lundi 27 juillet 2015

C.P. スノー 「二つの文化」考 "The two cultures" by C.P. Snow (II)

27 juillet 2008

C.P. Snow の "The Rede Lecture, 1959" の4年後に書いたエッセイをバルコンと近くの公園で読む。基本的なところはリード講演と変わっていない。この4年間で世界中から(彼にとっては未知の日本、ハンガリー、ポーランドも含まれていたとのこと)届いた賛否に跨る反響を受けての省察が書かれてある。この間、その論争に参加して気分を晴らすというのではなく、そうした論争でしばしば見失われがちになる真理を見極めるために、寄せられた反応が自分の中に沈殿し、ある意味を持ってくる(sink in)のを待っていたようだ。

それにしてもなぜこれだけの反響があったのか。また、それ以前にも同様のことを書いている人がいるのになぜ反響がなかったのか。まずその反響の大きさから、ここには独創的な考えは含まれていないとはっきり言っている。それはすでに多くの人が感じていることを言ったに過ぎず、その反響の大きさはそのタイミングと関係があるのではないかと推測している。ドイツ語で言う Zeitgeist (時代精神) に合致したのではないかと考えている。

反響の中には、彼が言うところの "The Two Cultures" の言葉に対するものがあった。なぜ "Two" でなければならないのか。100であり、1000では駄目なのか。こうなると、言い掛かりの雰囲気もある。それから "Cultures" とは何なのか。これに対しては辞書的な意味と実際的な意味合いでは、ある環境に住む習慣や生活様式を同じくするグループという人類学で用いられる説明を用いて解説している。ただ、"The" だけにはクレームがつかなかったと皮肉っている。scientific と literary の間の理解を深めるには教育、しかも早い時期からの教育しかないと考えている。もちろん、当時でもルネサンス・マンの育成は無理であり、パスカルゲーテピエロ・デラ・フランチェスカのように世界を理解する人間を輩出するのも難しいだろうが、かなりの部分を芸術と科学に無知ではない人間に仕上げること は可能であり、それしか方法がないと考えている。

全く同感である。両分野に感受性のある受容体を持った人間が多数いることによる社会の利益は計り知れないだろう。目に見えない効果だけではなく、例えば科学政策の立案などに際して政治や行政の側がそのすべてを科学者に任せてしまうのではな く、そこにある視点を持って参加することができるようになり、今とは決定過程が変わってくると予想される。また、それを見ているわれわれの見方もより重層的なものになり、具体的な関与ができるようになるのではないだろうか。

この中に面白い対比が書かれてあった。彼は若い時にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が最高の小説だと思っていたが、年輪を経るに従ってトルストイに傾くようになったという。一つには、ドストエフスキーの日記に見られるその思想を知ったからだろう。ドストエフスキーは激しい反ユダヤ主義者で、独裁を経済的に支援し、戦争を希求し、奴隷解放には反対し、一般人の生活向上にも強く反対していた。一言で言えば、悪辣な超反動であり、その発言が時代に浸透していた可能性もある。もう一つの対比は、ドストエフスキーとは対照的に社会正義や良心に溢れ、世界の未来を明るく語るチェルニシェフスキーという人とのものである。その善き人のことは今やほとんどの人は忘れているだろう。ドストエフスキーほどの才能がある場合に限り、その人間性による評価が時代とともに薄らいでいくことを感じているようだ。

今や科学の進歩は著しい。その流れを止め、逆流させることは不可能だろう。この書でも産業革命前の世界の方が素晴らしく(エデンの園で)、この革命により人間性 が奪われてしまったとする人がいるようだが、一体エデンの園で人間がどのような生活をしていたのか、正確な知識はあるのだろうかと問うている。現実的に考 えると、人間が楽な生活を求める存在である以上、大多数の人はこの流れに逆らうことはないだろう。そして、ある思想をもって古き善き時代を大多数の人に強要することもできないだろう。もしそうだとすると、われわれにできることはこの流れにブレーキをかけ、ある場合には流れの方向を変えることくらいになりそうだ。これにしても大仕事になるだろうが、、。そして広い文理に跨る蓄積がブレーキをかけるタイミングやどの方向に流れを向かわせるのかを決める時に不可欠になるのだろう。その意味でもスノーの半世紀前の提言は今でも全く色褪せていない。

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28 juillet 2008

昨日、一昨日と取り上げた C.P. Snow の本について一つだけ言い忘れたことがある。

それは、この本が極めて簡明な言葉による簡潔な表現で貫かれていることである。

日頃、フランス哲学の文章を読んでいるせいか、それが際立って見えた。

ご本人は時代精神などと人のせいにしている。

しかし、この本に訴えかける力があった大きな理由にこの点があるような気がし ている。

一週間ほど前から、静かにしていてもじわーっと汗が出てくるようになった。

パリも本格的な夏到来ということだろうか。





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