mardi 30 juin 2015

ポンピドゥー・センターから Du Centre Pompidou

30 juin 2008

 ニーチェの風土と精神の活力に関する考察を思い出しながら、今日も乾燥した空を見る。

朝のうちはぷかぷかといくつもの雲が浮いていたが、午後からは完全に 晴れ上がってしまった。

確かに、こちらはからっとした日は多いような気がする。

気が付かないでいたが、気候風土の影響は甚大なのかもしれない。

今日は、昨 日の余韻を少しだけ楽しみたい。












lundi 29 juin 2015

ミロスラフ・ティッシーの言葉 Miroslav Tichý au Centre Pompidou

29 juin 2008

この3月に Lunettes Rouges氏に3年ぶりに会った時にこの写真家のことを聞いた。

その展覧会を見に、ポンピドゥー・センターまで出かけた。

ミロスラフ・ティッシー
 Miroslav Tichý (né le 20 novembre 1926 à Nětčice, Moravie)


以前に話を聞いた時にネットで出回っているものを見ていたので、それほどの驚きはなかった。

ただ、今回は彼自作の写真機などの実物が展示されていたが、相当に酷い。

しかし、それが逆に偶然を呼び素晴らしい作品を生み出すことになったのかもしれない。



 彼のことについては3月の記事を参考にしていただきたい。

今日は場内で流れていたインタビューから聞こえてきた彼の言葉について触れてみたい。

"Je n'existe pas ! Je suis un outil. Un outil de perception peut-être.
Je ne crois en rien, ni en personne, même pas en moi-même."

(私は存在しない。私は道具である。おそらく知覚のための道具。
私は何も信じない、誰も信じない、私自身も)

"Je suis un observateur. J'observe aussi consciensieusement que possible.
 Ça arrive sans aucun effort de ma part."

(私は観察者である。できるだけ丹念に観察する。
それはわたしにとって全く努力を要しないことなのだ)

"Je ne décidais rien du tout. C'est le temps qui le faisait, au fur et à mesure de la journée.
Tout est régi par le rythme de la Terre. C'est ça qui est déterminé à l'avance. 
C'est ce qu'on appelle le destin."

(私は何も決めなかった。一日の流れの中でそれをやったのは時である。
すべては地球のリズムによって支配されている。それは予め決められている。
人が運命と言うやつだ)

"Plaisir est un mot que je rejette complètement !
Comment est-ce qu'un sceptique comme moi pourrait avoir du plaisir ? 
Je chasse tous les sentiments faciles tel que le plaisir."

(快楽は私が完全に拒絶する言葉である。
私のような懐疑的な男が快楽を味わうことなどどうしてできようか。
私は快楽などという安易なすべての感情を追い落とすのだ)
 


写真展を出た後は、周辺の会場で現代・近代絵画や造形作品を見て回る。

今回、あることに気が付いた。

抽象絵画を見る時、それが本物でも感動が襲うことは稀である

しかし、写真に収めその画像を覗いた時、非常に美しく感じた。

実物ではピンと来なかったのに、である。

なぜかわからない。

いくつか試してみたがその印象は変わらなかった。

ということで、見たところのものはほとんどカメラに収めて帰ってきた。





 会場を出た後、カフェで仕事関係のメモ・ノートとともに2-3時間過ごす。

メトロに向かう途中、ジャズクラブを見つける。

なかなか良さそうなところだったので、いずれのリストに入れておいた。








dimanche 28 juin 2015

ニーチェによる土地と風土 Le lieu et le climat selon Nietzsche

28 juin 2008

今朝、机の上に何気なく置かれていた文庫本を取ったところ、その中に引き込まれ当初の予定はどこかにいってしまった。夕方までニーチェとともに過ごす。彼の最後の書から。

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  栄養の問題と密接に関係しているのは、土地と風土の問題である。誰にしろ、何処に住んでも構わないというものではあるまい。ことに全力を振りしぼることが必要である大きな使命を果たさなければならない者は、この点できわめて狭い選択しか許されていない。風土が新陳代謝に及ぼす影響、新陳代謝を阻害したり促進したりする影響は非常に大きいために、いったん土地と風土の選択を誤ると、自分の使命から遠ざけられてしまうばかりでなく、使命そのものをわが身に授けてもらえないということが起こり兼ねないのである。つまり、彼自らが使命に面と向かうことを一度もしないで終ってしまうわけだ。こういう人の場合、動物的活力が十分に漲り溢れ出していないので、最も霊的な界域に洪水のように押し寄せて行くあの自由、かくかくのことをなし得るのはただ吾れ独りのみ、と認識するあの自由な境地には、到達しがたい。

