vendredi 25 septembre 2015

旅人を癒す会話、そしてパリの町を書斎に

25 septembre 2008



今日は明日に備えるため、外に出ることにした。Nationでメトロを降りる。少し歩くとテントを張ったマルシェが10軒ほど出ている。その中でソーセージ を売っているところを2-3軒眺め、その店の主と言葉を交わす。2軒目で今日の写真の方に出会った。最初は写真をしつこく撮っている私の方を胡散臭そうに見ていたが、最後はこの笑顔になっていた。

どれも硬そうですね、と話しかけると、ソーセージは古くなり硬くなったものほどよいのだと言う。水分が抜け、味が出てくるというのだ。それはまさに人間と同じですね、と返すと、彼が大きく笑い出した。話が通じるとでも思ったのだろうか、心を開いてくれたようだ。そして、人間では sagesse も出てくるし、などと答えて、それから話が進んだ。どこから来たのか、から始まり、今何をしているのか、に行き、それじゃよい滞在になりますように、で終るその会話の中でいろいろと教えられた。

私が哲学の国フランスで哲学を勉強したいと思ってやってきたと言うと、哲学者や作家のことを話し始めた。例えば、16世紀の「ガルガンチュア物語」などは、書かれている中に作者の哲学が溢れているので面白い、いいですよ、と言う。私が、「あー、それはラブレーの」と言うと、いや違う「ラブレーの」だと答えていたので、Rの発音がまだできていないようだ。そう言えば、この夏のヴァカンスで入った学生時代の書庫でこの本を見つけたことを思い出した。おそらく、筑摩書房の世界文学全集?のようなもので、読んだ形跡があった。それからディドロに始まり、モリエールコルネイユラシーヌ、フランソワ・ヴィヨン、最近ではセリーヌなどがいいと薦めてくれ、フランスには哲学者だけでも多いのに、文学者の中にも哲学的なのがいるので、誰を選ぶかが大変だろうと心配してくれていた。何気ないところでこういう会話ができることは嬉しいものである。そこを離れて歩いている時、これは旅人を慰め和ませてくれる会話ではなかったかと思っていた。それからカフェを2軒梯子して明日の準備をした。もちろん、終るところまでは行かなかったのだが。

最近固まってきたかに見える観察に、次のよう なものがある。具体的な手作業をするのではなく、考えが浮かぶのを待ったり、出てきた考えを羽ばたかせたり、収斂させて形にしようとする時、机に坐っているよりは外で人の動きを見たり、景色を眺めながらの時間の方が捗ることが多い。毎回、気分に任せて場所を選び、このような活動に苦しみと悦びを見出すには、パリの町は持って来いのところのように感じる。ある意味では、パリの町全体を書斎にしているような生活と言えるかもしれない。



 Le saucisson nature roulé dans la cendre de bois. La cendre donne un goût légèrement poivré
.

彼の店には30種ほどのソーセージが並んでいた。一応、写真にはすべて収めてきたが、その中で注意を惹いたのがこの「サンドレ」。通の方であればどうと言う こともないのかもしれないが、あれっと思った。木の灰の中で回して作るようで、その灰が微かに胡椒の味を齎してくれるとの説明がある。



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mercredi 23 septembre 2015

パリに来た当初からカフェとの相性が良い。ここにあるように、カフェはわたしが省察とか瞑想という精神運動をやる時に最高の空間を提供してくれた。カフェがなければ、これほど豊かな滞在にはならなかったのではないか。これまでを振り返れば、パリの街自体を書斎としてやってきたことが分かる。

脳のベースラインの活動として、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)というものが見つかっている。この活動は外からの刺激に対応するというタイプ (task-positive network)ではなく、何の目的もなくぼんやりしている時に起こるもので、これが瞑想などと関連があるという話も出ている。さらに、それは人間の想像力や創造性にも良い影響を与えている可能性があるという記述も見られる。

デフォルト・モード・ネットワークとは DMN: Default Mode Network
(2010-02-28)

わたしがパリにやって来たのは、実はぼんやりするためだったと総括することもできそうである。






jeudi 24 septembre 2015

混沌からある秩序へ ・・・ そして早くも再び混沌へ

24 septembre 2008


Jacques Vergès (avocat français et anticolonialiste)
né d'un père réunionnais et d'une mère vietnamienne le 5 mars 1925 en Thaïlande


朝起きてまず口にするのはジュースだ。そして今日そのジュースを飲んでいる時、1年が経過してある落ち着きを見せ始めているな、と感じる。こちらに来た当初 はいろいろな種類を試していたが、今では桃・アプリコット (Pêche-Abricot)の味が一番しっくり来ることがわかり、反射的にそこに手が伸びるようになってきた。そう言えば、アメリカで生活を始めた当初、オレンジジュースの味が馴染まず困ったが、その味に慣れて帰った日本で飲んだミカンジュースは最早口に合わなくなっていたことを思い出す。

パンも最初はバゲットばかりだったが、すぐに硬くなるのでいつまでも柔らかいパンを選ぶようになった (ficelle au fromage は1-2日で食べてしまうので問題にはならない)。しかし最近になり、あの硬いバゲットを齧らないと元気にならないような気もしてきている。また、時間を 味わうためにたまに口にするシガーの場合には、何分学生の身、選択の余地がない。ラジオの番組もクラシック、ジャズ、ポップスのチャネルが特定のところに 決まってしまった。この落ち着きもよいが、また何らかの混沌を求める気持ちも芽生え始めているようだ。


実は今日はお昼に書いたここで終るはずであった。・・・ ところが、

外出から帰った夕方メールを開けると指導教授からのお知らせが届いていた。私のメモワールの soutenance (英語で言えば defense)を金曜の朝からやるので、準備しておくようにとのメッセージである。2日前に連絡が入るところは如何にもフランスか。それにしても本当に不思議なくらい、いろいろなことがつながるものだ。当日は指導教授ともう一人の方が面接するという。10-15分程度で、メモワールの要点(メモワールで 問題にしている疑問点、そこに至る道筋、それから主な結論)をエクスポゼした後にディスカッションに入るものと思われる。以前に書いたと思うが、なぜこちらの国民教育省がやるDALFの試験があのような形態を取っているのかがよくわかる。あの試験で予行演習をやっていたようにも感じる。

このメールで改めて気付いたことは、まだ1年目は終っておらず、2年目を語る時期ではないということである。いずれにしてもこちらの学生生活、いつも何らかのプレッシャーがあり、なかなか心底ゆっくりできる時間はなさそうだ。考えてみれば生きていることそのものがそういうことかもしれない。何とも思わなく なっているこの生きているということこそ極めて危ういことだろう。それが理解できると、すべてを受け入れるしかないこともわかってくる。



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lundi 21 septembre 2015

昔の好みのジュースは桃・アプリコットだったのは覚えている。最近では、それが刺激の少ないだらしない味に感じられるようになり、オーソドックスなオレンジジュースに戻っている。

