vendredi 30 novembre 2007

お歳のようですが



昨日も研究所で読んでから大学に出かける。しかし先生が病気なので休講との連絡が入る。先生には早く回復していただきたいが、なぜか嬉しい気分であった。その気分を反映してか、学生さん (法哲学専攻とのこと) と話をしていた。教室から外の通りに出るまでの間。

 「このクールの評価はどのようにするのですか」
 「このクールのテーマに関連することについて小論文にすればいいようです」
 「筆記試験はあるのですか」
 「ないです。ただ小論文がいやな人には口頭試問があります」
 「筆記がないのでほっとしました。口頭試問はもっと難しそうなので、小論文にしようと思います」
 「ところで私よりもお歳のようですが」
 「それどころかほとんどの教授より年上でしょう」
 「一体どうしてここに」
 「よく聞いてくれました。これまで科学の分野にいて・・・(と、ここまでの道を説明)・・・という訳なのです」
 「フランス語・フランス文化によってあなたの頭のどこかが弾けてしまったのね (épanouir という音が聞こえてきた)」
 「そうかもしれません」
 「ここで哲学を学ぶ、ただそれだけのためにパリにいるのですか」
 「そうです」
 「そういう人生もあるのですね」
 「なぜかそうなってしまったのです。おそらくフランスはこれからも私の中にあり続けるような気がします」
 「最後の最後まで」
 「そうだと思います」
 「それじゃ、また!」
 「ボンジュルネ!」

口には出さないものの、学生の皆さん、何か不思議に思っていたのかもしれない。その疑問を聞いたような気がした。歳のことをはっきり言われたのは、今回が初めてになる。


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法哲学専攻とのことだったので、気になっていた Powerpoint の使用について彼女にも聞いてみた。やはり、ほとんど (全く) 使わないようだ。それを、ここは très classique なの、と表現していた。黒板とチョーク、それに文字を消すのに布切れを使うやり方。それはそれで何とも言えずよいのだ。



jeudi 29 novembre 2007

前期の終わりを意識して



昨日はこちらに来て初めて試験のようなものがあった。FLE (Français langue etrangère) と呼ばれる外国人学生用のクールでの中間試験である。始る前に法科の学生さんに聞いてみたところ、期末試験と同じ重みがあるという (50%+50%)。今朝カフェに寄ってノートに目を通しただけだったのでどうなることやら、という感じで試験になってしまった。問題は言語についてのエッセイ300語とこれまでに習った論理的な話の展開に必要となる表現についての問が4題ほどで、1時間半。準備の有無は余り影響のない問題であった。

今、目の前に立ちはだかっているのが、前期のまとめになるミニ・メモワール。自分の中での提出期限は年内だったが、確かめてみるとクリスマス休暇が終ってから、つまり新年の講義が始ってからでよいとの話を聞き、一気に気分が晴れてきた。これまでの蓄積がなく、まだ2ヶ月の段階でまとめなければならないというのは、大変なことである。しかも、あるクールでは担当の先生が途中で替わり、そのクールには2人の担当教官がいることが判明。つまり、そのクールでは2つのまとめをしなければならないことを知ったばかりなので尚更である。いずれにしてもこれから焦点を絞り、ゆっくりと書き始めなければならない。この世界の第一歩を歩み始めているところと言ってよいのだろう。

昼、サンミシェル通りを歩いている時、クールの場所が急遽変わったという電話が秘書から入る。始る10分前である。急いで新しい場所に向かう。入ると女子学生が2人しかいない。そのうちのひとりが、先生には連絡が行っているのでしょうね、などと話していたので少しだけ言葉を交わす。ミニメモワールのこと、講義のやり方などなど。以前から気なっていた Powerpoint (フランス語では 「プワポイント」 と発音するようだ) を使わないことについても話題にしてみたが、他の人文系でもあまり使わないようだ。また、この先生は英語の論文しか読まないのだから英語でメモワールを書いたら、などと元気付けてくれる。なぜかわからないが、2人とも私が質問すると頬を赤く染めていた。

夜、少し遅れてENSのクールに向かう時、ボンソワールという声が横から聞こえる。前回も遅れてきて私のノートを見せてくれと言ってきた学生であった (少しは為になったのだろうか)。自分が最後のひとりでなくてよかったと言って、これまでと違う通路を教えてくれた。彼は講義を聞きながらその内容を素早くパソコンに打ち込んでいく集中力の持ち主である。どんなことでも声を掛け合うと自分の中にある変化が起こる。幸いなことに、これまでのところはすべてがポジティブなものである。

夜のクールでこれまで使っていたノートが終わりを向かえ、2冊目に入った。こうして訳のわからない文字で溢れているそのノートを眺めていると、掛け替えのない宝物のような愛おしさを感じるから不思議だ。こんな感情が湧いてくるのも生れて初めてのことかもしれない。そこには歴史に埋もれた (より正確には私の意識には上っていなかった) 人びとの歩みが鏤められている。その道に人生を賭けている方々からの生の声が、これから過去を掘り起こしていく上での貴重な道標として詰まっているということをはっきりと感じているからこそ生れる感情なのかもしれない。



mercredi 28 novembre 2007

pied-de-coq



orange のニュースから

クレアモンフェランの元料理シェフ96歳が88歳の元パティシエとめでたく結婚。
二人はこの町に35年暮らしている。
女性は67歳になる息子の母で今は未亡人だが男性は初婚。

この日女性が着ていたのがこの模様のveste。
pied-de-coq, noire et blanche
「雄鶏の足跡」 なのだが、日本語が見つからない。

似たような模様に 「雌鳥の足跡」 が出てきた。
pied-de-poule 千鳥格子

千鳥格子には詳しく見るといくつか種類があるということなのだろうか?
なお、彼女の髪型は cheveux blancs coupés au carré だったとのこと。
この記事のタイトルが "Insolite (=bizarre)" となっていた (少し礼を欠くのでは?)。
死ぬまで何が起こるかわからないというニュースでもあった。



mardi 27 novembre 2007

Shiina Yutaka Trio in Paris

Fabien Marcoz, Yutaka Shiina, Lionel Boccara


昨日は研究所で科学関係の総説を英語で読んでから大学へ向かう。しかし、こちらの話はなかなか入って来てくれない。先日のS先生との話ではないが、まだ私の脳にはネットワークができていないので準備運動をしておかないと駄目のようだ。私の思うようになるのはおそらくまだまだ先のことだろう。それも運がよければ、という予感がする。

この状態に気付くと体が冷えてきたので、気分転換に以前に連絡をいただいていた椎名豊トリオのコンサートに行くことにした。会場はセルビア文化センターで、丁度ポンピドーセンターの裏手になる。そこの日本式には2階のこじんまりした部屋であった。窓からはポンピドーセンターの明かりも見える。誠実な人柄が滲み出るいつもの演奏を聴いているうちに、体の芯から暖かくなるのを感じ、満足して帰って来た。このコンサートは Festival Jazzycolors 2007 と銘打ったシリーズに組み込まれていたためか、無料であった。

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Programme
1. Joy of spring (Yutaka Shiina)
2. II BS (Charles Mingus)
3. Glow of the sunset (Y. S.)
4. Strike up the band (George Gershwin)
5. The river (Y. S.)
6. Walking on the cloud (Y. S.)
7. Summer mist (Y. S.)
8. In the dusk (Y. S.)
9. Tuck away (Y. S.)

