samedi 2 mai 2015

バッハ、そして九鬼周造という人 Bach, et qui est Shuzo Kuki ?

2 mai 2008

昨日がLa Fête du Travailで今日が金曜日なので、日本で習ったフランス語で言えば、まさに "faire le pont" して4連休にできることになる。昨日はこの辺りの街には人が少なかったが、今日はのんびりとした雰囲気で多くの人が繰り出していた。郵便局に寄った後、図書館でバッハのCDを借りて帰ってきた。例えば、

JS Bach "Sonatas & Partitas" (BWV 1001-1006) Hopkinson Smith (luth baroque)
JS Bach "Sei Solo a Violin senza Basso accompagnato - I, II" (I: BWV 1001, 1002, 1004; II: 1003, 1006, 1005) Hélène Schmitt (violon)

ホプキンソン・スミス氏は1946年ニューヨーク生れのアメリカ人で、大学卒業後ヨーロッパに渡り、現在はスイスのバーゼルに住んでいる。一方のエレーヌ・シュミットさんは、今年の6月に日本公演をするようである(詳細はこちら)。この他に4枚借りたので、今夜はいろいろなBachを聞き比べながらの夜長になりそうだ。


ところで以前にいただいたコメントの中に、九鬼周造と同質のものをこの場に見ているというような言葉があったように記憶しているが、それ以来この方が気になる存在になっている。その思いがこの休みに顔を出した。

九鬼周造 (1888年2月15日 - 1941年5月6日) 京都大学・日本哲学史研究室の紹介

私が唯一知っている「『いき』の構造」などの作品に触れる機会はまだないが、ネットをサーフしている時に松岡正剛氏による解説に出くわしたので読んでみた。原典に当たってみなければわからないが、彼が自らの存在をどのように捉えていたのか、あるいは彼がどのように外界と接していたのかについて読んでいる時、確かにある共通点はありそうな気がしてきた。その解説の中にあった九鬼の言葉を引用してみたい。

「松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ 出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある」

「私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ」

ただ、この解説を読む限りでは、この方の考えや生き様にもの凄い湿気を感じてしまい、ついていけるのかどうかわからないという印象を持ってしまう。しかし、いずれこの肌でその感触を味わってみたいという思いに変わりはなさそうである。




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