samedi 31 mars 2007

再びパリへ



2006年3月中旬、花粉症から逃れ、向こうの状況を確かめるために再度パリ訪問を計画。これまでのやりとりから、メールではほとんど埒が開かないということを学習していたので、実際に出かけて直接話をすることにしたのだ。行く前に電話で DL氏との面会の予約を取り、自分の中では最終的な形をつける旅になると思っていた。しかし、新しい場所に移っていた DL氏の研究室で話し始めてすぐに、自分がどのような形で滞在するのかということを決めなければならないことに気付かされることになる。

私の希望は、報酬はいらないが、比較的自由に時間を使いながら数年単位でこの世の問題を考えてみることができれば最高だが・・、というものであった。しかし、DL氏が考えていた招聘教授の場合、報酬はあるが1ヶ月、長くても3ヶ月だけの採用にしかならないという。学生としての可能性も聞いてみたが、私の選択を "une voie singulière" と形容してはいたものの、学生という選択は最初から考えていなかったようだ。彼の時間がそれほど残っていないことも関係あるのかもしれない。話を終え、セーヌ沿いにあるその建物を出て、近くのカフェに入り思いを巡らせる。そして、向こうに長期滞在するには学生になるのが一番実現性があるのではないか、あるいはそれしかない道はないという結論に達した。

今回の面談も滞在が残り3日というぎりぎりのところで行われた。早速、学生として受け入れてくれる可能性のありそうなところを調べ、残り3日間で回ることになった。またしても突撃である。最終的には4ヶ所を回り、そこの秘書とは話すことができた。どういう訳か、御本人たちは一人も仕事場に顔を出していなかった。その中に、無愛想で対応が厳しいのだが、隣の部屋でやっている講義を聴けるように手はずを整えてくれたり、履歴書だけでも置いていったらどうですか、と言ってくれる秘書がいた。今から振り返ると、いかにもパリジエンヌというこの方、やることはきっちりとやってくれていたことがわかり、なぜか嬉しくなるお人柄である。

そもそも学生になろうなどという考えはなかったので、フランスの教育制度がどうなっているのかなど調べたこともなかった。しかも一般の学生になるのか、大学院で学ぶのかということも全くつかめなかった。より正確に言うと、大学院生としての資格があるのかさえ、よくわかっていなかったのである。しかし、それぞれのところで秘書の方と話しているうちに、向こうのシステムが次第に明らかになり、大学院生として学ぶことも可能であることがわかってきた。同時にそれは、自分がやりたい領域を絞り込み、さらに指導を受けたい教官を探さなくてはならないということを意味していた。秘書の人たちが苛立ちを隠さなかったのは、自分の目的が漠然としていて、一体何をやりたいのか、したがって誰のところで研究したいのかがわからなかったからである。そんな人のお相手をするのは御免ですよ、ということだったのだと思う。

この間、具体的には以下のような経過であった。EHESSでは、入学担当の人と話をする。こちらの経歴を話すと、マスターとして研究できるかもしれませんよ、と言ってくれる。大いに元気が出る。そのためにはプログラムを見て、指導教官に希望する先生と連絡を取る必要がありますという貴重な言葉をいただいた。翌日、プログラムの中にあった先生がいるCAKに出かける。しかし、先生は不在。日本に帰ってから連絡を取るということで秘書室を出た。さらにEHESSに関連している先生がENSにいたので2日続けて訪ねてみたが、いずれも不在。それから、ENSそのものの哲学科の秘書室に行く。天井に届く壁一面に本棚があり、そこに哲学書が埋まっている。部屋に入ると初老の男性が秘書と話をしている。その話が終ってから自分の希望を伝えると、こちらではマスターの学生は受け入れていないので、別のところに行った方がよいと教えてくれる。部屋を去る時、先ほどの初老の男性が、その計画面白そうですね、ソルボンヌ辺りでは受け入れているはずですよ、などと外国訛りのフランス語で話しかけてくれた。