メンバーはいつものボカラさんとベースは新しくマルコズさんが加わっていた。
Yutaka Shiina (piano)
Lionel Boccara (batterie)
Fabien Marcoz (contrebasse)

昨年の12月にもパリで椎名トリオを聞いているので、年末の恒例行事になりそうである。椎名さんのお話では、今週パリで演奏した後ロンドンに渡るとのことでした。



lundi 26 novembre 2007

Barbara - Ma plus belle histoire d'amour




1年ほど前にバルバラBarbara, 9 juin 1930 - 24 novembre 1997) を発見した。
リベラシオンでバルバラが亡くなってこの24日で10年になったことを知る。
気に入った曲をいくつか聞いてみることにした。




 Ma plus belle histoire d'amour (les paroles)




samedi 24 novembre 2007

S 先生との再会


今日は、私が日本を出る前にお話する機会のあったS先生がパリを訪問され、是非とのことで午後からご一緒させていただいた。まず今日の写真のジュゼッペ・アルチンボルド (Giuseppe Arcimboldo, Milan, 1527 - Milan, 1593) の展覧会を目指したが、長蛇の列ですぐに諦めルクセンブルグ公園周辺を散策した後、近くのカフェで身を暖める。パリの町が美しいこととこのような街を構想した力に感心されていた。それから先生思い出のレストランに向かったが、まだ始まっていないようだったので別のところでの夕食となった。

先生とは人生に対する捉え方で共通するところが多く、話がよく咬み合う。今回もなぜ哲学をするのか、究極の狙いは何か、本来はすべての学問の根にあるべき哲学が日本では蔑ろにされているが、哲学という訳もよろしくないのではないか、日本の哲学で使われる言葉 (訳語など) も人を遠ざける原因になっているのではないか、自然科学に技術が必須なように哲学をするためにもテクニックが必要なはずで、まずそれを学ぶことが先決ではないのか、それを突き抜けたところに何か開けるものがあるのか、などなど話が延々と続いた。そして最後は、なぜわれわれはここにいるのか、その意味は何か、それを知ることが究極の問いなのだろうというところに行く。

しかし、それは答えが出る問いとは思えない。この行為は一見何の役にも立たないように見える。役に立たないという判断はある立場からのものでしかないのだが、、。しかし、それをすることによって得られるものの大きさもまた想像を絶するような気がする。それこそ、この世に生を受けたもののすることではないのか。こんなところが今日のまとめということになるのだろうか。私の方の視界が晴れ、もう少し広がった時にまた意見を交えるということでお別れをした。充実した一日となった。



vendredi 23 novembre 2007

スト終了



今日は研究所の図書館に出かける。ここ来るのは科学関係の本が充実していることとフランスの科学についての歴史的資料が豊富にあるので、大学を補完するような意味合いからである。またここには個室 (carrel と言われている) があり、仕事が非常にやりやすくなっているのでありがたい。今回は、まだ整理が終っていなかった日本からの資料の画像処理をやることも兼ねていた。どうしようか困っているところだったが、こちらで活躍されているI氏に装置の使用を快諾していただいたのでありがたく使わせていただいた。2週続けて何から何までお世話になった。感謝感謝である。ここの図書館が定期的に使えるようになったので、一週間のリズムができつつある。

帰りにメトロに入ると、今朝とは違い活気がある。ちゃんとチケットを入れて下さいというアナウンスがあり、ストが終ったことを知る。人の動きも生き生きとしているように感じた。



コンビニの親爺



私の住まいの近くにあるコンビニ。つい最近までは若夫婦がやっていた。奥さんの方がケスに立っている時、"Vous êtes bien japonais ?" と声をかけ、「ゆみ」 というのは日本人の名前でしょう、どういう意味ですか、ベトナムにも同じような名前があるんですよ、私はアジアのファースト・ネームがかわいらしくて好きなんです、と立て続けに話し掛けてきた。そしてある日突然、今の中年の夫婦に替わった。最初は連休のため彼らの親が手伝いにでも来ているのかと思っていたが、そうではなさそうだ。

こちらの夫婦は奥さんがにこりともしない立派な態度で、いつも客のお相手をしている。たまに亭主を顎で使っている (ようだ)。亭主の方はぶつぶつ言いながらも従っている。その日は棚卸のためお休み。シャッターを半分だけ開けて、亭主は外でタバコをふかしていた。声をかけるとにっこりと子供のような笑顔をつくる。その日は暗い空だったが、気分が一変に晴れてきた。別のお店に行き、小雨の中をバゲットを抱えて帰って来た。



jeudi 22 novembre 2007

昨日のクール



ストは相変わらずである (RATPの情報)。昨日は Sabotage も見られたという (Télézapping)。

私のところからは乗り継ぎがうまくつながることが多く、1時間ちょっとで大学まで着く (普段より20-30分ほどかかる)。クールは先週のスト中もやっていたようだ。学生は少なかった可能性はあるが、、。いずれの先生も、この交通事情にもかかわらず出席してくれてありがとうという言葉を発していた。エコルノルマルではチュービンゲン大学の先生が来て話していた。やはり外国人のフランス語は親しみやすい。講義はドイツ語と英語が混じったいかにもヨーロッパというもので充分に楽しむことができた。その上、ドイツの先生だからだろうか、哲学ではありながらパワーポイントを使っていた。わからないことには変わりないのだが、少しはわかったような気になるから不思議だ。最後に何語でもよいから質問を、とのことだったので、フランス語のレベルが酷いのでと断った上で英語で質問してみた。やはり参加すると講義を聴講しているという姿勢から実際の学生の一人になったという気になる。周りの方も、これまでは変な親爺がいるなと思っていたのが、何を考えているのか少しだけわかってきたという印象に変わったのではないだろうか。