・・・・・どんなに小さな内臓の弛みでも、それが悪い習慣になってしまえば、一人の天才を凡庸な人物に、何か「ドイツ的な存在」に変えてしまうには十分である。ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的素質を具えた内臓でさえも、無気力にしてしま うのはいとも簡単だ。新陳代謝のテンポが速いか遅いかは、精神の足がす速く動くか、それとも思うように動かないかに正確に比例している。「精神」そのものがじつはこの新陳代謝の一種にすぎないのだからこれまた当然である。

ひとつ比べ合わせてみて頂きたい。才気に富んだ人々が住んでいたかまたは現に住んでいる土地、機智と洗練と悪意が一体となって幸福の要素を成していたような土地、天才がほとんど必然的に住みついていたような土地、等々を。 どれもみな空気が素晴らしく乾燥した土地ばかりだ。パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテーナイ----これらの地名は何かあることを証明している。すなわち、天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること----迅速な新陳代謝を、いいかえれば法外とさえいえる大量の力を繰り返しわが身に取り込みうる可能性を条件としていること、それらのことを証明している。

私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、たまたま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、狭量になり、卑屈になり、ただの専門家になり下がり、気むずかし屋で終ってしまったケースを、目の当たりに見て知っている。そして、私自身にしてからが、病気になったお陰で、否応なく理性へと、現実の中での理性に関する熟慮へと強 いられたのだが、もしもこの、病気によって強制されるということが起こらなかったならば、結局は右と同じケースになっていたのかもしれない。

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ニーチェ 「この人を見よ Ecce Homo」 (西尾幹二訳)
  (段落改変はpaul ailleursによる)

仏版 (Eric Blondel 訳)

 

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6 juillet 2015

 気候が精神に与える影響については、こちらに来てから常に考えていることだ

今の時期で言えば、湿気と暑さである

東京の梅雨から夏にかけての湿気と暑さには苦しめられた

あの蒸し暑さの中では考えることが嫌になるのである

理性的に考えるなどということが面倒くさく、どうでもよくなるのである

ニーチェによれば、天才が育つ条件は乾燥した空気や澄み切った空だという

確かに、パリにはその条件は揃っている


地震や台風、竜巻に津波などの天災が日常的に襲ってくる日本

わたしが数週間帰国すると、このどれかに必ず遭遇してきた

大変なところに住んでいたという自覚が生まれたのは、大地の揺れないこちらに来てからである

そのような環境では、永遠とか絶対というようなことに思いも至らないのではないか

大地がびくともしないこちらでそんなことも考えるようになった


ニーチェ流に言えば、天才をも何か「日本的な存在」に変えてしまう環境が日本にあることになる

 蒸し暑い今日のパリ

確かに精神の集中を削ぐ効果がある

住む場所を意識的に選ぶということが、その人の人生を決めることさえある

重い問題だが、意外に意識されていないことかもしれない





mercredi 24 juin 2015

Patrick de Wilde 写真展

24 juin 2008


目的地に向かったが、辿り着く寸前で月曜であることを思い出す。閉館日。仕方なく歩き始める。しばらくして休みを取りたくなりカフェに入る。持参したパソコンと2-3時間向き合う。それから再び歩き始めるとUNESCOが目の前に現れ、周りの柵に写真が掲てあるので一つひとつ見始める。すぐに終ると思ったところ結局100枚近くあったのではないだろうか。途中にフランス語と英語の文章が織り込まれてある。すべてのパネルを写真に収める。月曜のお昼からこのような時間の使い方ができるとは・・・。最後にこれが展覧会であることを知る。写真家はこの方である。


 
  「君が僕と違っているとしても、それで僕が傷つくどころか僕を豊かにするんだ」 

アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ (1900年6月29日-1944年7月31日) 「城砦」より






「低開発という考えは、低開発と言われる人たちが過去に持っていた、あるいは現在持っている数千年の文化の潜在的な美点や豊かさを理解しようとしない。この概念は、これらの文化を迷信の塊として死に追いやることに強力に加担するのである」 
エドガール・モラン (1921年7月8日-)











mardi 23 juin 2015

小さな愉しみ、そして・・・

23 juin 2008
Le jardin japonais 


今のアパルトマンのバルコンには、前の方の植物の鉢植えが二つほど残されていた。すべての葉が茶色でかさかさになっていたのでもう枯れていると思い、そのまま手を付けずに放置しておいた。先日、夏休みに入って閑があったので何気なく見ていると、一つの枝の先に緑の葉っぱがあるのを発見。ひょっとしてこれは生きているのではないかと思い、水を気長にやってみることにした。枯れた葉っぱをすべて取り払うと、枝が上下左右に乱れた姿を現した。1週間すると他の枝に も緑の葉が見え始め、今まで茶褐色だった枝の先の方から根元に向かってうっすらと緑色を帯びてくるではないか。これは生きていると確信。鉢の中だけではな く外に伸びている枝にもたっぷり水をやり始めた。そうすると、枝の節のようなところから本当に小さな柔らかい淡い緑色の芽が次々に顔を出すようになってきた。ただ、これが枝に水を掛けたためかどうかはわからない。気分的にたっぷり可愛がっているという気持ちにさせてくれる心理的な効果は大きいが、、。そうこうしているうちに一つの枝の先からは花まで咲かせてくれるようになった。

