソンから "stinks!" と言われたり、"baloney!" などとの評価しか受けな かった説だが、次第に認められるようになる過程も興味深いものがあった。

この他にも示唆に富む話が満載されている。これからも閑を見て摘み読みしてみたいものだ。役に立つ研究が声高に語られるようになり、科学者が技術者になっていく状況の中、わたしの中での一つの理想にも見える研究生活を最後まで貫いた人生だったように感じる。


自らの姿は自分では見ることができない。それを知るためには、どうしても他の人の目が必要になる。イェルネと比較することなどおこがましいが、To氏の言葉によって、イェルネの世界の見方の中に自らと共通する要素を見ることができたことも事実である。それは薄々感じてはいたもののはっきりとは意識されていな かったもので、この本の声に刺激され浮かび上がってきたようである。ただ、To氏がわたしの中にどのイェルネを見ていたのかは今もってわからない。

ところで、届いたばかりの科学雑誌 Science に、われわれが自分を見る時と他人を見る時の乖離を分析したレビューが出ていた。何というタイミングだろうか。長くなるので、その内容は後日紹介したい。

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私がこのような道を歩むようになった時、今回のように具体的な人物のイメージと重なったというメッセージをいくつかいただいた。彼らについてもずーっと気になっている。いずれ余裕ができてからどんな人間なのか見てみたい。



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(9 juin 2008)

この本の著者Thomas Söderqvist博士から、すでに日本語訳「免疫学の巨人イエルネ」が出ていることを知らせるメールが届いた。

その中に彼のブログが紹介されてあり、日本語訳のタイトルを見る限り彼の意図が失われている、さらに言うと意図に反する訳になっていると書かれてある。この 本で彼がやろうとしたことは、「巨人」というような言葉を使う偉人崇拝ではなく、原題にもあるように、イェルネの理論的な仕事は自らを理解しようとする試 みだったことを示そうとするケース・スタディであり、科学者の内面を構成する科学知に向かう感情的・実存的な側面が社会・文化的なものと同様に重要である というメッセージであった。先日メ チニコフのシンポジウムでお会いしたボストンのフレッド・タウバー氏の書評ではそのメッセージが伝わっていたが、日本語訳では完全に失われている (lost in translation)。イェルネを巨人と考えている免疫学者もいるかもしれないが、少なくとも彼はそうは描かなかったし、彼の意図ではなかったとあ る。

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 (21 juin 2008)

この記事に出てくるガンサー・ステント博士が6月12日に亡くなっていたことを知る。ニューヨークタイムズの追悼記事はこちらです。
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(10 octobre 2009)

本日、偶然にも Thomas Söderqvist 博士のサイトを訪問、この本が彼の手元に届いたことを知る。以前に、この本のタイトルの真意が翻訳の過程で失われていることを書いていたが、改めてそのこ とに触れ、その上で日本語版の完成を喜んでいる様子が伝わってきた。詳細は、ブログ "Representing Individuality in Biomedicine" で。

'Science as Autobiography' lost in translation -- 免疫学の巨人イェルネ



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8 juin 2015

イェルネについては、この4年後の2012年にエッセイを書かせていただいた

「パリから見えるこの世界」 と題する連続エッセイの7回目に当たる


 医学のあゆみ (2012.8.11)242 (6): 559-563, 2012

そのもとになったのが、この記事である


いまや免疫学の現場でイェルネの名前が出ることは、ほぼ皆無である

イェルネ自身も晩年、若い研究者達はもうわたしのことなど憶えていないだろうと述懐している

一般的に、今の流れに繋がらない貢献は忘れ去られる

科学という営みも例外ではなく、間違った結果には残酷に対応する

最初は意識的に触れないようにするが、その後は自然に人々の意識から消えてゆく

そこに目が行くのは、歴史家、哲学者、文学者などの文系の人たちだけのようである

 科学というもの、さらに人間を知ろうとしたならば、文系的視点がどうしても必要になる




dimanche 7 juin 2015

フリーマン・ダイソンを聴く Ecouter Freeman Dyson

7 juin 2008
 

Freeman Dyson (15 décembre 1923-) という名前をどこかで聞いたような気がするが、思い出さない。イギリス生まれの数学者・物理学者で、アメリカに渡り最後はプリンストンの高等研究所で研究をしていた。今回、科学と宗教について語っているビデオに出くわしたので聴いてみることにした。










印象に残ったことについて、少しだけ触れてみたい。宗教的立場を問われて、"religion without theology" と答えている。彼の世界観は agnostic に近い。神の存在を求めるというよりは、彼にとっての宗教はその文学であり、音楽であり、絵画である。つまり、宗教が生み出した具体的な芸術になる。さらに、人間関係を結ぶもの、コミュニティを支えるものと捉えている。人間は self-sufficient ではない。一人では生きられない。何かに頼らなければ生きていけない存在である。生きていくためには大きな目的が必要であり、それがないところに行動は生れない。

彼は3つの心・精神を提唱している。一つは human mind。それから micro (atomic, subatomic) mind と macro mind を考えている。ミクロの方は原子などの世界で、マクロは宇宙の世界になる。これを聞いた時、すぐにパスカルの二つの無限を思い出した。ダイソン氏によれば、量子物理の世界では原子が崩壊するか否かは予想できない。その意味では原子(の心)に選択の自由があることになる。これはあくまでもモデルだとしているが、この考え方に従えば、宇宙に存在するものすべてに精神が宿っていることになる。「蛋白質の精神」 などという表現も思い出す。

それから、Edward Wilson がその著書 Consilience において、科学によってすべてが解決できるとの考えを発表した時、書評でそれを批判したという。ダイソン氏は、科学はあくまでも限られた領域のことにしか答えを用意していないと考えていることが分かる。先日のトルストイとメチニコフとの行き違いを思い出すエピソードでもある。

科学も宗教も神秘的なものに向かう活動である。彼は科学を取り巻く世界を語る時、ある詩の一節を思い出すという。それは科学とは草原のようなもので、その周りには鬱蒼とした森が取り囲んでいる。世紀を経て草原が広くなろうともその森は決してなくならないというもの。科学と宗教は外に広がる宇宙を見るための 2つの窓のようなもので、別の視点から同じものを見ていると考えているようだ。また、ダイソン氏が宗教を詩のようなものとして捉え、科学とともに大切なも のに感じている様子が伝わってくる。

われわれの未来のことを問われたダイソン氏は、こう答えている。彼が子供時代を過ごした1930年代のイギリスでは、先がほとんど見えない hopeless な状態を経験した。そこから現在を見ると、全体としてはよい方向に進んでいる。神の存在は分からないが、その方向は大きな(神の)目的とは矛盾しないのではないか。現在も多くの問題を抱えているが、彼が子供時代に感じた絶望感を抱くところまでには至らないと結んでいる。

イギリス紳士をそのまま科学者にしたような方で、その落ち着いた真摯な受け答えに好感を持った。

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Wikiを調べていたところ、彼がイギリスの大学について印象に残る言葉を残していたことが分かった。

"My view of the prevalence of doom-and-gloom in Cambridge is that it is a result of the English class system. In England there were always two sharply opposed middle classes, the academic middle class and the commercial middle class. In the nineteenth century, the academic middle class won the battle for power and status. As a child of the academic middle class, I learned to look on the commercial middle class with loathing and contempt. Then came the triumph of Margaret Thatcher, which was also the revenge of the commercial middle class. The academics lost their power and prestige and the business people took over. The academics never forgave Thatcher and have been gloomy ever since."