この講義はコロックとして外に宣伝していたようで、こちらに来て初めて教室の中での最年長者の立場から引き摺り下ろされた。



mercredi 21 novembre 2007

久しぶりの大学




昨日は1週間ぶりの大学。比較的短い間隔で動いている路線を選んで遠回りで向かった。家を出る時にはまだメールが来ていなかったため、大学に着いて驚いた。閉鎖されている。講義の場所が変わっていると思いそちらに向かう。その途中に今日の写真の場面に出会った。こういう時は本当にはっとして嬉しくなる。それから蹄の音が何とも言えずよい。gendarme と書いた車が後ろから来ていたので、騎馬隊 (警察?軍隊?) ということになるのか。それにしても絵になる。大学にでも向かうところだったのだろうか。

変更になった場所はこの3月に私が訪ねたところで、講義を聞かせていただいたところでもある。偶然にもその時と同じ椅子で聞くことができた。感傷に浸る閑はなく、必死に聞いていた。それにしても流れてくるフランス語がどうしてこうも特異な文型を使っているのだろうか。まだまだ掴みきれていない。終った後、先生とミニメモワールについて話をする。途中、英語で!などといわれながらも、建設的なディスカッションになった。この手の話し合いは非常に重要であることを再確認。やはり家に篭ってやるのとは違い、大きな刺激を得る。人間のやること、人と交わるのが大切のようである。これからは積極的に出かけていきたいものだ。



mardi 20 novembre 2007

いつまで続く・・・どこまで拡がる



メトロは相変わらず、très perturbé である。新しいスト情報 (Télézapping)。

このストは今や大学だけではなく、小・中・高校にまで拡がりつつあるようだ。大学の先生から届いたメールでは、念のため場所を変えて講義する可能性もあるのでこれからのメールに注意とのこと。anarchie という言葉も見える。私としては場所が変わると次の講義への移動が大変になるので困るのだが、、、

メトロのホームに溢れている映像を見ると、仕事を持っている人は何としても出勤しなければならないので大変だろう。その点、学生は気楽ではある。講義が行われているのかどうか、それはわからないのだが、、。いずれにしても職住近接の方は羨ましい。ストがいつまで続き、どこまで拡がるのか。この状態、何の根拠もないがそう簡単には収まらないような予感もする。今まさにフランスで生活している。



大学スト情報



メトロはかなりよくなっているが、どういう訳か私が必要としているリーニュが動いていないという情報。夜歩いての帰宅もいやなので、昨日も休みになった (した)。大学の方は6連休である。

大学入学時に学生にメールアドレスが与えられたが、最初に登録して以来触れていなかった。昨日開けてみたところ、今回の大学封鎖の情報がほぼ毎日届いていた。主にリサンスの学生が通うトルビアックの校舎 (Le centre Pierre Mendès France) は結構封鎖されていたようだ。しかし学長室からの最新メールによると、この月曜から正常に機能するとのこと。学長が改めて登校時には妨害しないように訴えている。

"Tous les centres seront normalement ouverts demain, lundi 19 novembre. La présidence appelle à nouveau au respect de la liberté d'accès aux locaux universitaires et aux enseignements."

メトロが完全に戻るのはいつになるのだろうか。


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さらに新しいメールではトルビアックが本日また閉鎖になるようだ。私のところには影響はなさそうなので、メトロを少し遠回りしながら何とか大学まで行く予定である。ほぼ1週間ぶりになる。

"Le centre Pierre Mendès France sera fermé demain, mardi 20 novembre.
Tous les autres centres de l'université seront ouverts."



lundi 19 novembre 2007

自由人とは



ラテン語について日本語のサイトをサーフしていたところ、教養の基礎としてラテン語を修められた方のエッセイに出くわした。そこで語られていることは私の想いと通じるものがあり、しかもその考えを実践されていることに感銘を受けていた。山下太郎氏の以下のエッセイである。

  「学びの山道を照らすもの―自由人の教育を求めて



dimanche 18 novembre 2007

夜のパリ散策



昨日はストの中、研究所の図書館へ出かける。家にいてラジオを聞き始めると終日そうしても全く飽きることがないのと、一度聞き始めるとスイッチをオフにすることが非常に難しいこともあり外に出ることにした。メトロは50分に1本ですという案内と très fortement perturbé という放送が流れていた。丁度注文していた本が届き、それを持ったまま出かけたので何時間でも待つつもりでいた。実際には予想よりは早く来てくれたので1時間ちょっとで目的地に辿り着くことができた。問題は帰りに待っていた。メトロが全く走っていないのだ。タクシーもつかまらないので、思い切って歩いて帰ることにした。方向音痴の私としては途中で凍死しても様にならないので、地図片手にほぼ2時間のパリ散策となった。途中エッフェル塔が何度か目に入った (今日の写真もそのひとつです)。久しぶりのよい運動になったが、なぜ行きはよいよい帰りは怖い、になるのか理解できない。ストの時は家に留まるべし、という教訓だろうか。次回から積極的に生かしたい。

帰ってメールを開けると、合わせて200ページにもなろうかという来週のクールの文献が添付されているものを見つける。この先生の資料はすべて英語なのだが、内容が内容だけに並大抵ではない。しかもそれをフランス語で起こさなければならない。今週も暗い週末になりそうである。



samedi 17 novembre 2007

基の基から



昨日もストは続いていたが、私のところは20分に1本の割で動いていてタイミングよく乗ることができた。予想とは異なり、落ち着いた朝であった。

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大学の図書館に行って、大学生、大学院生と一緒に机を並べている時、まさに自分の中にある知識や教養と言われるものを根っこから見直しているように感じる。これが私のこれまでの専門分野の研究所に行って同じようなことをしてもそういう印象は生れてこない。そこでは基礎のところはとうの昔に整っているものとして片付け、その上の専門のところを問題にしているためだろうか、自分の芯に迫ってくるという感じが全くしないのだ。そこが大学にいる時と大きく違う。大学では人間そのものの持っているものが問われ、自分というものに向き合わざるを得なくなる。大学が人の背骨、基の基を作るところなのだという実感が湧いてくる。その視点で自らに目をやると、そこが如何にふにゃふにゃしているのかも見えてくる。今まさにその基本に返って鍛え直そうとしているかのようだ。リベラル・アーツという響きに対する遠い憧れを追いかけているのかもしれない。



vendredi 16 novembre 2007

"L'Homme sans âge" de Francis Ford Coppola



メトロのストが続いている。 昨日は3-4本に1本くらいの割合で動いているかもしれないと楽観して出かけてみたが、私が必要としているところは Service nul であった。仕方ないので快晴の街を少し散策してから帰ることにした。いつものように講義はないものと決めてかかっている。これで今週は5連休という何ともありがたい?ことになりそうである。

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スト情報を知るために Le Figaro をサーフしている時に、フランシス・フォード・コッポラインタビュー記事に出くわした。読んでみると、私の標的にぴったりの映画を10年ぶりに作ったことを知る。しかもこの映画の元になったのは、この3月モンマルトル散策の折にFから紹介された作家・宗教学者ミルチャ・エリアーデ Mircea Eliade (9 mars 1907 à Bucarest - 22 avril 1986 à Chicago) の作品であるという。何という仄かなつながり。

