dimanche 16 septembre 2007
モンテーニュ (II) 天上の言葉 Un ciel de phrases
これで、モンテーニュから机にしがみ付き、指はインクで汚れた作家のイメージは消えるだろう。彼は、長時間歩く人だったのである。馬上旅行を愛したガスコーニュの男はいつも動いていた。部屋の中では行ったり来たり、外を見たり、本や天井に目をやったりしながら。その天井を横に2つの梁 (poutres) が走り、縦にある36の梁 (solives) を3つの部分 (travées) に分けている。そこにギリシャ・ローマ時代の作家や聖職者 (Ecclésiaste) の引用を混ぜながら書き込んでいった。それは装飾ではなく、むしろ記憶を助けたり、想像を膨らませるキャンバスであったり、旅人の夜を照らす星のように彼を導く天上の言葉であった。
主要な二つの poutres には次のような懐疑派のキーワードが書かれてある。
« Sans pencher » (... plus d’un côté que de l’autre)
「一方に偏ることなく」
« Je suspends » (mon jugement, en n’affirmant pas plus ceci que cela, je reste en équilibre)
「私は保留する。あれこれと決めることなく、バランスをとりながら判断する。」
« Je ne saisis pas » (je ne tiens aucune position dogmatique et fixe)
「私はしがみつきはしない。ドグマチックで固定されたどのような立場にも立たない。」
« Je m’abstiens de saisir »
「私は固定した立場に立つことを差し控える」
満足のいく翻訳は難しいが、彼の中心的な姿勢は明らかである。超然としていること (indifférence)、すべてに疑いを持つこと (doute général)、あらゆる種類の確信を拒否すること (refus de certitudes de toute nature)。そうすることにより、あるドグマにしがみつくことになるのを避けること。われわれは真実に近づくことはできない。したがって、われわれは判断を保留しなければならない。
その天井を眺めながら、ボルドーの新市長はカトリックはプロテスタントより優遇されるべき存在ではないと考えたかもしれない。彼らが共存するのをヨーロッパで見てきたばかりであったのだ。ドルドーニュ、パリ、ロレーヌ、ドイツ、スイス、チロル、そしてイタリアと1年半に亘る馬上の旅で、彼はあらゆる種類の食事や会話、そして幅広い女性を経験しただけではなかった。対立する意見の共存や狂信主義を治める手段についても経験を積んでいたのである。
天井の言葉は、バランスをとることの重要性を訴えている。綱の上の曲芸師のようにしていなければならない、と繰り返している。しかし、じっとしているのではない。逆に、自由に動くことを可能にし、俊敏に、軽快に、嬉々として進むようになる。モンテーニュの秘密はこの逆転の中にあるのかもしれない。疑いを耐え難いものとはならない程度に強く持ち、それによって逆にドグマや智慧に囚われているよりは、より善く行動できるようになる。つまり、不確実性のお陰でより確実なものを得る (être plus assuré grâce à l’incertitude) という逆説が、彼の中で起こっていたのである。
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