「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのが私の見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。私はアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッ チャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」


ところで、この解釈から現れる図は、最近の日本の状況と重ならないだろう か。経済原理だけが優先される大学となり、そのことに疑義を唱えるどころか率先して従う今の大学人からは、大学に生きる自由人としての誇りや哲学が消えているように見える。思えば、この改革が始まった時に大きな異議も行動も見られなかった。その結果が、目の前だけを見た技術者の闊歩する一見華やかだが精神性に乏しい大学だったのだろうか。


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7 juin 2015

思索を刺激する考えがいくつも出てくるインタビューであった

当時ははっきりと気付かなかったが、彼の心や精神に関する言葉から次のことが見えてくる

それは、"mind" を人間に限られたものとしてだけではなく、最大限に広く捉えていることである

つまり、心というものが原子・素粒子の世界からこの宇宙全体にまで存在するという考えである

この考えはわたしが現在までに辿り着いた世界観にも通じるもので、興味をもって読んだ






samedi 6 juin 2015

何もしないことにして

6 juin 2008
ある日のセーヌ


比較的ゆっくりできるようになっている
 
今日は一日何もしないで過ごすことにした

すべてを完全に緩めてしまおうという魂胆である

終日雲を見ていて死刑になったという古代ギリシャの哲学者を想いながら

この状態から日本での生活を見ると 考えられないような無茶なものであったことがわかってくる

目が腫れ上がり 霞み 焦点が合わなくなるのもわかろうというものだ


音楽のチャンネルがクラシックからジャズに変わっている

英語が混じるフランス語の説明もかわいらしく こちらもなかなかよい

外は肌寒い風が吹いている



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6 juin 2015

この何もしなくても良い状態の快適さを一旦覚えてしまうと、逆戻りできなくなる

今まさにそれで苦しんでいるところだ

昨日のような暑さが加わると、「ことを成す」 ことがますます難しくなる






vendredi 5 juin 2015

米・仏会議で日・仏を語る

5 juin 2008
 

昨日はパリ大学の研究所IHPSTで行われたシンポジウムに参加してきた。ピッツバーグ大学とパリ大学の共同ワークショップで、今回が最初のようである。テーマを大雑把に言えば、生物学・心理学の哲学だろうか。

このワークショップで思わぬ出会いがあった。日本からこちらに3ヶ月の予定で滞在されている科学史家の伊藤憲二さん(総合研究大学院大学)と初めてお会いしてデジュネをともにしながら、この分野のお話を伺うことができた。わたしの感触もそうであったが、日本では科学哲学や科学史と実際の科学との接触は極めて稀とのこと。この両者が相互に全く関係なく仕事を進めていることになるが、お互いにとって不幸な状況に見える。何とかならないものだろうか。ただ、日本で科学を対象に研究している文系の人口もそれほど多くないようなお話だったので、どうしてもサロン的にならざるを得ないのかもしれない。

今回参加したセッションでは、半分くらい科学者が話をしていた。科学者の中にはそのテーマに哲学的な含みを持っている人がいたり、哲学的問いに答えるために実験をしているのではないかと思われる人もいたりして、興味深いものがあった。

伊藤氏によると、この分野の研究者の集合の度合い、研究会やセミナーの充実振りは、ひょっとすると世界でパリの他にはないのではないかとのことであった。わたしのレベルではまだそこまで目は行っていないが、研究者にとっては有り難い環境のようである。また、今回の発表者の中にはピッツバーグ大学で研究されている日本人の若手、石田洋一さんが含まれていたが、残念ながら2日目には参加できずお話する機会は得られなかった。

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ところで、昨日発表したアメリカの大学教授の考えに共鳴するところがあった。それは学生に知識を問う試験をするよりは、teaching assistant のような形で教える経験をさせる方が身に付く知識を得られるのではないかとのお説。わたしなどは学生としてほぼ完全に同意していた。 もちろん、この他に論文は準備するのだが、、。

それから以前にも感じたことであるが、アメリカの学者(あるいはアメリカ人)は声が大きい。国が大きいためにそうなるのだろうか。相手がどのような人なのか想像できない国に住んでいると、想定しなければならない範囲が大きくなるためかも しれない。ただ、こちらにいると機微を排した機械的な響きがする。日本などはフランスにより近いように見える。ただ、アメリカナイズされてくると声は大きくなる傾向もあるよ うだ。


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5 juin 2015

パリの研究環境についての記載がある

当時は評価のしようもなかったが、確かにいろいろな研究会の案内が週に何度も送られてくる

その気になれば、幅広く学ぶこともできる

これまでは自らの領域以外のところで羽を伸ばしていたので、その気にはならなかった

そして、今は論文を書いているところである

これが終わり、今度は自らの領域の中で羽を伸ばすことができるようになることを願っている





jeudi 4 juin 2015

人は二度生まれる On naît deux fois

4 juin 2008
 

「人は二度生まれる」
 

一度目は母親から、そして二度目は教育を通して

こう言ったのはカントだろうか

二度目の生の意味を知った時
 
今まさに何度目かの生を受ける過程のように感じてくる

これまでの苦しみは その生みの苦しみだったのかもしれない

しかし それは何という贅沢な難産だろうか

何度か食事に行ったつもりで この国の最高の教育の香りを一年に亘って味わうことができるとは

今のわたしにとって フランス語から受ける霊感には計り知れないものがある

日本で眠っていたものが 一斉に立ち上がってくるかのようだ

それを処理しきれていないのが 何とも残念である

ただ 日々有り難い気持ちで満ちている


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4 juin 2015

当時のこの気持ち、これがすべてを語っているのかもしれない

ここ数年、この有難い気持ちを忘れていたようだ

こちらでは、教育というものの意味を考えさせられている

最初の教育は、目的のための手段になっている

いくらそうではないと説いても、この考えを払拭することは難しい

そこに真の学ぶ喜びはあるだろうか

こちらでの時間は、手段ではない学びが純粋の悦びを齎すことを教えてくれている

ひょっとすると、人は二度学ばなければならないのではないか

そうしなければ、知の悦びを味わえないのではないか

それは人間であることの悦びにも通じるものであるはずだ





mercredi 3 juin 2015

歴史とは、そしてその細分化にどう抗するか

3 juin 2008
(1892, Taganrog, Russie – 1964, Paris)