その日、自分の希望する領域の先生が揃っているIHPSTに行こうかどうか迷っていた。実はその前日に訪問したが、その扉ががっちり締まっていて開かないので諦めていたのだ。しかしENSの秘書が電話してから行ってみたらどうですか、というので電話してみる。すると、扉の横のボタンを押さなきゃ駄目です、との返答。ここで先ほどの秘書に出会ったのだ。それから日本に帰る前日には、P4の哲学科にも寄ってみた。そこの秘書は、少し話を聞いたところで、それならまずディプロムの交換をやっているオフィスに行って書類のことを聞くことが先決、と教えてくれた。残念ながら金曜の午後は扉が閉まっていたので、日本に帰ってから連絡を取ろうと考えて雨の街に出た。

このような経過で、日本に帰ってから、どの先生が一番自分の興味をカバーしてくれるのかじっくり検討してから、メールを出すつもりでパリを後にした。


jeudi 29 mars 2007

2006年暮、DL氏とランデブー



DL氏とのランデブーは2006年も押し迫った27日。それは私が日本に戻る前日であった。ランデブーの前に、DL氏に何を伝えればよいのか、一応のリストを作っておいた。メトロを降りると、大学の建物がすぐ目の前にあった。当然のことだが、案内をもらっていた研究室のあるビルに入っても人影はほとんどない。この時期に時間を割いてくれたDL氏に感謝していた。部屋に入ると温厚そうな顔が私を迎えてくれた。そして彼は 「私に何を求めているのですか」 と切り出した。私はフランス語を始めてから今に至るまでの心の軌跡を説明する。どの程度理解されたのかわからない。しかし、彼は非常に興味を示し、こちらで行われているいろいろなセミナーに参加したり、今年の秋にパリで開く予定にしている日仏の会議もあるので参加すると面白いのではないか、などの肯定的な話が続いた。

その会話の中で、論文などを書くのもフランス語を深めるためには興味深い経験になるかもしれないという考えが一瞬走った。それをどういう表現で口に出したのか今思い出せないが、彼はやや驚きと好奇心が入り混じった表情で、院生になりたいのですか、と聞いてきた。もちろん、フランス語での論文など考えられないので・・・と言葉を濁していた。それにしてもあなたの人生は他に例のないものですね、という意味を込めた "une vie singulière" という表現で私の選択を彼は表現していた (その時、singulier の持つもうひとつの素晴らしい意味を知ることになった)。この会話の中で、自分はこちらのどこかの大学に身を寄せて、自分の求めることを好きなように考えてみたいという漠然とした考えしか持っておらず、どのような立場で来るのかということについては何も考えていないことに気付き始めていた。

DL氏の研究室が来年早々には引越すことになっているとの話だったので、翌日の出発前の時間を使って新しい場所を見て帰ることにした。来年はここのどこかで学びの道を歩いているのだろうか、などと考えながら寒さをものともせず構内を散策し、期待を胸に夕方の便でパリを後にした。


mercredi 28 mars 2007

パリの大学訪問とある事務官のこと



2006年12月はじめにDL氏にメールを出したが、返事が来る気配がない。一方、MDからは研究所で前例はないが私のような立場の人を客員の形で採用できる可能性はありそうだという連絡が入っていた。ということもあり、年の暮れに向こうの様子を見るため、厳寒のパリで2週間ほど過ごすことにした。

まずMDに挨拶をするために彼の研究所を訪問。研究所の状況を説明される。それから友人の哲学者に助言をもらうこともできるが・・・と言って彼女のホームページを見せてくれたが、専門が違うようなので、まずDL氏のいる大学に行ってみることにした。ほとんど突撃である。