M1でのスートゥナンスの連絡が入ったと書かれてある。7年後の同じ時に、テーズの提出締切りの念押しの連絡が入った。それができなければスートゥナンスはなくなるが、締切りを目前にして未だ出来上がる目処が立っていない。やればやるほど、やるべきことが見えてくる。体力が決め手になるが、非常に危ない状況である。






mercredi 23 septembre 2015

エドガール・モランさんと再会する "Mon chemin" d'Edgar Morin

23 septembre 2008


  
" Mon chemin " d'Edgar Morin


トルビアックの方に足を伸ばした帰りにFnacに入り、いつものように哲学セクションに向かうと新刊書が立てかけられている。そこに見覚えのあるお顔を見つけ、読み出すと止まらなくなっていた。モランさんとは正月以来だ(2008-01-03)。実は昨年3月にこちらに来た時に、イタリア広場のカフェで新聞を読んでいる時に、何処のモランさんかは定かではないが、「モランさんですか?」と声をかけられ、さらに新聞を読み進むとモランさんの話が出てくるという不思議な経験 (2007-03-17) をしている。小さな領域に閉じこもっているのではなく、全体との兼ね合いでこの世界を見なければならないという彼の考えに共振して以来、気になる存在であった。1921年7月生れなので、現在87歳。

エドガール・モラン (Edgar Morin, né à Paris le 8 juillet 1921)

最初の章で彼の母親、Luna さんについて熱く語っている。彼が10歳の時に、心臓に持病を抱えていたルナさんが突然亡くなり、大きな衝撃を受ける。それが以後の彼の人生を決めたようだ。彼が50代に入ってから父親からもらった手紙で、彼が生まれなかった可能性や生まれた時も最初の鳴き声を出すまでお医者さんがウサギのように持って全身を叩き続けたことを知り、その記憶が時に蘇り息苦しくなることもあるという。自分は本質的には何者か?と問われて、息子と答えている。亡くなった母親の息子であり、そして父親の。

人生を振り返ると、10年単位で何かが起こっていると総括している。10歳で母親を失い、20歳で死を賭してレジスタンスに加わる。30歳で共産主義と決別し、時間と自らのテーマに自由が与えられる研究生活に入る。40歳でラテン・アメリカが彼の視野に入ってくるが、その翌年ニューヨークで昏睡状態に陥るも生き返る。48歳から50歳にかけてカリフォルニアのソーク研究所に呼ばれて、インテレクチュアルに再生す る。60歳を前にして現在の妻 Edwige さんとの新しい生活に入る。70歳でソ連の崩壊とグローバリゼーションを経験し、そして80歳の2001年には教育問題に取り掛かり、特にラテン・アメリ カでその実践に入っている。90歳の時にはどうなっているか、本人も楽しみにしているようである。

最後に彼の座右銘を聞かれ、14の戒律をあげている。その中で私にも響いたものを5つだけ。

● Tout ce qui ne se régénère pas dégénère.
  (再生しないすべてのものは退化する)

● S'attendre à l'inattendu.
  (予想もできないようなものを待ち構える)

● Résister à la cruauté du monde et à la barbarie humaine.
  (世界の残酷と人間の野蛮に抗する)

● Aimer le fragile et le périssable.
  (脆きもの、儚きものを愛する)

● Renaître et renaître jusqu'à la mort.
  (死の際まで生まれ変わり、そして生まれ変わる)


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dimanche 20 septembre 2015

「モランさんですか?」と声を掛けられたことを思い出した。まだ、フランスが新鮮な時期であった。

当時はモランさんも87歳。今年で94歳になっている。これまでモランという人間については少しずつ触れてきたが、そのお仕事に向き合う気力が湧いてこなかった。こういうことがよく起こるが、これから向き合うことはあるのだろうか。

こちらに来てよく触れた哲学者はそれほど多くないが、モランさんはそのお一人。晩年に書かれたものはこれからも折に触れて読み直すことになると思うが、、。







samedi 12 septembre 2015

ヌアラ・オファオレイン、マックス・ギャロのことなど Nuala O'Faolain - "Vie de Voltaire" de Max Gallo

12 septembre 2008


 Emilio Trad
 
 
昨日の暑さもどこへやら。今日は秋らしい。午後から研究所へ。仕事を始める前に、いつも飲み水を取ってから席に着くのだが、今日はそこにあったル・モンドの読書特集にあったDarwinの文字に目が行ってしまった。Darwin関連のところも読んだのだが、その他に "savoir-vieillir" という言葉も目に飛び込んできた。そこで取り上げられている小説は、今年になって知ることになったアイルランドの作家の作品 "Best Love Rosie" の仏訳。

ヌアラ・オファオレイン Nuala O'Faolain
(1er mars 1940 à Dublin - 9 mai 2008 à Dublin)

彼女のことを知ったのは、ル・モンドにある文学ブログ "La république des livres" の中であった(話はずれるが、このブログを見ていると毎回数百のコメントが寄せられているので相当に人気があるようだ)。そこでは、癌を持ちながら最後まで戦ったスーザン・ソンタグ Susan Sontag (16 janvier 1933 - 28 décembre 2004) と対比して、治療を拒否して68歳で逝った彼女のことが紹介されていたからである。vieillir とまでは行かない歳で亡くなられた彼女は、この小説で vieillir についてどのようなことを言っているのだろうか。

彼女が亡くなる前に行ったインタビューを以前に聞いていたが、改めて聞き直してみた(その内容はこちらで、感情溢れる肉声はQuick Time Player でこちらから聞くことができます)。特に印象に残ったところを以下に。

6 週間前まで幸せな生活を送っていたが、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた。脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であると告げられた時には一瞬にしてすべてが真っ暗になった。ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ。不治であると告げられた時、治療を受ける時に感じるだろう自分の無力さ、恐怖、そしてその結果得られる生の質などを考え、化学療法に進むことはできなかった。その価値はないと思った。マンハッタンで手に入れたばかりのそれまで素晴らしいと思っていたアパートも全く意味のないものになった。プルーストもこれまで2度読んでいて最近読み直したが、そのマジックは消 えうせ何も感じなかった。人生に感じていた美しさが消えていった。死後の世界も神も信じることもできないし、神の庇護を受けたいとも思わない。周りの人は神を信じているが、私にとっては全く意味がない。病気がわかってからヴェラスケス、ゴヤなどをプラドで見て過ごしたマドリッドでの素晴らしい日を思い出すが、もう一度とは思わない。ニューヨークのアパートに行って別れを告げたい。人間は死を考えて生きていない。死が目の前に現れると全く別の人生になる。この経験で感じていたことは、絶対的な孤独である。誰に頼むこともできない。すべてのことを自らが受け入れなければならないのである。人生で大切なものは passion (情熱)であると以前書いたが、今では少し馬鹿げてみえる(a bit silly)。人生で大切なものは健康と reflectiveness (思慮深さ、熟考しようとすること)。辛いのはこの世界と別れを告げなければならないこと。今、世界が私に背を向け、あなたはもういらないと言われたよう に感じる。同病の人へのアドバイスは?と訊かれ、NOと答えてインタビューは終っている。

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ル・ モンドの中を散歩しているうちに(やはり紙の方が数段好い)仕事の精神状態に戻れず、当初の予定が大きく狂ってしまった。以前であれば、あっさり途中でやめて終わりにするか、目もくれないところだろうが、今ではこれも仕事の一部だとでも思っているのか、修正が効かなくなっている。興味の迸りには逆らわない ようになっている。その点では時間の使い方が贅沢になっていると言えるのだろうか。そう思いたいところである。