今日は科学史家アレクサンドル・コイレの"Perspectives sur l'histoire des sciences" (1961年、「科学の歴史についてのパースペクティブ」)を読んでみた。彼はロシアに生まれ、ドイツ経由でフランスに落ち着いたが第二次大戦を鋏んで米国に移住し、後年フランスに戻りパリで没した。ドイツでフッサールの講義を聞いていたようだ。

このエッセイでは、アメリカのコーネル大学で科学史を教えていたゲルラック(Henry Edward Guerlac; 1910-1985)の論文をもとに考察を加えている。ゲルラックは科学史研究の歴史を振り返った後にデルフォイの問いに行き着く。すなわち、歴史とは一体何なのか?という問である。人類の歴史と言った場合、一つにはこれまでに起こったことの総体、過去の出来事や事実の集合で客観的な歴史とでも言うべきもの。それから歴史家が語る過去の物語がある。

しかし、過去に辿り着くのは大変なことだ。すぐにどこかに消えていき、最早そこにはなくなり、触ることのできないものである。唯一接触できるのは、これまでの時間と人間の破壊から逃れた作品であったり、記念碑、記録などだろう。それにしたところで過去のほんの一部でしかない。さらに重要なことは、それらの記録が残るに至った経過で、当時の人の当時の基準による取捨選択が行われている可能性である。その場合、歴史家が自らの時代の制約を受けた歴史を語っており、本来不変のはずの過去が常に改変され、変質して今日に至っていることになる。

19世紀から20世紀にかけての人類の歴史の発展は感動的でさえある。古代文字の解読、体系的な発掘などがわれわれに多くの過去をもたらしてくれた。しかし、すべてのことには裏がある(toute médaille a son revers)。歴史が発展、充実してくると、専門化、断片化、分裂、細分化が起こってくる。人類の歴史と言う代わりに、あれやこれやの部分的歴史になってしまう。この過度の専門主義と分離主義が歴史研究に悪弊をもたらしているとゲラックは問題提起している。そこには他の領域に対する尊大な態度と、科学が生まれた生の状態を説明しようとしない理想主義的な傾向が現れてくる。

コイレはこの指摘に完全に同意する。すべて(tout)は部分の総計 (la somme des parties)より素晴らしい。地方史の集合は国の歴史にはならない。さらに各国の歴史の集合はより普遍的な歴史の断片にしか過ぎない。地中海沿岸諸国の歴史が地中海史には成り得ないことでもわかる。数学や天文学、物理学や化学の歴史を合わせたからと言って科学の歴史にはならない。しかし、一体どうすればよいと言うのだろうか。部分を解析し、それを統合することなしに全体を理解することは不可能なのである。専門化という現象は発展の代償なのだろう。今や一人が科学や人類、芸術や宗教の歴史を書くことなど不可能になっている。これこそ現代の最大の問題である。しかし、この問題に対する処方箋はコイレも持ち合わせていないと認めている。


 Henry Edward Guerlac (1910-1985)


この問題は歴史に限らずほとんどすべての専門領域に当てはまることだろう。科学を例に取っても、このままどこまでも突き進むと予想される。深い思慮もなくどこまでも発展を求める心理がある限り、益々加速して進みそうである。科学の中での論理は、それ以外にないからだ。しかし、科学も人間の行為であり、したがって社会の中での行為になる。社会が科学に何を求めているのかによって科学は大きく変わり得ることを歴史が教えている。この傾向に抗するには、それにも増して大きな哲学が求められるだろう。その上、空に描かれたその絵をどれだけの人が真剣に見、それを自らの生きることに繋げることができるのか。そこがこの問題のカギになるだろう。

  "Apprendre, c'est faire" (学ぶとは行うこと)


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3 juin 2015

 上のコイレ論文で、歴史においても科学と同様の問題が取り上げられているのに驚き、納得した

今テーズを書く過程で、部分と全体、統合の問題が目の前に現れている

科学の成果は、基本的に小さな断片に関するものである

膨大な量の断片が、そこら一面に散らばっている

それらを掻き集めて纏めることにより、新しい姿が見えてこないだろうか

それが今書いている時の問題意識になっている

さらに、この作業は繰り返さなければならないことにも気付いている





mardi 2 juin 2015

バカロレア200周年、そしてすべて終了 Le bac a 200 ans ou tout est fini

2 juin 2008
Epreuves écrits à Paris en 1932


歴史雑誌でフランスに特徴的と思われるバカロレアが今年で200年を迎えたことを知る。日本にいる時からフランスには変わった制度があることは知っていたが、それは高校が終った時に大学に入るために必要な関門くらいの理解であった。今回2ページ程度の記事を読んで見ると、この制度を取り巻く状況が少し分かってきたようである。

ナポレオン1世により1808年にこの制度が創設された時の試験は科学の口頭試問だけで、わずか31人しか Bac をもらっていない。1874 年から2段階試験になった。創設から長い間、この制度は上流階級(la bonne société)の子弟のためのものだった。第一次大戦後でも Bac 取得者は7,000人程度。当初からこの制度に問題を感じていた節もある。アングロ・サクソンの国では大学が終ってから初めてBachelor of Arst(BS)という資格がもらえるのに対し、フランスでは高校が終わり大学が始まる時に大学の最初の証明としてバカロレアがあることになる。

1960年代からベビー・ブーマーの世代に入り、教育の機会均等・民主化が始まると、ほとんどすべての人の資格として見做されるようになる。1960年から5年間でBac取得者が60,000人から92,000人へと増え、1980年代まで増加の一途を辿る。同時にシステムも複雑になり、一般バカロレア(Baccalauréat général)に加え、1965年には技術系(Baccalauréat technologique)、1985年には専門系(Baccalauréat professionnel)が創設される。

有資格者の達成目標として高校卒業者の80%を掲げたが、1995年以降大体65%の横ばい状態に入っている(atteindre un palier)。2006年で見ると64.5%が資格を持ち、その内訳は35%が一般バカロレア、17.2%が技術系、12.3%が専門バカロレアとなっている。

