samedi 22 septembre 2007

モンテーニュ (VI) 流れゆく生 La vie comme passage



モンテーニュは、まず何よりも無知の哲学者であった。彼は言う。

« La philosophie ne me semble jamais avoir si beau jeu que quand elle combat notre présomption et vanité, quand elle reconnaît de bonne foi son irrésolution, sa faiblesse et son ignorance. »
「哲学がわれわれの思い上がりや虚栄と戦い、自らの優柔不断、弱さ、無知を誠実に認める時にこそ、本当に素晴らしい働きをすると私には思える」 

こ の発言は、彼がソクラテスや懐疑派の系列に入ることを示している。また彼は時代の人でもあった。その時代とは、数限りない激変、昔の知の崩壊、宗教的狂信 主義の衝突で特徴付けられ、ある意味ではわれわれの時代と酷似している。彼の時代のすぐ後には、天動説 (géocentrisme) が終わり、閉鎖された世界は無限の宇宙へと広がり、アリストテレス哲学は批判に晒され、医学の革新、アメリカの発見などが相次いで起こった。

モンテーニュは哲学的発見として、三つの原則を確立した。

第 一に、われわれの知識の不確実性、その限界、脆弱性が歴史的推測の問題などではなく、理性の弱さと世界の不透明さの間に鋏まれて存在するわれわれ自身の状 態に内在することを理解したことである。真理や科学、哲学にまず絶望するところから始めなければならない。永遠の真理に目をやることを望むのではなく、ま ずこの道を糾弾することから始める。彼の目には、その道がわれわれをどこにも導かないとしか映らない。

第二の発見は、このような放棄が如 何なる悲しみも生み出さないことである。おぞましい不安が待っていたり、知ることの空しさが絶望の原因になるとも思えるが、実際には全く逆である (c'est tout l'inverse)。その不確実な道が、悦びや常に新たな驚きを呼び起こすのだ。如何なる真理も、したがって確実なものもなく、破綻しない知など存在し ない。しかしその絶望の深遠の中、数え切れない道程を休みなく進み、豹変し続けることにより、悦びの泉が噴き出すのだ。その秘密は、動きに身を委ね、永遠 に続く世界の激動など気に掛けず、よいところへ飛んでいくことである。

この世は多様性と相違、そして揺れるブランコのように定まらず、果しもなく流転するものでしかない。これが、彼の三番目の発見であった。かれはそれを徹底した。

« Finalement, il n’y a aucune constante existence, ni de notre être, ni de celui des objets. »
「結局のところ、常に存在するものは何一つない。われわれ自身の存在も、物の存在も」

内にも外にも変わらないものは何もない。流れと断続と通過以外には何もない。

« Je ne peins pas l’être. Je peins le passage : non un passage d’un âge à un autre... mais de jour en jour, de minute en minute. »
「私はそこにある存在を描くのではない。通り過ぎるものを描くのだ。一年一年の流れではなく、日々の、分単位で過ぎゆくものを」 

こ こでも間違ったモンテーニュの姿が消えるのはよいことだ。彼の 「エッセイ」 は彼の自伝でもなければ、風変わりな自己についての瞑想でもない。そうではなく、彼はこの自己が実際には発見不可能であることの証拠を突きつけたのであ る。それは消えたかと思えば現われ、そしてまた消える。一つの状態に留まることがないのだ。



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