とにかく構内に入り、事務がありそうな所に入る。学生で溢れている。事務員が出てきたのでDL氏のことを尋ねてみたが、そんな人はここにはいないとつれない反応。別のキャンパスに送られる。メトロで降りてその方面に歩いてみたが、大学らしい建物になかなか出くわさない。何度か往復し諦めて帰ろうとしたが、折角ここまで来たのだからと思い、再び戻って建物の近くに行ってみる。案内図に何と Sapporo と名づけられたビルがあり、これは何かのサインではないかなどと考えながら中に入る。ここでも事務らしきところを探すのに一苦労。ほとんど手当たり次第に聞いて回るが、なかなか見つからない。そして最後に入った部屋で親切な人に会う。

彼は私の希望を叶えようと必死に探してくれた。この間、私はDL氏の統括するセンターなるものが実体のない組織ではないかとさえ思っていたので、この事務官には何度ももう探さなくていいですよと断った。しかし、彼は一切それを聞かなかった。そしてわかったのは、何のことはない最初に訪ねたキャンパスにDL氏の研究室があったのである。さらに彼は私のためにアポイントメントまで取ってくれた。DL氏の秘書が電話に出ているのでお前が直接話をしろと言う。こちらの状況を説明すると、あなたのメールや書類のことはDL氏は知っていて興味を持っているので、来週こちらに来てほしいという。その日はパリを離れる前日になる。それならそうと言ってくれればもっと余裕を持って計画できたのに・・・という思いであった。またこの世界には私のような者も受け入れようとするところがあることに驚き、心を強くしていた。振り返れば、この事務官の執拗さがなければ今につながっていなかったかもしれない。彼との出会いには何か不思議なものを感じている。

ということで、どうなるかわからないが、とにかく進むべき道が見えてきた。解放され、満ちたりた気分で近くのカフェに入り、長い一日を振り返る。その時、自分の体の周りが、目には見えない液体で溢れ、この体を圧迫するように感じていた。これまで何度かこういう感覚が襲ってきたことがある。それはいずれも外国での経験になるが、自分が大きな分岐点を前にしていると意識した時である。日本にいると、あたかも決められているように感じる道を何気なく歩んでいるところがあるのだろうか、そのような経験をしたことはない。近くの席では日本からの留学生と思われる女子学生二人が勉強のことを話している。そしてカフェを出た時、目の前には真っ赤に染まった空が広がっていた。今日の写真である。この空を見た時、完全に自分は包まれている感覚に陥り、ほとんど運命的なものを感じていた。ああ、俺はここに来て学ぶことになるのだろう、と。



lundi 26 mars 2007

そして一線を踏み越える



これからどう生きるのが自分にとって一番自然なのか、その中で仕事の持つ意味とは何なのか、というようなことを考える中で、思索を中心に据えた生活をしてみたいというぼんやりとした願いが次第に膨らんでいることに気付き始めていた。そして、2006年11月に入った頃だろうか。自分の思うようにこの精神を働かせてみようとする時、いわゆる仕事を続けることは障害にしかならないのではないか、とはっきりと意識できたのだ。そして、これからの数年を放浪 (物理的にも精神的にも) に費やすことができればどんなに素晴らしいだろうという思いに至った。これまで仕事が忙しいということですべて先延ばしにしてきた諸々の問題について、自分の持っているすべての時間を自由に使って考えてみたいという強い思いが立ち上がってきたのである。

それからパリの友人MDにメールを出し、私の決断を伝える。その中には、パリをベースに世界を観察しながら歴史、哲学、科学について自らの考えを深めていきたいと綴っていた。彼からは特に驚く様子もなく、それは素晴らしい、ただ生活のこともあるので自分の勤めている研究所でそのような人を採用する可能性がないか探ってみると書かれてあった (実際に報酬の出るポジションは難しいとの連絡が後ほど入ったが)。無理と分かっているような可能性について、真剣に検討してくれる彼の心には感謝しかない。また、どこまでも可能性を追究するというその姿勢には、いつも見習わなければと思わせてくれるものがある。