この植物とのやり取りを振り返る。これまで確かめることもせず放置していた態度は、まさに仕事をしていた時の周りとの接し方に近いだろう。その後の植物を介抱するかのような態度(じっくり眺めたり、出てきた葉っぱに触れるなど)は、閑ができ心の余裕もできた時の態度になるのだろう。

少しずれるが、日本にいる時には家の中の植物にはできるだけこの手で触れるようにしていた。そうすると植物が元気になるように見えたからである。これは気のせいかもしれないが、植物にはいろいろな刺激を受ける受容体が豊富にあるようなので、全く科学的根拠がないとも言えないように感じるのだが、、、。それにしても生命とは驚くべきものであり、無上の喜びを与えてくれるようだ。どうしてこんなところから緑が出てくるのかという枝から小さい顔が見えた時の喜びは例えようもない。

話はここで終 らない。余りにも喜びすぎた昨日のこと。私のボワットレートルの中に封書が入っていた。下の階のご婦人からである。全く面識もないのでどんな内容か想像も つかなかったが、次のようなことが書かれてあった。植物に水をやる時には下に受け皿を置いてやることをお勧めいたします。私のバルコンに水が漏れてきて大 いに迷惑しています。この素晴らしい日に窓を閉めなければならないなんて耐えられません、という棘を覆い隠した丁重な言葉が並んでいた。日本での経験から、よもやバルコンから水が漏れることなどないだろうと思っていたのが間違いの元だった。早速、お詫びの手紙を書くことになった。

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もう一つの話題を。日本ではお菓子の類は健康上の理由から極力避けるようにしていた。それがこちらに来て気が緩んでしまい、ちょくちょくエクレアを口にするようになった。ちょっとした時に口に含むとなぜか元気が出るからである。禁じられればられるほど・・・というあれである。別に禁じられているわけではない のだが、、、。エクレール・オ・ショコラ、カフェ、キャラメル(eclair au chocolat, au café, au caramel)の3種類だけ。注文を"un de chaque" (それぞれ一つずつ)とする。それにしてもこちらのエクレアの重いこと。味も日本のものとは別物である。

すでに私の住む郊外のパティスリーを5-6軒試しているが、どこでも例外がないことがある。日本ではエクレアはすでに袋に入っていて、それをさらに紙の箱に入れてくれるようだが、わが町では2-3個のケーキをその都度紙に包み、持ちやすい形にして手渡してくれる。端を折り込んだり、セロテープを貼ったりして形を整えている。最初は何でそんな面倒なことを、と思っていたが、ケーキと同じく手作りであるべきだという哲学でもあるのだろうか。最近では人間が生に感じられるその包みを掌に載せたり、小さな鞄を持つようにしながら帰ってくるのが楽しみになっている。






lundi 22 juin 2015

「どこか危険なもの」再訪、そして夏至音楽祭 

22 juin 2008
Le jardin japonais
 

今朝は地響きのする朗々とした雷鳴に起こされる。学生オーケストラの同期S氏が同期の連携を目指して数ヶ月に一度送ってくれる5-6ページのレポートがある。もういつ始ったのか忘れるくらい昔からのものなので、その間の労力は大変なものだろう。いつも感心しながら読んでいる。それが昨日届いた。添えられていた手紙を読むと、拙ブログの写真がなかなかよいという。さらに、それが学生時代の私と重ならないので困っている様子が伝わってくる。よくわかる。写真はここ数年のことなので、私自身もどうしてこうなったのかよくわからないからだ。レポートの中に入ると、私の話題も取り上げられていた。それは3月初めに書いた「どこか危険なもの」という記事が印象に残ったというものだ。

その記事では、以前に食事をともにしていた方が私の生き方について分析しているのを聞き、そういう見方もあるのかと妙に納得したことを書いた。それは、私には正規分布の中に入ろうとする意識がない、さらに言うと正規分布そのものが存在しないようだという指摘である。私の中では、どうして皆さん方は私の正規分布(大げさに言うと正しくも美しいところ)からずれているのだろうかと思いながらそれまで生きて来たので、ずれているのが私の方だと教えられ、逆にびっくりしたというのが正確だろうか。いつもながらの遅さである。

S氏とは学生時代からの付き合いになるのでそのあたりは気付いていたようだが、頻繁に接しているとは思えないディネを共にした方が私の本質とも言うべきものを看破したことに驚き、その見識の高さに脱帽したとそのレポートにはある。さ らに、このような見方ができる人との出会いや深い会話を重ねることを可能にしているその環境こそ、今の刺激に満ちたパリ生活の本質ではないのか、とまで書 いてあった。正直なところ、この分析の正確さにもこちらが驚いた。

