mercredi 23 mai 2007
タンパク質に精神はありますか?
昨年の夏になるだろうか。その夜、私は食事のためにあるレストランに入った。その時、偶然に隣り合わせた方とのやりとりでこう聞かれたのである。後でわかったことだが、この方はおそらく50代の精神科の先生であった。当時、この手の話には全く耳を貸さない、現場に身を委ねている科学者であった私は、おかしな質問をする人だなというのが第一印象であった。しかし、酔いも手伝っていたのか、少し経って自らに問い直してみたところ、面白い質問だなと思っていた。このような疑問がありうるのだということ、自分の発する疑問が余りにも制約の多い中でのものでしかなかったことに気付き、大げさに言うと精神が開かされていた。この質問は同時に、科学と言われているものを非科学者がどのように見ているのかという問題にも目を向けさせることになった。科学を哲学的に見ようという人が多くはないにしても確実に存在しているという感触を私に与えてくれた。今まで意識はしていなかったが、この小さな出会いがその後の私に全く影響がなかったとは言えないだろう。
初めてリチャード・ドーキンスの 「利己的な遺伝子」 を読みながら、この経験を思い出していた。それは読み始めてすぐ出てくる次のようなところ、あるいはそのような雰囲気に溢れていそうな予感に誘発されていた可能性がある。
「かつて私は、偉大な分子生物学者ジャック・モノーが科学における創造性について話すのを聴くという光栄に浴した。彼が使った正確なことばは忘れてしまったが、おおむね次にようなことを言ったのである。すなわち、彼が化学の問題について考えようとするときには、もし自分が電子だったらどうするだろうと自問するのだという」
この他にも、科学を外から見直そうとする身にとって大きな励みになりそうな言葉が、1989年版へのまえがきに見つかった。
「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。・・・見方の転換は、うまくいけば、学説よりずっと高遠なものを成し遂げることができる。それは思考全体の中で先導的な役割を果たし、そこで多くの刺激的かつ検証可能な説が生まれ、それまで思ってもみなかった事実が明るみに出てくる」
「私は科学とその 『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる」