mercredi 26 mars 2008

立ち去った後に Après être partie


大学の教室の前の掲示板に新規登録の案内が出ている。それを見た時、こちらに学生として来ることを最終的に決めてからもう1年も経ったのか、という思いが浮かぶ。振り返ってみると、昨年の3月にはこちらに来て模索の日々を過ごしていたことがわかり、ハンモックからは運命の出会いの記事が出てきた。すべての書類を4月15日までに、などという日付を見ると、去年必死に書類を集めていたことも思い出す。早いものである。そして、当時がまるで別世界のように感じられる。そんな時間を過ごしていたなどとは信じられないくらいだ。

以前、ハンモックで寺山修司の次の言葉を引用したことがある。

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 人には 「歴史型」 と 「地理型」 がある。歴史型は一ヶ所に定住して、反復と積みかさねの中で生を検証し、地理型は拠点をかえながら出会いの度数をふやしてゆくことによって生を検証してゆくのであった。
 従来の日本人の魂の鎖国令の中で、春夏秋冬をくりかえす反復性を重んじたが、私はそうした歴史主義を打破して、地理的、対話的に旅をしながら問い、去りながら生成したい、と思ったのである。
 
                     - 旅の詩集 -
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確かに、立ち去った後に見えてくるものがあり、立ち去った後にしか見えてこないものがあるようだ。 「さよならだけが人生」 という言葉に異常に反応した寺山。おそらく身近な意味での 「さよなら」 に対する彼の反応だったのかもしれない。去らなければ見えないものがもしあるとすれば、より広く長い視点からの 「さよならだけが人生」 の中には真理はあるように見えるのだが、、


先日、これからパリで学ぶために準備をしているという20代前半の方から丁寧なメール (お手紙と言った方がよいだろう)をいただいた。数年前からブログ読んでいただいているとのことで、若い方にも通じるものがあることを知りそれだけでも充分な言葉なのに、その上ここにある文章に力付けられることもあったと書かれてある。私の独り言が人を促す力を持っているなどとは想像もしていなかったので、深い満足感が訪れていた。

このところ話題にもなっていた他者との関わり。このブログを書き続けている訳を問い詰められれば、ここで起こる読者とのやり取りの中で誤解を正し、自らを考えさせ、育てたいという想いがあるのではないか、と答えるかもしれない。



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