そして何という偶然だろうか。昨日はその鋭い分析をしていただいた方の誕生祝の日。カルチエ・ラタンまで出かけた。メトロを出るとすでに大音響が鳴り響いている。夏至音楽祭(La Fête de la Musique)である。会まで時間があったので音を頼りに周辺を散策する。とにかく街角の至るところにバンドが溢れている。6時過ぎなのでいずれもまだ準備運動のような感じ。以下にいくつかのバンドを。

 



サンミシェルの人ごみの中を歩いている時、これまで何度か取り上げているル・モンドで美術ブログをやっているLunettes Rouges氏に遭遇。誰かが上から人形の糸でも操ってでもいるかのようなタイミングであった。お前もここか、という挨拶を受ける。それから会に向かった。



いろいろなお話が出たように思うが、はっきりとは思い出せない。しかし、リラックスした会話の中で、私の理解がさらに深まったように感じていたことははっきりと覚えている。終った時にはミニュイをとうに過ぎていたが、外は祭りはこれから!という勢い。異様な熱気に溢れていた。






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22 juin 2015

そう言えば、昨日は夜遅くまで近くの公園から音楽が聞こえてきて、7年前を思い出した

街中に出ると、今年も盛り上がっていたのだろう

遠い出来事のようでもあり、つい最近のことのようでもあり

この感覚は最近よくあるものだ






dimanche 21 juin 2015

インダス文明とは

21 juin 2008

宇宙の始まり、生命の始まり、人類の始まり、文明の始まりなど、始まりにはいつも興味を惹かれ、想像を掻き立てる何かがある。昨日のインド展の余韻なのか、新しく届いたアメリカの科学誌Scienceにあったインダス文明の特集に目が行った。この文明に対する見方が大きく変わろうとしているようだ。

その成果を簡単に言ってしまうと、こうなるだろう。インダス文明は世界三大文明(黄河文明を入れると四大になる)には数えられていたものの、これまでメソポタミア文明やエジプト文明の影に隠れていて、そちらから流れてきた人によって作られたものではないかとまで言われていた。しかし、調べてみると高度の技術を持ち、周辺との交易も積極的に行っていたことがわかってきた。紀元前3000年と言うから、今から5000年前のことである。

インダス文明は1924年代に発見された。2002年にインドとパキスタンの緊張した地域での発掘により、それまで西の文明の従姉妹文明程度に考えられていたのが、5000年前に当時のグローバリゼーションを積極的に展開する文明だったことが明らかになりつつある。それまでの見方では、インダスの人は閉じられた階級のない社会に暮らす均一な人たちとされていたのが、アラビア海からヒマラヤ山脈まで広がる地域に暮らすアフガニスタンやイラクとも取引をするダイナミック な人たちだったようだ。

最初に発見されたハラッパー(Harappa:上の地図を参照のこと)とモヘンジョダロ(Mohenjo Daro)の町は、それぞれこれまで考えられていたよりも1000年も古く、3倍も広いものであることが明らかにされた。モヘンジョダロには200平方ヘ クタールの場所に2万から4万人が暮らしていたとされ、ハラッパーもそれより少し小さいに過ぎない。これはナイルのメンフィスと変わらない規模になる。さ らに、道路、家屋、上下水道の整備は、ローマ時代になるまでは比肩するがないほどのものだった。そこでは泥の安物のレンガではなく、火を入れた高価なもの を使っていたという。

これまでのところ、政治形態や信仰の様子を窺い知るものが、西のエジプト、メソポタミア文明に比して極めて少ないよ うである。埋葬品もなく、神殿や宮殿の跡も見つかっていない。文化的な顔がないという。そのため、紀元前2600年頃にメソポタミアから来た人たちがヒエ ラルキーのない社会を作り、紀元前1800年に突如消滅した文明だと20世紀中頃には考えられていた。そして、この地域の政治状況がそれ以上の発掘を許さ なかったようだ。

1970年代に入り、フランス人率いるチームがメルヘガル(Mehrgarh)は紀元前7000年から存在することを明らかにし、インダス文明の先駆けになる場所と見なされている。さらに、タール(Thar)砂漠にもインダス文明が起こる数千年前から人が住んでいた数百の痕跡が残っていて、これまでの説が覆されつつある。

最近のハラッパー発掘によると、その起源は紀元前3700年まで遡ることができ、紀元前3300年までには格子状の町並みの10平方ヘクタールに及ぶ村落になっていた。交易も盛んに行われていたようだ。またファルマナ(Farmana)には高度な農村ができていた。