バカロレアと言えばフランスの象徴でもあるが、問題点も指摘されている。これが本当に21世紀の平等社会のシステムとして有効なのかどうか。大学の最初の証明書として認めるのか、単なる高校の終わりを意味するものとしてあるべきなのか。改善点はないのか、など。ただ、本当の問題はそこにはなく、 15万人もの生徒が小学校を卒業してもフランス語をほとんど話せない状態であり、その数年後には学校制度から離れてしまうことではないのか、とこの記事は結 んでいる。

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ところで、大学院を出てもまともにフランス語も話せないと言われるだろうわたしの1年目最後の口頭試問が今朝一番で終った。昨日の途中から150ページの資料(本にすると300-400ページになる)を前に、これでは間に合わないと気付き、完全に開き直ってしまった。まさに、俎板の鯉よろしくである。資料は試験とは関係なく夏休みにじっくり読み直すことにすると、自己嫌悪も尻尾を振って逃げて行ってしまった。

試問のやり 方は前回と同様で、問題が書かれてある紙を選び、準備に30分。エクスポゼとその後の質疑応答は30分位だっただろうか。今回の問題は、2つの言葉が並んでいるだけ。なぜその2つが並んでいるのか、わたしの中では繋がらないのである。一方の言葉は生物学でも使われている言葉だったのでそのつもりで説明を始めると、科学哲学の領域では違う意味で使われていると指摘される。確かにそういう意味であれば、2つが並んでいる疑問が氷解する。しかし、残念ながらその言葉はわたしの辞書にはなかった。またしても言葉の定義で不勉強を曝すことになってしまったが、勉強にはなった。

今回は一つの教室で4つの試験が平行していた。 最初だったので騒音はなく助かったが、わたしがエクスポゼを始めると前の女子学生が変なフランス語が聞こえてきて集中できなかったのか、こちらの顔を覗き込んでいた。とにかく質疑応答の時間を何とかつなぐことはできたが、もう一度お勉強が必要、という感じである。

これまでの経験から、この世には物理的な制約が確実にあることに気付き始めている。人生が無限であると考えていた者にとっては、致し方のない遅さである。普段からの努めが大切、と改めて教えられることになった。この教訓をこれからに生かせるのかどうか、余り期待しないで様子を見てみたい。今はともかくすべてが終わってほっとしている、というのが正直なところだろうか。これでやっと自由に時間を使ってメモワールに取り組むことができるという喜びが訪れている。


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2 juin 2015

7年前、必死にやっていた様子が伝わってくる

「この世には物理的な制約が確実にある」 と気付いたようだが、その後は忘れ去られていたようだ

 今、テーズを書こうとしているが、時間的制約に全く気付いていなかった

あるいは、気付いていたのだが、体が動かなかったと言った方が正確か

 否、それはやはり気付いていたことにはならないだろう

 今回はまだ、俎板の鯉という気分にはなっていない





lundi 1 juin 2015

わたしはどこに?

1 juin 2008

木田元氏の「ハイデガーの思想」という解説書をパラパラとやっている時、哲学発祥のギリシャという言葉が出てきた。そしてギリシャを想っている時、日本からギリシャを眺めていた。今はパリなので、南の方を見なければならないはずなのだが、、世界地図で言えば左の方を見ていたのだ。

ネットで地図を見ている時、今自分のいるところがどこなのかわからなくなることがある。地図の上ではパリにいるという感じがしないということである。昔アメリカにいた時のように日本を離れて遠くにいるという精神的な気負い・緊張感のようなものが全くないのである。まだ東京の上空に浮いたような感覚で生活 しているようだ。

ただ、意識的に自分を日本に置いてこちらを見直してみると、随分と遠くで暮らしているという感慨が沸いてくるから不思議である。自分では日本に居る感覚でパリの生活を味わっているところがあるが、日本の方から見れば、やはり地球の裏側で何やらやっているようにしか映らないだろう。当然と言えば当然なのだが、自分にとっては発見であった。

日本に居ながらにしてのパリ生活という感じだが、この間に降りかかってきたフランス語の量は圧倒的なものになる。こちらに来た当初感じた、無理やり口を開けさせられてフランス語を流し込まれているような印象は薄くなっている。しかし、実質的には何も変わっていないどころか、むしろその程度は増しているような気もする。目に見えないそれらのフランス語が何かを変え始めていると考えるのが妥当だろう。


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1 juin 2015

ここで指摘されている 「頭の中は日本」 という感覚は長く続いた

今でもどこかにそういうところがある

より正確には、日本とフランスが溶け合い、混然としたところにいるという感覚になってきた

どこかに根を張っているよりは、世界が広がって見える


若き日にアメリカから戻り、2年ほどは問題がなかったが、それを過ぎると外の世界が遠くなった

地理的にも世界とは隔離されているし、日本の情報は極端に日本に限られていたからである

以前に 「日本は屋根のかかったドーム球場」 と形容したことがあるが、家の中、長屋の話に終始する

その状態でも十分に生活できるし、日本ではそうした方が生きやすいところもある

ただ、一見快適に見えるその世界で本当に満足していたのだろうか

おそらく、日本で展開されていた精神世界の幅に狭さを感じたのではないか

そして、多様なものに触れることのできる空間を心の底で求めていたような気がする






dimanche 31 mai 2015

「人生に意味を」 "Donner un sens à sa vie" de Jacques Lecomte

31 mai 2008

メトロの中は静まり返っている

真昼時で旅行者が最も少ない時間

車内は割合がらがらである

30代の男が入ってくる

もし彼が突然大きな声を張り上げなければ、おそらく誰も彼のことには気づかなかっただろう

「いいえ、これからみなさんのところへ施しのために行くのではありません。わたしには仕事があり、ちゃんと生活しています。ただ、わたしはこう訊きたいのです。みなさんにとって人生は意味がありますか、と。朝起きて仕事に行くのは何のためですか。わたしにはわかりません。どうしても知りたいのです。これからみなさんのところに伺います。もし、どなたか一人でもわたしにその訳を教えていただければ助かります」

その若い男は人生に再び自信を与えてくれるかもしれない言葉や眼差しや微笑みを求めて通路を大股で歩き回り、何事か口ごもりながら再び出て行った。

十年ほど前に居合わせたこの情景は、わたしを強く揺さぶった

なぜ誰も反応しなかったのか

なぜわたし自身もこの男に答えなかったのか

当時、わたし自身の人生に意味があるということに確信が持てなかったからだろうか

おそらく、そうかもしれない

わたしの存在についての羞恥からだろうか

多分そうだろう

この短い経験が何年もの間わたしに付き纏ってきた

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このエピソードをもとに、ジャック・ルコント(Jacques Lecomte, 1955-)というパリ第10大学で教えている方が Donner un sens à sa vie という本を書いている。



