samedi 7 novembre 2015

東西を哲学する

10 novembre 2008


本屋で立ち読み。「偶然を生きる思想―『日本の情西洋の理」の著者野内良三氏がフランス文学に入るきっかけが偶然にマラルメを知ったことで、そこに至るまでに偶然の重なりを見ているところを読み、私がこの道に入ることになった偶然の重なりと重なったので少し読み進む。


著者は、西洋と東洋の違いについて、単純化、極論だと言われることを覚悟した上でこう言っている。

「西洋人と日本人の一番大きな違いは『目に見えないもの』を信じるか信じないかにある。目に見えないものを西洋人は信じるが、日本人は信じない。いうならば西洋人は観念主義者で、日本人は現実主義者である。
このことを哲学的に捉え返せば、西洋哲学は超自然的原理を設定して、それに依拠して世界を説明してきたということだ」

西洋と日本の随筆のスタイルの違いから、こうも言っている。

「それは『全体』と『部分』に対するスタンスの違いに求められる。西洋人は『全体』あってこその『部分』であると考え、日本人は『部分』あってこその『全体』と考える。いや、『全体』など眼中にないというべきだろう。日本人は『部分』にこだわる。『全体』は後からついてくるものであり、偶然的なものの結果でしかない」

自然や外の世界に対する態度からは次のように。

「・・・日本人、あるいは日本文化には目の前にある現実(世界)を素直に受け容れる傾きがあるということです。世界をあるがままに認めるということは他の世界の可能性を考えないということである。世界を前にしてなぜという問を発しないということである。疑問を感じるよりは、世界を肯定的に受け容れ、むしろ楽しもうとする。無常も偶然も美的次元で受けとめられたわけである。偶然の美学はあるけれども偶然そのものへの問いかけはなかった」

「いま問題にした日本人の特徴は、要するに『こだわりのなさ』という性格に集約できるだろう。偶然性は体系とか法則とか絶対とかを求める心――原理的なものへのこだわり――がないと、どうも深刻な問題として迫ってこないものらしい。言い換えれば、例外的なものを目撃したときに感じる驚きの情が大きくないと、偶然が本当の意味での偶然ではなくなってしまうのだ。日本人は偶然を前にしても余り驚かなかったのかもしれない(ここはむしろ『愕く』あるいは『駭く』を使うべきだろうか)。驚くよりはむしろ感動してしまったのである」



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samedi 7 novembre 2015 


日本人が細部に拘ることは、例えば、NHKの「プロフェッショナル」という番組を観ていて感じたことでもある。あの番組に登場する人で全体について考えている人は皆無に近かったのではないだろうか。それから、同じテーマについて話をする場合でも、東西では違いがあるように感じている。それは話の分かりやすさである。日本人の話はこまごまとしたことが並べられる傾向があり、全体の構造が見えにくいため、西の人の話の方が分かりやすいのである。ベルクソンは「最初に全体がなければならない」と言っていたという。そして、「その上で部分に当たらなければならない」とも。この言葉に西の考え方が表れてい るのかもしれない。

科学の道に入った当初は原理的なものを求めていた。しかし、時が経つにつれ、そのことは忘れられ、部分の解析に終始することになった。それが現代科学の方法論であったとしても、ベースのところに原理の追究がなければならないのだろうが、やはり根本は日本的な精神だったのだろうか。

自然に対する日本人の態度に関連したエピソードを思い出した。それは、日本が地震大国であるにもかかわらず、日本人からは地震学が生まれなかったということ。地震を対象として見たのは明治のお雇い外国人だったとどこかで読んだ記憶がある。よく言われることだが、日本人は自然の中に入り一体になる傾向が強いとすれば、このことも理解できる。

東西の思考に関して、今はこう考えている。最初から日本人はこういうものの考え方をするとしてそこに安住して西洋の思考を学ばないという道は取るべきではないということ。残念ながら世界を動かしているのは西の考え方であるからだ。西洋を突き抜けて東洋に至るという方向性が必要なのではないだろうか。その時初めて、東洋が西洋に通じる道が見えてくるような気がしている。これも「言うは易く行うは難し」になるのだろうが、、。 


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以下に当時のコメント欄を転載したい


Commented by ひらめきハート at 2008-11-10 21:11

何という偶然なのだろう? この所の私に起こった出来事が・・・偶然の二文字を何か見えない力に依るものだと思わざる得ないものでした。

偶然に・・・ということが、ある時から私にはよく起こるのですが・・。
目に見えない何かの力が、私を動かすと感じます。

西洋がその、目に見えない力、超常現象と言えるものを信じ説明して来たのですか?文学などでは確かにそんな感じがあるかしら・・。日本では・・信じない? のですか?確かに、視野が狭いと感じることが多いですけれども。スケールが小さいというか・・・。部分を見て全体が見えない・・ まるで政治の世界がそのような感じ・・。現代文学も・・・かな?
久々にコメントします~。
何故かしら? 本当に、偶然が偶然を呼ぶのです。

