jeudi 8 mars 2007

仕事の意味を考える



2年ほど前からこれから先をどのように生きていくのが自分に一番しっくり来るのかを考え始めていた。当時は、これから5年、10年と今の仕事を続けることができれば、と漠然と考えていた。2005年夏にパリの研究所で1ヶ月ほどを過ごした。今から思えば、研究を少しだけ遠くから見始めているようには思えるが、研究を続けるという気持ちに変化は出ていなかった。実際、2006年春には、仕事を続ける環境を求め、外国にあった大学に実際に出かけてみた。その大学の15-6名と会って話をうかがい、まわりの環境などもこの目で見ることができた。最終的に形にはならなかったが、現場で自分がどのように反応するのか、これからの仕事がどういう状況のものになるのかということを実感できた。この経験は、今の仕事の継続が要求するものを考える上で大きな意味を持つようになる。

2006年秋にはパリで会議があったので、2週間ほど滞在。帰国後のある早朝、時差ぼけのため目が覚めた。将来意味を持ってくるだろうと感じてその時刻を控えておいた。それは9月21日午前3時35分のことである。その時、それまでおぼろげに日本には欠けていると思っていた、ヨーロッパ精神の三大要素の一つにも数えられている 「科学精神」 について少し踏み込んで考えてみてはどうかという声が聞こえたのだ。「科学精神」 ということになれば、その発祥となるギリシャ哲学にまで遡って考えざるを得なくなる。そして、それ自体が哲学の歴史を遡ることに繋がる。大きく言えば、人間のこれまでの歩みを辿る壮大な旅になる。一生かかっても終着駅に辿り着かないような壮大な旅に。これこそ今まで仕事の中で埋もれてはいたが、私の底流で深く静かに求めていたことではないのかと、すぐに直感したのだ。それは広く考えることへの憧憬と言ってもよいものだろう。しかしこの時はまだ、それを具体的に実現しようという思いは現れていなかった。

それから秋が深まり、大学で教える可能性についても検討していた。大学で教えるという道は、自分の中では優先順位の高いものではなかったが、実際にその環境に入って考えてみることにした。ある大学の構内を歩いている時、このような大学での仕事の余暇に人類がこれまで考えてきたことを深めることができれば、という思いが浮かんでいた。ただ、実際の仕事の内容を聞いてみると、それをするには時間が足りなすぎるというのが結論であった。

これらの流れとは別に、仕事が終わりに近づくにつれ、それまで完全に仕事の海に浸りきるようにして生活していたその意識が、次第に海の中から浜辺へと出て行っているのがわかった。それは同時に、今まで浸っていた海を外から見ることになり、それ以外の山や森や街などの景色も目に入ってくることにつながった。私の中のこれらの変化は、人生におけるいわゆる仕事の意味を問い直すところに導いたのだ。この広い世界の中において、これまでやってきた仕事というのはどの程度の意味を持っているのだろうか、少なくとも今まではそれに100%の情熱を注いでいたのは間違いないが、人生全体を通してみた時にどのような意味があるのだろうか。そう考えるようになったのは、いわゆる仕事の終わりだけではなく、自らの終わりをも意識できたことによる。それは、これからどのように仕事をしていくのがよいのか、という問ではなく、残りの時間全体をどのように使わなければならないのか、つまり人はどう生きるべきなのかという哲学的な問題として生れて初めて私の頭を悩まし始めていた。