dimanche 30 septembre 2007

ウィキと同じように



先日、私と同じようにこの秋からパリの大学で哲学を勉強されることになった方から、ハンモックの記事に誤訳があることを指摘された。私の記事を真剣に読み、このような指摘を送っていただくことには、これまでも非常にありがたく思っている。改めて見直してみると、相当に急いでいたのだろうか、全く逆の訳になっていた。たまにアクセスのあったページを読み直してみると訳のわからない日本語が見つかることがある。それは単純な間違いのこともあるし、書いた当時は自分の意を尽くしているつもりだったのが、時が経ってみると何を言いたいのかわからないというのもある。その都度訂正するようにしている。そんな経験から、私の場所にはとんでもない誤りが溢れているのではないかと想像している。

以前にハンモックでも取り上げたが、私の考えはミシェル・セールさんに非常に近い。ハンモックもこのブログもウィキペディアと同じやり方でいきたいと思っている。今後もお気づきの点があれば是非ご指摘をお願いしたい。


(14 mai 2015)

この4月から7年前と同時進行で記事を移すことにした

その際、7年前に対してコメントを書き加えることもある

これは、過去に閉じ込められている記事に息を吹きかけ、眠りから覚ましているようにも見える

ウィキ的なこの作業、面白い効果を齎すのではないかという予感がしている





samedi 29 septembre 2007

コース説明会 La journée de pré-rentrée



今週、大学の La journée de pré-rentrée (新学期前の説明会) の案内があったので、まだ正式の学生ではないのだが顔を出してみた。哲学科全体で3時から1時間。場所を変えての専攻の説明が6時から1時間半くらいだっただろうか。バシュラール講堂で全体説明を聞いている時、なぜか静かに汗が流れてくるのを感じる。久しぶりに脂汗という言葉を思い出していた。こんなことはこれまであっただろうか。記憶の彼方に行ってしまった昔にはあるはずだが、、。古い講堂なので人が歩くと床が鳴り、しかもマイク無しなのでそれでなくても聞こえないフランス語が益々聞こえなくなる。これだけ集中してフランス語を聞いたことは、このところはないかもしれない。これからこれを毎日やることになる。当然その予定で来ているのだが、そこに身を置いてみると空恐ろしくなる。

こちらに来る前、同じ仕事場のO氏が私を訪れ、彼の友人のことを話してくれたことを思い出した。アメリカ東海岸にある大学の文系の大学院に留学したその友人によると、毎日数百ページの本を読み、それについて翌日ディスカッションするということが最後まで続いたという。それを聞いた時には大げさな、と思っていたが、こちらのプログラムを見てみるとその話が必ずしも誇張ではないような気がしてきている。日本語でも大変だと思うが、こちらはフランス語である。さらに朝8時からの講義があったり、夜も8時くらいまでの講義は普通のようだ。

日本では好きな時に気分の赴くまま味わっていたが、どうもこれからは食事の山に後ろから頭を押され無理やり口に入れられるような、あるいは豪華客船で周りの景色を楽しみながらの航海だと思っていたのが、小船で嵐の海に乗り出すような、そんな印象がある。船酔いは間違いないし、第一生きて再び上陸できるのか、はなはだ怪しい。先日のFの言葉は、実は労わりの understatement だったのかもしれない。ただ、専攻説明会の中である先生が自らのコースを "intellectuellement stimulant" な道行になるでしょうと説明していたが、そう感じることができれば素晴らしいのだが、と率直に思っていた。日本の諺にもあるように、"trop" stimulant でないことを願うのみである。

ここまで非常に快適に感じていたのは、おそらく人生で初めて全くの義務なしの1ヶ月に及ぶ夏休みの中にいたからだということに気付く一日となった。これからの行く末は、フランス語をどれだけ分かり使えるようになるのかとすべての基礎となる体力にかかっているようだ。これから研究計画をまとめ、月曜に学科に提出、火曜に大学の入学手続がある。特に研究計画が認められないと学科の学生になることができない。その意味ではまだ旅行者にしか過ぎない。



vendredi 28 septembre 2007

ブランショを聞く Maurice Blanchot



先週土曜、Petit Palais で行われたモーリス・ブランショの生誕100年を記念した彼の作品の朗読会に顔を出す。

  Maurice Blanchot (22 septembre 1907 - 20 février 2003)

なぜ行く気になったのかと言うと、私がフランスに触れて最初に読みきった小説が彼のものだったからだ。今、ハンモックを調べて見ると、2003年3月にその記事がある。France Culture で紹介があり、数冊仕入れたのだ。なぜ読んだのかと言えば、短かったからである。

 L'Instant de ma mort (15 pages)
 La Folie du jour (29 pages)

今となってはその内容は思い出せないが、その時の印象が蘇り彼がどんな考えの持ち主だったのか知りたいという気持ちもあり、出かけることにした。

会場は Petit Palais のオディトリウム。日仏学院のエスパス・イマージュを少し縦長にした感じで、新しく気持ちがよい。彼についての講演があるのかと思って行ったが、最初に紹介したように彼の作品を10人ほどの作家、詩人、エッセイスト、写真家、小説家など (しばしば複数の肩書きを持っている人がいる) が順番に、淡々と読み進むという会であった。2時半から2時間くらいだっただろうか。

始ると照明は舞台だけになり、彼の言葉に入り込めるようになっている。少し前までは喧騒にまみれた現実世界にいたのが、一瞬にして彼の精神世界に招き入れられる。この町ではそういう一瞬の移行が至るところで可能な予感がする。言葉を大切に噛み締めるようにして読んでいる言葉の専門家の姿を見ているうちに、言葉という存在の意味を考えざるを得なかった。どこ かに自分に入ってくる言葉はないかと耳を凝らしていたが、残念ながら音楽にしか聞こえなかった。

こういうことは考えた。おそらく、書き手の声が聞こえるようになるためには、こちらも一人で立っていなければならないのだろうと。自分の中の声を確かめながら読み進まなければ、本当に言いたいことが入ってこないだろう。そして、人間の精神世界というものが果てしもなく奥深いものではないのか、という感触が伝わってくる朗読もあった。また、彼らが言葉と誠実に向かい合い、言葉とともにゆっくりと、どっしりと生きてきたのではないかと想像させるものが、至るところに漂っていた。また、このような会をネットで見るのとは全く違い (偶然出かける前にソルボンヌで行われた講演をネットで見たばかりであった)、その空気の中にいるために私の受容体の感度が著しく高まっていることもはっきりと感じることができた。



jeudi 27 septembre 2007

16区散策 ― 励ましの言葉



先週末、日本で知り合いになったフランス人の F からメールが入った。今パリにいるがこれからワシントンDCに移ることになったので、一度会わないかというものだ。ミラボー橋の真ん中で待ち合わせて16区を歩くことにした。16区と言えば、すっかり気に入ってしまったモネのマルモッタン美術館を訪れた時やフランス日本研究学会を覗いた時に寄ったことがあるだけだ。遥か昔に感じられるが、見てみるといずれもこの1年以内の出来事である。

F はいつもゆっくり周りを見ながら、体を自由に動かしながら歩く。その時の自分をオープンにして周囲を感じ取っているように感じられ、promenade というのはこうしてもよいのか、あるいはこれが se promener ということなのかと考えさせられたことを思い出していた。歩きながら、こちらの大学生活のことを聞いてみた。メールで指導教官と頻繁にディスカッションす ることも大切。またフランス語の上達には、どんなテーマでもよいから自らがコロックをやり話すようにしたら、いやでも勉強するようになるのではないか、というサジェスチョンをもらった。確かにその通りだろう。

話をしながら、その場で文章を作っているのがはっきりわかり、途中で疲れてきた。英語の場合は、話す時に使う文型や語彙が引き出しに分けて入っていて、それを適宜取り出して使うという感じで、使っているうちにその作業がオートマティックになっていく。しかし、フランス語の場合はそもそも引き出しなどは出来上がっておらず、大きな箱の中にわずかな蓄えがある程度なのですぐに行き詰まる。その結果、その場で作文をすることになり、とても話し言葉というわけには行かない。F は日本の1年はこちらでは1ヶ月だ、などと言ってバスの中に消えたが、到底信じることのできない励ましの言葉であった。



mercredi 26 septembre 2007

アンドレ・ゴルツさん亡くなる André Gorz se suicide



流れるラジオから "philosophe" と "suicidé" いう単語が耳に入ってきたので調べてみた。すると、Le Nouvel Observateur を Michel Bosquet の名で Jean Daniel とともに創刊した André Gorz (Vienne, février 1923 — Vosnon, Aube, 24 septembre 2007) さんが不治の病にかかっていた妻とともに24日に自殺したことがわかる。全く初めての人なので、Wiki でその略歴を見てみることにした。

1923年、ユダヤ教徒の父とカトリックの母の間にウィーンで生れる。

1930年、反ユダヤの環境の中、父はカトリックに改宗。

1939年
、母は彼をローザンヌのカトリックの学校に送る。

1945年
、ローザンヌ工科大学 (l'École d'ingénieurs de l'Université de Lausanne) を化学工学の学位とともに卒業。この時期に現象学やサルトルの作品に出会う。スイスの出版社でアメリカの小説の翻訳者として社会に出る。

