dimanche 2 décembre 2007
理解するとはものを視覚化することである
昨日の記事に対して、冬月様から次のようなコメントを戴いた。
「『目に見えないものを言語化する』 という作業は、ある種の文明的な行為なのかもしれませんね。明るさを感じます」
最後にある、この行為に 「明るさ」 を感じる、という言葉に触発されて考えたことを以下にメモしたい。
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科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まるが、それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったのではないだろうか。また科学がかなり発展した段階で出てくる目に見えない領域に対して何かを言う人は想像力のある天才なのだろう。しかしその目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるという経過が科学の歴史ではないだろうか (現段階での見方だが)。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしている。現代において、もし哲学が科学に何かできるとすれば、その目には見えないことについて発言することなのかもしれない。しかしそれは並大抵のことではなさそうだ。
「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."
一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (物ではなく) を扱っているような気がしてくる。これまでこちらの講義で powerpoint が使われていないことに触れてきたが、目に見えないものを言語化し、それを自らの頭の中で視覚化できないとこの領域のお話は通じないことになる。つまり、それができる人を対象に講義が行われているだけに過ぎないのかもしれない。
「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."
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