dimanche 23 mars 2008

なぜ人を殺してはいけないのか Pourquoi ne faut-il pas tuer l'homme ?


朝起きて部屋を歩いている時に、何年か前にマスコミで頻繁に取り上げられていたこの問のことが頭に浮かんでいた。詳しくフォローしていたわけではないので大雑把にしか言えないが、私の中では子供が発したこの問に対して大人は誰も答えられない、というような流れではなかったかと思う(詳細をご存知の方には訂正をお願いしたい)。それが浮かんだ訳を考えてみると、このところいろいろな方にお会いして自分がよくわかるようになり、あるいは違った側面が見えてきていて、大きく言うと人間として存在する時にそのことが非常に貴重に思えたことと関係があるのではないか、とすぐに思い至った。つまり、お題の問に対する一つの答えがそこにあるように思った。

われわれが生きていく上で、さらに言えばより善く生きるためには他者が必要であるということを意味していると考えた。われわれは他者の中に、あるいは他者の中にしか自分を見出せないのではないだろうか。最近も触れたが、 自分の姿は自分では見えないか、自分の見ていると思っている姿が必ずしもそのすべてではない可能性があり、常に他者の鏡を必要としていると言うことかもし れない。われわれはそこに映る自分を眺めて、初めて自分の新たな一面を確認することになる。したがって、よく映る鏡を沢山持っている方がよいだろう。サル トルの言葉を待つまでもなく、他者はわれわれの善き教師ということになる。ある意味では自分自身と言ってもよいだろう。考えがそこに至ると、他者の消滅は自らを消滅させることと同義になりはしないだろうか。


そんなことを考えながら、朝から前期の先生から連絡のあったセミナーに出かける。テーマは宗教的経験、神秘主義(神秘体験)についてで、講師はアメリカの大学で現象学を研究している Anthony Steinbock さん。フランス語で話していたが、込み入った議論になると英語に移っていた。神秘体験については、われわれが普段生活している世界を水平な (horizontal) 世界とし、そこから垂直に別の状態に移行する、あるいは落ちる (chute という言葉を使っていた) 過程として、verticalité という概念を持ち出していた。またこの精神状態が正常なのか病的なのかという問題もあるようで、興味深く聞いた。

彼が最初に話していた中で、すべての神秘体験は宗教体験だが、すべての宗教体験が神秘体験というわけではなく、人様々なものを見ると言っていたので、もし神秘体験が病的状態だとすると論理的には宗教体験のある部分 (神秘体験が占めている部分) は病理現象になるのではないかと聞いてみたが、その点には気付いていなかったようだった。彼はむしろ神秘体験をポジティブに捉えていて、正常の範囲を逸脱 したものだが正常を超えるもの hypernorme であると言っていた。それを聞いて、カンギレムの「正常と病理」の底にある考え方 (例えば、正常と病理の境界の問題、病的状態に入るということは新たな、以前よりもよい状態に至ることを意味している) を思い出していた。


2 時間に及ぶセミナーの後、研究所に向かうもPâques(復活祭、イースター)の休日でお休み。過去に生きていると現世のことに疎くなるようだ。帰ってく る途中、Presse の看板のある店で雑誌に目を通していると、朝考えていたテーマを扱っている人文科学の雑誌が見つかる。このところ、こういう繋がりがよく目に付くように なっている。そこでの哲学的問は "A-t-on besoin d'autrui ?" (われわれは他者を必要としているか) というもので、昨日話題になった他者性 altérité とも関連し、本日の問とは同質のものだろう。その中によく知られた逸話が紹介されている。この例は、現象としては生れてから野性の中で生きていた人間がど のようになるかを示しているが、さらにわれわれは他者をモデルとして初めて人間になることができることを教えてくれる。ルネ・スピッツ René Spitz という人の研究によると、言葉と愛情を奪われた子供は歩くこと、話すことができないのは言うに及ばず、しばしば死ぬにまかせるところまで行ってしまうという恐るべき結果が出されているという。

この記事の最後にモンテーニュの言葉が引用されている。朝考えていたことを的確に捉えてくれていると感じ、嬉しくなっていた。

"Si on me presse de dire pourquoi je l'aimais, je sens que cele ne se peut exprimer, qu'en répondant : 'Parce que c'était lui ; parce que c'était moi."

(私がなぜ彼(女)を愛していたのかを問い質されれば、次のように言うしかないように感じる。「なぜならそれが彼(女)であったからであり、それは取りも直さず私であったからです」 と。)




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