その影響からか、研究所からの帰りはいつもと違う道を通ってメトロまで向かった。が、途中で魅力的な本屋さんを見つけ中に入ると目の前に "Moi, j'écris pour agir" (私は行動するために書く)という文字が飛び込んできたのでよく見ると、Vie de Voltaire となっている。立ち読みすると、いきなりヴォルテールやダランベールの私生活が出て来て面白そうである。昨年アカデミー・フランセーズに選ばれたばかりの Max Gallo が書いている。彼はフランスの歴史に残る人物を書き続けているが、話を聞いていると非常に情熱溢れる人で、捲くし立てたり、たまに切れそうになることもあるが、どこか憎めないところがある。メトロの近くのカフェに入り2時間ほど読んでから帰ってきた。ギャロの描くヴォルテールは十代から独立心旺盛で、文の人として立つという燃えるような意志を持っていた。父親から将来何をやるのか訊かれそう答えると、何が文の人だ、と相手にされない。そんな道は社会の役にも立たないし、親の脛を齧って最後は飢え死にするのが関の山だ、と反対される。やはり面白そうである。

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マックス・ギャロについては以前にも触れています。
MAX GALLO A L'ACADEMIE FRANCAISE (2007-06-01)



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mercredi 9 septembre 2015

アイルランドの作家のことは手元の記憶からは消えていた。勿論、この記事を読み直すと蘇ってきたのだが、。彼女の場合、これから先に大きな希望をもって生活 していた時だったため、尚更絶望が深かったのだろう。すべてに意味を見い出せなくなっていた様子が痛いほど伝わってくる。

その中で、 「人生で大切なものは、健康とreflectiveness」 と言っている。今のわたしには本質を突いた深い分析に見える。当時のわたしは、reflectivenss を思慮深さとか熟考しようとすることと訳している。しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのかについて理解していたとは言い難い。その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を理解し、体得したと感じているからだ。その経験から reflectiveness を日本語に変換するとすれば、第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること。そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい。

それでは、振り返るという作業を何を言うのか。それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出し、紡ぎ出すこと、テーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである。こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった。こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である。ここで、「哲学とは言葉の意味を体得することである」というフォルミュールを提出したい。

この視点から世の中を見ると、reflectiveness が著しく減弱しているように映る。ただ、本当に世の中が変わったのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか、それは分からない。ただ、少なくとも今のわたしからは、この世が深みのない、何とも貧しい世界に見えるようになったことだけは確かである。







vendredi 11 septembre 2015

勇気がありますね

11 septembre 2008



この夏、前に勤めていた研究所の同年代のW氏、N氏、さらに先輩のI先生と元所長S先生とで食事をする機会があった。池を望む林の中にある、どちらかと言えば若者向けの場所だろうか。昔話あり、パリの話あり、日欧比較ありで楽しい時間であった。忙しい時間を割いていただいたことに改めて感謝したい。

以前にも少し触れたことがあるが、昨年夏、私がこちらに来ることを話した時に寄せられた言葉で最も多かったのは「自由人!」だったが、それに次いで多かったのが「羨ましい!」であった。しかし、こちらに来てフランスの科学者に同じ話をすると、ほとんどの場合 "Vous êtes courageux" (勇気がありますね)という言葉が返ってきて、その反応の違いに驚いていた。おそらく、日本の同僚の「羨ましい!」には、好きなことを自由に時間を使ってで きることに対するあるニュアンスが込められているが、こちらの人の反応には、途中で道を変えてこれからその道で生きていくのは大変でしょうね、という心が あるように感じていた。ひょっとして日本人の私は歳よりも若く見られているのではないだろうか。

ところがこの夏、同じ言葉をS先生から聞 いた時には不思議な感慨が湧いていた。日本人でこのような反応をした人はそれまでいなかったからである。どのような意味で言われたのか定かではないが、この試みの中に少なからず真剣味のようなものを見ていただいていたとすれば、ありがたいと同時に大変なことをしているような気になってくる。やはり、自由人として羨ましがられているうちが花なのかもしれない。


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mercredi 9 septembre 2015

幸いなことに、退職前の研究所の方々とはそれ以後もほぼ毎年食事会を持っている。渡仏1年目の会でS先生から「勇気がありますね」と言われたことは忘れていた。わたしの中では自然の流れだったので、こちらに来ること自体には全く抵抗がなかった。ただ、どのような学生生活が待っているのかについては想像もできなかった。結果は荒波の中の航海になったので、その意味では勇気があったと言えるのかもしれない。

当初から、こちらの生活が本当のものなのか、仮のものなのか、あるいはこれを本当の生活にするのか、仮のものにするのかについての迷いがあった。つまり、日本にいると仮定した自分が本物で、こちらにいる自分は仮のものだと捉えることもできたということである。その場合は、気楽にやればよいことになる。それに対して、こちらの生活を本当のものだと捉えた場合は、上の記事にもあるように真剣さをもって生活しなければならなくなる。

このジレンマが消えたように感じたのは、ここ1-2 年のことである。これから9年目に入る学生生活だが、それを終えた時には専門家の予備軍ということになるのだろう。甚だ不十分だと感じてはいるが、そう自らを捉えて動かなければならないような気がしている。ちゃんと終えることができるのかどうかはまだ見えていないが、いずれにしても長い瞑想生活から社会に出ようとしている人間と捉えることもできる。これから動的生活に入るのか、これまで通り瞑想的な生活に重点を置くのか。それはまだわからないが、一つの大きな転換点が待っていることだけは確かである。






mercredi 9 septembre 2015

ロバート・ハッチンズ 『偉大なる会話』 のこと "The Great Conversation" by Robert Hutchins

9 septembre 2008
 


昔を振り返るようになった数年前から、ある考えがぼんやり浮かんでいた。それは、私が今のような道に進むことになった根のところにある一つのものが、実はこの本との出会いだったのではないかというものだ。この夏再会した本の中にその姿を確認した。

     ロバート・M・ハッチンズ著 『偉大なる会話』 (田中久子訳) 
     (1956年初版第1刷、写真は1965年第8刷、300円)

著者のハッチンズは30歳でシカゴ大学の総長になった人で、古代ギリシャに始るヨーロッパ精神を学ぶ重要性を説いている。その一つの方法として、ヨーロッパ の思想家が著した彼の言うところの「グレート・ブックス」180冊余りを読むことを薦めている。序文は、当時の東京大学総長南原繁が書いている。訳者はシカゴ大学で心理学を学び、出版当時は東京で大学院生をしていた田中久子さん。

この本を買ったのは大学に入った年の夏になっている。そして、その中にあった「リベラル・アーツ」という言葉に心躍っていたことをはっきりと思い出す。その言葉には生きる力を自分の中から引き出してくれるような不思議な魅力が宿っていた。当時は専門家を離れて人間として鍛えながら生きましょうという言葉に同意はするものの、端からその実行など叶わないものだと決めて掛かっていたようだ。


以下に、傍線が残っているところからいくつか。

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・・・エール大学医学部のH・Sブア Burr 博士の言う通り、「科学の素朴な仮定の一つは、われわれは秩序ある世界に住んでいる、ということである。その秩序とは、解明することができ、また相当に正確な定義を与えることのできる基本的法則の運営によって決定され統御されている秩序である。この仮定は、形而上学---人間の知性によって会得され、人生問題解決に有効に利用されうる普遍的法則の体系---の存在を肯定するものである。」