 "Youth without youth" (仏題: L'Homme sans âge) 
  (このサイトの Gallery で昔のブカレストが見られます)

 Directed by Francis Ford Coppola (April 7, 1939 -)
 Cast: Tim Roth, Alexandra Maria Lara, Bruno Ganz

俳優のブルーノ・ガンツについてもこのリンクでわかるように、昨年春に初めて知ることになった人である。

あらすじを読んでみると、次のようなことになる。

1938 年のルーマニア、言語学の老教授が雷に打たれ、奇跡的に生還し30歳も若返る。彼の頭脳は10倍の能力を持つようになり (ses facultés mentales décuplées)、人生の目標であった言語の起源についての研究に打ち込む。しかし、このことによりナチやアメリカから目をつけられ、彼は身分を変え国から国へと逃亡。その中で永久の愛 (son amour de toujours) を見つけることになるのだが、、、

コッポラはインタビューの中で次のようなことを言っている。

"Rêver, penser, c’est le sujet même du film. La manière dont nous voyons nos vies est probablement fausse : nous sommes prisonniers de nos façons de penser. L’Homme sans âge est une fable, une parabole qui permet de s’interroger sur notre rapport au réel."

 (夢見る、考える。それがこの映画のテーマでもあります。われわれが人生を見る時、その見方は間違っているかもしれない。それは自らの考え方の虜になっているから。この映画は現実との関係を自省するための寓話のようなものです)

LE FIGARO: Il est question de réincarnation. Vous y croyez ?
 (この映画は転生を扱っていますが、あなたは信じますか)

"Pas particulièrement et je n’en ai a ucune expérience. Mais je pense qu’on n’a pas les yeux pour voir toute la réalité. Je ne crois pas à la réalité matérielle. On s’en contente le plus souvent parce que c’est pratique : il y a le jour et la nuit, le passé et le présent, le bien et le mal. Mais c’est une apparence. Je crois davantage à une certaine unité de temps et d’émotions. Le temps et la conscience m’ont toujours passionné, parce que ce sont des questions que pose le cinéma. Maintenant, je pense que le temps est une invention de la conscience. Et la conscience est déterminée par le langage, qui donne forme à notre pensée. Il y a tout cela dans L’Homme sans âge."

 (特に信じていませんし、そのような経験 は全くありません。しかし、すべての現実を見るためにこの目があるとは思っていません。物質的な現実を私は信じないのです。昼と夜、過去と現在、善と悪など、それは便宜的なものとしてほとんどの場合済ませていていますが、それは一つの見掛けです。私はむしろ時間と感情の統一を信じています。時間と意識にはいつも熱中してきました。それはこの映画が問いかけている問題でもあるからです。今のところ、時間は意識が発明したものであると考えています。そして意識はわれわれの考えに形を与える言語によって決定されます。この映画にはそのすべてがあります)

このところ Radio Classique で、コッポラの映画音楽がドイツ・グラムホンから出ます、という宣伝がその印象的な音楽を背景に流れているのには気付いていた。今、耳を澄ますと確かに "L'Homme sans âge" と言っているのが聞こえる。この映画を通していくつかの断片がつながり、嬉しい気分である。フランスでの上映状況を見てみると始ったばかり。彼の言葉や音 楽を聞いていると期待が膨らんでくるが、それが満たされるのかどうか、近いうちに見てみたい。

予告編はここで見ることができます。




jeudi 15 novembre 2007

中国のルネサンスマン ― 徐光啓



このところ交通機関と大学が揺れている。"Les grèves, une belle invention française !" (ストはフランスの素晴らしい発明!) などという見出しも踊っている。昨日は再び交通機関のストがあり、大学はお休みになった(と思っている)。その前日は講義の最中から外が騒がしくなり、帰りに外に出てみると学生がたむろし、警官隊の車が7-8台大学前に停まっているという状況。大学が封鎖されるところ blocage までは行かなかったようだ。このような状況が日本で起こると大変な騒ぎになるだろうが、こちらで見るとそれほどの違和感はない。ということで、昨日は部屋での仕事になった。

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新しく届いたアメリカの科学雑誌 Science に興味を惹く記事が出ていた。中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者の業績を振り返る行事が先月上海で行われたという。

 徐光啓 Xu Guangqi (1562–1633)

1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人でイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (October 6, 1552 - May 11, 1610) に会い、彼の虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西の交流にもなった。彼はリッチの助けを借りて、彼が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (今日の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性を説くようになる。

1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示すところがあり、レオナルド・ダビンチ、あるいはフランシス・ベーコンと比肩される。

中国政府は全く触れていないが、リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマカトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。



mercredi 14 novembre 2007

ひと段落?そしてメモワール



先日少し触れたが、日本の宿題にやっと手を付けようという気になっている。今でもこちらの情報処理に追われていることには変りないが、少しだけ精神的な余裕が出てきたのだろう。これは日本にいる時の状態に近くなったというのではなく、別のレベルで安定した状態に入りつつあるということだと思っている。今の自分ではそれを評価できないが、おそらく新たなステージに移りつつあるのだと思いたい。

ところで、もう前期のまとめとなるミニ・メモワールの課題を決めなければならない時期に入っている。まだ始って1月ほどしか経っていないが、来年の1月初めには前期が終ることになるので、予定通りなのだろう。しかし私にとっては何とも早すぎる。中には12月上旬が論文の締め切りというものもある。マスターの前期の評価はほとんどがこのミニ・メモワールによる方式で、大体15-20ページくらいにまとめることになる。私の場合、4-5クールについてこれをやらなければならないが、どうなるのか全く予想もできない。こちらに来てからフランス語を勉強しましょうなどと考えていた私のような者にとっては、この上筆記試験が加わるとお手上げだろう。いずれにしても、失うものが何もない身。こういう機会を与えられていることに感謝しながら、全身で向かうしかないと覚悟している。



mardi 13 novembre 2007

なぜフランス語が



こちらのクールの資料に英語のものも出てくる。英語の本もフランス語訳で読まなければならない中、英語の論文しか読まない先生がいるからだ。しかし、それを読んでもこれから哲学を勉強しましょうという気には全くならない。逆に何でこんな面倒くさいことをやらなければならないのか、という感想しか湧いてこない。フランス語で読んだ時にはあれほど好奇心がそそられ、こういうことになってしまったのに、である。これまでずーっと抱いていた疑問。なぜフランス語が私を刺激したのか、そして私を開いていったのか。英語の論文を読むたびに考えてしまう。以前に、ポールさんの前世はフランスですよ、というコメントをいただいたことがあるが、未だに大きな謎である。



lundi 12 novembre 2007

退職後


日本から便りがいくつか入り、私の知り合いのこれからが書かれてあった。例えば、今まで勤めていた会社あるいは関連会社で嘱託・再雇用で残りさらに働く人、定年を前に病院勤めや開業をやめて、沖縄やオーストラリアに移住する人、あるいは別の大学で教職を続ける人など様々である。定年がまだの人もいるので、これからいろいろなニュースが飛び込んでくるのだろう。とんでもないことをする人がいないかと今から楽しみにしている。



dimanche 11 novembre 2007

ヒトラー ある怪物の幼少期 Hitler, l'enfance d'un monstre



Le Point 10月4日号の13ページに及ぶ特集から。ノーマン・メイラーがアドルフ・ヒトラーの若い時を想像力を働かせて問い直した小説の翻訳がPlon社から10月11日に発売になるのを先取りしてのものだ。