1949年6月
、パリに移る。Paris-Presse に入ったのを切っ掛けに Michel Bosquet の名でジャーナリズムの道を歩むようになる。

1955年
L'Express の経済ジャーナリストとしてリクルートされる。この時期、サルトル主義者のグループとも付き合い、人間の疎外 aliénation や解放 libération について考える。そこで取ったマルクス主義・実存主義の立場で、Le Traître (1958)、La Morale de l'histoire (1959)、Fondements pour une morale (1977) などの初期の作品が書かれている。 彼の考えの中心にあったのは、個人が自らの中で築き上げた規範に基づいて行動すること (l'autonomie de l'individu) であり、社会を変革するにはこの力が必要不可欠な条件 (la condition sine qua non) であるという考えを持つに至った。フランクフルト学派の Herbert Marcuse と考えを共有し、経済原理に社会が屈するのを批判した。

1964年
Le Nouvel Observateur を創刊するため L'Express を辞める。彼の社会主義を実存主義から見る見方がやがて、種々の体制 (国家、学校、会社、家庭など) がいかに人間の自由を制限しているのかを告発するようになる。次第に、エコロジーの動きと同調するようになる。彼の考えの底には、経済主義、功利主義、生産者第一主義に強く反対するもの (anti-économiste、anti-utilitariste、anti-productiviste) があり、功利・快楽主義的個人主義 (l’individualisme hédoniste et utilitariste)、物質主義・生産重視主義的集産主義 (collectivisme matérialiste et productiviste) に批判的であった。彼のエコロジストの考えと不可分な (consubstantiel à sa réflexion écologiste) 個人の内的規範に基づく行動 (l'autonomie de l'individu) を擁護し、環境絶対主義的な見方 (environnementalistes systémistes ou écocentristes) ではなく、より広い視野に立ち人間的な環境を重視する立場を採った。彼はその考えを社会を根源的に変革するために応用しようとした。後にそれをさらに進め、賃金労働者のいない社会主義ユートピアとの融合を示唆するようになる。1980年代に入り、これまで関係していたところとすべて決別する。

1983年
、アメリカが西ドイツに核ミサイルを配備する際に、彼らは自由の上に命を置いたのだ « placé la vie au-dessus de la liberté » として反対せず、平和主義の流れとも別れ、Le Nouvel Observateur も辞める。


2006年の "Lettre à D. Histoire d'un amour" は妻の Dorine に捧げたものだった。そこには « Tu vas avoir quatre-vingt-deux ans. Tu as rapetissé de six centimètres, tu ne pèses que quarante-cinq kilos et tu es toujours belle, gracieuse et désirable » (君はもうすぐ82歳になる。身長が6センチも少なくなり、45キロしかない。しかし、君はいつも美しく、優しく、素敵だ) と書かれてあるという。享年84。



mardi 25 septembre 2007

枝付きトマトなど Tomate grappe et ...



当然なのだろうが、こちらに来て食べるものが変わってしまった。予想通り、毎日バゲットにはお世話になっている。しかも、コチコチになっても口に運ぶとは、日本では想像もできなかった。お店に行くとチーズとハムの種類の多さに驚く。日本ではほとんど食べることのなかったチーズに食指が伸びる。その行動にも驚く。そこに並べられたすべてを端から少しずつ味わってみたいという欲求が生れるようになっては、呆れ返ってしまう。最近では呑むこともなくなっていた牛乳にも手が伸びる。野菜にもいろいろ珍しいものがあるのだろうが、まだじっくり見るところまでいっていない。

しかし、このところ気に入ってきている野菜がある。それが枝付きトマトあるいは房とりトマトと言われる tomate grappe だ。日本では見たことがなかったので最初は抵抗があったが、買ってきてその枝から一つひとつ取っているうちに、その感じがよくなってきた。愛おしさにも似たものを感じ始めている。ばらになっているよりは、より自然に近い形なのでそう感じるのだろうか。よりトマトというものの実体に近づいたように感じているかのかもしれない。あるいは、そのためにあたかも自分が育てたものを収穫しているような錯覚にでも陥っているかのようでもある。そうだとすれば、自ら畑に出て、育ったトマトを、さらに言えば、自ら育てたトマトをとってきて食べるのが最高の贅沢になるのだろう。

食べ物ついでにもう一つ。今まで塩だと思っていたのが、実はニンニクであった。アパートについて2日目に、ニンニク入りの塩だとばかり思って買ったもので、これまで少し塩味がたりないなとは思っていた。今日じっくり表示をみると ail semoule (セモリナとニンニクが混じったもの) となっている。納得できたのですっきりしたのはよいが、いつもの思い込みの強さは依然健在である。早速 sel de mer を仕入れた。

店を出ると雨が降り出してきた。急ぎ足とも小走りともつかない足取りでアパートに向かう時、どこからともなく漂ってくる香りが鼻を二度刺激した。確かめると土の匂いだった。久しぶりである。



lundi 24 septembre 2007

「先送り」 再々考



モンテーニュの考えを読みながら、以前に 「ハンモック」 で書いた 「先送り」 のことが蘇り、ずーっと頭にあった。

先送り Esprit critique (2005-06-04)
「先送り」 再考 ATTENDRE JUSQU'A CE QU'IL MURISSE (2006-05-05)

私の場合、モンテーニュのように懐疑主義という形で意識していたわけではない。おそらく怠慢の成せる業ではないかと思っているが、判断の先送り、あるいは決め付けをしないということをずーっとやって来たように感じて、一時はそれでは駄目なのではないかとも考えた。しかしある時、それは必ずしも悪いことではな かったのではないかという思いに至る。その背景には、最終的な判断は文字通り最後の最後でよいのではないか、その前には判断をせず、とにかく身を晒すことが大切なのではないかという無意識の意思があったように思う。モンテーニュの逆説のように、その方が逆に軽やかに身を動かせる。判断は一番最後に来るのだから、それまでは全く自由でいられるということになる。ひょっとすると、そう状態ではいられなくなることを恐れて判断を忌避していた、あるいは何でもありという状態を維持したいがための先送りだったのかもしれない。いずれにせよ、最後にそれまで身を晒して得たものを解きほぐして、実はこういうことだったのかと理解する。それが一番深い理解に達するのではないか。そういう絵を描いていたような気がしている。今、モンテーニュがすぐそこに感じられる。

振り返ってみると、1年に1回 「先送り」 を考えていることになる。これからも折に触れ、そのデッサンを修正していくのだろうか。



dimanche 23 septembre 2007

モンテーニュ (VIII) 年表と関連資料



1533 : Michel Eyquem de Montaigne naît au château de Montaigne, le 28 février
1539 : entre au Collège de Guyenne, à Bordeaux
1546 : entre à la faculté des Arts
1549 : commence des études de droit
1555 : conseiller à la cour des aides de Périgueux
1558 (?) : rencontre Etienne de La Boétie
1563 : Etienne de La Boétie meurt le 18 août
1565 : épouse Françoise de La Chassaigne le 22 septembre. Ils auront six filles, dont une seule, Leonor, survivra
1568 : mort de son père, Pierre Eyquem
1569 : échappe à la mort de justesse après une chute de cheval
1571 : se retire officiellement des charges publiques. Entame la rédaction des « Essais »
1578 : compose le livre II des « Essais »
1580 : première édition des « Essais », dont il remet un exemplaire à Henri III. Part en voyage le 5 septembre
1581 : élu maire de Bordeaux en son absence, le 1er août, prend ses fonctions le 30 décembre
1582 : deuxième édition des « Essais »
1583 : réélu maire de Bordeaux le 1er août
1584 : reçoit le roi de Navarre et sa suite au château de Montaigne le 19 décembre
1588 : voyage à Paris. Troisième édition des « Essais » en juin
1592 : Meurt chez lui, le 13 septembre, d'un phlegmon à la gorge
1595 : nouvelle édition des « Essais » par Marie de Gournay


インターネット
 国立国会図書館 BNF 歴史的バージョンが多数あり
 シカゴ大学モンテーニュ・プロジェクト
 国際モンテーニュ協会

出版物
 彼については膨大な本が出版されているが、その中で特に取っ付きやすいものをほんの少しだけ。
« Montaigne à cheval » Jean Lacouture
« Montaigne » Stefan Zweig
« Montaigne ou la conscience heureuse» Marcel Conche
« Chat en poche. Montaigne et l'allégorie » Antoine Compagnon
« Essais sur poutres. Peintures et inscriptions chez Montaigne » Alain Legros



モンテーニュ (VII) そして死



そのパッサージも終わりを迎える。天井には 「私の最後の日。恐れることも、期待することもなく」 の言葉が刻まれている。人生を愛した彼は、死という考えを飼い馴らさなければならないこと (il faut apprivoiser l'idée de la mort)、極度の恐怖を和らげ、この究極の瞬間を平凡なごく普通のものにしなければならないことを知っていた (余談だが、apprivoiser という言葉を見た時、サン・テグジュペリのル・プティ・プランスに出てくるこの言葉の意味について、いろいろな方が考察している番組を見たことを思い出していた)。「死ぬことを教える者が生きることを教える」、あるいは 「死ほどしばしば私の頭に浮かんできたものはない」 という言葉は、彼が死に対する嗜好を持っていたからではなく、生きることへの気遣いからだった。

