mercredi 12 mars 2008

ファニー・メンデルスゾーン Fanny Mendelssohn



ラジオから流れるメンデルスゾーンの曲が "Réformation" (宗教改革) との説明を聞き、調べているうちに出会った。ウィキをもとに再構成してみたい。

Fanny Mendelssohn (November 14, 1805 – May 14, 1847)


ファニー・メンデルスゾーン。ドイツのピアニスト・作曲家、アマチュアの指揮者。作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの姉としてよく知られているが、近年、彼女自身の作曲家・ピアニストとしての業績が見直され評価が上がってきている。19世紀前半において、フランスのルイーズ・ファランクLouise Farrenc, 31 mai 1804 - 15 septembre 1875)と並んで女性作曲家のパイオニアとなったことにより、女性作曲家およびジェンダー研究の対象として再認識されている。

ファニーとフェリックスは、ピアノと音楽理論、指揮という共通の音楽教育を受けた。弟と同じく幼少の頃より並外れた音楽的才能を披露し、作曲も始めた。フェリックスは姉の才能を理解し、高く評価していたが、職業芸術家として活動することに積極的に同意することはなかった。父親の姿勢は 「お前は弟の天才が理解できるのだから、それで満足しなさい」 と明快に言い切った。ファニーとフェリックスはその一生に膨大な往復書簡を残しており、その中でファニーはしばしば弟の作品に助言と批評を与えている。

1829年、何年かの交際の後、宮廷画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。ヘンゼルはメンデルスゾーン家の音楽サロンや文芸サロンに出入りしており、ファニーとのなれ初めもそこだった。ファニーが身分にふさわしいとされた貴族や知識人ではなく、当時まだ職人階級と見なされていた画家と結婚したことについて、ジェンダー研究者は父親への反抗を見出している。

結局、ファニーは結婚して実家を離れてから久しい1838年にピアニストとしてデビューする。デビュー曲はフェリックスの≪ピアノ協奏曲 第1番≫であった。この頃にはファニーの作曲活動も再び活発になっている。夫ヘンゼルはファニーの音楽的才能の最大の理解者であり、自作を公表・出版するよう根気よく説得した。世を去るまでの数年間、ファニーが意欲的に作品の創作・出版に取り組んだ。ファニーは出産後、夫の任務に従ってヨーロッパ各地を転々とした。プロイセンに帰国し音楽活動に再び意欲的に取り組み始めた矢先の1847年5月14日、弟フェリックスの≪ワルプルギスの夜≫をリハーサル中に突如脳卒中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

姉の急逝が弟フェリックスに与えた衝撃は測り知れず、わずか半年後の1847年11月4日、姉と同じ脳卒中に倒れ、そのまま急逝した。



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