インダス文明が発見された時にはモヘンジョダロとハラッパーだけだったが、その後少なくとも5つの都市と他にもいくつか認められている。例えば、アラビア海に近いドーラビーラ(Dholavira)は1000年にも亘って栄え、そこには記念碑や美しくも巨大な建築、スタジアムなどがあり、ヒエラルキーの存在が示唆される。また、水の管理も効果的にされていた様子が伺われる。ハラッパーでは貢物と思われる華麗な埋葬品や棺桶が発見されている。このような装飾品は他の場所でも見つかっており、エリートの存在を思わせるが、エジプトのファラオのような巨大な権力とはなっていなかったと推定している。

彼らが死後の世界をどのように見ていたのか。神殿などが見られないところから信仰の様子を推定できない。昨年、表にはヨガの姿勢の像があり、裏に"proto-Shiva"と書かれている紋章が見つかっているが、それが宗教的な意味を持つものか結論は出ていない。今後の課題はインダスの日常生活、例えば何を崇拝していたのか、交易はどのようにやっていたのか、さらには政治形態や気候の変動などを明らかにすることだという。
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実験をやって確かめることのできない学問、考古学。科学と言えるかどうかの議論もある。また、どれだけ役に立っているのかという問いを出す人もいるだろう。今回の記事を読んで、世界の見方が少し変わってきているのに気付く。そこに微かな満たされたものを感じる。ひょっとすると、われわれ(少なくとも私)は日々新しい世界を覗くためにこの世を歩んでいるのかもしれない。そうだとすれば、新しいものや異なるものの見方を提供する学問はわれわれにとって必須のものになる。生きるために不可欠なもののはずである。しかし現実はどうだろうか。例えば哲学の状況を突いた立花隆氏の報告を 待つまでもなく、惨憺たる有様だ。しかし考えてみれば、大学が学問で商売をするようになった段階で、新しい「物」にしか目が行かない事態に立ち至るのは当然の成り行きだったようにも見える。さらに深刻なのは、危機にある側が自らの学問の意味付けを十分にできていないように見えることだ。

今日は太古のインダスから日本の今に辿り着いてしまった。









samedi 20 juin 2015

ジャン・クリストフ・リュファン Jean-Christophe Rufin à l'Academie Française

20 juin 2008
額紫陽花
(アルベール・カーン美術館庭園にて)


ラジオからこの方がアカデミー・フランセーズに選ばれたとのニュースが聞こえた。旅行作家のオリヴィエ・ジェルマン・トマ氏(Olivier Germain-Thomas, 1943-)を14対12票で破っての当選。全く知らない人だったので調べてみた。

Jean-Christophe Rufin (né à Bourges le 28 juin 1952) : voyageur, médecin, écrivain et diplomate français

もうすぐで56歳になる。まだまだお若い。医者にして旅行家(今年出た自伝の題名にはnomadeの形容詞あり)、作家、さらに去年8月からセネガル大使を務める。華々しい活躍だが、子供時代の環境は複雑だ。父親が家を出た後、母親はパリで仕事。そのため祖父母に育てられる。祖父は医者でレジスタント。第一次大戦に軍医として参戦、第二次大戦ではレジスタンスを家に匿い、ブーヘンヴァルト強制収容所に2年間収容されている。

18歳の時に偶然父親に再会する。大学を出た1977年、チュニジアで医師としてヴォランティア活動をする。後にパリの病院に勤務。1980年、パリ政治学院を卒業。 1986年から人権問題担当で政府に入る。その頃から作品を発表し始める。1988年から2年間ブラジルへ。1991年から2年間は国境なき医師団の副会長。その後医師をやりながら赤十字の管理職を兼ねる。・・・・と、目まぐるしく世界を動き回る。そして今はセネガル大使とのこと。穏やかそうに見えるお顔の下には秘められた火の玉のような情熱が隠れているかのようだ。

作品の内容を見ると、彼の経歴が充分に生かされているようだ。アフリカ、ブラジル、ペルシャなどを舞台にした歴史小説や人権を扱った作品を書いていて、いくつかの小説は翻訳されている。気が付いたら最新刊を注文していた。どうもnomadeに弱いようだ。

新刊の自伝 
Un léopard sur le garrot : Chroniques d'un médecin nomade.
 
Gallimard (31 janvier 2008)


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20 juin 2015

残念ながら、その後この方がわたしの中で蘇ることはなかった

こちらでは抽象的な世界に生きようとしてきたが、そのことと関係あるのだろうか

現実の中に生き、そこでの具体的なことを書いていそうなリュファン氏の作品に手が伸びなかったのは

これからこの傾向が変わることはあるだろうか






アルベール・カーン美術館でインド展 « Infiniment Indes » au Musée départemental Albert-Kahn

20 juin 2008

10年ほど前に一度学会で行って以来気になっているインド。前の研究室でも彼の地から二人ほど迎えたことがある。そのインドについての展覧会が、ブローニュ・ビヤンクールにあるアルベール・カーン美術館で開いたばかり。今日は水道が止まる日でもあり、外に出ることにした。この美術館は2度目になるが、入るのは初めて。

Albert Kahn (1860 - Boulogne-Billancourt, 1940)