最後にまとめる。彼が確立したもの、それは喜びに満ちた無、励ます空虚、曲芸師的な溌剌とした知、さらには不確実性を足場にした絶え間ない動きの中、常に悦びを新たなものにするという果敢なやり方である。真理と確実性を取り去ると、彼には驚きの中で実験すべき全世界が残るのだ。モンテーニュをたっぷり読み、その恩恵にあずかったニーチェは正しくもこう締めくくった。

« Du fait qu’un tel homme a écrit, en vérité on a plus de plaisir à vivre sur la terre. »
「このような男が書いたという事実を知ると、本当にこの地上に生きることに益々悦びを感じる」



samedi 22 septembre 2007

モンテーニュ (VI) 流れゆく生 La vie comme passage



モンテーニュは、まず何よりも無知の哲学者であった。彼は言う。

« La philosophie ne me semble jamais avoir si beau jeu que quand elle combat notre présomption et vanité, quand elle reconnaît de bonne foi son irrésolution, sa faiblesse et son ignorance. »
「哲学がわれわれの思い上がりや虚栄と戦い、自らの優柔不断、弱さ、無知を誠実に認める時にこそ、本当に素晴らしい働きをすると私には思える」 

こ の発言は、彼がソクラテスや懐疑派の系列に入ることを示している。また彼は時代の人でもあった。その時代とは、数限りない激変、昔の知の崩壊、宗教的狂信 主義の衝突で特徴付けられ、ある意味ではわれわれの時代と酷似している。彼の時代のすぐ後には、天動説 (géocentrisme) が終わり、閉鎖された世界は無限の宇宙へと広がり、アリストテレス哲学は批判に晒され、医学の革新、アメリカの発見などが相次いで起こった。

モンテーニュは哲学的発見として、三つの原則を確立した。

第 一に、われわれの知識の不確実性、その限界、脆弱性が歴史的推測の問題などではなく、理性の弱さと世界の不透明さの間に鋏まれて存在するわれわれ自身の状 態に内在することを理解したことである。真理や科学、哲学にまず絶望するところから始めなければならない。永遠の真理に目をやることを望むのではなく、ま ずこの道を糾弾することから始める。彼の目には、その道がわれわれをどこにも導かないとしか映らない。

第二の発見は、このような放棄が如 何なる悲しみも生み出さないことである。おぞましい不安が待っていたり、知ることの空しさが絶望の原因になるとも思えるが、実際には全く逆である (c'est tout l'inverse)。その不確実な道が、悦びや常に新たな驚きを呼び起こすのだ。如何なる真理も、したがって確実なものもなく、破綻しない知など存在し ない。しかしその絶望の深遠の中、数え切れない道程を休みなく進み、豹変し続けることにより、悦びの泉が噴き出すのだ。その秘密は、動きに身を委ね、永遠 に続く世界の激動など気に掛けず、よいところへ飛んでいくことである。

この世は多様性と相違、そして揺れるブランコのように定まらず、果しもなく流転するものでしかない。これが、彼の三番目の発見であった。かれはそれを徹底した。

« Finalement, il n’y a aucune constante existence, ni de notre être, ni de celui des objets. »
「結局のところ、常に存在するものは何一つない。われわれ自身の存在も、物の存在も」

内にも外にも変わらないものは何もない。流れと断続と通過以外には何もない。

« Je ne peins pas l’être. Je peins le passage : non un passage d’un âge à un autre... mais de jour en jour, de minute en minute. »
「私はそこにある存在を描くのではない。通り過ぎるものを描くのだ。一年一年の流れではなく、日々の、分単位で過ぎゆくものを」 

こ こでも間違ったモンテーニュの姿が消えるのはよいことだ。彼の 「エッセイ」 は彼の自伝でもなければ、風変わりな自己についての瞑想でもない。そうではなく、彼はこの自己が実際には発見不可能であることの証拠を突きつけたのであ る。それは消えたかと思えば現われ、そしてまた消える。一つの状態に留まることがないのだ。



vendredi 21 septembre 2007

Maison Internationale へ



モンテーニュももう少しのところまで来た。昨日は入学試験の結果通知書 (Décision pédagogique d'inscription) を持って、Maison Internationale (留学生センター) に出かける。正式な入学許可証 (convocation) をもらうためである。少し早く着いたので、近くの Presse で雑誌を眺める。今回は、Sciences Humaines と Le Monde の宗教特集を買い、いつものようにカフェで気になった記事に目を通す。Sciences Humaines の中に私の興味を惹くものがいくつかあった。いずれ書いてみたい。

予定時間の10分ほど前にMaison に着き中に入ると、すでに何人かの若者が待っている。非常に新鮮な気持ちになった。どこかに déjà vu の感覚がある。比較的小さな国際会議に行って最初に登録する時の感覚を思い出していた。話し込んでいる3人にどこから来たのか聞いてみた。ルクセンブルグからだという。二人は法律、一人は歴史のリサンスを目指すという。フランス語はペラペラで、他には?と聞いてみると、英語、ドイツ語、それにお国の言葉を話すとのこと。公用語にフランス語、ドイツ語も入っているようなので、当然と言えば当然なのだろうが。それにしても、目がキラキラと輝き、非常に軽やかである。ああいう時代はあったのだろうか。

予定の時間に係の人が戻ってきて、人を呼び始めた。専門ごとに声をかけていたようだ。先ほどの一人が、フィロが呼ばれているぞ、とのことで中に入る。ハスキーボイスでゆっくり話す比較的若いパリジエンヌが担当。ああいう話し方をする若い人は日本では見かけないので、新鮮な気持ちになる。型通り、結果通知書とディプロムを見せ、連絡先を教えて手続は終了、convocation をもらう。10月始めに、これを持って大学の入学事務担当部署に行くようにとのこと。

この際の必要書類は、私の場合 (若い人の場合、もっとあるらしい) は以下のようになっている。
  1) convocation
  2) 身分証明書 (パスポートなど)
  3) 証明写真
  4) ディプロム (原本)
  5) 銀行チェック、あるいはカード (入学金などの支払いのため)

入学金がどのくらいか聞いてみる。正確な額はわからないが、私の場合は社会保険には入れないので (この保険は28歳以下でなければなりませんので、と言ってなぜか顔を少しだけ赤らめ、にっこりしていた) 、200 ユーロくらいではないかとのことであった。以前にハンモックでも紹介したことがあるが、やはり携帯に支払う程度のお金で教育を受けられるというのは本当らしい。私が顔を出したことのある日本のフランス語関連の学校では、週末2時間、10回位のコースがこれと同じくらいだったので、この数字は驚くべきものである。フランスの皆さんの働きのお陰で、この上ない恩恵を受けることになる。

 徐々に徐々にその舞台に引き出されようとしている。



jeudi 20 septembre 2007

モンテーニュ (V) 王国を救う Préserver le royaume




彼はカトリックとプロテスタントの間の殺し合いをどうしても避けなければならなかった。それはボルドー周辺の平和だけではなく、全王国を崩壊から救うことを意味していた。アキテーヌ地域の首都であるボルドーは南部を押えていたので、もしここが混乱に陥るようなことがあると、やがてフランス全体が倒れることになる。モンテーニュが間違って市長になったと考えるとすれば、大きな間違いである。彼は責務により有名になったわけでもなく、退屈から市長になったわけでもない。1583年、1期目の2年が終った時、彼がその立場にいることによってのみ平和がもたらされると確信して2期目も出馬する。もしそれが極端な負担になるようであれば、彼の住処に戻るであろう。

しばしば忘れがちになるのだが、彼は非常にスケールの大きな政治家であり、控えめではあるが有能な重要人物の一人であった。住民や学校、貧しい人々の状態を気に掛ける市長だっただけではなく、王の顧問であったことも忘れてはならない。アンリ3世とは文通し、ローマでは法王に迎えられている。カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis はナバラ王であったアンリ Henri de Navarre をプロテスタントに改宗するように彼に依頼している。それによって誕生したアンリ4世は、モンテーニュに財政的支援を申し出て顧問就任を依頼する。しかし、彼は断った。

「私はほんの少しの自分も捨てることなく、公職の責務を果たすことができた」 と告白しているように、争いの中にあっても自分を見失うことなく務めうることを示した。それだけではなく、彼自身が語っているように、人を裏切り、嘘で固め、殺すことを求めるところがある人民のやり方を好まず、均衡の取れた機動性や多様性のある政策を行う術を知っていた。

これまでをまとめてみると、どうも学校で教えられるモンテーニュの姿は歪められていたようだ。行動の人であったのに瞑想の人とされたり、書庫に引き篭もっていると言われたのに、しばしば外に出ていた。彼のことを、早くに隠居した温厚で (débonnaire) 人のよいモラリスト (moraliste bonasse) 、愚痴っぽい夢想家 (rêveur dolent) として描いてきた。しかし、彼を手厳しい哲学者、考えられているよりも根源的で、難解だが一貫性のある思想家として見直さなければならないだろう。



mercredi 19 septembre 2007

今日はどんな日に



まだ、モンテーニュは終っていない。先日のこと。金属製のシャッターを完全に上げずに外に出て作業をする。終ったところで振り向き歩き始めたその時、ガシャーーンというものすごい音がして驚く。そのシャッターに頭を思いっきりぶつけていたのだ。まだまだ自分の家にいるという感じではなく、作業中にシャッターがあることなどすっかり忘れていた。その瞬間、眠っている脳が揺り動かされたのをはっきりと感じることができた。足の助けを借りることなく、よい刺激になった。こちらに来てみるみる後退している髪を透かして覗いてみると、5センチくらいの赤い線が見事に残っているのを確認できる。素晴らしい当りだったようだ。

