mardi 14 juillet 2015

モンテスキューとともに気候を考える Penser au climat avec Montesquieu

14 juillet 2008
(1689-1755)
2009年 02月 07日撮影


パリの天候が変わりやすいことについては、私の観察として以前に書いた。昨日も何度か通り雨にあった。すぐに止んでくれることがわかっているので、今ではかわゆい存在になりつつある。ああ、また始ったか、という感じである。

ところで、最近ここで取り上げたニーチェによる風土と精神に関する文章を仏版ブログにも出したところ、モンテスキューにも気候の理論(La théorie des climats)というのがありますよ、というコメントがお馴染みのクリスさんから届いた。モンテスキューと言えば、中学か高校で習った「法の精神」 (De l'Esprit des lois)というキーワードしか残っていないが、それが急に息を吹返してくる。自分の中が何かで洗われるという印象がある。こういう出会いにはいつも岩清水が湧き出るような悦びが込み上げてくる。

18世紀の啓蒙の時代。理性と科学と人間尊重という新しいパラダイムが生れたこの時代は、ディ ドロとダランベールの百科全書ルソーヴォルテールの時代でもあった。モンテスキューは多種多様な法律がそれぞれの国の人びとの思いつきで作られているのではなく、ある法則に則っているのではないかと考え、その法則を説明しようとしたのが「法の精神」となった。その要因として、物理的なもの(風土など)、道徳的なもの(宗教、伝統、風俗・風習など)を考えていた。ここに出てくるのが、今日のテーマになる気候と法律、政治体制との関連の分析である。

彼は決定論者ではなかったが、気候がそこに住む人の気質や習慣に影響を及ぼすと信じ、そのことを考慮に入れた法による支配が成されなければならないと考えて いた。例えば、気温の影響は大きく、寒い環境の人間は頑強で大胆、知識も多く快楽を求める傾向が少ないが、暑い国の人間はだらしなく臆病で決断力がなく、情熱的で快楽に溺れやすい。前者は王政を持ち、後者は専制を好む傾向がある。

また、土壌の豊かさも政治形態に影響を及ぼすと考えていた。王政は土地の肥沃なところに多く、共和制は土地の痩せたところによく見られたが、モンテスキューはその理由として以下の三つをあげている。第一に、肥沃な土地の人間は現状に満足しているため、自由を求めるよりはむしろ安全を求めること。第二に、肥沃な国は常に平坦な土地の上にあり、人民はより強い力に抗う ことはできない。征服しやすいし、一旦屈服してしまうと彼らの精神に自由は戻ってこない。モンテスキューは王政は共和制よりも征服戦争をする可能性があると考えていた。第三には、痩せた土地の人は生きるために必死に働かなければならず、勤勉で真面目、勇敢で辛苦に慣れており、戦争に適している。したがって、彼らは自らの防衛に長け、侵略者から自由を守ることができるとしている。痩せた土地が彼らにこのような特質を与えていることになる。

モンテスキューはアジアや日本の状況についても言及している。アジアになぜ専制が多いのか、そこにはヨーロッパと異なる2つの理由がある。第一に、アジアには緩衝になる地域がない。そのため、北の寒冷地帯がヨーロッパよりも南に達していて、その移行が急激ですぐに熱帯に入ってしまう。従って、勇敢で活力溢れ る者が怠惰で女々しく臆病な者たちを直ちに制圧してしまうのだ。これに対してヨーロッパでは、北から南に向けて徐々に気候が変わるため、強い国と強い国が 対峙して存在している。第二の理由として、アジアはヨーロッパに比して平野が広いことがあげられる。山岳地帯が離れ、川も侵略の障害にはならない。ヨーロッパには小国が乱立しているので一国がすべてを制服することは難しい。アジアでは巨大な帝国が生まれ、そこは専制の温床になりやすいのである。

モンテスキューの解析がどの程度的を射ているのかはわからないが、気候、風土や地理的条件がわれわれの政治行動や考え方に影響を及ぼしているという点には同意できそうな気もする。決定論に立つわけではないが、それほどまでに大きな要素である印象を拭えない。日本の若者を世界の同年代の人と比べて際立って見えるのは、ヨーロッパはいうに及ばず例えば中国、インドの若者を比べた時でさえ世界の中の自分、日本を世界の中で相対化する視点が非常に希薄なことである。 ある意味では自分の若い時とも重なるような気もするが、自由とか社会体制とか国家という視点の中で自らを見るところもないように見えて仕方がない。

私がアメリカに行った時、まず自分のことをうまく説明できないという症状で現れたが、時代を経ればこのようなことはなくなるのではないかと思っていた。しかし、どうもそうではなかったらしい。まともな教育が成されていると仮定した場合、教育だけではこれらの条件を乗り越るところまで行かないのかもしれない。自然がわれ われに課している目に見えない影響はそれほどまでに大きいのかもしれない。日本の世界における存在感が国内でしばしば問題にされるが、昨日のコメントでも 少しだけ触れたが、日本という家の中に入ってしまえばそんなこと(外とか他ということ)はどこ吹く風と言わんばかりである。日本は肥沃な土地なのだろう か。再び外に出て遠くから眺める機会を得た今、そう感じることが益々増えている。もちろん決定論には与したくないのだが、この問題はほぼ絶望的な眺めにさ え見えてしまうのである。


ところで、今回のような出会いでいつも感じるのは、モンテスキューの考えはずーっと前からそこに転がっ ていたということ、それは当然のことながら専門家にとってはいわば当たり前のこと、知らなかったのはそれを取り上げている自分だけということだ。この世は自分の知らないことで溢れているということに改めて目を見張る。われわれはその膨大な宝の山から自らに飛び込んでくる何か拾い上げている存在だろう。 言ってみれば、人間はその組み合わせの違いによって特徴付けられている存在であり、どの組み合わせを取っても同じものはないと推測される。この厳粛な事実が身に沁みると、人と会うということがどれだけ貴重な経験なのかがわかってくる。


今日は革命記念日。しかし、それはどこか遠いと ころの出来事というような一日になりそうだ。吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の世界にいるので、そのニュースも入ってこないだろう。それはそうと、先日ご主人様のちょっとした手の縺れからワインを浴びてしまったこのパソコン。キーボードがどこかにへばりついているようで、何とも打ちにくい。ところが、数日のうちに最初覚えたその抵抗感が次第によくなってきている。何をよいと思うのか、人の好みはわからない。


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14 juillet 2015


モンテスキューのお説を興味深く読んだことが、鮮明に蘇ってくる

この翌年ボルドーを訪問した際、彼の私生活に触れる機会があり、さらに近い存在になった

 いずれ落ち着いたところでその著作に触れてみたい

そう思わせてくれる人物がどんどん増えていく

それはやはり嬉しいことと言えるのだろう


ところで、革命記念日は当時よりもさらに遠くの出来事に見える

Kurisu さんの名前が出てきたので、最初の仏版ブログ DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ に行ってみた

長い間の御無沙汰で、懐かしい記事ばかりだ

こちらに来る前の心象風景が浮かび上がる

新しいブログに移る前の最後の記事は、IL FAUT TOURNER LA PAGE となっている

こちらに渡る2か月前の2007年7月3日なので、丁度8年前に当たる

今この言葉を読むと、前に進むことを運命づけられた生き物の性を感じる

ここでリンクを張っていた多くのブログが見つからないか、中断されている

夢の跡という感じで、何とも寂しいものがある

その中で、Kurisu さんのブログは新しく tabi2 となって続いている

僅かな救いであった






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