samedi 12 septembre 2015

ヌアラ・オファオレイン、マックス・ギャロのことなど Nuala O'Faolain - "Vie de Voltaire" de Max Gallo

12 septembre 2008


 Emilio Trad
 
 
昨日の暑さもどこへやら。今日は秋らしい。午後から研究所へ。仕事を始める前に、いつも飲み水を取ってから席に着くのだが、今日はそこにあったル・モンドの読書特集にあったDarwinの文字に目が行ってしまった。Darwin関連のところも読んだのだが、その他に "savoir-vieillir" という言葉も目に飛び込んできた。そこで取り上げられている小説は、今年になって知ることになったアイルランドの作家の作品 "Best Love Rosie" の仏訳。

ヌアラ・オファオレイン Nuala O'Faolain
(1er mars 1940 à Dublin - 9 mai 2008 à Dublin)

彼女のことを知ったのは、ル・モンドにある文学ブログ "La république des livres" の中であった(話はずれるが、このブログを見ていると毎回数百のコメントが寄せられているので相当に人気があるようだ)。そこでは、癌を持ちながら最後まで戦ったスーザン・ソンタグ Susan Sontag (16 janvier 1933 - 28 décembre 2004) と対比して、治療を拒否して68歳で逝った彼女のことが紹介されていたからである。vieillir とまでは行かない歳で亡くなられた彼女は、この小説で vieillir についてどのようなことを言っているのだろうか。

彼女が亡くなる前に行ったインタビューを以前に聞いていたが、改めて聞き直してみた(その内容はこちらで、感情溢れる肉声はQuick Time Player でこちらから聞くことができます)。特に印象に残ったところを以下に。

6 週間前まで幸せな生活を送っていたが、右足に異常を感じニューヨークの病院で診断を受けた。脳に2つの腫瘍があり、他にも広がっている転移性の癌であると告げられた時には一瞬にしてすべてが真っ暗になった。ショックと恐怖と治療のことが頭に浮かんだ。不治であると告げられた時、治療を受ける時に感じるだろう自分の無力さ、恐怖、そしてその結果得られる生の質などを考え、化学療法に進むことはできなかった。その価値はないと思った。マンハッタンで手に入れたばかりのそれまで素晴らしいと思っていたアパートも全く意味のないものになった。プルーストもこれまで2度読んでいて最近読み直したが、そのマジックは消 えうせ何も感じなかった。人生に感じていた美しさが消えていった。死後の世界も神も信じることもできないし、神の庇護を受けたいとも思わない。周りの人は神を信じているが、私にとっては全く意味がない。病気がわかってからヴェラスケス、ゴヤなどをプラドで見て過ごしたマドリッドでの素晴らしい日を思い出すが、もう一度とは思わない。ニューヨークのアパートに行って別れを告げたい。人間は死を考えて生きていない。死が目の前に現れると全く別の人生になる。この経験で感じていたことは、絶対的な孤独である。誰に頼むこともできない。すべてのことを自らが受け入れなければならないのである。人生で大切なものは passion (情熱)であると以前書いたが、今では少し馬鹿げてみえる(a bit silly)。人生で大切なものは健康と reflectiveness (思慮深さ、熟考しようとすること)。辛いのはこの世界と別れを告げなければならないこと。今、世界が私に背を向け、あなたはもういらないと言われたよう に感じる。同病の人へのアドバイスは?と訊かれ、NOと答えてインタビューは終っている。

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ル・ モンドの中を散歩しているうちに(やはり紙の方が数段好い)仕事の精神状態に戻れず、当初の予定が大きく狂ってしまった。以前であれば、あっさり途中でやめて終わりにするか、目もくれないところだろうが、今ではこれも仕事の一部だとでも思っているのか、修正が効かなくなっている。興味の迸りには逆らわない ようになっている。その点では時間の使い方が贅沢になっていると言えるのだろうか。そう思いたいところである。

その影響からか、研究所からの帰りはいつもと違う道を通ってメトロまで向かった。が、途中で魅力的な本屋さんを見つけ中に入ると目の前に "Moi, j'écris pour agir" (私は行動するために書く)という文字が飛び込んできたのでよく見ると、Vie de Voltaire となっている。立ち読みすると、いきなりヴォルテールやダランベールの私生活が出て来て面白そうである。昨年アカデミー・フランセーズに選ばれたばかりの Max Gallo が書いている。彼はフランスの歴史に残る人物を書き続けているが、話を聞いていると非常に情熱溢れる人で、捲くし立てたり、たまに切れそうになることもあるが、どこか憎めないところがある。メトロの近くのカフェに入り2時間ほど読んでから帰ってきた。ギャロの描くヴォルテールは十代から独立心旺盛で、文の人として立つという燃えるような意志を持っていた。父親から将来何をやるのか訊かれそう答えると、何が文の人だ、と相手にされない。そんな道は社会の役にも立たないし、親の脛を齧って最後は飢え死にするのが関の山だ、と反対される。やはり面白そうである。

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マックス・ギャロについては以前にも触れています。
MAX GALLO A L'ACADEMIE FRANCAISE (2007-06-01)



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mercredi 9 septembre 2015

アイルランドの作家のことは手元の記憶からは消えていた。勿論、この記事を読み直すと蘇ってきたのだが、。彼女の場合、これから先に大きな希望をもって生活 していた時だったため、尚更絶望が深かったのだろう。すべてに意味を見い出せなくなっていた様子が痛いほど伝わってくる。

その中で、 「人生で大切なものは、健康とreflectiveness」 と言っている。今のわたしには本質を突いた深い分析に見える。当時のわたしは、reflectivenss を思慮深さとか熟考しようとすることと訳している。しかし、思慮深さとはどういうことを言うのか、熟考するとは何を言うのかについて理解していたとは言い難い。その後の7年余りの生活で reflection という営みの意味を理解し、体得したと感じているからだ。その経験から reflectiveness を日本語に変換するとすれば、第一に自らを振り返ること、そこから進んで自らを取り巻く世界について振り返ること。そのような状態であり、その状態を齎すことができる能力をも含めたい。

それでは、振り返るという作業を何を言うのか。それは、一つのテーマについて自らの記憶、人類の記憶を動員して大きな繋がりを見つけ出し、紡ぎ出すこと、テーマの周りに関連するものを大きな塊として作り出すことである。こちらでの8年の生活の中で体得したことの一つが、このことであった。こちらに来る前には想像もしていなかった収穫である。ここで、「哲学とは言葉の意味を体得することである」というフォルミュールを提出したい。

この視点から世の中を見ると、reflectiveness が著しく減弱しているように映る。ただ、本当に世の中が変わったのか、あるいは見る者の視点が変わっただけなのか、それは分からない。ただ、少なくとも今のわたしからは、この世が深みのない、何とも貧しい世界に見えるようになったことだけは確かである。







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