毎朝、目が覚めると今日も生きている、生かされているとぼんやり思う。少々早いのかもしれないが、こちらではそういう感じがある。そして件のシャッターを開けるのが日課になっている。その時、そのシャッターの向こうにはどんな朝が来ているのだろうか、今日はどういう日になるのだろうか、という今まで浮かんできたこともない思いが一瞬過ぎる。時の流れをこれほどの親愛の情とともに見ることなど、今まであっただろうか。それから徐にラジオをつける。« Vous écoutez radio classique. » あるいは « Vous êtes bien ...... vous êtes bien sur radio classique. » などと答えてくれる。その、日本語にも英語にもない 「ク」 という最後の音を聞くと、ここはフランスなのだと思う。

その radio classique から、これまでに聞いた曲が次から次に流れ出してくる。今まで歩んできた時間を音楽を通して味わい直しているかのような快感である。こういう感覚がパリで訪れるとは、想像だにできなかった。



mardi 18 septembre 2007

モンテーニュ (IV) 愛、悲しみ、そして 「エッセイ」 L'amour, le deuil, les livres



書庫の横の壁には 「最も優しく、最も繊細で、最も親しかった友人」 であったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシー Étienne de la Boétie (1er novembre 1530 - 18 août 1563) の思い出に捧げられた、この家を特徴付ける長い書き込みがある。これこそが彼の人生において、本当に愛と言えるものであった。彼らが愛し合っていたのは疑う余地がない。どのような愛であったのかは別問題で、歴史家の間でも意見が分かれている。モンテーニュは 「心の奥底まで生きている」 「神に導かれた関係」 についてはっきりと語り、そこでは 「体が結びつきに関わっていた」 としている。これは、明らかな同性愛が体を絡めたものであったと考える人たちの意見を非常識なものとして退けられない言葉である。

本質的なことは、この愛の激しさと相手の死に続く苦痛である。彼らは、おそらく1558年から1563年までの短い間の付き合いでしかなかった。しかし、エティエンヌが赤痢で命を落とす前、彼の妻ではなくミシェルの腕の中で死ぬことを選んだ。事実、この情熱と喪の悲しみがなければ、書斎もなければ 「エッセイ Les Essais」 も生れなかったであろう。モンテーニュの書庫はこの記憶の祭壇 (autel) なのである。最初は冠詞なしで "Essai" と題された、先立つモデルもなければその後を継いだものもない、この比類なき冒険に乗り出したのは、友の記憶を祝福し、その祝福によって生き延びるためである。ボエシーのための墓碑であり、 「この世にインクと紙がある限り」 続けることを願った彼の文章には、失った友との永遠に続く会話が綴られている。自分がどういう人間なのかを追い求めるが、それは彼の手から常に逃げていく。

なぜなら、激変 (cataclysme) の後には自らを組み立て直し、喪失を埋め合わせ、自らの立場を認めなければならないからである。天井の梁にはエウリピデス (Euripide, 480 - 406 av. J-C) の言葉が残っている。

« Quel homme peut avoir de lui-même grande estime, quand le premier incident venu le réduit à néant ? »
「自らを無に帰するような出来事が初めて降りかかった時、誰が自らを高く評価できるだろうか」

モンテーニュは自らの思考過程を書くことにより、彼を打ちのめした悲しみの底から徐々に這い上がってくる。そこでは、喪の悲しみと自己蔑視、そして悦びの再現が繰り広げられる複雑な物語が語られている。例えば、このような言葉を読むことができる。

« de nos maladies, la plus sauvage, c’est de mépriser notre être »
「最も野蛮なわれわれの病いは、自らの存在を蔑視することである」

il faut cultiver « l’amitié que chacun se doit »
「捧げなければならないような友情をそれぞれが育まなければならない」

la tristesse est une « qualité toujours nuisible, toujours folle, toujours couarde et basse »
「悲しみとは、常に有害で、常に気違いじみていて、常に臆病で低劣な性質のことである」

他の梁には聖職者の言葉がある。

« Ne sois pas plus sage que nécessaire, tu deviendrais stupide. »
「必要以上に賢くするな。そうすれば愚かになるだろう」

この部屋にある言葉には、智慧の限界やそこに辿り着くことができると信じる自惚れ、われわれの知識や力の限界を強調するものが多い。モンテーニュが執着を持っていたのは、境界の問題であった。彼は常に狂気と英知、文明と野蛮、生と死、さらには一つのものの見方と他の見方との境界がどこにあるのかを求め続けた。考えが論理的につながり、次々と後をついて出てきて、それが打ち消されたかと思えばまた増殖するという具合で、ついて行くのが大変なくらいである。

« Il est malaisé de donner des bornes à notre esprit. »
「われわれの精神に境界を設けるのは容易ではない」

全くのところ、われわれが望まなくとも思考はやってくる。思考は自らの道を進み、われわれがその後を追いかけるのだ。それゆえ、彼も 「荒れ狂い、常軌を逸した神の思し召し」 と強調しているように、安寧を得るよりはむしろ不安を煽るような驚くべき経験として 「エッセイ」 を読む必要がある。

この種のものとしては世界に唯一の本書がその独自性を持つのは、われわれの無知を強調したり、著者の自画像を描いたからではない。それは、絶え間なく蛇行しながら流れていく思考の流れを探求するために、彼が向こう見ずにも乗り出したからである。

「われわれの精神のように当て所もないものを追いかけたり、心の深奥の不透明な深遠さに入り込むというのは茨の道である」。フロイトに先立つこと4世紀、これこそ自己分析を想起させるものである。



lundi 17 septembre 2007

モンテーニュ (III) 頭と足 La tête et les jambes



モンテーニュの部屋の梁にはメナンドロスMénandre, ca. 342–291 BCE)の次の言葉がある。

« Heureux celui qui joint la santé à l'intelligence. »
 「健康と知力を併せ持つものは幸福なり」

しかしこの言葉はモンテーニュにとっては少し複雑である。なぜなら、彼は激しい痛みを伴う石の病気 (la maladie de la pierre)、今で言うところの腎石 (calculs rénaux) だったからである。18世紀になってやっと発表された彼の旅行日記にも、石のお陰で3-4日も排尿できないことが率直に (sans détour) 書かれてあるようだ。48歳にしてまだまだ元気ではあったが、自らをいたわらなければならなかった。

父のピエールは彼よりも元気がよかった。父方の家庭は、中流の出身で魚の商売をして繁盛していた。ピエールは息子のミシェルに伝説となった素晴らしい教育を施した。隣村に乳飲み子で出され、2-3歳の時にお城に戻ってくるが、その時ラテン語でしか話しかけなかったという。そして13歳にして中学を追い出される。態度が悪かったからではなく、最早教えることがなくなったからだ。

知性溢れるミシェルではあったが、疑うことを止めなかった。彼が若い時は、記憶力が悪く、体を動かすことも得意ではなかったが、乗馬だけは例外であった。重要なのは、体と思考の動きを乖離させないこと。彼は体の中に精神を持っていた。

「私の思考は坐っている時は眠っている」
「私の精神はそれだけでは動かない。足がそれを活性化する必要があるのだ」

それで彼は本を漁りながら部屋の中を歩き回る。彼の思考がうごめきだす。彼を待ち受けている仕事は重要であることは知っている。父親があのような教育をしたのも、元はと言えば彼に歴史に残る大きな役割を担ってほしいという夢があったからである。ここまでではそのレベルに達しているとは言えない。パリでの勉学時には財産を浪費し、父親から相続権を奪われるところまで行った。母親 Antonine de Loupes (Lopes のフランス語化 francisation) とも折り合いがつかず、彼は常に愛されることを望んでいたが、決して愛されることはなかったようだ。

その母親によってモンテーニュはスペイン人の後見人 (彼らはカトリックに無理やり改宗させられたユダヤ人であった) とともに生活することになり、彼らは隠れて自らの信仰を実践していた。母親は宗教とは全く関係がなかったのだが。モンテーニュの中にユダヤ教の要素があったとも考えられるが、彼はそれをどこにも書いていない。



dimanche 16 septembre 2007

モンテーニュ (II) 天上の言葉 Un ciel de phrases



これで、モンテーニュから机にしがみ付き、指はインクで汚れた作家のイメージは消えるだろう。彼は、長時間歩く人だったのである。馬上旅行を愛したガスコーニュの男はいつも動いていた。部屋の中では行ったり来たり、外を見たり、本や天井に目をやったりしながら。その天井を横に2つの梁 (poutres) が走り、縦にある36の梁 (solives) を3つの部分 (travées) に分けている。そこにギリシャ・ローマ時代の作家や聖職者 (Ecclésiaste) の引用を混ぜながら書き込んでいった。それは装飾ではなく、むしろ記憶を助けたり、想像を膨らませるキャンバスであったり、旅人の夜を照らす星のように彼を導く天上の言葉であった。