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31 mai 2015

生きる意味については、こちらに来てからの見えないけれども常にそこにあるテーマになっている

いろいろなところに書いた記憶があるが、今のところの結論は次のようになる

おそらく、生きる意味は生きる意味を探るためではないか

 つまり、この問いに対する究極の答えは、最後の最後まで分からない

それを求めて生きることになる

ただ、それぞれの時点での答えを用意することはできるはずである

わたしの場合、答えにはなっていないが、上に示した通りである

別の言い方をすれば、生きる意味などないのであって、それ故自らが与えるものではないのか

哲学はその時の一助となる、というのが今の感触である



この問いに曲がりなりにも声を発することができた大きな理由

それは、静かな中で自らとの対話を続けてきたからだろう

そのための自由な時間を持つことができたからだろう
  
ミシェル・フーコーがよく言うところの « le souci de soi »、« la culture de soi » である

つまり、自分の内面、精神、魂の面倒を見ること、耕すことである

そのためには、 「汝自身を知る」 ための自己との対話が不可欠になる

これはソクラテスの時代から哲学の根底にある営みである

どんな問題について考える場合でも、この営みを伴っていなければ真の哲学とは言えないだろう

図らずも 「哲学はどうあるべきか」 に対する一つの答えを出したことになる

しかし、「哲学とは」 という問いにも生きる意味と同質のものが求められる

最後まで考えて行かなければならないという意味で

したがって、この問いに対する解は必然的に生きる意味と絡んでくるはずである

絡んでこなければならないはずである






samedi 30 mai 2015

淡々と金曜日

30 mai 2008

今朝のメトロ

向かいのホームの駅名を見ているとそのアルファベがブルブルと横に震えた

前期のメモワールの時だろうか、同じような症状が出た

少々お疲 れということだろうか

そこにあったポスターで、近く生命科学の最前線についての講演会があることを知る

下の写真にプログラムの一部がある

機会を見て聴いてみたいと思わせてくれるものが多い



今日も研究所で資料を読む

来週月曜に最終試問である

明日までに資料を読めるところまで読んで、日曜にそれをまとめるという予定でいる

しかし、どこ まで行けるのかわからない

まあ、目の様子と相談しながら淡々とやるしかないだろう

夕方帰ってメールをチェックすると、米国の科学雑誌から査読の依頼が 入っていた

事情を説明してお断りすることになるだろう

夜が長くなっていつまでも明るいせいか、知らない間に10時になっている

試験や締め切りが迫っている時など、特に時の流れが速く感じられる


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30 mai 2015

当時から目の疲れが出ていて、対象が震えて見えたとあるが、よく覚えている

いつものように、それがこんなに早い時期だったことに驚くだけだ


夏時間の世界は、こちらの醍醐味である

「知らない間に10時」 という感覚は今でもあるが、それがさらに早まっているようだ


当時はしっかり予定を立ててやっていたことが分かる

こちらは 「ことを成す」 という観点から言えば、どうも退歩しているようである

その後の時間の中で、精神的縛りをできるだけ除こうとしてきた結果だろう





vendredi 29 mai 2015

ピューリタニズムと科学、そして日本の現状 Le puritanisme, la science et le Japon

29 mai 2008
(1910-2003)


アメリカの社会学者で科学社会学の創始者とされるロバート・キング・マートン氏の最初期の仕事 "Le puritanisme, le piétisme et la science" (1936年)を読む。その中で、17世紀イギリスを対象に社会と文化と文明の関わりを見ようとしている。特に、清教徒(ピューリタン) が掲げる価値と科学の目指すところを概観し、宗教と科学の関係を比較解析している。例を挙げて指摘するところから数値を使って証明する方向に向かっている。その結果、ピューリタンの倫理が科学の発展をもたらしたという結論に達している。

神の創造物である自然を理解することにより創造主を賛美し、人間に幸福をもたらすことがプロテスタントの倫理であり、それが科学の目的とも合致した。自らの興味に基づいて、などという甘い動機付けではとても叶わない大きな力を感じる。17世紀の中頃に王立協会(Royal Society of London)が設立されるが、その憲章にもこの二つが掲げられている。ドイツの敬虔主義でも同様の現象が見られた。科学への参加は、カトリックよりはプロテスタントが優位だったようだ。これを読むと、日本の徳川に当る時代から "why question" や "how question" について議論されており、その歴史の重さには如何ともしがたいものがある。

日本には優れた科学者はいるが、科学という文化はないと言った人がいるらしい。的確な観察だとは思うが、それはヨーロッパ3000年と日本の100年か200年という歴史の長さとその質の違いから来るものだろう。アメリカの歴史も短いが、そもそもアメリカはピューリタンの国。彼らは新大陸に辿り着いて16年後の1636年にはボストンに大学を創り、そこの学長は哲学協会まで創設している。国の成り立ちが日本とは全く違うのである。日本でも科学を若い人や一般の人に浸透させようという動きが盛んになっているが、それは学会の内発的な動きではなく、行政レベルで考えられたものである。文化としての科学を育てなければ、という思惑もあったのだろう。

この手の問題に対してテクニックで解決されると考えている節があるが、そんなに簡単ではないことにすぐ気付くだろう。 まず、その文化がないと言われている科学者が先頭に立つのである。科学の発祥を辿っていけば、批判的なものの見方や自立した考え方がなければそもそも科学が生れなかったとされている。そういう精神のないところに科学文化が生れてくるだろうかという素直な疑問がある。その精神が生れるにはどう したらよいのかを考えることが先決のような気がする。しかし、この問いは科学を超えて途方もない大きさのものになるので、正面を見据えた大計が必要になるだろう。

この話題に関連して、あれだけの科学的才能を発揮したパスカルが科学の虚しさを感じたのが、ジャンセニスムに改宗してからであるという史実も興味深い。ジャンセニスムの教えでは、永遠の真理についての瞑想を妨げ、限られた知性の中で満足させるに過ぎない科学に対して虚しい愛を抱くことを諌めているからである。

科学の発展に宗教の果たした役割は計り知れないというマートン氏の指摘。宗教が科学を脅かす可能性が懸念され、論じられている現代。歴史の大きなうねりにも興味尽きないものがある。
 



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29 mai 2015

科学と宗教の関連は、日本では殆ど議論されることがなく、視界に入ってこなかった

アメリカに比べるとフランスは穏やかに見えるが、それでもどこからともなく聞こえてくるテーマである

当時、ロバート・マートン氏の分析を読み、頭の中がすっきりしたことを思い出す

この問題については、時間ができてからさらに考えてみたい






jeudi 28 mai 2015

今のままの状態が続くのか?