 « Un château en forêt » Norman Mailer (né le 31 janvier 1923 à Long Branch, New Jersey)

アメリカ文学界の聖なる怪物が歴史上最悪の怪物に挑む。これこそ大事件だろう。三部作の第一巻 (450ページ) で84歳の作家が書いたものとは。

どのようにして絶対悪が子供に無垢な性質を与え得るのか。どのようにしてぱっとしない幼年期と安息のない青年期が何十年後にあの死体の山に辿り着くことになるのか。ディーノ・ブッツァーティ Dino Buzzati (16 octobre 1906 - 28 janvier 1972) からエリク・エマニュエル・シュミット Eric-Emmanuel Schmitt (né le 28 mars 1960 à Lyon) に至る人たちがこの危険なテーマに挑んでいるが、ナチの総統が出現することになるところをメイラーほど深く切り込んだ者はいない。そこには近親相姦、喪失と悲しみ、挫折、劣等感、あらゆる種類の欲求不満がある。メイラーは1900年代のオーストリア・ハンガリー帝国の一家庭に降り立ち、ヒトラーの汚い寝具に愉悦の中で寝転ぶ。そこはタバコの匂いを発し、姦淫し、自慰し、排便する。しばしば恐怖から。

この淀んだ沼地で若く目立たない (effacé) 寝小便をするような ("pisse-au-lit") アドルフ (メイラーはこの小説で "Adi" と呼んでいる) は自然選択思想の洗礼を受け、兄弟や仲間を受難に遭わせることにより恐怖を克服していく。 ・・・・


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今、ノーマン・メイラーのことをサーフしていて11月10日に亡くなったばかりであることを知る。
NY Times Obituary Slideshow
BBC Obituary: Norman Mailer


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(15 novembre 2007)

NY Times の追悼記事より

He was the most transparently ambitious writer of his era, seeing himself in competition not just with his contemporaries but with the likes of Tolstoy and Dostoyevsky.
 (彼は彼の同時代人だけではなく、トルストイやドストエフスキーに対抗するというはっきりとした野心を持っていた)

“Bellow and myself and a couple of others were very much smaller than Faulkner and Hemingway,” he conceded early in the decade, but he never backed off from the claim that among his contemporaries he was the heavyweight champion.
 (「ベローや私、それから他の数人はフォークナーやヘミングウェーに比べると大分小さかった」 と90年代初めに認めたが、同時代人の中では重量級のチャンピオンであることを決して譲らなかった)




samedi 10 novembre 2007

Inventaire


Geoff Levitus (1951 Sydney - )


私のアパートは家具・食器付きになっていることはすでに触れた。今頃になって不動産屋からアパートに入っている家具、食器などのリストを作ってくれという書類が届いた。目録作成である。項目を見ていると辞書のお世話にならなければならないものがほとんど。辞書と首っ引きでアパートの中を見回る (それほど広くはないが、そんな感じになった)。その過程で、こんなところにこんなものがあったのかと再発見し、感心することしきり。以下に身の回りのフランス語を少々。

pare-douche シャワーの水除け
porte savon 石鹸置き
porte goblet コップ受け
armoirette 整理棚
étandage 物干し
balai (brosse) wc トイレ掃除ブラシ

matelas マットレス
sommier マットレス台 
chevet ベッドサイド (枕元の) テーブル
lampe de chevet ベッドサイドランプ
radio réveil 目覚ましラジオ

logia ロジア (ガラスなどで囲まれたバルコニー)
rangement bas 下部収納スペース

tabouret 椅子 (背なし)
porte manteau コート架け

cafetière コーヒーメーカー
combiné cuisson 加熱調理台 (レンジ・皿洗い機などと組み合わせたもの)
réfrigérateur 冷蔵庫
lave vaisselle 皿洗い機
machine à laver 洗濯機 (前にも触れたが横型)

fourcette フォーク
cuillère à soupe スープスプーン
cuillère à café コーヒースプーン
louche 柄杓

assiette plate 平皿
assiette à dessert デザート皿/小平皿
assiette creuse 深皿
plat 大皿
bol 大きなカップ
tasse カップ
sous tasse カップ皿
saladier サラダボール

casserole カセロール、片手鍋
cocotte ココット、両手鍋
poële フライパン
planche à decouper 俎板

clic clac ソファベッド
lampadaire フロアスタンド
triangle 三角テーブル
verre à pied 足付きグラス
coupe 広口グラス (シャンパン、アイスクリーム)
cendrier 灰皿




vendredi 9 novembre 2007

二つを同時に



大学の方も一月が経過して、事の大体の流れはわかってきているようだ。それはあくまでも流れであって、流れの中にあるものを捉まえるのはまだまだだろう。日本からは、今頃ひーひー言って講義を聞いていることでしょうとか、ちゃんとついていっていますかというようなお気遣いのメールをいただいている。満員で始ったクールも少し落ち着いてきている。先日近くの本屋で私の相手をしてくれた青年が哲学科の学生であることが判明。前の席に坐っている。休み時間に、今日の話早かったですねと声をかけると、前もって関連の本を読んでくればわかりますよ、とあっさりしている。

こちらに来て完全にはこちらの分野に入り込めていないように感じていたのは、日本から引きずっている仕事がまだ残っていたからではないのかという気がしてきている。どうも二つのことを同時に考えることが苦手で、一つのことだけを考えていたいという性向があるようだ。それは怠惰の成せる業ではないかと疑っているが。かと言って、日本の宿題をする余裕もなかったのが実際のところ。最近少しだけ周りが見え始めてきたので、この機会にその宿題を終えてしまおうという気分にやっとなってきた。気分はそうだが、なかなか捗らない。

本来、科学をやりながら深く考えることができれば、理想的なのだろう。それができていなかったことに気付いたからこそ、この二つを別の時期に分けてやることになった。その第二期を実り多いものとするためにも科学の分野で残された宿題を早く仕上げてしまいたいところである。