主要な二つの poutres には次のような懐疑派のキーワードが書かれてある。

« Sans pencher » (... plus d’un côté que de l’autre)
 「一方に偏ることなく」

« Je suspends » (mon jugement, en n’affirmant pas plus ceci que cela, je reste en équilibre)
 「私は保留する。あれこれと決めることなく、バランスをとりながら判断する。」

« Je ne saisis pas » (je ne tiens aucune position dogmatique et fixe)
 「私はしがみつきはしない。ドグマチックで固定されたどのような立場にも立たない。」

« Je m’abstiens de saisir »
 「私は固定した立場に立つことを差し控える」

満足のいく翻訳は難しいが、彼の中心的な姿勢は明らかである。超然としていること (indifférence)、すべてに疑いを持つこと (doute général)、あらゆる種類の確信を拒否すること (refus de certitudes de toute nature)。そうすることにより、あるドグマにしがみつくことになるのを避けること。われわれは真実に近づくことはできない。したがって、われわれは判断を保留しなければならない。

その天井を眺めながら、ボルドーの新市長はカトリックはプロテスタントより優遇されるべき存在ではないと考えたかもしれない。彼らが共存するのをヨーロッパで見てきたばかりであったのだ。ドルドーニュ、パリ、ロレーヌ、ドイツ、スイス、チロル、そしてイタリアと1年半に亘る馬上の旅で、彼はあらゆる種類の食事や会話、そして幅広い女性を経験しただけではなかった。対立する意見の共存や狂信主義を治める手段についても経験を積んでいたのである。

天井の言葉は、バランスをとることの重要性を訴えている。綱の上の曲芸師のようにしていなければならない、と繰り返している。しかし、じっとしているのではない。逆に、自由に動くことを可能にし、俊敏に、軽快に、嬉々として進むようになる。モンテーニュの秘密はこの逆転の中にあるのかもしれない。疑いを耐え難いものとはならない程度に強く持ち、それによって逆にドグマや智慧に囚われているよりは、より善く行動できるようになる。つまり、不確実性のお陰でより確実なものを得る (être plus assuré grâce à l’incertitude) という逆説が、彼の中で起こっていたのである。



samedi 15 septembre 2007

モンテーニュ事始 Montaigne



夜、窓の外に目をやると、周りの部屋から光が漏れている。どこから来る光もオレンジ色を帯びている。かなりの方が住んでいると思うが、一つの例外もない。家にいる時はこの電気のもとでなければならないという感覚が彼らの中にあるのだろうか。その光の中で思索に耽る時間もあるのだろうか。私のアパートもその色の光しか出ないような家具が使われている。視線が内に向かうところはあるようだ。日本の明るい光の窓からは感じない何かを感じていた。

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7月12日の Le Point でスピノザの特集があったかと思えば、8月9日の特集はモンテーニュである。これなどは如何にもフランス的だと前々から思っているのだが、いかがだろうか。モンテーニュは前から気になっている人だ。例えば、以下のようなお話から。

   ニーチェはモンテーニュの仲間 (2006-08-25)
   コンシュ 「生きるとは哲学すること」 (2006-10-26)


今回のタイトルは、"Montaigne, le sage acrobate"。「曲芸師的賢者モンテーニュ」 あるいは 「知の軽業師モンテーニュ」 とでも訳すのだろうか 。いずれにしてもこれだけではその意味がよくわからない。読み進むことにしよう。

何世紀にも亘り、時に誉めそやされ (encensé)、時に嘲笑された (vilipendé) ミシェル・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne (28 février 1533 – 13 septembre 1592) は絶えず再発見される存在である。今回、Pléiade 版 の新たな 「エッセイ」 が出たので取り上げられたようだ。

モンテーニュのことを考える時、部屋に引き篭もり、いろいろな君主と交渉しているイメージを抱く。しかし、彼は温厚でも静かにしているわけでもなく、われわれを驚かせ続けてくれる。その道は予想もできないものだが、彼にはすべてが降ってかかる。例えば、1581年8月1日のボルドーの市長選。この時彼はイタリア、ドイツと旅に出ていて不在であったが、カトリックとプロテスタントが対決している政治的・宗教的闘争の決定的な時期に、戦略上重要な都市の舵取りを任されることになる。9月始めにはピサ Pise に近いルッカ Lucques で腎石の治療をしていた。彼が500日以上の旅の後、家に帰ることになるのは11月終わりである。常に動いていたことがわかる。

旅に出る前には、彼の大切な住処で 「エッセイ」 の最初の2冊を書き終えていた。この円形の広い部屋は、お城の塔の3階のほぼすべてを占めている。そこに書斎兼図書を移し、読み、書き、生活する場所と た。三つの窓からはすべての土地を見渡すことができる。壁には1000冊ほどの彼のすべての本が置かれていて、その多くは注釈で埋め尽くされている。しかし、モンテーニュは稀にしか筆を執らなかった。ほとんどの時間は口述させていた。また長時間読書することもなかった。子供時代から慣れ親しんできたギリシャ語やラテン語の作品を読ませていたのである。



vendredi 14 septembre 2007

少し前進 ?



昨日の朝、このところ毎日やっているネットとの接続のチェックをしたところ、やっとのことでつながることを確認。最初にもらった書類には確かに1週間後にサービスが始ると書かれてあるので、これはしっかりやってくれていたことになる。ただ、こちらのナビゲータをインストールしようとしても、なぜかうまくいかない。また今使っている日本版の方も少しおかしくなっている。当分の間は日本語のシステムだけで行くことにする。問題解決が出来ないのと、日本語の方が圧倒的に楽だからでもある。いずれにしても、これまでのフラストレーションのひとつが解決され、ほっとした。

少しすっきりして、滞在許可証を申請に sous-préfecture (私の辞書を見ると 「郡庁」 と訳されているが、都庁に対して区役所のような感じか) へ出かける。半年ほど前にネットで見た情報をもとに揃えた書類を持って。2時間ほど待ってやっと順番が回ってきた。まず窓口でこの書類でいかがですか、という感じで出すと、応対してくれた係の中年女性は、それ何ですか、と言い、まず用件を教えてくれというのだ。確かに尤もではある。ガラス越しにこれから学生になるので滞在許可証が必要なのだが、と言っても横で申請している人の声がうるさくて聞こえないという。こちらもあなたの声が小さくて聞こえないと言うと、これ以上大きな声では話せないと言ってきかない。とにかく学生なら入学許可証を出せと言うのでパスポートとともに出すと奥に消えた。10分ほどして出てきて、あなたはこちらの大学院で哲学を勉強するのですか、大学からずっとこっちで勉強していたのですか、などと、急に手の平を返したように大きな声で話し始め、笑顔になった。許可証の申請には予約が必要になるが、今のところ一杯で、来年の1月でなければ空いていないと言ってから、学生のための必要書類のリストを渡してくれた。

私のところで必要とされたものを参考までに。
1) パスポート
2) 白黒の写真、5枚
3) 戸籍抄本 (宣誓翻訳者 traducteur assermenté が最近訳したもの) 
4) 入学許可証か学生証
5) 銀行の残高証明 (月430ユーロ以上)
6) EDF (電力会社) か GDF (ガス会社 Gaz de France)、あるいは固定電話の3ヶ月以内の請求書

以上である。ところで、ビザは3ヶ月しか有効でないので11月から来年1月までの間どうすのかを聞いたところ、延長のメモをパスポートに張ってくれた。こういうところは融通が聞く。これがフランスか、と聞いたところ笑って答えなかった。アパートと言い滞在許可証と言い、例外的なことが続いている。

午後からは、日本にある銀行の住所変更のためにこちらの在留証明書 certificat de résidence がいるというので、大使館に電話して出してもらえることを確かめてから出かける。電話での話がこんなによく通じると嬉しくなる。大使館では丁度よいところなので在留届も出すように言われる。日本の役所は坦々と事を進めてくれる。今朝のようなダイナミックな驚きはないので面白みに欠けるが、この場合それは必要ないだろう。

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朝、街を歩いている時、自分の視点が低くなってきたな、と感じる。どういうことかと言うと、アメリカで最初の町に住み始めた時、ある時点から視点が低くなってきたことを感じたことがある。それまでは、目の位置がお店の看板のあたりにあり、街を上から見ているような感覚だったのが、街の通りに下りてきて、建物に囲まれて生きているように感じ始めたのである。観光客の視点ではなく、生活者の視点とも言えるのだろうが、自分の中では目の位置の変化として捉えられていた。アメリカの場合、どのくらいでそれを感じたのか正確には思い出せないが、もっと後だったように記憶している。これまで街のポスターなども好奇の目で見ていたが、今では背景の一部として退いてしまっている。

この2年余りの間、全くそのつもりはなかったのだが、ある意味でフランスのことについて予行演習をしていたようなところもある。またこの間、3月、6月あるいは7月、9月、12月とこちらに来ている。これはこちらの季節を予め味わっていたことにもなる。知らない土地に暮らすと、最初の1年は季節の変化を知るのに費やされるということを聞いたこともあるし体験もしているが、図らずもそれを予習していたことになる。