 決定的な誤りは、どんなものでも他のものに比較してみて、より重要であるということはないという考え方、また善なるものの間に序列はありえないし、知的領域においても序列はありえないという考え方にある。そこには中心になるものもなければ従って周辺に来るものもない。第一義的なものもなければ、第二義的なものもない。基本的なものもなければ、外面的なものもない。すべてをつなぐ紐帯となるものが存在していないために、教科課程は支離滅裂である。その善悪を判断する規準を持ち合わせていないために、枝葉末節、凡庸、職業主義などというものが幅を利かせる。健全な課程に取って代わるものとして、われわれは、人柄(パーソナリティ)、「人物」(キャ ラクター)、偉大なる教師などといった教育無用論のスローガンぐらいしか提供するものを持ち合わせていないのである。
 ここで哲学は、高等教育では二重の役割を持つことが理解されるであろう。教育者は自分たちの哲学観によって、どのような教育を施すかを決定する。学生はまた哲学によって、自分の道徳的、知的、精神的基礎を築かなければならない。私もまた哲学によって、教育の目的は叡智と徳性にあり、この目的にわれわれを接近させないような学科は、大学に設置されてはならない、という結論に達するのである。


 学生に社会的責任感と責任遂行の欲求を持たせたいと思うなら、この目的達成のためには、何はともあれ歴史、哲学の教育、そしてこれらの分野を理解するに必要な訓練をその学生に施さなければならない、ということである。


 そこでわれわれは社会批判と社会活動の規準を持とうとするなら、またそれが感情的な規準に堕することを防ぎたいと思うならば、その規準は哲学や歴史の研究、またこれらの分野でまともに思惟する習慣から出てこなければならない。



  情緒主義とは、同胞の役に立ちたい、という非合理的な欲望である。それは時に思考力を持たない人、あるいは思考しようとしない人々に取っては、気に入りの、また救いとなる特性としてあらわれる。しかし、情緒主義者は実際には危険人物である。かれは自分の誤謬を指摘しかねないあの知性というものを信頼しな いのである。かれは自己の意志こそが何よりも優先すると信じているが、実はそのことが彼を危険に陥れているのである。かれは一体何を欲すべきか、ということを知らない。またどういうわけでそうしたものを欲しがっているのか、ということが分からないのだ。


 大学は、学習に興味を持ち、かつその素養のある学生だけを収容すべきである。もしも、国家と教育制度の理想が、理性に照らして編みだされた公共の福祉にあるのなら、職業教育は大学から姿を消すであろう。現在の世界情勢に関する詰め込み式知識を授けるためにだけ設けられた学科も共に姿を消すであろう。・・・・
 この知的課題というのは大体次の三分野に分けられる。形而上学的・神学的と呼ばれるものも包含するいわゆる哲学的な基底に横たわる諸問題、医学・工学の問題をも包含した科学的な諸問題、法律・行政の提示する問題を包含した社会科学の諸問題、の三通りである。


これらの書物には単に伝統そのものが含まれているだけでなく、伝統の偉大な解説者たちもそこに含まれているのである。かれらの著作は、芸術と、自由学芸(リベラル・アーツ)の典型であり、ホワイトヘッド Whitehead の言う「偉大さの永続的な幻影(ヴィジョン)」をわれわれの前にさし示すものである。それに鼓舞されて、あらゆる時代の人々は自己を自己以上の存在にまで高めてきたのであり、だからこそこれらの著述は存続したのである。R・リヴィングストン Livingstone は、「われわれは、日々の大部分を凡俗なものに縛りつけられている。このような状態にある時こそ、偉大な思想家と偉大な文学に触れることが大切である。たとえかれらと交わっても、われわれはなお俗世間の中にあるのだが、それは姿をかえ、叡智と天才の目を通して観られた俗世間である。かれらと交わることにより、かれらのヴィジョンのあるものがわれわれのものとなるのである。」と言っている。


 といっても、大著述(グレート・ブック ス)には全然難解な点がない、というわけではない。アリストテレスがいったように、学問には苦痛が伴うものである。ある意味においては、どの大著述も常に 読者の頭の程度を上回るものである。つまり、読者がその書物を完全に理解しつくすということは決してないであろう。だからこそ、大著述は繰り返し読むことができるのである。まただからこそこれらの書物は偉大な教師なのである。つまり、大著述は読者の注意力を要求し、読者の知力を終始緊張させるのである。


  ここでわれわれが提唱しているのは永続的な自由教育である。たとえある個人がその青春期に最上の自由教育を受けたとしても大著述(グレート・ブックス)と 自由学芸(リベラル・アーツ)を通じての永続的教育はかれの義務として残るのである。子供の時に一生涯持続するような教育を貯蔵できるはずはないのだから、青年期にかれのなしうることはその生涯を通じて自己を教育しつづけることを可能ならしめるような訓練と習慣を身につけることである。不断の成長は知的生活にとって不可欠である、というジョン・デューイの言葉に同意せざるをえない。


 それにしても、ここには重大な問題が残されている。われわれは何を目標として生きるべきか?よき人生とは何か?どうすればよき社会を実現させることができるのか?将来の迷路の中を導いてくれるものと して、われわれは歴史、哲学、文学、美術から何を学びとることができるのか?
 これらの問題は大抵の場合自由学芸(リベラル・アーツ)、人文科 学、社会科学などに伝統的に委ねられている領域に属する。もしこれらの書物を通じて、あるいは他の方法を通じて、世間一般の成人たちが、これらの諸問題を 重要だと考えるようになり、この部門の学者たちが実際にこうした問題と取組み、国中の多数の家庭でこうした問題が議論されるようになったら、次のふたつのことが起こるであろう。まず、知的にすぐれた若者、思想をもった若者がこういう問題の研究に一生を捧げることは、ちょうど今日、科学者や技師になることが 尊敬に値するのと同じく、尊敬に値することとなるであろう。そしてさらに、自由学芸の学部や人文科学や社会科学の学者たちは、必要とするあらゆる援助を受けることができるようになるであろう。

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力が湧いてくる言葉に心躍っていた昔が蘇ってきて、つい長くなってしまった。彼の考えに見られる、こうあらねばならないという強い立場に少し抵抗はあるものの、そのエッセンスにはほとんど賛成である。しかし、問題はなぜ彼の予測が外れているように見えるか、ということだろう。この現実を前に一体どのような問を発すればよいのだろうか。非現実的には、仕事をすることを止めると彼の言うことがよく分かるようになる、とは言えるだろう。自分がそれを実感しているからだ。その時、本当になぜ生きているのか、という問にぶつかるだろう。これは何度も引き合いに出しているが、この世はすべて気晴らしであるというパスカルの観察が的を得ているように感じる。人はその気晴らしの中で一生を終えるのだ。しかし、その気晴らしを取り払った時に頼ることができるのは、ハッチンズも語っているように人間に対する知になるのだろう。いや、仕事を辞めなくとも、一旦、今いる立場を離れ、自分の専門を離れて見ようとする時、この問題が目の前に現れるだろう。そういう意思こそが、哲学に導くのかもしれない。新しい世界を開く力をわれわれに与えてくれるのかもしれない。そこに至るためには、どうしても非日常的な世界に身を置くことが必要になるような気がする。非日常の中にこそ、日常を豊かにする何かが隠されているように感じる。物理的にも、頭の中だけでも 「離れよ!」 ということがそのためのメッセージだろうか。そういう立場に身を置く意思の持ち主が増えない限り、気晴らしの中で生を全うしようとするだけでは満足しない人が増えない限り、この状況は変わりそうにない。


