mardi 18 septembre 2007

モンテーニュ (IV) 愛、悲しみ、そして 「エッセイ」 L'amour, le deuil, les livres



書庫の横の壁には 「最も優しく、最も繊細で、最も親しかった友人」 であったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシー Étienne de la Boétie (1er novembre 1530 - 18 août 1563) の思い出に捧げられた、この家を特徴付ける長い書き込みがある。これこそが彼の人生において、本当に愛と言えるものであった。彼らが愛し合っていたのは疑う余地がない。どのような愛であったのかは別問題で、歴史家の間でも意見が分かれている。モンテーニュは 「心の奥底まで生きている」 「神に導かれた関係」 についてはっきりと語り、そこでは 「体が結びつきに関わっていた」 としている。これは、明らかな同性愛が体を絡めたものであったと考える人たちの意見を非常識なものとして退けられない言葉である。

本質的なことは、この愛の激しさと相手の死に続く苦痛である。彼らは、おそらく1558年から1563年までの短い間の付き合いでしかなかった。しかし、エティエンヌが赤痢で命を落とす前、彼の妻ではなくミシェルの腕の中で死ぬことを選んだ。事実、この情熱と喪の悲しみがなければ、書斎もなければ 「エッセイ Les Essais」 も生れなかったであろう。モンテーニュの書庫はこの記憶の祭壇 (autel) なのである。最初は冠詞なしで "Essai" と題された、先立つモデルもなければその後を継いだものもない、この比類なき冒険に乗り出したのは、友の記憶を祝福し、その祝福によって生き延びるためである。ボエシーのための墓碑であり、 「この世にインクと紙がある限り」 続けることを願った彼の文章には、失った友との永遠に続く会話が綴られている。自分がどういう人間なのかを追い求めるが、それは彼の手から常に逃げていく。

なぜなら、激変 (cataclysme) の後には自らを組み立て直し、喪失を埋め合わせ、自らの立場を認めなければならないからである。天井の梁にはエウリピデス (Euripide, 480 - 406 av. J-C) の言葉が残っている。

« Quel homme peut avoir de lui-même grande estime, quand le premier incident venu le réduit à néant ? »
「自らを無に帰するような出来事が初めて降りかかった時、誰が自らを高く評価できるだろうか」

モンテーニュは自らの思考過程を書くことにより、彼を打ちのめした悲しみの底から徐々に這い上がってくる。そこでは、喪の悲しみと自己蔑視、そして悦びの再現が繰り広げられる複雑な物語が語られている。例えば、このような言葉を読むことができる。

« de nos maladies, la plus sauvage, c’est de mépriser notre être »
「最も野蛮なわれわれの病いは、自らの存在を蔑視することである」

il faut cultiver « l’amitié que chacun se doit »
「捧げなければならないような友情をそれぞれが育まなければならない」

la tristesse est une « qualité toujours nuisible, toujours folle, toujours couarde et basse »
「悲しみとは、常に有害で、常に気違いじみていて、常に臆病で低劣な性質のことである」

他の梁には聖職者の言葉がある。

« Ne sois pas plus sage que nécessaire, tu deviendrais stupide. »
「必要以上に賢くするな。そうすれば愚かになるだろう」

この部屋にある言葉には、智慧の限界やそこに辿り着くことができると信じる自惚れ、われわれの知識や力の限界を強調するものが多い。モンテーニュが執着を持っていたのは、境界の問題であった。彼は常に狂気と英知、文明と野蛮、生と死、さらには一つのものの見方と他の見方との境界がどこにあるのかを求め続けた。考えが論理的につながり、次々と後をついて出てきて、それが打ち消されたかと思えばまた増殖するという具合で、ついて行くのが大変なくらいである。

« Il est malaisé de donner des bornes à notre esprit. »
「われわれの精神に境界を設けるのは容易ではない」

全くのところ、われわれが望まなくとも思考はやってくる。思考は自らの道を進み、われわれがその後を追いかけるのだ。それゆえ、彼も 「荒れ狂い、常軌を逸した神の思し召し」 と強調しているように、安寧を得るよりはむしろ不安を煽るような驚くべき経験として 「エッセイ」 を読む必要がある。

この種のものとしては世界に唯一の本書がその独自性を持つのは、われわれの無知を強調したり、著者の自画像を描いたからではない。それは、絶え間なく蛇行しながら流れていく思考の流れを探求するために、彼が向こう見ずにも乗り出したからである。

「われわれの精神のように当て所もないものを追いかけたり、心の深奥の不透明な深遠さに入り込むというのは茨の道である」。フロイトに先立つこと4世紀、これこそ自己分析を想起させるものである。



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