去年の今頃、何をしていたのかハンモックを覗いてみたら、こちらに学会で来てあくまでも旅行者の興奮をもっていろいろなことに接しているのがわかる。そしてその頭には来年の今頃ここでこうしていようなどとは想像もしていなかったこともわかる。今の頭の中は当時の自分とは全く違うものになっている。それゆえ、来年どのようになっているのかなどはわかりっこない、というのが正直なところだ。

今日は少しだけ前に進んだような気になり、ゆっくりしてしまったようだ。



jeudi 13 septembre 2007

未だ問題が



先週、ネットにつなぐ手続をしたはずなのだが未だにつながらない。テクニカルな問題があるのか、サービスがまだ始っていないのか、電話で確かめようとしたがなかなか出てくれない。仕方がないので、むしろこちらの方が話を付けやすいのだが、仕入れたブティックに出向くことにした。話を聞いてみると、契約後1週間ほどかかるのでもう少し待つように言われる。むしろ、ネットとテレビ、あるいはネットと電話を一緒に契約した人の方が早いようですよ、などと理に叶わないことを言っていた。

それから新しい賃貸契約書を持って銀行へ。銀行保証を貰い、賃貸契約を完了するためだ。この間に不動産屋さんと銀行の間で話が進み、保証のためには住所が違っていても受け付けるということになっていたらしい。早速、その保証書を持って不動産屋へ行き、これですっきりだと思っていた。それが覆されたのは、夜になって銀行の方から電話が入り、家主の名前が違うので再度作り直さなければならなくなったという。もともとの契約書にある名前が間違っていたのだ。これもかのダヴィッドの仕業。よくよく考えてみると、彼のお陰でこういうことになっている。なかなか憎めない性格なのだが、仕事がこうだといかがなものか。いずれにしても、もう少し時間がかかることになった。不動産屋から銀行には、今月中に銀行保証が来なければ契約は不成立になります、という脅しが来ていたようだ。これに対しては、今日で一応約束は果たしたことになる。今回の間違いは不動産屋のミスになるので、問題ないだろう。それにしても、契約もなしに住んでいるのだから、例外中の例外になるのだろう。ひとつつまづくとどこまでも、という感じである。



mercredi 12 septembre 2007

大学と周辺で



昨日は朝から大学に行き、哲学科のオフィスに向かう。登録であれば、書類を遅くとも来週月曜までに提出しなければなりません、と何をのんびりしているのという感じである。しかし、Maison Internationale から送られてきた書類を見せると、外国の大学を出た場合は Maison での手続が先で、それが終ると学科の方に情報が行くような話しであった。私の場合は来週木曜20日に Maison に来るよう連絡が入っているので、少しだけ余裕ができたことになる。また、LOPHISS のコースの中で Paris 4 で行われる講義に興味があったため時間を聞いてみたが、まだ時間割 horaire ができていないとのこと。今月末までにはできあがるようだ。いずれにしても、本格的に動き出すのは来週中頃からになりそうだ。

午前中は広場にある哲学書店 Vrin へ行き、時間を潰す。いくつか興味を引いた本を立ち読みする。一つはヨーロッパ精神とは一体どういうものなのかという興味から、Esprits d'Europe : Autour de Czeslaw Milosz, Jan Patocka, Istvan Bibo という本を手に取る。それから、現象学の系譜に属する哲学者を中心に何人かの専門家が書いている本は買い、近くのカフェで読み始める。

お昼過ぎにはそこを出て近くを散策。背広の背中が擦り切れていることを思い出し、お店に入る。いくつか試していると、ご主人が出てきて私が調整しますと言って袖と丈を raccourcir するための留め針を付けてくれる。また、色の選択についてもよいサジェスチョンをしてくれたのでここで買うことにした。それから少し行くと眼鏡屋が目に入 る。こちらに来てから急に近くを見るのに不自由を感じるようになり、そのためか疲れやすくなっているので、視力を測ってもらうことにした。調べてもらうとやはり近くの方が進んできている。気分転換もかねて、新しい眼鏡を作ることにした。結構お高い散策になってしまった。

帰ってみると、やっと正しい住所が書かれた賃貸契約書 bail が届いていた。これで銀行が保証 caution bancaire を出すことができ、アパートの正式契約を終えることになる。また正しい住所を証明する書類が手に入ったので、滞在許可証の申請も可能になると思われる。

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(5 octobre 2007)
 ハンモックを眺めていたところ、ここで取り上げられているヤン・パトシュカというチェコの哲学者に以前にも出会っていたことを知る。3月にパリを訪れた時の記録に残っている。こういう繋がりが見つかると、いつものことながら嬉しくなる。彼の考えにも触れてみたくなっている。



mardi 11 septembre 2007

音楽を聴きながら



こちらに来て、クラシック音楽専門チャネルを流しっぱなしにして何かをする、という贅沢を味わっている。日本の場合、普通のラジオではそういう贅沢は望めないし、音楽を聞いている時の感覚がこちらと違うのだ。最初にその差を感じたのはアメリカにいる時である。彼らの音楽が極々自然に自分の中に入ってくる悦びを覚えたのは。それ以来、いつかはその状態を再現しようとしていたのかもしれない。何がそうさせるのだろうか。環境とは恐ろしいものである。

先週パリ中を探し回って (少々オーバーだが、それくらい近くで家具屋さんは見つからなかった) やっと見つけた机が届いた。 組み立て式なので、一人での作業はなかなか大変。途中から汗がたらたらと流れてきた。普段、歩いてはいるが、全身を満遍なく使ってはいないようだ。支える腕が震えていた。体のことを言えば、こちらに来て手をよく使っているように感じる。いろいろなものとよく接触しているようだ。日本で眠っていたこの手をもっともっと使いたいものである。

ところで、包装にたっぷり使われていた発泡スチロールを処理している時、細かい粒が部屋中に飛び散った。備え付けの箒のようなもので掃除をするがなかなかうまくゆかない。このままにしておくのも気が滅入るので、近くの電気製品の店で掃除機 aspirateur を仕入れる。これで気分がすっきり。これからも掃除をしていこう、という気になっていた。この間、音楽は流れたままであった。この町でのダンボールや発泡スチロールの廃棄は、月・木にまとめてすぐ前の通りにある大きなゴミ箱の横に置いておけばよいという。

そうこうしているうちに、大学に行きそびれる。事務の閉まるのが4時と早いからだ。やはり、家のことは一日に一つか二つくらいしかできないようだ。逆にそれくらいに抑えておく方が体にはよいのかもしれない。



lundi 10 septembre 2007

そろそろ落ち着いて



アパートの方が少し落ち着いてきた。昨日はゆっくり起きて、午前中をゆっくり使い大学のコースを眺める。以前にも書いたが、このコースはパリ第1大学、第4大学、第7大学、それに Normale Sup とも約される École normale supérieure (Ulm) の研究者が参加している LoPHiSS (Logique, Philosophie, Histoire et Sociologie des Sciences) というもので、フランスのみならずヨーロッパでも例を見ない素晴らしいものだと自ら謳ってある。その中に論理学と私がとった科学哲学のコースがある。眺めていると確かに興味を惹くものに溢れている。どのような組み立てにするのがよいか、その調整は難しい。

規定を読んでみると、LoPHiSS 共通の講義として、科学の歴史学と社会学、および科学哲学についてそれぞれ2つとらなければならない。それに科学哲学専攻者の場合、哲学科で行われている他のテーマについての講義と、自然科学の基礎あるいは論理学のどちらか、さらに外国語が必修となっている。私の場合、外国語は外国人向けのフランス語にするつもりだ。大学の方針として、ここで学んだものはその言葉をしっかり使えるようにする、と書かれてある。どうなるのかわからないが、ありがたいことである。いずれにしても読み違いもあるのではないかと思うので、今日、大学に行って詳しいところを確かめてくることにしている。

昨日、私の住む町の案内を見ていたら、日本でも最近盛んになっているがカルチャーセンターのようなものがあり、結構本格的なテーマが取り上げられている。また町のカフェで月に1度、哲学カフェ Le Café Philo もやっているようだ。名前は聞いたことがあるが、どんなものなのか、時間が許せば一度顔を出して様子を見てみたいと思っている。



dimanche 9 septembre 2007

やっと一週間



昨日の午前中は、日本にいる時に頼まれた小文を仕上げる。どうしてこのような道に入るようになったかについて、原稿用紙にして10枚程度にまとめた。これで今まで引きずっていたものがなくなり、心がすっきり。新しい気持ちでこちらに向かい合うことができるようになった。

午後、アパートのどこかからチェロを練習する音が聞こえてくる。空には気球が浮かんでいる。長閑な昼下がり。いろいろあったこの一週間の疲れを癒す。今気付いたのだが、背中に背負ったサックで背広が擦り切れている。少々張り切りすぎて、日本では考えられないくらい歩き回っていたようだ。この張り切りがなくなってきた頃が、落ち着いてきたと言えるのだろうか。