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mardi 8 septembre 2015

哲学を専門とする人は、いつの時代でもマイノリティである、という言葉には真理がありそうだ。哲学にはどこかとっつき難さがあり、それがなくても不自由なく生きていけるからである。一方、哲学や文学を含む自由学芸に触れると言った場合、それほどの抵抗感はないのではないだろうか。ただ、その対象が古典という ことになれば、話は少し違うのかもしれない。古典の場合、現代人の書とは違い、理解するための時間が必要になる。そのため、忙しい現代人が面倒だと感じても何の不思議もない。

記事にも書かれてあるが、この本を読んだ時に抵抗を覚えた理由の一つに、どこか上の方からこれは読まなければ駄目ですよ、と諭されているように感じたことがある。それ以前から「必読書100冊」などと銘打たれると、それだけで読む気が失せるところがあったからである。 これはすべての人の理由になっているとは思えないが、上に挙げた理由とともに何らかの影響を及ぼしているのではないだろうか。いずれにせよ、ハッチンズ博士の主張が広がっているようには見えない。

その道になぜわたしが入ることになったのか。それは、古典の中にしかわたしが求めるものはない のではないかという直観のようなものが生まれ、その道を歩みたいという全身から湧き上がる熱を感じたからである。人から言われるのではなく、この身の中から純な姿で現れたからである。このようなことはひょっとすると生まれて初めてのことだったかもしれない。そうなると、止まるところを知らなくなる。それは嬉しい大転回であった。

そこには、ほぼ半世紀前に出遭い眠っていたものがその眠りから覚めて蘇ったという風情がある。その出遭いがあったからこうなったとは言えないのだろうが、こういう繋がりが見えてくるのは実に味わい深いものがある。







lundi 7 septembre 2015

ダーウィンに再会する

7 septembre 2008



先日、 学生時代に読んでいた本との出会いがあったことについて書いた。書庫の中では、こんな本を、あるいはこんな本まで読んでいたのかと感じ入っていた。その中 に次の本がある。本を見ると見覚えがあるが、すべてを読んでいるとは思いもしなかった。また、進化ということについて当時興味を持っていたことを知り、嬉 しくなった。それは長い間どこかに置き忘れてしまった興味で、最近再び蘇ってきたものでもあるからだ。以下に、当時注目していたところからいくつか引用してみたい。培風館という出版社も懐かしい。


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駒井卓著 「ダーウィン ―その生涯と業績―」 (培風館) 昭和34年初版

「自分の生活は時計仕掛けのようなものだ。固定されたところで終わりになるだろう」と自分で言ったとおり、彼の日課は、全く判で押したようなものであった。
  朝は早起きで、冬などは夜の明け切らない間に近所を一まわりする。帰って七時四十五分ごろひとりで朝食を取って、終るとすぐに仕事を始める。八時から九時 半までが、一番元気のある、仕事のよくできる時間である。九時半になると、客間へ出て来て手紙を見る。もし親族などからの手紙があると、音読してもらっ て、長椅子の上で聞く。そんなにして十時半ごろになると、また書斎に戻って仕事をはじめ、十二時か十五分過ぎまで続ける。それで一日の仕事は終ったつもり になり、「よく仕事ができた」と満足げにいう。それから晴雨にかかわらず散歩に出かける。

 午後三時ごろ、手紙が済むと二階の寝室に入って長椅子に横になり、巻きタバコを吸ったり、小説や科学以外の本を人に読ませて聞く。・・・四時半から一時間ほど仕事をする。そのあとで客間へ出て来てし ばらく何もせずにいて、六時にまた寝室に入って、小説を読んでもらったりたばこをすったりする。

 夜はひどく疲れて十時ごろには客間を退き、十時半床に就く。しかしなかなか寝つかれないで、数時間も不眠に悩むことが多い。

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 書物などもいっこう体裁をかまわず、大きすぎて持ちにくいと、勝手に真ん中から半分に割ったり、論文などは不要の個所を破り捨てたりする。つまり彼の考えでは書物を道具の一種だと思ったのである。
  自分の仕事の参考に読むべきものは、あらかじめ一まとめにして棚の上に積み上げておき、読むにしたがってほかの棚に移してゆく。そうしながらいつまでも読めないものの多いことをよくこぼした。読み終わったものがたくさん積み上げられると、それからいちいち内容の書き抜きにかかる。そしてそれらを整理して紙 鋏みの中に分類してしまっておいて、いつでも出せるようにした。
・・・
 参考書からの書き抜きは、著書の中に自在に引用される。彼の書物を書くときのやり方は、いつもだいたいきまっている。書きはじめる時、かなり骨を折って全体の骨組みを作る。まず二、三ページに要領を書いて、つぎにそれを数ページまたは十数ページに広げ、さらに広げるというやり方である。それからいよいよ本式に書きはじめると、一気呵成に文章などかまわず書き流す。この時はたいてい古い原稿や校正刷の裏に乱暴に書く。それをさらに好い紙に一行あきに書き直し、存分に訂正を加えたうえで、人に写し取らせ、印刷所へ送る原稿 にする。

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「もし父の労作生活の特性を知ろうとならば・・・」
息子のフランシスは、父の追悼文の終わりにこう書いた。

 「かれが病弱のうちに勉強したことをつねに心に留めなくてはならぬ。それも自分で病苦を訴えることなくじっとこらえていたので、子供さえどれほど父が悩みとおしたかを知らないほどだった。・・・じっさい、母のほか、父の堪え忍んだ苦悩の全部と、その驚くべき忍耐の全部を知るものは、だれもいない。」

「とにかく私はここに繰り返していう。父はほとんど四十年の間、一日として常の人の健康を味わったことはなく、彼の生涯は、疲労と病苦に対する長期戦であったということが、その全部を特徴付けるものである。」

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「私には、例えばハクスレーのような賢い人にいちじるしい、事物をすばやく把握する能力も機知もない。それで私は批評家としてはだめである。人の論文や著書を読むと、初めはたいてい敬服する。よほど考えた後でないと、その弱点がわかってこない。私には長い純抽象的思索をやってゆく力はいたって乏しい。それだか ら哲学や数学をやっても、とても成功はおぼつかなかったと思う。」

「総決算して良い方の部に入るのは、注意を逃れやすいような事物に気がつき、それをこくめいに観察することにおいて、一般の人にまさっていると思う。また事実を観察蒐集するために勉強することは、ほとんど極度に達した。さらにずっと 重要なのは、私の自然科学に対する愛好心が変わらず、しかも熱烈であったことである。」

「この単なる愛好心は同学の生物学者にほめられたいという野心でたいぶ助長された。わたしは少年時代から自分の観た事を何によらず理解したい、あるいは説明したい、すなわちすべての物をある一般法則の下に概括したいという強い願望をもってきた。」

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ハクスレーは、ダーウィンの逝去を聞くとすぐに、つぎのような弔辞を『ネーチュア』に寄せた。

「ダー ウィンと対話するとソクラテスを思い出さずにおられなかった。どちらにも、だれでも自分より賢明な人を見出したいという願いがあり、道理の勝利を信ずる心があり、かつ、つねにユーモアを解する余裕があり、他人の身上や行いについて、関心をもった。ところがこの現代の賢哲は、自然界の問題を、理解の道がない として捨ててしまうかわりに、ヘラクリツス(Heraclitus)やデモクリツス(Democritus)の精神をもって、これを研究することに生涯を捧げ尽くし、その報酬として、予想が事実の影であったことを知りえたのである。」