展覧会のタイトルは、« Infiniment Indes » (「どこまでも限りなくインド」)。
HPはこちら (ビデオにはベルグソンの姿も。上のEcouterのところで音声案内を聞くことができる)。

20世紀初頭の写真とビデオだけのひっそりとした会場で、びっくりするようなものはなかった。日本庭園ができた時だと思われるが、大隈重信の姿が映っている写真を見つける。以下に出会った言葉をいくつか。



ラビンドラナート・タゴール
Rabindranath Tagore (1861-1941)

"Qui est-tu lecteur, toi qui dans cent ans, liras mes vers ? [...] Dans ton jardin en fleurs, cueille les souvenirs parfumés des fleurs fanées d'il y a cent ans." Le jardinier d'amour, 1913

「読者の君は誰?そう、100年後に私の詩を読むだろう君のことだ。・・・・君の花壇で、100年前に萎れた花の香りに満ちた思い出を摘むのだ」 (「愛の庭師」、1913年) 


Jean Biès, 1995
"A coups de paradoxes, l'Inde démolit en vous tout ce que vous aviez imaginé. [...] Vous assistez au spectacle d'un monde auquel ne s'ajoute plus votre système de références."

「パラドックスによって、インドはあなたが想像していたすべてを破壊する。・・・あなたはある世界の光景を目の当たりにする。それは最早あなたの価値体系を超えるものだ」

"L'Inde -- une centaine d'Indes -- murmurait audehors. [...] Rien dans l'Inde ne saurait être reconnu, le seul fait de poser une question fait s'évanouir ou se transformer la chose."

「インド -- 百はあろうかというインド -- が外で呟いていた。・・・インドにあるものは何一つわからない。一つの問いを発するそのことが、インドというものを消失させ、変質させるのだ」

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20 juin 2015

いつの日か、もう一度







vendredi 19 juin 2015

London to Paris Cycle Ride

19 juin 2008


カフェでフーコーを読んでいる時、通りから奇声が聞こえたので顔を上げるとサイクリストの一団が前を通るところだった。40-50人くらいだろうか。胸には今日のタイトルの文字が書かれてあった。帰って調べてみると、これは年中行事のようだ。しかも、ほとんどすべてが病気のキャンペーンになっている。その中にはアルツハイマー病、種々の癌、脳血管系や皮膚の病気などが含まれている。今年で27年目になるという"Action Medical Research"という医学研究を盛り立てるための団体も参加している。バイクによるチャリティ。体にもよく、奉仕の精神も満たすことができるという一挙両得。イギリスの文化なのだろうか。


息抜きにと思い小説を読み始めたが、哲学書ほどではないにしても見知らぬ単語が顔を出す。辞書に当るとこれまでにはチェックされていないものがほとんどだ。よくも次から次に新顔が現れると感心してしまう。フランス語の海にはほとんど無尽蔵(inépuisable)の宝?が眠っているということだろう か。あるいは、この頭にはほとんど何も入っていないということか。息抜きなどには全くならなかった。


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19 juin 2015

こちらでは意識してフランス語を勉強しないことにしてきた

言葉をマスターしようとすると、どうしても思考の方が疎かになることを最初のアメリカで学んだからだ

そのためもあるのだろうが、ここに書かれてある状態は改善されていない

言葉がすぐそこにあることも関係があるのかもしれない

日本に戻り、フランス語が遠くなると、言葉を真剣に学ぶようになるのかもしれない

 こればかりは分からないのだが、、、






jeudi 18 juin 2015

知者と賢者 Le savant et le sage

18 juin 2008
Jules Bastien-Lepage (1848-1884) 


ある人が思想を語る

それを聴く

その時 その思想がどれだけその人の体から出ているのか

どれだけその人の生と繋がっているのか

その結びつきが見えない時 その話は全く残らない 伝わらない


知識ではなく智慧

知識を統合したところの智慧

これが人を打ち、動かすのだろう

どの分野にも欠けているのが深い智慧

今求められるのが 知者ではなく賢者である所以だ


ひょっとすると私のどこかに賢者への憧れがあったのかもしれない
 
そこに辿り着くために必要なもの

それは ある領域を抜け出たところでしか手に入らない何か
  
その何かを求める旅に出なければならない とでも思ったかのようである


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18 juin 2015

このテーマもわたしの中では大きなスペースを占めることになったものである

先日の枠組みの問題とも関連してくる

その後の歩みの中で、知者と賢者の違いと賢者に向かう道筋の概略がより明確になってきた

「知識ではなく智慧 知識を統合したところの智慧」 という表現が使われている

わたしの中では、統合という作業に哲学を重ねることがある

「その中」 から出て、上の方から 「そのあたり一帯」 を眺めて考えを纏めるとでもいう営みとして

まさに 「知識で終わる世界」 から 「知識から始まる世界」 への転換である

これはSHEとPAWLの基盤として創ったサイファイ研究所 ISHE  の基本理念にもなった

上の記事に肖って言えば、フランスでの生活は賢者への道の第一歩だったのかもしれない


いつも驚いているが、最初の一年でわたしにとっての根源的な問題が出されていたことが分かる





mercredi 17 juin 2015

あるマティネ Une matinée

17 juin 2008
Les Andelys ; La Berge (1886)  
Paul Signac (1863-1935)