大学改革への反発



以前にも取り上げたことがあるフランスの大学改革大学の自治に関する法律に対して、学生をはじめとした大学関係者のデモがあったようだ。 アメリカスタイルのトップダウン方式の大学に変わることに対する反発なのか。大学の運営のために企業の金を入れなければならなくなるので、自治が脅かされ るということなのか。その真意はまだよくわからない。現象としては、昨夜大学から帰る時、大学前の広場で学生が気勢を上げていた。また、大学に入る時には サックを開けて中を見せなければならなかった。以前にはなかったので、確かめてはいないがこの影響なのかと思っている。日本でも同様のことが行われたが、 このような行動は見られなかった。結局のところはすべてを受け入れるという従順な体質なのだろうか。



jeudi 8 novembre 2007

「フランス語、そして科学から哲学へ」



最近、フランスで科学哲学を学ぶようになるまでの軌跡をまとめるように依頼された。これまでブログにも書いてきたことも含めて総括してみた。そこで生まれ変わろうという魂胆も見え隠れした。このブログのカテゴリに 「パリ大学留学まで」 というのがあるが、それを締めくくるにはもってこいの内容にもなっていると思い、以下に転載したい。

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私は運命論者らしい。ある事に至った時、その元にあるものを探る癖がある。今回の元はおそらく2001年春ではないかと疑っている。その日私は花粉症に悩まされ、自宅のソファで横になっていた。朦朧とした意識の中で、20年以上前に滞在していたニューヨークで買ったフランス語のカセットのことをなぜか思い出したのだ。それは雑誌 New Yorker の縦長の広告を見て注文したものだが、当時は英語に忙しくほとんど触れることもなく忘れ去られていたのである。早速探してみると出てきたので、横になりながら、あるいは通勤時に20個ほどあるカセットをその音を楽しみながら聞き始めた。ただ聞いている、それだけであった。これが今回の事の発端になったフランス語との出会いである。

それからフランス文化との付き合いが始まった。その昔アメリカに渡り4年が経過したある夏の日の午後、英語が右から左に抜けるようにわかるようになる (私の中では) という経験をした。フランス語ではそれは無理だろうから、少なくとも4年間という時間を自由に使ってフランス文化に浸ってみてはどうだろうかという考えの下、これまでいろいろとやっていたようだ。何かのためにやるというのでは全くなく、ただフランス語の音や文化の中に身を晒し、そこでの出会いに快感を感じながらこれまで続けてきたように思う。ひょっとすると、こんなことは今までの私には起こらなかったことかもしれない。

今更述べる必要などないだろうが、異なる文化に触れるとこれまで慣れ親しんだものとは異なる発想の中に身を置くことになり、自分の中の全く別のところが刺激され、しばしば目を開かされる。私の購読している Le Point という週刊誌 (アメリカの Time や Newsweek に当たるようなものか) にはほとんど毎週のように哲学者 (philosophe) が出てくる。そのことに先ず新鮮な驚きを感じた。それから文化欄には哲学・思想と題する項があり、現役の哲学者や思想家が自らの経験を2-3ページに亘って語るのを読むことができる。その内容は哲学研究などではなく、自らの人生をどのように生きたのかを自らの思索を通して自らの言葉で語るというもので、そこにこれまでには感じたことのない、ある種の感動を覚えることになった。時には雑誌全体の特集としてニーチェ、ショーペンハウアー、スピノザ、モンテーニュなどの哲学者が10ページほども割いて取り上げられることもある。これらは私にさらなる驚きを与えた。

最近、フランス大統領選挙で勝ったサルコジの政権に、対立する社会党の影の内閣の大臣が参加するという現象が起こった。この現象に対して、表層的な、あるいは裏話的な分析に終始するのではなく、哲学者が出てきてそもそも裏切りとはどういうことなのかを分析したり、精神医学者が裏切りを生む精神状況を語ったりと物事へのアプローチが重層的で、事の本質に迫ろうとする精神を感じ、私にとっては大いに刺激的であった。このような小さな経験を積み重ねているうちに、私の中の何かが変容して行ったようだ。フランス語の « ouvrir votre esprit » という表現を 「あなたの精神を開く」 と直訳した時、私の経験していたことはまさにこれだと感じた。

2005年春、パリにあるP研究所の友人が私の研究室を訪ねてきた。彼は東京の街がマスクをしている人で溢れていることに驚いていたが、そこから会話がある方向に向かった。私が花粉症であること、花粉症のお陰でフランスとの出会いが生れたこと、病気がなくならないのは病気自体に存在意義があるからで、私にとっての花粉症はまさにフランスへの想いを呼び覚ますためにあったと考えている、というような他愛もないことである。そこで彼は、病気の意味などに興味があるのであればこの人を読んでみては、と言って 「ジョルジュ・カンギレム」 という名前を出し、« Georges Canguilhem » と綴ってくれた。それを見た時に実に不思議な感覚が襲ってきた。何と形容してよいのかわからないが、今まで全く知らなかった世界への鍵がそこにあるかのような、未知への扉がこれから開かれようとしているかのような感覚だろうか。それから彼の著作を取り寄せたり、関連する本に目を通すようになっていた。その結果、このような領域が科学哲学、フランス語では épistémologie (la philosophie des sciences) と呼ばれていることを初めて知ることになる。今から僅か2年ほど前のことでしかない。

またその頃から、ぼんやりと自らの退官のことが頭に浮かんでいた。それまでは研究生活が永遠に続くと無意識のうちに思い、呑気に研究をしていた。そもそも基礎研究を始めた当初の思いは、何か美しいものを見てみたい、あるいは大きな原理のようなものに触れてみたいというものであった。そのためには、自らの興味に従い求めを続け、その結果見つかってきたことをもとに、さらに問いかけるということを続けていけば、いずれ私の思いが満たされるのではないかと考えていた。これは意識的に考えたというよりも、直感的にそう思っていただけである、と今では言わざるを得ない。この考えは、研究生活が永遠に続くという前提の下で初めて自らを納得させることができるのではないか、と思い始めていた。そんな折も折、アインシュタインの次の言葉に出会ったのだ。

「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いです。あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」

この言葉を見た時、ひょっとして私はスタートから間違っていたのではないか、という疑念が湧いていた。と同時に、これまで如何に自分の対象となっているものの本質を考えないで研究をしていたのかということを痛感させられていた。これから同じようなことを続けていて果たして自分は満たされて終ることができるのだろうか、さらに突き詰めると、これからを如何に生きるべきなのか、という究極の問が生れて初めて私の前に現れた。