この一週間で、アパートについても細かい発見があった。どうしてこういうことに気付かないのだろうか。例えば、ペーパータオルを台の上に置いて使っていたのだが、そろそろどこかにセットしたいなと思っていると、すぐ横の壁にそのための場所がちゃんと用意されている。野菜などを保存するためにサランラップのようなものを買ってきて処理していたのだが、台所にすでにディスペンサーのようなものがあり、サランラップどころかアルミフォイルまでがすでに入ったもjのがある。今まで全く目に入っていなかったのだ。余談だが、私が買ったラップは伸縮自在のものだったようで、箱も柔らかく切るのに一苦労する。が、それを楽しむようにしている。他にも便利なものがあるのかもしれない。また、ここのエレベータには開けるためのボタンはあるが、閉めるためのボタンがないことに気付く。そんなに急いでどうするの、という感じだろうか。ゆっくりと閉まるそのペースが次第に心地よくなっている。

昨夜もパヴァロッティの歌声がたっぷり流れていた。



samedi 8 septembre 2007

ついに三度目



続くときは続くものである。木曜にネット接続のために立ち寄ったブティックで固定電話の番号を確かめるためフランス・テレコムに電話をかけた。相当に興奮していたと思われる。すべてが解決してほっとしたのか、身分証明のために出したパスポートを貰って帰ることをすっかり忘れていたのだ。夜、パヴァロッティの追悼番組で彼が声を張りあげるところでそのことを思い出した。このところ、身の回りのものに対する執着が全くなくなってきている、あるいは意識の視野狭窄が起こっているように感じている。呆けの始まりでなければよいのだが、、、気付いた時はすでに夜の10時を回っていたので、昨日朝一番でブティックに出かける。幸いオフィスの引き出しに保管されていた。この調子だと、まだ二つ三つと続きそうである。

実は、同じようなことをその昔にやらかしていたことを思い出す。シカゴを訪れている時、タクシーの中にパスポートの入ったバッグを忘れてしまったのである。シカゴの町を考えると、さすがにもう荷物は戻ってこないだろうと諦めていた。その場合、すでに仕事場に出している計画の変更や領事館での届出など厄介なことが待ち受けているので気が滅入っていた。しかし、夜の9時頃だっただろうか、タクシー・ドライバーが荷物とともにホテルに戻ってきてくれた。この時は本当に人間は信じられると思ったものだ。正確な数字は忘れたが、自分としては大金を思わず渡していた。


昨日の夜は、日本で知り合いになったKさんとこちらで初めての日本食レストランで食事をともにした。こちらで学生をやって半年になるという。生活の細かいことをいろいろと教えてもらった。ちょっとしたことが大切になるのでありがたかった。今度は日本からジャズ・プレーヤーが来た時にでもご一緒するということで別れた。



vendredi 7 septembre 2007

いろいろあって、性格判断



海外に出す手紙があるので7-8分歩いて郵便局まで行っていたが (日本やアメリカへの普通郵便の場合、0.85 Eだったと思う)、パリ市内であれば料金が決まっているので、すぐ近くの Presse で切手 (0.54 E) を買って、横のポストに入れれば簡単に済んでしまうことがわかる。あるいは、以前に通っていた正統な道ではないところに近道を見つける。こんなちょっとしたことが、次第にこの街に溶け込んでいっているような気にさせてくれる。

近くのブティックでインターネット接続の手続をしようとしたところ、コンピュータ上にまだ私の電話番号が出てこないという。2-3日前にフランス・テレコムに連絡して、今朝も日本に電話したばかりなのだが、なぜかまだだという。午後、どうしてもつなげたくなり別のブティックへ。やはり、まだ登録されていないようだ。係りの人がさらに名前と住所を照らし合わせてみてところ、番号はすでに登録されているが数字が一つだけ違っていることが判明。住所のこともあるので、私が間違っているとも思いたくないので、その場でフランス・テレコムに電話する。長いやり取りのためか、係りの人が切れそうになっている。そしてわかったことは、今回は私が誤っていたことだ。番号を貰ってから携帯からかけて鳴ることを確かめてあったのだが、あれは夢の中だったのだろうか。そういうこともあるかもしれない。信じたくないが、どうもそうらしい。とにかく、ネットに接続するためのキットは手に入れることができた。使えるようになるには1週間ほどかかるという。こういう間違いが2度も続くと、もう一度くらいは何かありそうだ。

街のサンドイッチ屋さんでお昼を買い、外に坐って食べていると鳩が寄ってくる。中に足の悪い鳩が混じっている。その鳩に食べさせようとサンドイッチの端を投げてやるが、すぐにすばしっこいすずめが来て持っていってしまう。彼 (彼女) 一人になった時にもう一度投げてやると今度は食べてくれた。それから私のもとを離れなくなった ・・・ 通りかかった子供が乱暴に追い払うまで。

ところで昨日銀行で性格診断を受けている時に考えていたことを思い出した。日本の状況は分からないのだが、以下は日本ではされていないという前提での推測になる (日本の状況に詳しい方のご教示をお待ちしております)。そのテストを受けながら、まず日本ではこういうやり方はしないだろう、と直感的に思った。自分の性格を銀行の人に調べてもらう義理などない、と考えるのではないか、あるいは人によっては何と失礼な、と思う人が多いのではないかと考えたからだ。私は全くそういうところがない。ある程度の科学的根拠を基にしたテストだと思うので、どのような結果になるのかむしろ面白がっていたところがある。おそらく、こちらの人にもそういうタイプが多いということなのだろうか。自分をどこか外において眺めるというところがあり、その内容が良かろうが悪かろうが、まず受け入れてから先を考えるというところがあるのではないか。こちらでは、先のことは兎も角、まず科学的な試みをしてみる、という精神が自然に植え付けられているのではないかという想像をしていた。日本の場合は、行員が何気ない話の中で、相手に気を使いながらどういうタイプの人間なのかを探ることはあるような気もするが、どの程度意識的にされているのか、興味が湧いていた。

この経験は、アメリカから帰ってきた時のことを思い出させてくれた。その時のことを端的に言ってしまうと、日本に帰ると頭の中が科学的ではなくなる、科学的思考をしなくても生きていける (ひょっとすると、そちらの方がうまくやって行けるかも知れない) ということを感じ、楽になったのだ。アメリカにいる時には意識していなかったが、生活の底に 「西洋の理性」 のようなものが流れていたのではないか、という思いに至った。したがって、育ちがそうではないと長くいると疲れが出てくるような気がしたことも事実だ。彼らの頭の中がどうなっているのかわからないが、想像するに彼らが科学をする場合同じ平面を少しだけ横に行くだけでよいのだが、われわれは飛んで別の次元に行かなければ科学ができないのではないか、あるいは私の場合、常にその別の次元にいようとしていたのではないかという想いが湧いていた。いずれ彼らと話し合ってみたい点である。

先ほどの性格判断に戻ると、私自身はお金に対しては保守的で、とにかく動かすのが嫌いな方である。事実、日本では何を考えていたのだろうかというくらいに (実は考えていなかったのだが) 何もしていなかった。私は défensif な人間だと思っていた。しかし、テストの結果は、保守的などではなく、offensif な性格と出た。どういうことか聞いてみると、offensif な人は少々の損が出てもそれが増えるまで待つところがあり、プラスとマイナスの幅が大きくても余り気にしないタイプということになるらしい。私がそれほどの offensif な人間とは思えないが、ある程度の根拠があるテストだろうから自らを考え直してみなければならない。あるいは、海外に出ると前面に出てくる性格が変わるということかもしれない。聞いたところでは、offensif という人の中にはプラス・マイナスで20-30%の幅を楽しむ人もいるらしい。確かに、これほどの幅があると心躍るだろう、などと考えるところは offensif の欠片くらいはあるのかもしれない。いずれにしても、いろいろなことを考えさせてくれた銀行訪問であった。

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今日は朝からルチアノ・パヴァロッティの歌 (フィギャースケートの荒川さんで有名になったプッチーニのトゥーランドットなど) がよく流れているな、と思っていたら、彼が膵臓がんで亡くなったことを知る。享年71。ニューヨーク時代にはよくメットやテレビで彼に触れていた。オペラの醍醐味を感じた一つの理由は彼にあったかもしれない。非常に開けっぴろげに見える人柄だが、極めて繊細でどこかに悲しみを湛えているようにも見える。強い印象を残した歌手であった。

オペラの関連でもうひとつ。こちらに来ると日本ではなかなか聞く気にならなかったオペラが自然に入ってくることに気付いている。学生の身であることを考えながら、ニューヨーク時代を少しだけ再現ができないか、などと考え始めている。



jeudi 6 septembre 2007

平穏な朝、そして街へ



今朝は日本への手紙やアメリカに転送のための住所変更を書く。久しぶりに手紙を書いたが、これほど静かで落ち着いた気分で手紙を書くのは本当に久しぶりだ。Email ではなく、手紙を書くという意味を考えながら書いていた。やはり大きく違うことを実感。これまで気になっていたことなので、書き終えてすっきりした気分になっていた。それらを持って郵便局へ。出る時に郵便受けをチェックすると、航空便の荷物が管理人室にあるので早急に取りにくるようにとのメモと不動産屋からの手紙が届いている。早速開けてみると、前のバージョンと私が正しいと思っているものの両方が含まれた不思議な住所となっている。昨日の電話での会話がよく通じなかったのだろうか。早速確かめてみると、お前の言いたいことはわかるが私の方でももう一度確かめてみる、などと言ってなかなか私の言うことを受け入れてくれない。荷物の方はすでにお昼の時間を過ぎていて2時半まではお休みなので、今日は諦めてそのまま出た。