ポール・シニャックのこの絵のタイトルにある場所がすぐに読めなかったが、「レザンドリー」。ところで、週の初めのある朝、La Posteに荷物を取りに行く。列で待っている時、映像が流れている画面に目が行った。そこでしばらくの間ヨーロッパ各地の景色をぼんやりと眺めていた。そしていつしか、十年以上前に北イタリアであった学会に向かう途中で滞在したミラノのことが頭に浮かんでいた。そのホテルでよくわからない言葉とともに映し出されていたヨーロッパを見ながら、一体ヨーロッパとはどういう土地なのか、と漠然と考えていたことが思い出された。ヨーロッパは気付かないうちにわたしの奥深くに謎として仕舞い込まれていたのかもしれない。

外に出ると金管やドラムの音が聞こえてくる。これから始る何かのために市役所の前で練習している様子。その中の一人に聞くと、消防署長の交代の儀式があるという。少し時間があったので近くのカフェでセット(formule と書かれてあっ た)のカフェとクロワッサン(1.90€とお安い)とともに町の案内書を眺める。

バンドの隊員は銀ピカの消防士用帽子で、また他の隊員は制服とド・ゴールが被っていた型の帽子で整列している。式は20分くらいだろうか。一つの紹介があると短いファンファーレが入り、それが繰り返される。小気味よいリズムの中に緊張感が流れる。すべてが終った後、息抜きのような音楽が流れていた。小さな町でこのような儀式が未だに続いているのを見て、贅沢な気分を味わっていた。

郵便物は amazon.fr からのもので、中を開けるとよくも注文していたな、と思わせるものばかり。夜更け時にクリックしたものだろう。今すぐどうのというものではなく、わたしの奥にある興味のままに新たな世界を見ておこうということだったようだ。例えば、ジル・ドゥルーズによる哲学とは、ニーチェ、フーコーなどがあったり、シュテファン・ツヴァイクによる伝記もの、ガレノスビシャーの著作まで入っている。どこか福袋を開けるような気分になっていた。

ところでこの郵便サービス、いつも配達があったことを知らせてくれない。今回はアマゾンから配達したとの連絡が入っていたのを思い出し調べてみようという気になったのだが、連絡がない時にはそのままになる可能性がある。苦情は出ていないのだろうか。


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17 juin 2015

日本でも本に対する興味はあったのだろうが、それ以外に注意が向かっていたのでご無沙汰していた

その欲求がこちらでは爆発したかのようで、その気持ちは当時と変わらない

ひょっとすると、その気持ちはさらに強くなり、ほとんど中毒状態かもしれない

ただ、今は別の仕事に取り掛かっているので、そのための時間が取れないのは残念である







mardi 16 juin 2015

枠組みを取り払えるか

16 juin 2008
Adolphe Franck (1878) 


離れて日本を見る
どこもかしこも儲かるか儲からないかの枠組みしかない貧しさだ
もはや すべての人にこれが組み込まれているかのように
しかも その意味を疑うことがない
あるいは その枠の中にいることさえ気付いていない