「チャールズ・ダーウィンほどよく闘ったものはない。また、君ほど幸運であったものもない。君は偉大な真理がふみにじられ、狂信者から悪くいわれ、全世界から嘲られることを経験したが、幸いにもおもに君自身の力によって、その真理が科学界に動かない地位を得、人類の常識の一部になり、ただ少数のものが嫌い恐れ非難しても、実際には何事もないえないまでになったのを、その生前に見たのである。人としてこれ以上の望みがありうるだろうか。」

「ここまで思いをめぐらせてくる時、再びソクラテスの面影が期せずして現われ、その尊い『アポロジー』”Apology” にある終わりのことばが、ちょうどチャールズ・ダーウィンの決別の辞でもあるように、われらの耳に響くのである。

『去るべき時は来た、われらはわれらの道を行く。われは死し、なんじらは生くべく。どちらがよいか、知るは神のみ。』」


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20代後半にアメリカに向かう時、それまでの自分をどこかに置いていったようだ。
意識的かどうかわからないが、それまでのことを忘れようとしていたのだろうか。
そしてこの夏、その忘れていた昔の自分に出会ったのだ。

そこにある何かに真摯に向かおうとする姿を見て驚いた。
それは捨て去るべきものだったろうか。
今、それを問うている。
答えは出ないだろう。
ただ言えることは、その頃の自分に今再会できて満たされているということだけである。




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dimanche 6 septembre 2015

こちらに来てからの講義では進化論が絡んでくるものが多かった。生物学は進化の光の中で見る他はないので、考えれば当然のことである。残念なことに、現役の 科学者の時にはこのことを深く理解していたとは言い難い。何も考えてこなかったのではないかという疑念がこちらで浮かんだことも事実である。しかし、興味をもって少しは読んでいたことが分かり、目を開かされたことを思い出す。また、

ダーウィンの日課はいつごろのものなのだろうか。後半生のような 印象はあるが、、。仕事は2時間を2回、それに1時間を1回という日課。わたしの集中力も2-3時間で落ちてくることに気付いたので、2時間を1単位として考えるようになった。終生健康に問題があったダーウィンと比べるわけではないが、もう少し集中できても良さそうなものだが、、。

それから、ダーウィンが才気煥発なタイプではなく、じっくりものを観察したり、調べたりするのに向いていると自己診断していたというエピソード。そのことで懐か しく思い出すのは、ニューヨークの研究所で恩師だったイギリス人EAB博士である。博士も自分のことを、頭の良いタイプではなく、slow thinker であると診断し、ダーウィンのような科学者を目指していると付け加えた。それ以来、slow thinker という生き方に興味を持った。ひょっとすると、パリでの生活は slow thinker としての生活なのかもしれない。こんな具合に過去と現在が繋がっているのが見えてくると、いつものことだが頭の中を涼風が吹き抜ける。






dimanche 6 septembre 2015

その翌朝に

6 septembre 2008



昨日の再試のせいか、この季節のせいかわからないが、夏休み気分や腰掛け気分は消え失せ、この土地の生活者のような感じになっている。浮ついたところがなくなり、妙に落ち着いている(神妙になっている)のは気持ちが悪い。

今朝起き掛けに、これまで考えていたことが塊になって現れたのでメモに控える。こういう時に思うことは、起きるタイミングで浮かんできたのか、浮かんだから目が覚めたのかということだ。無意識の中でも思索が進んでいて形になるということを信じたい節がある。このあたりの科学についてはフォローしていないが、科学的にはどうなっているのか興味があるところだ。

日本ではブラックで飲むことのなかった珈琲だが、こちらに来てからはエスプレソに慣ら されたためだろうか、ミルク入りが気持ち悪くなっている。朝、インスタントで我慢しながら、昇る朝日を眺める。ゆっくりと静かに秋が深まっているのを感じ ながら・・・。日本でいただいた風鈴をバルコンに据えてみたが、この時期の音色には寂しさが付き纏う。

この一日はどんなことになるだろう か。思い返せば、日本ではこのような時間がほとんどなかったことに改めて驚く。今日は、今朝浮かんだ塊を砕いて見やすい形にするためにビブリオテクに向か うことにする。それがダイヤモンドになるのか(こんなことは、まず起こらない)、路傍の石になるのか(これがほとんど。どうしてそんなに興奮したのかと思 うことばかり)、結末を見ることにしたい。

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(20h01)

今朝出 かける時に何と形容したらよいのかわからないが、全身からモヤモヤが消えていくような、洗われるような感覚が襲ってきた。結果はどうであれ、気になってい た何かが終ったためだろう。高い秋の空と頬を撫でる風を感じながら、久しぶりに突き抜けるような気分になっていた。もちろん一瞬のことであったが、、、


雨の日もあれば 晴れる日もある
そのすべてを味わいたいものだ
雲の上はいつも晴れ
しかし さらに進むとそこには漆黒の闇が待っている
この星からの眺めは やはり素晴らしい


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samedi 5 septembre 2015

どんな結果であれ、気になっていたことが終わるとすっきりした気分になる。それがよく分かる記事である。7年後の今、まさにその気分を味わえるのかどうかの境目に立っている。これまで何度も同じようなことを経験してきたが、この時期が一番嫌な時になる。そして、すべてが終わると何であんなことに悩んでいたのかと 振り返ることになる。大袈裟に言うと、それは生まれ変わり、脱皮の時期に当たるので、苦しいながらも喜んで耐えなければならないのかもしれない。

この記事に書かれているように、目覚めの時期にはいろいろな考えが浮かんでくる。それから寝る前のベッドの中、洗面中やシャワーを浴びている最中に同様のことが起こる。これらはそれ以前と一線を画しており、ある意味では移動の中にあるとも言える。これまでの経験から、その時に記録しておかなければ、その考えはすぐにどこかに跡形もなく消えていくことを学んでいる。例えば、寝る前に浮かんできた考えなどは年を重ねるに従い、考えの中身だけではなく、そんな考え が浮かんだということさえも記憶から消えていく。それらの中には参考になることも少なくないので、必ずメモを取るようになった。

7年前の一日は、哲学的生活の一日と形容しても良いのかもしれない。
こう言った哲学者がいた。
「哲学者かどうかは哲学的生活をしているか否かの一点で決められる」と。

いつも旅の中にある、移動中であるという感覚も重要な要素かもしれない。
旅に出ると、目の前に展開するすべてが新鮮に見えるというあの感覚である。






samedi 5 septembre 2015

自己嫌悪の中、再試を受ける

5 septembre 2015



昨日は外に出て関連の本を読み、帰ってからも遅くまでやる気にならず。今朝は5時に起床してから少し眺めた後、大学近くのカフェに向かいさらに読む。教室には10時頃に着いた。3名ほどいる。他に2つのクールの試験用に紙が張られているが、人はいないので午後からだろう。