この時期に、こんなこともあった。私がお手伝いをしているP協会の会長をされているW氏が訪ねてこられた。氏はパリに長く、もう70歳は優に超えていると思われる。話題が科学になった時、氏は向こうの科学者が研究を進めていくと最後は神を考えなければならなくなる人が多いですね、と切り出し、科学とそれ以外の領域との関連に強い興味を抱いているということを話された。私が科学を少し上から眺めてみたい、哲学や宗教との関連について考えてみたいという希望を持っていることを伝えると、氏はそういう道を選択する人がいるということを非常に喜ばれ、青年のように私を励ましてくれた。また、日本にはそのあたりの専門家が少ないとのことであった。

こんなエピソードもあった。私は2年以上前からお昼の時間を意識的に散策に使うようにしている。そしてこの年の11月のある日、 近くの本屋に入った。どういう訳か棚の前に柱があり、棚の本がよく見えないところがあった。しかし、あるいはそれゆえ、その向こうが気になり覗いてみた。するとそこに 「科学哲学」 というクセジュの文庫本が置かれているのが目に入った。ページを捲ってみると、各章が短くて物語性に乏しく、全体がつかみにくい本だな、というのが第一印象であった。それから著者の紹介を見て、私は反応していた。その人がジョルジュ・カンギレム・センターの責任者だったからである。

私が科学を哲学的視点から見てみようと思うようになったきっかけ、もっと正確に言うと 「科学哲学」 なる領域があるということを知ることになったのは、今から2年前になる。2005年3月、パリから友人のMDが訪ねてきた時の何気ない会話に出てきた 「ジョルジュ・カンギレム」 という名前にあったのだ。それを彼が "Georges Canguilhem" と綴ってくれた時、実に不思議な感じがした。そういうことは今まで余り経験がない。今振り返ると、それはどこかに導いてくれる扉だったような気がする。その時は全く意識していなかったが、、。

とにかく何かの縁を感じて、センターを統括しているDL氏に私の希望を伝えるべくメールを出してみることにした。その時、どこかに向けての第一歩を踏み出したとはっきり感じていた。



jeudi 8 mars 2007

仕事の意味を考える



2年ほど前からこれから先をどのように生きていくのが自分に一番しっくり来るのかを考え始めていた。当時は、これから5年、10年と今の仕事を続けることができれば、と漠然と考えていた。2005年夏にパリの研究所で1ヶ月ほどを過ごした。今から思えば、研究を少しだけ遠くから見始めているようには思えるが、研究を続けるという気持ちに変化は出ていなかった。実際、2006年春には、仕事を続ける環境を求め、外国にあった大学に実際に出かけてみた。その大学の15-6名と会って話をうかがい、まわりの環境などもこの目で見ることができた。最終的に形にはならなかったが、現場で自分がどのように反応するのか、これからの仕事がどういう状況のものになるのかということを実感できた。この経験は、今の仕事の継続が要求するものを考える上で大きな意味を持つようになる。

2006年秋にはパリで会議があったので、2週間ほど滞在。帰国後のある早朝、時差ぼけのため目が覚めた。将来意味を持ってくるだろうと感じてその時刻を控えておいた。それは9月21日午前3時35分のことである。その時、それまでおぼろげに日本には欠けていると思っていた、ヨーロッパ精神の三大要素の一つにも数えられている 「科学精神」 について少し踏み込んで考えてみてはどうかという声が聞こえたのだ。「科学精神」 ということになれば、その発祥となるギリシャ哲学にまで遡って考えざるを得なくなる。そして、それ自体が哲学の歴史を遡ることに繋がる。大きく言えば、人間のこれまでの歩みを辿る壮大な旅になる。一生かかっても終着駅に辿り着かないような壮大な旅に。これこそ今まで仕事の中で埋もれてはいたが、私の底流で深く静かに求めていたことではないのかと、すぐに直感したのだ。それは広く考えることへの憧憬と言ってもよいものだろう。しかしこの時はまだ、それを具体的に実現しようという思いは現れていなかった。

