dimanche 20 janvier 2008

フランスの哲学は



まだメモワール提出の締め切りがわからないENSのクールを担当されているお二人に先週メールで伺ってみたところ、この月末くらいでいいですよ、と極めてゆったりした返事だったので、今までの張り詰めていたものが一気に緩む。あと1週間くらいは外からいろいろなものを眺めながら、前回同様最後の2-3日で書き上げるということになるのだろうか。とにかく今の段階では書く気が失せてしまっている。どうも締め切りが迫らないとやる気にならない性質のようだ。

ところで、前期最後のクールで先生が学生一人ひとりに前期の印象を聞いていた。私のところに回ってきたので、次のようなことを話した。

「私にとってはなかなかフォローするのが難しいものであった。私はこれまで科学の領域にいたせいか、哲学が孤立してあるのではなく、科学の領域にどのような貢献ができるのか、そのヒントを探そうとしながら聞いていた。その中でアングロサクソンの文献にも接触し、フランスの哲学が明らかに違うことに気付いている。それは、フランスの哲学には功利主義的な (utilitariste) の要素を殆ど感じないということである。私の場合、あることのためにという考えが見え隠れするだけで急に底が浅いもののように感じられてくるところがある。その点フランス人の問題への迫り方は、そのもののだけのために考えているように見え、純粋で奥深いと思っている」

こう言ったところ、その教授は本当に満足そうに深々と頷いておられた。おそらく当っているのだろう。そしてそのことを誇りに思っているのではないかと感じた。「誇り」 という言葉など長い間私の辞書から消え失せていたが、思わずこの言葉が出てきた。これは私の数ヶ月の印象でしかないので間違っていれば訂正をお願いしたいのだが、アングロサクソンの場合には科学の中に実際に入っていて、その問題を哲学するところがある。そのため、今の私には近づきやすいところがあり、科学への直接的な貢献の可能性が高いように感じる。

これに対してフランスの場合は本当に底なしである。それが役に立つのかどうかなどということは一切考えず、言ってみればそこにある問題について何の制約もなしにとにかく考える、何を考えてもよいのである。そして、それをやっている人から滲み出るどっしりとした落ち着きはどうだろう。何のバックグランドもない場合、それをやってこなかった私のような場合、ついていくのは大変である。それを今まで味わっていたようにも感じる。と同時に、その背景がなかっただけにこういう姿勢は非常に刺激的でもあるのだ。



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