この問に対して、自分に一番しっくり来る道、この道を行けば悔いを残さないと思われる道は何なのかを探ることにした。研究を続ける、大学で教える、新しい分野に入る、悠々自適を決め込む、などの可能性について、実際にその環境に身を置いて自分の反応を確かめるという方法で検討していった。試行錯誤を繰り返した結果、最終的にはパリ第一大学の大学院で科学哲学を学ぶことになった。ここに至る道は、パリ大学の先生が私のような門外漢に許可を与えたことも含めて、不思議の糸に導かれているとしか言いようのないものであった。

2年程前、言葉に慣れるために拙いながらフランス語でブログを始めた。先日、そこに書いたフランスで哲学をやることになったという記事に対して、A4にすると2ページにも及ぶ私の心を打つコメントが届いた。そのコメントの主は、大学で哲学を修め哲学教師をした後、フランスが自らの歴史を蔑ろにしている現状に危機感を覚え、現在政治の世界を目指しているという方である。要約すると次のようなことが綴られていた。

「今あなたの決心を知ったところです。それは非常に崇高な (noble) もので、あなたにとって重要な生命科学とフランス語の分野を発見しようとする意思の表れです。心から真摯な激励を贈りたいと思います。先日、私の 『友人』 と言ってもよいガストン・バシュラール (Gaston Bachelard) について話しましたが、科学哲学を学ぶことは素晴らしい旅になるでしょう。私はあなたが単なる目撃者 (le témoin) としてだけではなく、その当事者 (l'acteur) として積極的に働きかけることを願っております。そおすることにより、常に霊感を与えるような活力 (すなわち目覚め) が得られるでしょう。あなたを取り巻き、そして呼び覚ますものによってあなたが外に開かれるようになり、人間としての勤めを追求しようと冷静に結論を出されたことに心からの喜びを感じています。しかもあなた自身のものの考え方、すなわち尊厳をもって生きるという考え方を失うことなく。」

最近、こういうはっきりした言葉との触れ合いに心から満足を感じるようになっている。数年前では想像もできない変化である。このような精神状態でこれからの数年をこちらで暮らしながら、人類の蓄積を掘り起こし、自らも考えていくという選択をしたことになる。いつの日か、その営みの跡を語ることができれば素晴らしいだろう、などという考えを弄んでいる。最後に、今年の3月にパリを訪れた際に浮かんできた一句を掲げ、この小文を終えたい。


若き日とともに歩まんパリーアン

Allons encore
avec ma jeunesse
à Paris 1

Paul Ailleurs




mercredi 7 novembre 2007

哲学者とは



講義を受けていると言葉の定義が常に問題になる。それがわからないと話についていけない。「・・・とは」 という問である。しかし、これを始めるととんでもないことに気付く。何一つまともに答えられるものがないのである。しかも、単純な言葉になればなるほど難しくなる。それを理解するためにはあらゆるところに目をやらなければならないのと、あらゆるところに関わってくるからだろう。普通は、鴎外の 「かのように」 ではないが、そのほとんどをわかったようなつもりで生きている。そうしないと生きてゆけない。例えば、「時間とは」、「空間とは」 などと問い始めたら、それぞれ一生かかっても終らない問題になる。おそらく、哲学者とはそれをやる人間なのだろう。普通の人が何気なくやり過ごしていることの前で立ち止まり、それを問い直すという作業に人生を賭ける人種のような気がしてきた。そのような人種が如何に少ないかは、これまで何度か触れてきた。この年代になると、これこそが生きることなのだと実感できるようになるのだが、、。

ハンモックでも触れたが、今年の正月のテレビで各界の人の人生を10分程度にまとめたものを見ながら、一人の人間は一つの問題に答えを出すためにこの世に現れたのではないか、という感慨を持っていた。その意味では、一人ひとりが広い意味で哲学をやりながら生きているのかもしれない。前回も触れたように、その結論が最後の最後にならなければ出ないような、そんな人生を歩んでみたいものである。



mardi 6 novembre 2007

思い出の場所へ



昨日は補講があるとのメールが先週来ていたので、思い出の場所に出かける。そこは今年の3月に訪れた研究所で、今回こちらに来ることになる切っ掛けを作ってくれた場所である。少し早く着いたので周辺を散策する。カフェに入り、朝の日差しを受けながら街を眺める。この3月には先が見えず必死に歩いていたことが蘇ってくる。目の前の街は何もなかったかのように平穏だ。時間になったので秘書室に上がり今日の予定を聞いてみたところ、連絡が入っていないという。おそらく、先週の講義で私が早く出た後に今日の予定について説明があったのかもしれない。いずれにせよ時間ができたので、前回滞在した折に来たことのある思い出の科学関係の古本屋に足を伸ばす。その時も面白そうな本があるとは思っていたが、今回は勉強が始っているせいか興味の焦点が絞られてきているようだ。科学の歴史に関する1930年代のまだページが開 いていない本を7-8冊仕入れた。これからゆっくりとそのページをカットするという楽しみを味わいながら、昔の人の声を聞くことになる。中にインタビュー 本も含まれているので、まさに話し声を聞くという風情である。店のご主人に 「値段は決まっているのではないでしょうね」 と念を押すと、ありがたいことに5%の学割をしてくれた。これからも関連の本が入ったら連絡をしてもらうことにした。



lundi 5 novembre 2007

ジュール・ボルデの言葉


ジュール・ボルデ Jules Bordet
(Soignies le 13 juin 1870 - Bruxelles le 6 avril 1961)


« On dit souvent que la vie est belle : elle l'est pour ceux qui en jouissent, elle l'est davantage encore pour ceux qui cherchent à la comprendre. » (Jules Bordet)

  「人生は美しいとよく言われる。人生を堪能している人にとってはその通りである。さらにそれを理解しようとしている人にとっては尚更である。」 (ジュール・ボルデ)


ベルギーに生れた彼は、1892年にブリュッセル自由大学 (Université Libre de Bruxelles) で医学を修める。1894年からはパリのパスツール研究所、イリヤ・メチニコフ Ilya Metchnikov (1908年、免疫研究によりノーベル賞受賞) の研究室で研究した後、ブリュッセルにパスツール研究所を設立。1906年には百日咳菌を発見。学名を Bordetella pertussis と言い、彼の名前が付けられている。補体結合反応という免疫反応の原理も発見。免疫研究の功績により1916年にノーベル賞受賞。パスツール研究所の免疫研究棟 (メチニコフ・ビル) のセミナー室に彼の写真が飾られていたように記憶しているが、、。



dimanche 4 novembre 2007

テキサスからのプレゼント



昨日の夜、バルコンに出て久しぶりにぼんやりと時間やこの世に生きる意味などに想いを巡らせていた。ワインをお供に。今回こうしてパリに落ち着いていることは、自らが確実にこの世から跡形も無く消え去るということを理解したところから始っている。それまでは永遠に生きるものだと事に向き合わずに思っていた。この世からいなくなることがはっきりすると、今ここにいることが奇跡に近いということに気付く。その時間を味わわなければならない。その意味を考えなければならない。その結論の出ない問いを問い続けなければならないと考えたのである。