28 mai 2008
Hubert Reeves (né le 13 juillet 1932 à Montréal)


嵐が過ぎた朝、濃い灰色の低い雲が右から左へはっきりした速度で流れている。この朝、昨日歯科の待合室で目にした一般向けの科学雑誌(Sciences et Avenir)を詳しく見るために、町のビブリオテークへ向かう。科学に関連した未来についての質問に、その道の専門家が答えるという特集である。

最初の質問は「科学がなくなることはあるか」というもので、これにはミシェル・セールさんが答えている。この他にも、ビッグ・バンは本当にあったのかという問があり、今日の写真のユベール・リーヴスさんが答えている。この方の名前は忘れられない(そのエピソードは、こちらから)。

その他には、宇宙にわれわれの仲間はいるか、宇宙に終わりはあるのか、地球が動きを止めることはあるのか、われわれの社会は中世の社会より脆弱か、文明が滅びるとは、ダーウィンは宗教の脅威に曝されているか、さらに時間とは、などなど興味が尽きない問いが出されていた。

読んでいて、それぞれの分野に睨みを利かせている人が控えているという感じがして頼もしい。問いの性格もあるのか、科学を技術として捉え、いかに今の潮流に乗り遅れないようにするのかというお話ばかりではなく、長い歴史の中の人間の文化的営みとして科学を捉えるという落ち着いた視点がそれぞれの底に感じられ、読んでいて気持ちがよ い。

帰りにバッハを6枚借りてきた。来週月曜の試問の準備があるが、150ページの資料をまとめるのはまだまだ先になりそうである。 一行に知らない単語が二つ三つ出てくるような文章を読まなければならないので、なかなか大変である。最早、頭の肉体労働と言った方がよさそうである。最後の試問もどうなるのか、予想もできない。


夜、なかなかやる気にならないので、ネットサーフしている時に巡り会った「哲学者占い」なるものをやってみた。その結果は以下の通り。

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あなたはフランスの哲学者フーコーです。

時代認識の鋭いあなたは現在に囚われることなく、柔軟な生き方をすることができます。また、権威などに敏感で人に指図されることを嫌いますが、一方では知略を駆使して大きな力を得ることもできます。

特徴: 時代認識が鋭い
適職: 政治家、新聞記者
相性良: アリストテレス、ニーチェ、バタイユ
相性悪: ヘーゲル、マルクス、レヴィ=ストロース
ラッキーワード: 『知と権力』、『アルシーヴ』
精神レベル: B、 思考レベル: A、 実践レベル: B
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最近フーコーについてまとめたばかりなので、妙に納得していた。
生年月日だけが判断材料だが、御神籤よりは楽しめるのではないだろうか。


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28 mai 2015

今でも科学雑誌には目を配るようにしている

フランス語の語彙はその後もあまり増えていないようだ

一行に分からない言葉が数語ということも稀ではなく、いやになる


ここにある「哲学者占い」というサイトは、もうなくなっている

適職が政治家、新聞記者となっているが、そこからは一番遠いところにいる





mercredi 27 mai 2015

遠雷を聞き、過去人を偲ぶ

27 mai 2008

今日は朝から歯科へ。治療方針をやっと示される。抜いたあとにインプラントを考えているとのことで、見積りが出てきた。この目を疑ったが、帰って調べて見るとどうもインプラントとはそういうものらしい。考えなければならないが、今のままでも不自由はないのでそういうことになりそうである。

小雨の中、周辺を歩きながらサンドウィッチリーで昼食をとることにした。お昼少し前だったので入る時は空いていたが、しばらくすると満席になった。資料を読み始める前に周りを目をやると、女子高生が一隅を埋め、すぐ前には定年後余り時間が経っていないだろう男女のグループ7-8人が、ビールやワインを片手にはっきりとした口調で話に花を咲かせている。シアンスとかサンテ、ユニヴェルシテなどの言葉が聞こえる。背筋が伸びているというのか、彼らの個がごく自然に発露しているというのか、日本では余り見かけない光景だ。とにかく元気がよい。

お昼からは研究所で資料の読みを続ける。

今宵は雨が降り続く中遠雷を聞きながら、19世紀に生きたフランス社会学の創始者、ならびに宗教と科学を進化の光の中で統合しようとして壮大な絵を描いたフランス人の波乱の人生を想う。


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27 mai 2015


インプラントをこんなに早く考えさせられていたとは・・・

ずっと後のことだと思っていたので、驚いた


この日の宵に思っていたのは、オーギュスト・コント(1798-1857)のことだろうか

 元の文では、「19世紀から20世紀に生きた」となっていた

もしコントのことだとすれば、思い違いだったことになる

このようなことは頻繁に起こっているはずである

見直す作業は益々大切になりそうだ

その後の歩みを振り返ると、わたしにとってコントは意外に重要な人物だったことが見えてくる


こうして読んでくると、生活の基本スタイルは最初に出来上がっていたようだ

あるいは、その後あまり進化していないということになる

ところで、中身の方はどれだけ深まったのだろうか






mardi 26 mai 2015

Diam's で始まり、もったいない気分が紡いだ週の初め

26 mai 2008


今日は昨日の夜が遅かったせいか、研究所に出かけるのが午後からになった

道すがら久しぶりにDiam'sを聴きたくなる

例えば、




Diam's のせいかどうかわからないが、そのまま研究所に行くのがもったいない気分になり、周辺を散策する。そして交差点にあるカフェに入り、新しい本を読み始める。今日の写真はネットに溢れるパターンになってしまったが、排気ガスを吸いながらのデジュネを思い出すために敢えて掲げてみた。

最近、本を開くと急に眠くなる。あたかも条件反射のように。外気に触れると不思議と眠気は襲ってこず、2-3時間は読むことができた。それから研究所に2時間ほどいたが、やはり眠気が襲ってきた。フランス語のためと言うよりは、お勉強をしなければならないという環境がそうさせるのかもしれない。

ところで、今日読んだ本は20世紀初めにポーランドの研究者が書いたものだが、発表当時は全く注目されず、そのまま忘れ去られていた。しかし、波乱の人生を送った彼の著書はアメリカの研究者によって再発見され、今ではその分野の古典に数えられるようになっている。日本ではまだ訳されていないかもしれない。いずれ機会があれば紹介してみたい。

研究所を出てメトロに乗ったのはよいが、そのまま帰るのがもったいなくなる。以前に紹介されていた日本料理店を思い出し、調べてみると丁度次の駅にある。そのタイミングの良さに思わず降りていた。日本料理店に入るのは、こちらに来て初めてになる。パリで20年以上仕事をされているご主人の話によると、お客さんの中には同年代で美術学校に留学している方もいるとのこと。

