jeudi 15 novembre 2007

中国のルネサンスマン ― 徐光啓



このところ交通機関と大学が揺れている。"Les grèves, une belle invention française !" (ストはフランスの素晴らしい発明!) などという見出しも踊っている。昨日は再び交通機関のストがあり、大学はお休みになった(と思っている)。その前日は講義の最中から外が騒がしくなり、帰りに外に出てみると学生がたむろし、警官隊の車が7-8台大学前に停まっているという状況。大学が封鎖されるところ blocage までは行かなかったようだ。このような状況が日本で起こると大変な騒ぎになるだろうが、こちらで見るとそれほどの違和感はない。ということで、昨日は部屋での仕事になった。

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新しく届いたアメリカの科学雑誌 Science に興味を惹く記事が出ていた。中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者の業績を振り返る行事が先月上海で行われたという。

 徐光啓 Xu Guangqi (1562–1633)

1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人でイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (October 6, 1552 - May 11, 1610) に会い、彼の虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西の交流にもなった。彼はリッチの助けを借りて、彼が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (今日の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性を説くようになる。

1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示すところがあり、レオナルド・ダビンチ、あるいはフランシス・ベーコンと比肩される。

中国政府は全く触れていないが、リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマカトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。



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