それから秋が深まり、大学で教える可能性についても検討していた。大学で教えるという道は、自分の中では優先順位の高いものではなかったが、実際にその環境に入って考えてみることにした。ある大学の構内を歩いている時、このような大学での仕事の余暇に人類がこれまで考えてきたことを深めることができれば、という思いが浮かんでいた。ただ、実際の仕事の内容を聞いてみると、それをするには時間が足りなすぎるというのが結論であった。

これらの流れとは別に、仕事が終わりに近づくにつれ、それまで完全に仕事の海に浸りきるようにして生活していたその意識が、次第に海の中から浜辺へと出て行っているのがわかった。それは同時に、今まで浸っていた海を外から見ることになり、それ以外の山や森や街などの景色も目に入ってくることにつながった。私の中のこれらの変化は、人生におけるいわゆる仕事の意味を問い直すところに導いたのだ。この広い世界の中において、これまでやってきた仕事というのはどの程度の意味を持っているのだろうか、少なくとも今まではそれに100%の情熱を注いでいたのは間違いないが、人生全体を通してみた時にどのような意味があるのだろうか。そう考えるようになったのは、いわゆる仕事の終わりだけではなく、自らの終わりをも意識できたことによる。それは、これからどのように仕事をしていくのがよいのか、という問ではなく、残りの時間全体をどのように使わなければならないのか、つまり人はどう生きるべきなのかという哲学的な問題として生れて初めて私の頭を悩まし始めていた。


vendredi 2 mars 2007

いつからそういう想いが芽生えていたのか?



最初にフランスに住んで何かをしてみたいという思いを感じたのは、いつ頃だろうか。おそらく2003年7月のことではないかと思う。フランス語に出会ってから2年目のことである。その時、1週間だけパリに滞在する機会があり、午前中を語学学校でのフランス語学習に、午後を仕事に当てるという計画を立てた。学校では、グループ学習と2-3回の個人授業という構成にした。まだフランス語との付き合いも真剣なものではなかったので授業は大変であったが、いかにもフランスという教室は解放感があり、そこで聞くフランス語は美しく感じた。グループには、ブラジル、オランダ、スイスからの3名、パリ滞在中の日本の方と私の5名。彼らとの語らいは気持ちのよいものであった。個人授業では自分の周りと頭の中が完全にフランス語で溢れ、まるでフランス語の海に溺れているような感覚に襲われていた。そして、その思いはこの個人授業で中年の女性教授と話をしている時に浮かんできた。

外国に行くと、しばしば自分の中に眠っているものが吹き出すことがある。外国にいる間だけ、自分の頭の中に生きている錯覚に陥ることがしばしばである。彼女はその時、なぜフランス語を始めたのですか、さらに続けて、こちらで仕事をしたいのですか、という質問をしてきた。この二問目の質問が私に大きな変化を与えた。それはそれまで考えてもいなかったか、あるいは心のどこかにその芽はあったのだが不可能だろうと決め付けて考える範囲の外に置いていたことであった。しかし、何気ない調子で発せられた彼女の言葉の中に、フランスでの仕事を不可能と考える理由など何もない、ありえないことなど何もないことなのですよ、という空気を感じてしまったのだ。それで咄嗟に、できればこちらで仕事をしたいのですと答えていた。これには自分でも驚いていた。さらに彼女は続けた。午後は仕事と言っていますが、それはこちらで就職先を探しているのですか、などと先走ってくる。この問にはもちろん NON と答えたが、それも面白いかもしれないなどと、その考えを遊んでいた。

学校が終わり、日本に帰る。そして、夢の世界からいつもの日常に戻ってくる。その日常に埋もれているうちに、実現性のないその話は頭の底に沈み、そのままになっていた。