今回も基本中の基本の問題が出たが、それだけに難しい。このクールは最も科学に近いが、それだけに空想が広がらないので、今ひとつ好きになれなかったもの だ。そのためかどうかわからないが、ヴァカンス前にはこの夏じっくり読みましょうなどと計画は立てていたのだが、毎日メモワールに精神が向かっていて結局 ここに来るまで手付かずであった。そして当然のことだが、不本意のまま終ってしまった。まともにやっていなかっただけに後味が悪い。これからも続けて読んでいかなければならないだろう。

大学内は今もまだ休みの雰囲気があるためか、こちらもゆったりした気分で話し始めた(諦めも交じっていたか?)。先生の方もそうなのだが、突っ込みは相変わらず厳しい。その度に自己嫌悪に陥っていた。そんな中、口頭試問についてはっきりわかったことがある。 それは、フランス語で話をしなければならないという思いが強すぎで、難しい、大変だと感じていたのだが、私のフランス語レベルでもちゃんと聞いて話を進め てくれていることである。つまり、話すこと自体は余り問題にならないということである。問題は、そのために準備が浮き足立ってしまい、話すべき内容が整理 されていなかったことの方だろう。要するに、平常心でやるしかなさそうだ。

終った後、近くのカフェで本やノートを見直してみたが、突っ込まれたところは私のノートにもメモされていたので、ごくごく基本のところが理解されていなかったということになるのだろう。知識を問われる問題については、何度も触れておかなければ記憶に残らなくなっているようなので余り好みではない。こういう時は、今の立場をどのように捉えたらよいのかを考えてしま う。つまり、これまでの自分をもとに考えると何でこんなことをしているのかということになる。もっと自分の興味に沿ったことを、それだけをやればよいのではないのか、という声が聞こえる。一方、学生という立場だけに目をやると、与えられた課題についてはそれをマスターするように努めるのが当たり前になる。 まだ、その間を行ったり来たりしていて自分の中でも徹底されていないように感じていた。少し離れてみれば、一方にだけ身を置くにはいろいろな歴史の澱が溜まっていて難しそうにも見えるし・・・。

秋が深まっていく広場を静かに眺めながら、そんなことを考えていた。それからMDにメモワールの コメントをお願いするために研究所まで出かける。ビルの前で立ち話をしていた研究室の二人と挨拶をしていると、ポルトガルから来て25年になるというAFと連れ立って彼が戻ってきた。来週初めまでにはコメントを寄越してくれるとのことでありがたい。ところで、AFとは春の会議で個人的なことを少し踏み込んで話していたので、大きく腕を前に出し握手を求めてきた。こういうところはなかなか気持ちがよい。

それからビブリオテクに行き、科学関連の論文をPDFでおとし、その中に新たな繋がりが見えてこないか探っていた。帰りはトロカデロで降り、食事をしてから帰ってきた。久しぶりのことである。


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vendredi 4 septembre 2015

再試の記事を読み直すと嫌な感じが押し寄せる。ただ、7年も経つと、そんなこともあったのかという気分であることも確かである。ここに書かれてあることには理解し難いところがあるが、自分の立場をどう見るのかについて考えていたことを思い出す。つまり、それによって生活の仕方が変わってくるからである。

こちらに来た当初は、観光気分が半年くらい続いたのではないだろうか。それは勉強しに来たのではなく、こちらの様子を見に来たということである。その場合、大学はさておき、見学が第一になる。それに対して、あくまでも学生として来たのだとすれば、大学の勉強が中心の生活になる。

そもそもを思 い出せば、最初から学生になろうと思っていたわけではなく、それ以外のことをやるための方便であった。それがあるために、アンビバレントな気分を引き摺っていた。これはかなり長い間続いたのではないだろうか。最終的には最初の気分が優勢になり、これだけの長きに亘る滞在となった。そして今、学生本来の生活に戻らざるを得なくなり、苦しんでいるということになっている。

しかし、今の苦しみは仕方のないことではないだろうか。最初からこのよう な生活をするために来たのだとしたら、何ともつまらない滞在になったはずだからである。今の精神状態からここ4-5年の状態を思い出しても、なぜそれが可能だったのか分からないくらい浮き浮きした状態であったことが分かる。おそらく、これからも当時の気持ちを再現することはできないのではないだろうか。それくらい貴重な経験をしたのだから、今は諦めて耐えるしかなさそうである。






 

mercredi 2 septembre 2015

科学の現状 La situation actuelle de la science

2 septembre 2008



久しぶりに大学に行ってから研究所へ向かう。その途中、研究所のMDにばったり会う。久しぶりだったのでメトロ近くのカフェまで戻って2時間ほど話をする。私は近況(メモワールや大学での様子、満足度など)を話し、彼の方は雑誌のレフリーの異常な細かさ(本題とは余り関係のないことまで実験をやらせようとするなど)について苛立ちを漏らしていた。現状ではインパクトの高い雑誌に出すことと若い研究者のキャリアが自動的に絡んできている。これが科学のやり方と して健全なのかという疑問がある。これと全く同じ問題提起をMartin Raff氏(免疫学から神経科学に転向した方で、いずれの領域でも画期的な仕事をされている。また、仕事場をカナダからイギリスに変え、2001年65歳で定年になった)が7月4日号のScience誌でしている。この雑誌のエディターもそう考えたようで、その号のEditorialでもこの問題を取り上げていた。傾聴に値する意見だと私も考えていたのでその記事をあとでMDに送ったところ、Martin Raffであればそう言うのは全く驚かない、彼はそれだけ優れた科学者なのだ、との返事が届いていた。

科学の成果を雑誌に発表しようとする時には、仲間の評価を受けるという(ピア・レビュー)システムを考えたのは科学者である。この行き過ぎを修正するのも科学者でなければならないだろう。 そして、その背後にある科学者の評価の問題も大きな問題になる。優れた研究がインパクトの高い雑誌に出るというのではなく、そういう雑誌に出た研究は優れているという論理になっている。強いから勝ったのではなく、勝ったから強いのだというあの論理である。それでレフリーの言葉にひれ伏して仕事をし、そうすることが恰も優れた研究者のようなことになっている。科学をする快活な悦びが失われ、ゲームに堕している。どう見ても異常ではないだろうか。よい企業は多 くの不動産を持っている、不動産を持っているから優良企業だという以前の銀行の論理と重なって見えてしまう。つまり、よい研究なのか悪いかの判断を研究者ができなくなっている可能性がある。どこに発表されたかだけが問題になり、科学の内容について論じ合うこともなくなっているのではないだろうか。銀行が破綻したように、そういう科学(者)はいずれ破綻するのではないかという危惧を抱く。

もう一つの話題は、フランスの研究機構INSERMで変革の予兆があり、その様子を見守っているとのこと。現在一つであるものをいくつか(5-7つくらい)のテーマ別に研究機構を作り直そうとしているようである。もしそうなれば、彼などはそのうちの一つを任される可能性があり、大変だろう。

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(3 septembre 2008)

本文中に引用したMartin Raff氏のNature Medicine誌による紹介記事を読む。その中に興味深いコメントが残っていた。仕事を辞めることについて聞かれて、彼はこう答えている。

"I can't tell you how much I'm looking forward to it. I've been planning it for years. It's made the last five years just wonderful, knowing that I'm going to retire. There's nothing odd here, people do retire at 65. The Americans have lost their way by giving up on retirement."