丁度横になったリヨンから週二日パリに仕事にきているという方とお話をする。彼女はオーストリア人でフランスにもう10年になるという。哲学を話題にしても全く抵抗がないどころか、むしろ盛り上がってくれるのが嬉しい。フランス語を話すと母国語の時とは違う自分が顔を出すので非常に面白く感じていて、その状態を気に入っているとのお話。それは外国語を学ぶ効用の一つかもしれない。お店で働いているバイトの若者が日本酒を説明する時の月桂冠の発音がおかしいので訊ねてみると、2歳からこちらに来ているので中身はもうフランス人ですからとの返答。フランス語会話でも教えていただきたいものである。3時間ほどお邪魔して帰ってきた。

もったいない気分で繋がった週の初めとなった。


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26 mai 2015

Diam's を聴いていたことは、完全に忘れていた

今回、改めて聴き直した


この日読んでいた本は、ルドヴィク・フレックの(Ludwik Fleck, 1896-1961)の『科学的事実の生成 と発展』

この時期に読み始めていたとは驚いた

この本は1935年にドイツ語で出版されたが、英訳は1979年、仏訳は出版から70年後である

この本に纏わるお話は数年前にエッセイとして纏めている

 「パリから見えるこの世界」 第9回 ルドヴィク・フレックという辺境の哲学的医学者と科学社会学

医学のあゆみ(2012.10.13) 243 (2): 203-206, 2012


この日初めて日本料理屋に行ったとある

そこでオーストリアの方と話をしたことは、完全に忘れていた

そのお店には今でもたまに顔を出すことがあるので、7年のお付き合いになる

これも驚きである




lundi 25 mai 2015

1年を振り返って(2)

25 mai 2008

今朝は最近の日課になっている朝のバルコンから始める。目を閉じて日の光を浴びていると、体全体が恵みを受けているように感じる。強い日差しを瞼の上に見ながら、この1年のことを振り返っていた。

こちらに来る前、科学哲学以外にもギリシャ哲学、芸術哲学、宗教哲学、現代哲学などの哲学全体を眺めてみたいという想いを抱いていた。その想いはこちらに来てプログラムを見ている時も続いていた。しかし、専門のクールが始り、その内容の豊富さに圧倒されると、専門の領域だけでもどうなるかわからないと悟ることになり、最初の想いはどこかに飛んで行ってしまった。

広く見てみたいという想いは、それまでの専門領域での生活を客観的に見ることができるようになったために生れたものだろう。専門領域を決めた20代前半以降、専門外の分野は横目で見る程度で自らの領域が人生のすべてという生活をしてきた。大半の人は自らの仕事の中での秩序や評価、そこから生れる満足感や失望を抱きながら生きているのではないだろうか。しかし、そこから外に出て世界を眺めるという視点を持つことができるようになると、そこには広大な原野が広がっていることに気付くことになる。わたしの中でのイメージでは、これまで生活して いた専門の世界はその原野に口を開けている穴倉のようなもので、その世界に繋がる口がいくつも見えるというものだ。そして、その穴倉の中もかなりの大き さなのでそれが全世界だと勘違いしてしまうほどである。

私の場合、自らの終わりを初めて実感した時、その穴倉から出てこの広い世界がどうなっているのかを知りたいと思った。これからも自らの領域を突き進んで行くと、いずれ物理的制限が出てきて思うようにならなくなることが予想されたので、早めに一人でもできるところに転換しようという考えもあったかもしれない。しかし、その転換を決意した時には「一線を越える」とか「ルビコンを渡る」という表現がぴったりする精神の動きをはっきり意識できた。今まさに何かを飛び越えたな、という感じである。そして今、新しい1年を終えようとしている。ある意味では、また新たな穴倉に首を突っ込み始めたということになるのかもしれない。ただ、今のイメージは、この広い原野に樹齢数千年にも及ぼうかという大樹がぽつんぽつんと見渡せ、穴倉の中ではなく、新しい大樹に登って広く遠くを見ようとしているようだ。したがって、今までのように横の世界が目に入らないとか目に入れないというのではなく、横の世界も見晴らすことができるのではないかという明るい気持ちを持っている。

この1年間、全くの新しい分野についていろいろな人の話を聞きながら、その外にいては人々の記憶にも上らないだろう膨大な仕事を成し遂げた多くの先人の存在を知り、感動した。その過程で、自らの考え方の癖もわかってきた。それは、自分の考え方が唯一無二であると思いがちなことである。異文化の中で異領域に触れるという状況の中で、心を開く効果が増幅されたようにも感じる。

「定年とは努力しないでルビコンの河を渡ることができる時」と言い換えることができるかもしれない。その先には、仕事という専門の中に身を沈めていたそれぞれが、人間本来の(あるいは、それまで忘れていた)姿に戻るための茫洋たる原野が広がっている。


再びバルコンに出てみた

そこで一茶を経験することになるとは・・・

蠅が手摺に停まり、まず前足を擦っていた

かと思うと、今度は顔を前に倒しながら両の前足で擦っている

その次は後足同士を擦り、そのまま羽根のお手入れ?に入った

それを数度繰り返して私の前から飛び去って行った


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27 mai 2015

当時、初めての年の終わりということもあったのか、真面目に1年を振り返っていたことを知る

このようなことをこの時点で書いていたとは思わなかった

しかし、そのエッセンスは澱のように自分の底に確実にあることが分かる

そしてあるものは、そこから発展して新しい形を得たように見える


上の記事の冒頭のシーンにも同様の思いが湧く

この体験が、その後「瞑想」とか「省察」と名付けることになる精神運動に気付く切っ掛けとなったからである

この点について、昨年エッセイとして書かせていただいた

医療と哲学 第44回 「瞑想生活のある医学」 (THE LUNG perspectives 22 (3): 106-109, 2014)


 時を超えたやり取りは、想像以上に面白い




dimanche 24 mai 2015

一夜明けて、あるいは昔の将来計画

24 mai 2008

今朝はバッハより小鳥の囀りや木々のざわめきを欲していた。昨日は感じなかった解放感が少しあるようだ。昨日の領域については9月にもう一度チャンスを与えてもらえるのではないかという期待と(学生に聞いてもシステムがどうなっているのかよくわからないという。事に対するそのような対し方が何とも言えずよいのだが)いよいよあと一つだけになったという安堵感のためだろうか。