以前に少しだけ触れたことがあるが、偉大な進化生物学者のエルンスト・マイヤーが生物学を機能生物学 functional biology と進化生物学 evolutionary biology に分けて考えている。時間軸で見ると、前者は非常に短い範囲の現象を扱い、後者は気が遠くなるほどの時間を考えなければならない。前者はどのようにしてその現象が起こったのかという問いに答えを出そうとし、後者はそこに意味を与えられないかという態度で研究するが、それは突き詰めると進化の問題に行き着く。私自身の経過を振り返ると、functional なところにだけ身を置いていた自らが不完全に思え、終わりに近くなり完全には満たされない自分を見ていた。そういうこともあり、もう少し長い時間軸で考えてみたくなったのである。それをさらに広げて考えると、私の中ではこの世の生き方と直接関係を持つ問題として捉えざるを得なくなったと言うこともできる。

そんなことを考えながら部屋に戻り、パソコンを覗くとメールが入っている。テキサスの友人からで、今月末に日本に行くので是非会いたいという。彼には私の状況を伝えてあったはずだが、おそらく忙しさの中でどこかに行ってしまったのだろう。改めてその旨を伝えた。それから再びバルコンに出て考えていたが、寒さもあり再び戻ると彼からの返事が入っていた。

 「あなたがそう言っていたことを今思い出しました。私もできればやってみたいことです。それは真理を探究するという大きな冒険になるでしょう。残念ながら、今回はフランスに行く機会はありません。健闘を期待します。ところであなたであればこの詩を気に入るでしょう」

とあり、美しい写真とともに次の詩がパワーポイントで添付されていた。

  "Live A Life That Matters" (by Michael Josephson)

 (リンクのやり方が不明のため、このページの最初にある "PowerPoint Presentation" をクリックしてください)

ワインも手伝っていたのか、それまで考えていたことがそのまま別の言葉になっているのを見て心が高鳴っていた。何というタイミングだろうか。こういうことがたまに起こるのである。すぐに返事をくれた彼の中にも同じ想いがあるのかもしれない。以前にパブロ・ネルーダの詩が音楽とともにパワーポイントになっているのを Amateur d'art 氏ブログで見つけた時の感動を思い出していた。

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(version française)



samedi 3 novembre 2007

西周

(1829-1897)


科学、哲学などに関連するところに身を置いているものとしては、この日本語の生みの親についても目を通しておかなければならないだろう。

 西 周 (文政12年2月3日 - 明治30年年 1月31日)

philosophie を 「哲学」 という日本語にした他、「藝術」、「理性」、「科學」、「技術」 などの哲学・科学関係のことばを考案した。また、彼はかな漢字廃止論者で、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』 (明治7年・1874年) を明六社の機関誌 「明六雑誌」 の創刊号巻頭に発表している。この雑誌は彼らが造り出した新しい日本語の普及にも一役買ったようである。西周の父時義は森鴎外の曽祖父森高亮の次男だったので、西周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。

西周 旧居



vendredi 2 novembre 2007

「その日」 三題



その日、私は講義を受けていた。少し余裕ができたのか、気分転換か、外の方に目をやる。教室のガラス窓からの眺めが歪んで見え、小学校の頃を思い出す。木の枠の引き戸になっているガラス窓の1ヶ所が割れて寒気が流れ込んでくるところがある。それを直そうという気配は、2週間経つが全くない。それらすべてが醸し出す雰囲気が何とも言えずよい。

その日、講義に向かうため街を歩いていた。目を左にやると澄んだ朝の空気の中、パンテオンがどっしり構えている。通りを渡る時、右を見ると遠くにエッフェル塔の頭の部分が見える。その瞬間、この朝が非常に貴重なものに思えてきた。ショーウィンドウも新鮮に見え始める。何か語りかけてくるものはないかと感覚を研ぎ澄ましているようであった。このような移動の時間に何かが訪れることが多いのだ。

その日、フランス語の講義が始まるのを着席して待っていた。時間が過ぎでも始る気配はない。その時、女子学生が戻ってきてドイツ訛りのフランス語でこう叫んだ。「先生が病気で休講という張り紙があります」。休講がこんなに嬉しいものだったとは、トンと忘れていた。出口にいたイタリアからの留学生はこれから観光にでも出かけましょうか、というような笑顔で挨拶していた。



jeudi 1 novembre 2007

万聖節 La Toussaint


La Toussaint (1888)
Émile Friand (1863-1932)


今日は Toussaint万聖節、諸聖人の日) という祭日。お陰様で今日から4連休が始まった。この休日で日頃の疲れが取れるとは到底思えないが、丁度よい時に休みが巡ってきたと言えるだろう。

その存在を知ったばかりなので、Wiki を読んでみたい。

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La Toussaint est une fête catholique, célébrée le 1er novembre, au cours de laquelle sont honorés l'ensemble des saints reconnus par l'Église catholique romaine. La Toussaint précède d'un jour la fête des Morts, dont la solennité a été officiellement fixée au 2 novembre deux siècles après la création de la Toussaint.

万聖節は11月1日に行われるカトリックのお祝いで、ローマ・カトリック教会の聖人たちを讃えるものである。万聖節の翌日は死者の日で、万聖節が創設されて2世紀後に11月2日と定められた。

Dans plusieurs pays européens, comme la France, la Toussaint étant un jour férié, c'est ce jour-là que les gens ont pris l'habitude d'aller se recueillir dans les cimetières, et entretenir les tombes des défunts (évènement particulièrement bien représenté dans le tableau "La Toussaint" du peintre Émile Friant).

万聖節が祝日になっているフランスのようなヨーロッパ諸国では、この日祈りを捧げに墓地に行き、死者のお墓の手入れをする慣わしがある。今日の写真になったエミール・フリアンの絵にその様子が特によく描かれている。

英語で諸聖人の日は 「オール・ハロウズ(All Hallows)」、「ハロウマス(Hallowmas)」 とも表記される。アイルランドやケルトの習慣ではこの日の前の晩は 「ハロウ・イブ(Hallow Eve)」 と呼ばれ、キリスト教伝来以前から精霊たちを祭る夜であった。19世紀に移民によってアメリカ合衆国に持ち込まれたこの習慣が 「ハロウィン(Halloween)」 である。(「ハロウィン」 は 「ハロウ・イブ」 がなまったものである。)

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ハロウィンのところを読んでいると、アメリカでのお祭り騒ぎを思い出す。そう言えば、昨日の夜、様々な装いをした人たちを街で見かけた。

この祝日、ゆっくりと昔の人を思い出しながら過ごしたいものである。