samedi 1 décembre 2007

なぜフランス語が (II)



この疑問について以前に触れたことがあり、昨日のお話とも関連する。未だに謎なのだが、先日のS先生との会話の断片が浮かんできたので書き留めておきたい。ルクセンブルグ公園を歩きながらであったか、食事をしながらのことであったか、もう判然としないのだが、改めてなぜ哲学なのか、なぜフランスなのか、という質問に答えている時だった。その時にこんなことを言っていたのを思い出したのだ。

フランスのものを読んでいる時、どうしてこんな何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、考えるのか、という反応が生れていたこと、それはそのまま人間の精神の中で繰り広げられていること、すなわち目には見えないものを言葉にしようして人生を送っている人、送った人たちが山ほどいるということをはっきり意識することにつながり、このようなことになったのではないか。さらに、それまで読んでいた英語の世界では、より科学的なものを感じたり、その精神のどこかに、何かの役に立つ、という要素が見え隠れしていて、私にとって面白みに欠けるものだった、というようなことを話していた。

この発言を見ながら、この世の枠組みはできるだけ取り払ったところから見えてくる何かに、ひょっとするとその何かにしか私は興味がないのではないかという想いが湧いていた。これはある意味で、坐りながら味わったカルチャー・ショックの結果で、深く静かに進行する性質を持っていたようである。


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早いものでもう師走である。このまま行くと、知らないうちにすべてが終ってしまいそうなスピードである。



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