フランスで哲学を学び始めて 何かのためではなく
そのもののためだけに考えることがありうることに驚く
その態度を知ってしまうと それ以外が浅いものに変わって行った


枠組みを取り払って考える
この過程を経ないところからは 何も見えてこないだろう
それは生きる術ではなく 生の理解にわれわれを導く

このことを体で感じただけでも ここでの時間に意味があるのかもしれない


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15 juin 2015

こちらに来てから常に考えていることは、無意識の内にある思考の枠組みの問題である

 如何にしてそこから自由になることができるのか

結局は、すべてがここにかかってくるように見える

いつも同じ場所にいたのでは、そのことになかなか気付かない、

そこではしばしば状況に任せた乱暴な思考が氾濫する

状況に任せているため、言葉も不正確に雑に使われる

その状況を客観的に見ようという意思も失われる

丁寧に厳密に検討することをやらなくなるのだ

今目にしていることが決まりきった枠の中にしかないため、そこに新しい要素を見つけることもできない

このような行き詰まりから抜け出すためには、別の世界から眺めることが不可欠になる

物理的に場所を変えることができればよいが、精神的にも場所を変えることができる

それが人類の遺産の中に入ることである


今、文系の学部の検討が進められようとしているという

そこで起こることは、袋小路に入った時に逃げ場を見付ける術がなくなることである

現実の「いま・ここ」にしか頭が働くなる窮屈で、囚われたままの世界が目の前に展開する

そこで有効になるのが人類の遺産であるとすれば、その研究は必須になる

それは、最終的には人間の自由を保障することに繋がるのではないか

文系の人に限らず、この問題にそれぞれが解を模索しなければならないだろう

わたしが行っているSHEPAWLの活動も、この視点から見直してみる必要があるかもしれない

一つは、大学の文系の学問を在野で補完する場として捉え直すことができそうである

そうすると、新たな活動の方向性も現れてくる

極論すれば、文系の学問は大学にいなければできないものでもないからである

寧ろ、そこから離れた方が面白いものが出てくる可能性さえあるのではないか

これからのテーマになるだろう





lundi 15 juin 2015

アメリカの声を聞く

15 juin 2008
Thomas Jefferson in Paris 
(April 13, 1743 – July 4, 1826)


日本の新聞でNBCのアンカーが亡くなったことを知る。顔が浮かばなかったのでニューヨーク・タイムズを訪ねる。そこには日曜朝の"Meet the Press"という政治番組でよく見た顔があった。今回記事を読んで、ジャーナリズムに入る前にはニューヨークの民主党上院議員パット・モイニハンや同じ く民主党のニューヨーク州知事マリオ・クオモの下で働いていたことを知る。今では政治ジャーナリストとして尊敬を集めるまでになっていたようだ。まだ58歳 とお若い。

Tim Russert (May 7, 1950 – June 13, 2008)

そのサイトで、もう一人顔の馴染みの方が2月に亡くなっていたことを知る。テレビで彼のインタビュー番組をよく観ていたが、語彙が豊富で普段聞きなれない言葉で溢れるので高踏な印象が強く残っている。記事を読んでみると "rococo vocabulary" という形容がされていた。保守派の論客。政治を論じるのだが政治の世界そのものには興味はなかったようだ。追悼の言葉を聞いているとエピキュリアンという言葉が出ていた。彼の著書では唯一"Atlantic High" を少しだけ読んだ記憶がある。大西洋のヨット紀行記で、残念ながら日本に置いてきた。この世の「もの・こと」をじっくりと観察し、それを味わい尽くした82年の人生だったようだ。

William F. Buckley Jr. (Nov. 24, 1925 - Feb. 27, 2008)

サイトにあったインタビュー映像と音声に触れていると、現実を目の前に生きている人間の声が聞こえてくる。背筋が久しぶりにきりっとしてきた。フランスの懐から這い出しできたという感覚、そこで別人になるという感覚である。こちらでは素のままでいることができ、それをさらに深めましょうということなので無理なく自然にやっていける。アメリカでの感覚とは大きく違うことを改めて実感していた。


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15 juin 2015


つい数日前、インタビュー番組を観ている時、ロココな表現をする保守派の言論人を思い出した

しかし、その名前が出てこない

そして今、この記事がその名を教えてくれた

このような繋がりは日常的に観察され、いつも驚いている


そう言えば、彼がエピキュリアンと言われていたことも思い出す

ただ、エピクロスが唱えていたものと同じかどうかは分からない

ウィリアム・バックレー氏を偲び、ノーマン・メーラー氏との対談を味わってみたい

アメリカでよく観ていたバックレー氏の番組 Firing Line からである

ご両人ともお若い














この他、死生観を語っているものが見つかったが、ややがっかりの内容であった

深く考えたものというよりは、状況の中でのものに見えたからであるが、、、





さらに、リベラルのジョージ・マクガヴァン氏との公開討論の映像が見つかった

お互いにユーモアを交えながらのディベートは見応えがある

このような議論を日本で見ることができないのは残念なことである


このところ渇望しているのは、文学でも哲学でもよいが、聞き入るような真剣な対論を見てみたいということ

そのようなセッティングは、今や安易な意味でのエンターテインメントに成り下がってしまっている

皆さんそれで満足しているのだろうか








dimanche 14 juin 2015

ジュール・バスティアン・ルパージュ Jules Bastien-Lepage

14 juin 2008


オルセー美術館のブティックで、夭折の自然主義画家ジュール・バスティアン・ルパージュに出会った。ヴェルダン・シュル・ムーズ(Verdun-sur-Meuse)で生まれ、後にパリに出る。これからさらなる活躍が始まるだろうという時にガンで亡くなる。享年36。江戸から明治にかけての人になる。

以前であれば通り過ぎるであろう絵だったが、なぜかその日は写真のように切り取られた素朴な田舎の人たちの生活に惹かれていた。それが自らの記憶に触れたためなのだろうか。あるいは、人びとが人間のすべてをもって接していた世界への郷愁だったのかもしれない。そして、今までは何も感じなかったミレーへの興味が生れていることにも気付いていた。 



Saison d'octobre, récolte des pommes de terre (1879)


Vieux mendiant (1881)


Jeanne d'Arc (1879)


Portrait de « mon grand-père » (1874)