Commented by paul-paris at 2008-11-11 05:06

パリでの何気ない会話の中にも抽象的な概念を表現する言葉がよく出てくることが多く、そういういわば目に見えないものを自在に操って思考することに慣れているような印象を持っていましたので、この著者の観察に同意するところ大でした。また全体を見るところ、全体を構築するところ、壮大な構想力とでも言うものも弱いように感じていました。そう感じたのは第一には自分との比較になりますが、ひょっとすると広く日本人に当てはまることなのかもしれません。そうではない考え方が日本にはあり、そこから生まれてくるのが独特な日本文化になるのでしょうか。そういう視点からも西洋の文化をもう少し体感してみたいと思っているところです。

Commented by 冬月 at 2008-11-20 01:02

■ お久しぶりです。最近、感じていることと重なり、コメントしたくなりました。日本では、存在論と認識論は、いわば表裏一体で、見えないものは存在しませんし、それが当たり前と思っていますが、西欧は、認識論と存在論が分化しており、未だ認識できていない本質がある、というところから議論が出発する気がします。つまり、はじめから二元論的な世界です。ここから、真理に歴史性が付与され、哲学的な運動にダイナミズムが生まれてくるように思うのです。自然科学も資本主義も、このダイナミズムが生みだしたひとつのアウトプットではないでしょうか。元を糺せば、西欧世界が神を生みだしたときに世界が二元論化され、哲学的な運動が開始されたのではないかと、ぼくは感じています。二元論は、光と影の二元論でもあり、なかなか簡単に評価できませんが、少なくとも言えるのは、西欧世界は、地上の人間の生き死にを確実に握っているという点です。今後も、非西欧の生んだ果実を確かめながら、西欧世界のダイナミズムをモニタリングしてみたいと思っています。

Commented by paul-paris at 2008-11-20 10:12

東と西の問題は以前からずーっと私の中にあった疑問で、これを体で感じてみたいという欲求が今回こちらに来ることになった背景のどこかにあったようです。科学の活動に対しても彼らの精神の働きは明らかにわれわれとは違っているのを長い間観察してきています。同じ脳のはずがどうしてこうも違うのかというのが素朴な疑問でした。人間を取り巻く文化がそこに絡んでいるのは言うまでもないと思いますが、その辺りを少しずつ眺めて行きたいと考えています。この記事に取 り上げたところは一つのヒントを与えてくれているように感じています。

ところでコメントの中にあった
>西欧世界は、地上の人間の生き死にを確実に握っている・・・
ここがよくわからなかったのですが、、、

Commented by 冬月 at 2008-11-20 12:11

■>西欧世界は、地上の人間の生き死にを確実に握っている・・
どうも説明不足で失礼しました。

ひとつは、経済的な意味で、地上の人間の生き死にを握っています。今度の金融危機ではっきりしたように、市場は世界的につながっており、米国の信用危機は世界中に拡大し、市民レベルでは、倒産、失業、就職困難といった形で、ダメージを与えています。こうした現象は、グローバリゼーションと表裏一体で、資本主義や社会の近代化(先進国の場合には、後期近代化)とも関わってきます。これらを生みだした技術やシステム、制度、思想は、西欧から出て、全世界に広がってきたものです。

もうひとつは、生活のスタイルとの関わりです。端的に言うと、生活世界の「散文化」ということが言えるように思います。日本では、明治期以来、社会の西欧化をさまざまな分野で進めてきましたが、もともと、日本語には、散文的な思考やスタイルがありませんでしたから、翻訳しながら、文体を開発してきました。大江健三郎も村上春樹でもそうです。これは、文学の分野に限らず、社会的な領域(企業、官庁、学校、学界など)でも言えます。生活世界の散文化は、生活世界の合理化とも言いかえることができ、自然に対しては支配統御、社会の成員に対しては、管理、といった形で進行しています。こうした人間と人間の関係、人間と自然の関係の基本モデルは近代以降の西欧世界のものです(もちろん、日本的なバリエーションは加わっていますが)。

西欧世界から発生したモデルネに飲み込まれつつ、地上で多様な反発力と推進力のぶつかり合いが生じている。その中核に位置するのが西欧世界。そんな風にぼくは見ています。

Commented by paul-paris at 2008-11-20 21:40

詳細な説明ありがとうございます。ここでも西欧世界の全体を見る力、構成力に秀でたところがはっきりと表れているように見えます。一方、日本からは世界を先導するような思想や制度が編み出されていないので、常に外を見て対応するということになっているのでしょうか。

自らを省みても、日本にいる時には世界を上から見るような視点は得られませんでしたが、一歩外に出ると少し様子が違ってきているようにも感じている今日この頃です。日本人に内在する特質と言うよりは日本の位置する物理的な条件が大きいような気もしています。それだけに難しい問題なのかもしれません。






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