郵便局が終ると一月ぶりに銀行に出かける。正確な住所を不動産屋から貰わなければ保証は得られないので、不動産屋の書類を待つしかないという点で一致。さらにお金の運用などというこれまで考えたこともなかったことについて説明を受ける。聞きながら、こういう世界もあったのかという思いに陥る。運用に当たって、性格判断をされる。どれだけ積極性があるのか、あるいは守りが主体なのか、などということをいくつかの質問に答える中で明らかにするというもの。日本では運用などはやったことがないので、このようなテストをやるのかどうかわからないが、これはお客さんとの行き違いや衝突を避ける意味があるのではないか、などと考えていた。それにしても今まで何をしていたのだろうか。銀行の方の話を伺っていると、結構面白い世界のようである。特に閑ができるとこんなことを考えながら生活するというのも人によっては張りが出るのではないだろうか。よくお年寄りが大金を失ったというニュースを耳にするが、ひょっとすると充分な閑と人間心理がその底にあるような気がしてきた。

これは銀行の業務ではないのだが、その他にも家具を売っているお店やネットにつなぐ方法など、いわゆる生活面のアドバイスもしていただいた。情報が非常に正確でこちらの望むところを押さえていただけるので、初めての者にとっては非常にありがたい。

そうこうしているうちにもう夕方になっている。昨日も書いたが、時間の流れが非常に速い。この調子だと、基本的なところを整えるのは来週までかかりそうである。夜はこちらに来て初めて部屋で音楽を聞く。日本で聞いていたCDだが、全く違うものに聞こえていた。この同じものが環境によって全く異なって感じられるという感覚は私の好きなものの一つであることを思い出す。



mercredi 5 septembre 2007

小さな過ち、大きな効果



このところ時間の流れが速いことに驚いている。そして、昨日は 「いやはや」 であった。

滞在許可証を貰うためには、ある住所に住んでいることを証明するものがなければならないが、今のところそれがないことに気付く。もともとは不動産業者の間違いで異なる住所のまま契約を結んでいたからである。いつものことながら、肝心なことに気付くのが遅いのには呆れてしまう。早速、張本人のダビッドのportableに電話して説明すると、それ本当か、などと呑気なことを言っている。さらに声の調子が高く、弾んでいるのでおかしいなと思ったら、今パリにいない、南フランスでバカンス中なのだと言う。悪いが別の責任者に連絡して処理してもらってくれ、と言って早々に電話を切ってしまった。それから教えられた番号に電話して用件を伝えると、「全くダビッドときたら!」 などと罵りの声を上げながら担当者を探している。その間、何とかするので電話を切らないでという ”Quittez pas !” を何度聞いただろうか。それを聞く度に、向こうの誠意が伝わってきて安心する。やっとのことで担当者が出てきて、正しい住所の入った契約書を送ってくれることになった。

これをもとに銀行保証も作っているので、こちらの書類もすべて書き直してもらわなければならなくなる。銀行の方も、このようなケースは初めてですね、などと笑っている。これがフランスなのだろうか。いずれにしてもこれらの手続が終らなければ、滞在許可証には辿り着かないことだけは確かである。

最初にアパートを見に行った時にひょっとして、という思いがありダビッドに確かめたのだが、最後の詰めが足りなかった。気になったことは疑念が晴れるまで徹底的に突き詰めなさい、というのが今回の教訓だろうか。



mardi 4 septembre 2007

生活準備に動き出す



強い朝の光の中、目覚める。雲ひとつない快晴だが、もう晩秋の寒さである。

昨日から生活するための準備を開始した。午前中はフランス・テレコムに電話して、電話をつなげてもらう算段をする。私が数日前にフランスに着たばかりだという話をすると、受付の女性が 「フランスはお気に召しますか?」 などと聞いてくる。「もちろんです」 と答えると、それ以後の話が非常にやりやすくなる。明らかに私のフランス語に気を使ってくれているのがわかるからである。数日後には使えるようになるとのこと。

それからアパートの管理人のところへ挨拶に行く。中年のご夫妻が担当している (オフィスに坐っているのは奥さんの方だが)。テレビの設定の仕方や足りない家具を仕入れるためのお店などを紹介してもらう。こちらで仕事をされるのですか、という質問が出る。アパートの不具合があればすぐに手配するので、と非常に積極的で安心する。それから、私の住所が少しだけ間違っていたが、ひょっとするとそれで届くのではないかという儚い期待もあったが、見事に裏切られた。すでに配達不能になった手紙の束の中に私宛のものがあったからだ。早急に住所変更を再度出さなければならなくなった。

ひと段落したところで、生活に必要となる小物を買いに出る。これらはすべて歩いて5分以内のところで事足りるので非常にありがたい。また店員さんも同じ界隈の人に対する親しみを込めてくれる。買い物袋を出さないところは稀ではない。すぐ近くの新聞・雑誌・文具中心の小さな店 Presse に顔を出す。一般向けの科学雑誌や日本でもたまに読んでいた文学雑誌、歴史雑誌、さらには哲学雑誌まで置いてある。それぞれ数冊手に取ってみたが、扱っている対象が日本とは異なるので非常に新鮮。大いに興味を惹かれる。これから閑を見てつまみ読みするのも面白そうだ。

午後から管理人に紹介された家具を売っている店に向かったが遂に見つからず。ただ、途中で警察署が目に入ったので、滞在許可証の情報を得ようと中に入ってみたが、残念ながら書類を提出するのは別の場所。地図を頼りにそこに向かったが、すでに締まっていた。こちらは明日の仕事となる。

街を歩いている時、アパートを借りるために必要な caution bancaire の書類がやっと出来上がったとの連絡が銀行から入る。本来ならば、この時点でアパートが正式に借りられることになるのだが、今回はそれを前提にして借りることができたようだ。7月末にアパートを見つけたので、手続が終るまでには一月半はかかったことになる。

現実に追われながら、準備初日も結構歩いた。これからもしばらくは続きそうだ。今週で大体のところは終えたいのだが、、。



lundi 3 septembre 2007

家具付アパートに住むということ



私のアパートは家具付きである。この手のアパートに入るのは生れて初めてのことになる。型通りの家具が付いているアパートであれば、おそらくあっさりと自分の思うがままに使おうという気になるのだろうが、ここは大家さんの好みが強く出ている。どういう訳か、その好みが東洋風なのである。フランス人から見た東洋趣味と言えばわかっていただけるだろうか。実は、最初にここを見た時にその異国趣味が気に入って決めてしまったところがある。しかし、壁の装飾から家具、本棚の本から食器の数々に至るまで大家さんの個性がこれほどまで強いと、どこかで大家さんの家にお邪魔しているというような気持ちにもなってくる。これからどのようにこの個性の強い部屋と付き合っていこうか、どのように自分の要素をそこに組み込んでいこうか。こんな、少しだけ複雑な作業をする楽しみが生れている。



dimanche 2 septembre 2007

初めての朝



このところ感じたことのない静寂の中で目が覚める。音はないのだが静寂という音がそこに存在している。旅に出て山小屋などで迎える朝のような感じだろうか。飛行機雲が混じった空を眺め、鳥の鳴き声を味わう。街はまだ眠りについたままだ。

アパートの Boîte aux lettres に名前を入れる。急にここの住人になったような気分になる。日曜の朝なのでお店は閉まっているが、なぜか花屋さんだけは開いている。独特の雰囲気のお店もあり、時の流れがわかるような植物をいずれ買ってみたい気にさせてくれる。昨日仕入れた携帯で日本に電話してみる。全く問題なく、隣町のような感覚でお話ができる。今日は、何かをやるにしても午後からになりそうだ。しかし、こんな日は日がな空を眺めていたい、そんな気にさせてくれる久しぶりの日曜日だ。



samedi 1 septembre 2007

アパート初日



今朝、9時過ぎにホテルを出てアパートに向かう。入居前のアパートの状況をチェックするエクスパートとともに入る。先ず驚いたことに住所が間違っていた。入り口がひとつで、中に別のビルがありそこが私の住処になっているための誤りであった。これは気になっていて何度不動産屋に確かめても間違いがないと言いはっていたのだが、、。転送のための住所変更を改めて出さなければならなくなった。午後から携帯を買いに近くのブティックへ。話を聞いているうちに面倒くさくなり、少々お高いとの事であったが、最初の数ヶ月はアンガジュマンなしのものにした。これでいろいろな業者と連絡が取れることになった。それからプリンタを仕入れ、お店から歩いて持って帰ってきた。我ながら立派なことである。日本ではこんなことはやろうとも思わないが、若き日のアメリカでやっていたのを思い出したのかもしれない。それからインターネットのことも聞いてみたが、こちらでの生活の証拠がないと難しいようなことを言っていたのでしばらく時間がかかるだろう・・・と思っていたが、今しがたパソコンをつけたところ、ありがたいことにアパートでワイアレス・ネットワークにつながることが判明。当分の間は、これでことが足りるだろう。

今の季節、こちらは9時を過ぎると日が暮れてくるが、今まさにアパート初日がゆっくりと暮れつつあると言ったところか。まだしばらくの間は生活の面で手がかかりそうである。