「私がどれだけ定年を待っていたかわかりません。何年もそのために計画していたのです。辞めることがわかって、最後の5年間はただただ素晴らしいものになりま した。65歳で定年になるのはイギリスでは何らおかしなことではありません。アメリカ人は引退を放棄することによって道に迷うことになりました」

今の日本はアメリカの後を追っているようだ。人生には限りがある。科学的な問には限がない。それにけりを付けてくれるのが定年だろう。彼は残りの時間を少なくとも二つの問題について考えて過ごしたいという。一つは安楽死の問題。もう一つは精神分裂病について。若き日にボストンで臨床神経学をやっていたことと 関係があるのだろうか。

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(9 septembre 2008)

ヴァ カンス中に届いていたScience誌を見ていたところ、8月22日号のコメントにこの記事の本文中に書いたこととほぼ同じ認識の持ち主を見つける。"High-profile journals not worth the trouble" を書いているイェール大学のジョエル・ローゼンバウム氏である。彼の研究室では、どんなに重要な発見でもScience、Nature、Cellというよ うなインパクトの高いといわれる雑誌には出さないことにしているという。これらの雑誌で見られる競合をしなくても他に充分に優れた雑誌があるからだとしている。

それからこのような異常な競争を助長している背景に、研究者のキャリアが上記のようなインパクトの高い雑誌に発表しているかどうかにかかっているという現実がある。彼は研究費の審査に関わる時には、このような審査基準に対して闘ってきたという。重要なことはどこに発表したかではな く、審査員が研究者の論文を実際に読んでその重要性や意義を判断することでなければならない、と結んでいる。

このような意見は表明はされないものの多くの人に共有されているのではないかと推測される。しかし、彼のような闘う研究者が増えてこないと現状はなかなか変わっていかないだろう。


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mercredi 2 septembre2015

現在の科学の状態を肌で感じることはできなくなっているが、上で取り上げた科学の現状は増悪することはあれ、改善することはないのではないだろうか。最近日本から届いた便りでも、現状がそうなので抗いようがないというニュアンスであった。これは仕事をするということそのものであり、経済活動も密接に絡んだ世界的な動きなので、一国、一現場からだけでの改革は不可能だろう。

当時、Martin Raff 博士の話を自らに重ねるように読んだ記憶が蘇ってくる。博士の場合は65歳での定年後、新しい問題について考えることにしたようだ。それ以後の状態を Wiki で検索したところ、お孫さんが自閉症と診断されたのを機に、この病気の神経生物学的基盤に興味を持っているとのことである。科学者が、さらに言えば人間がどのような後半生を送るのかは人それぞれだろう。ただ、多くは何らかの形でそれまでの領域に関わっているのではないだろうか。平均寿命が確実に伸びている現在、科学の領域で求めたのと同じように、それぞれの生き方を創造的に展開することが益々重要になるだろう。






mardi 1 septembre 2015

若き日の抜け殻を見る Voir la mue de ma jeunesse

1er septembre 2008
 


いよいよ9月に入った。夏休み気分が徐々に抜けていくのを感じる。

私は20代後半にアメリカに向かった。その時、すぐに必要なもの以外はそれまでに読んでいた本やノート、日記なども含めてすべて実家に預けておいた。今から 考えると、そこで脱皮でもしようとしていたかのようだ。これまでも実家に帰ることはあったが、これらのものが置かれている書庫に入ろうという気にはなかな かならなかった。しかし、今回はなぜか自然にそこに入っていた。そしてそこにあるものを見て仰天した。

今回は現在興味を持っていることについて昔の日本人が書いた本を古本屋で探すのを楽しみにしていた。驚いたことにそのリストにあるかなりの本がそこに見つかったのだ。全く覚えていなかった が、現在興味が湧いていることに当時の私が興味を持っていたことをその時発見した。それらの本を開いてみたが、確実に読んだ形跡がある。最後のページに今とは違う見覚えのない字体で感想が綴られているものもある。また、このリストには入っていないが、何年か前に古本屋で気になって手に入れた本が、その本棚にちゃんと置かれ読了した日付と感想まで書かれてあったのにも驚いた。また、3年ほど前のDALFの試験以来いくつか読んでいたヴァレリーの全集まで揃えてあるのを見て、不思議な感動を覚えた。こちらを読んだかどうかは調べられなかったのだが、、、。さらに、見つかった自分のノートも見てみた。私の記憶の中には遊んでばかりいた姿しか残っていないのだが、そこには真面目に何かを学び取ろうとしている姿が見られ、少しばかり安堵していた。

その書庫には親父の残した本も一緒になっていたのでそこにも目をやったところ、現在興味あることに重なる本が次から次に出てきたのには嬉しくなってしまっ た。今では古本屋でも見つかるかどうか、見つかっても高くなっているものが多いので、ありがたくこちらに送り、数日前に無事受け取った。ところが、さらに驚いたことが待っていた。本棚や引き出しに親父の書き残したノートや日記が見つかったのだ。そのノートには今まさに私が知ろうとしていることについてのメ モが残されているのを見つけた時には驚きを通り越して、何と表現してよいのかわからないがどこかにある不思議な力のようなものを感じていた。長く緊張関係にあった中で、最終的にはどこかで繋がっていたという感覚、この世を歩む中での心の安定感、ストーンと腑に落ちるとでも言うのだろうか。そんな感覚が懐かしさとともに私を襲っていた。今回は日記の方には目を通さなかったが、いずれ読む機会が訪れた時に親から見た新たな自分の姿が蘇ってくることもあるのだろ うか。

この数時間、時間が止まり完全に別世界に過ごしていた。そして、そこにある本は時間があればすべて読み返してみたいという願望が生れていた。これこそ、先日も触れた「過去の自分を今に引き戻す」という行為そのものだろうか。

そして、今の歩みの底にあるものが、実は若き日に芽生えていた自分にとっての根源的な問を探り直してみたいという願望によるところが大きいのではないか、と いう想いにつながる。当時の興味が数十年を経て現在まで一気に飛んできたような印象である。日本には「三つ子の魂百までも」という観察があるが、無意識のうちにわれわれを動かしているものは、若き日にこの世に接し芽生えた純な疑問なのかもしれない。

不思議な、そして自分の中が洗われるような書庫での数時間となった。


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mardi 1er septembre 2015

7年前にこのようなことがあったことは覚えている。これはフランスに渡って1年目のことだったので、フランスでの今との対比が強烈だったのだろう。最近では書庫に入っても当時の驚きは感じない。

この中にある学生時代の3年連用日記はこちらで読んでみた。書いている人間は驚くほどナイーブな感受性を持つ自分とは全くの別人であった。小さなことに悩み、考え、揺れ動いている。このような記録がなければ今のまま今日まで来たと思っていただろう。この日記を読むことにより、今の若者がどれだけ揺れ動く心を持っているのかにも思いが至るようになった。これからも貴重な資料になるだろう。親父の日記については、まだ読む心境になっていない。

この記事に生々しく書かれているが、それ以前からフランスでの時間は若き日の想いを実現するためのものであると感じていた。それは哲学がどのような学問なのかを体験したいということであった。科学の中にある時には、哲学という言葉自体わたしの辞書から消えていた。それが仕事の終わりが見えてきた頃、どこからともなく蘇ってきたのである。そして、8年に及ぶ哲学中心の生活をフランスの地で送ることができた。それが何を齎してくれたのかは今は分からない。しかし、こちらに来る前には想像もしていなかったものが堆積しているように感じている。これからそれを解きほぐすのが、一つの仕事になりそうである。