日本語用パソコンの動きが鈍くなってきたようなので、データを外に保存することにした。次第に使わなくなっている日本からのデータを移すことにした。出すべきファイルを選んでいる時、日本で考えていた将来計画のファイルが出てきた。そんなことをしていたこともすっかり忘れていたので読み返してみると、日本を離れる2年ほど前から本格的になっている。

最初の頃は特に外国で仕事を続けるための模索を繰り返している。それとは別に、フランスで思索生活をするというのも選択肢の一つには入っていた。しかし、それはぼんやり とした夢のようなものであったことも分かる。それを真剣に考えるようになったのは、日本を出る1年ほど前にフランスを訪問した後だった。ただ、その時にもよもや学生で来るなどとは考えておらず、それが具体化したのはこちらに来る数ヶ月前のことであった。

そこまでは大体覚えていたが、そのファイルの中に思い掛けない記述が見つかった。5年後の予想をしていたのである。それはこちらの大学からの返事を待っている時期に当たる。こんなことを書 いたことなど全く覚えていなかったので驚いた。

その時の感覚をこう分析している。それまで科学の世界で生活していた時に比べると、エネルギーのレベルが落ちてきていてると書かれてある。おそらく、科学をするために日常と違うレベルに自らを持ち上げていたのではないか。最初の段階では、科学の仕事に向かう時には日常とは違う世界に意識的に自分を持って行っていた可能性がある。しかし、次第に無意識の内にそうなっていたのではないだろうか。科学の中にいる時には、この状態をずーっと保っていたように思う。そこから離れ日常の世界に意識が戻ってくると、それまで別世界にいた状態を支えていたエネルギーが必要なくなり、そう感じたのではないだろうか。

そういう状態になると他の人との壁がなくなり、当時流行っていた言い方に倣えば「共感力」が増したように感じているとも書かれてある。そう言えば、最初のブログ「ハンモック」でも同じような観察を書いたことを思い出す。その上で15ほどの相互に対立しない5年後の予想が書かれてあった。そんなことを考えていたのかと大いに参考になった。まさに、1年前の自分は自分にあらずである。将来、タイムカプセルを開けるようにそのファイルを取り出し、改めて眺めてみたいものである。


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24 mai 2015

記事にある昔描いた将来のイメージを7年振りに読み直してみた

中には、的外れのものもある

しかし、半分くらいはその方向に歩んでいたことが分かる

ただ、いずれも道半ばという判定を下さざるを得ない

 今度このカプセルを開けるのは、いつになるのだろうか





samedi 23 mai 2015

口頭試問を終えて

23 mai 2008

昨日の夜から始めたが、今回は到底終りそうにないので諦めることにした。今日大学に向かう時、そういう状態に呆れたのか、自己嫌悪が襲ってきた。大学近くのカフェで準備をしようとするも、全くその気にならず。

今日の予定で分かっていたのは、時間(2時から)と教室だけで、どのようにやるのかはわからなかった。他の学生もよくわからない状態だが、特に気にしている様子もない。この辺りは日本と違うところだろう。あれこれ構われないところがよい。これからの方もいると思われるので、今日の様子を紹介してみたい。

教室に行くと、扉に名前を書くための紙が張られている。よく見てみると、それが3枚ある。つまり、一つの教室で3人の先生が同時進行で口頭試問をやるという設定である。流石に一人の先生は別の部屋に移動したが、2つの試問は平行して行われた。私の順番は後ろの方で、始ったのが4時半くらい。それまで待っている連中と雑談をして時間を潰す。今日の写真は、部屋から出てきた仲間にその様子を聞き、対策を練っている同期の連中である。さらに偶然の成せる業か、現代哲学のDorlin先生がこちらに向かってくる瞬間でもあった。

この写真には写っていないが、ベルギーからの留学生がいて話を聞いた。彼の場合、社会学を3年やったが、科学という面が強調されているところに違和感を抱き、哲学へと移ってきたとのこと。あくまでも社会学を哲学するという立場のようだ。マスター2年目はシカゴ大学に移りたいという。ソルボンヌでは指導教授の合意があれば、M2を他の大学でできるようだ。これから4ヶ月の夏休みに何をするのか聞いてみたところ、1ヵ月半しかないという。母国の大学とドゥーブルでやっていて、夏にはブリュッセルでクールを取るようだ。先日のドイツからの学生もそうだった。ダイナミックに学生が動いている様子を垣間見ることができる。

こちらも写真には写っていないが、イタリアからの留学生がいた。私などは何とか締め切りに間に合わせようとして不眠不休で仕上げたが、締め切りが今週月曜のメモワールを今日提出するのだという。そんなこと許されるのか聞いてみたところ、「だって終らないんだから仕方ないでしょう」 と真面目な顔。確かに慌ててスペルチェックもしないで出すよりは、自分の満足のいくところまでやって出すという落ち着いた姿勢でなければ駄目だという気もしてくる。



試験に戻る。時間が来て部屋に入ると、机の上に問題が書かれた御神籤のような紙片が十数枚無造作の置いてある。その中から一つ選ぶように言われる。2人がエクスポゼの準備をし、1人が先生と試問を受けるようになっている。問題を選び、2人の試問が終るまでが準備の時間。大体30-40分くらいだった。準備の時、2ヶ所から声が聞こえてくるので集中できない。しかも記憶を掬い上げる笊の目が今や5センチくらいになっていて、求めているものを捕まえるのは至難の業。

"Je vous écoute"で始ったエクスポゼは10分くらいだっただろうか。何とか終えることができ、質疑応答になる。先生の些細に見えるが本質を突く鋭い質問を聞いた時、出された問題の意味をよく理解していないことに気付く。何やらしゃべっているのだが、どこかずれている。よろしくないパターンだった。終ると解放感と言うよりは、体の中に重苦しい熱(疲労感か?)を感じる。

帰りにカフェに寄り、ゆっくりとこれまでを振り返ってみる。昨年までは私の中の半分以上には科学が残っていて、こちらの哲学の内容を入れるのに苦労した。年が明け前期が終るまではその状態が続いた。後期に入ってからはかなりの部分が哲学に向かうようになってきたが、まだ完全には入り切っていない。これまで何度も経験しているやる気が出てこないという状態をどう説明すればよいのだろうか。

一つには、まだどこかに旅行者という気分が残っていて、その甘えの反映があるだろう。まだ完全に学生としての生活になっていないということだろうか。言い換えると、日本でのアイデンティティを引き摺ったままやっていて、全くのゼロから新たな領域に入るのだと自分に言い聞かすところまでまだ行っていなかったのではないか。とにかく、暗中模索の1年が終わり、これから少しずつ新しいやり方が分かってくることを願うばかりである。

あと1週間ほどで、もう一つの口頭試問が巡ってくる。