数日前からサルコジ大統領が年末に行った演説の中に、この哲学者が使っている "La politique de civilisation" という言葉が出てきたことが話題になっていることには気付いていた。いつもの通り、あることが起こっていることはわかっているが、それが何についてなのかを知るだけの時間はなかった。しかし、今日は本来やらなければならないことから気をそらす意味で読んでみることにした。
エドガール・モラン Edgar Morin (né à Paris le 8 juillet 1921)
彼の名前は記憶によく残っている。去年の3月にこちらに来た時にカフェに入り、新聞を読んでいる時に彼の名前で声をかけられ、しかもその新聞の中に彼の名前が出てきたからである。今回はルモンドにあった読者との討論記事に目を通す。以下、彼の意見を聞いてみたい。
さらに話は続いている。興味ある方は記事に当っていただきたい。ネットをさらにサーフしたところ、彼の講演が見つかった (註:今では削除されているようだ)。そこで問題になっていることをやや乱暴に一言で言ってしまうと、知の総合ということだろうか。具体的には次のようなことを言っている。
彼の名前は記憶によく残っている。去年の3月にこちらに来た時にカフェに入り、新聞を読んでいる時に彼の名前で声をかけられ、しかもその新聞の中に彼の名前が出てきたからである。今回はルモンドにあった読者との討論記事に目を通す。以下、彼の意見を聞いてみたい。
まず、文化 culture と 文明 civilisation を区別しなければなりません。文化とはある特定の社会に特有な価値感や信仰などの総体で、文明とはある社会から別の社会へと伝達が可能なもので、技術、知 識、科学、経済などの総体を意味します。この文明が現代においてポジティブな効果よりもネガティブな効果を及ぼしていて、改革が必要とされています。その ことを "une politique de civilisation" と言っています。
私が言うネガティブな効果とは、例えば、大 量殺戮兵器を生み出す科学であり、生物学的操作をする科学です。技術や経済もバイオ・スフィアの質の低下やすべての環境問題に関わっています。個人主義は 個人の自立や責任という点ではよいことなのですが、一方で連帯感の衰退 (le dépérissement des solidarités) にもつながっています。これらがネガティブな現象で、それは 「より多く」 という量的な基準に基づいていることと関係があります。これを 「よりよく」 という質をもたらす文明に改革することが必要になります。
そのためには2つの側面を改革する必要があります。ひとつは地方の再活性化 (la revitalisation des campagnes) です。もう一つは都市を人間的なものにする (humaniser les villes) ことです。この二つの問題がこれまで蔑ろにされてきたというのが私の考えです。
さらに話は続いている。興味ある方は記事に当っていただきたい。ネットをさらにサーフしたところ、彼の講演が見つかった (註:今では削除されているようだ)。そこで問題になっていることをやや乱暴に一言で言ってしまうと、知の総合ということだろうか。具体的には次のようなことを言っている。
細分化された知識、一つの専門についての知識 (la connaissance parcellaire, compartimentée, monodisciplinaire) はわれわれを盲目の知にしか導かない。知るということは、解析するために分解し (séparer pour analyser)、統合するために関係付けること (relier pour synthétiser) である。それぞれの関係を失った専門領域ばかりになると、関係付けようという方向性が失われる。つまり、あるコンテクストの中に情報や知を置いて考える (contextualiser) こと、知を有機的な集合の中に導入する (globaliser) ことができなくなる。意味のある知の条件とは、この la contextualisation と la globalisation である。
つい最近の声に耳を傾けてみたい。
もうすぐ89歳である。
覚えておきたいお姿である。
もうすぐ89歳である。
覚えておきたいお姿である。
この話を聞きながら、ハンモックにある思索の跡をしばしば思い出していた。
私がこの数年求めていた核のようなものを確認するような感じもあった。
例えば、次のような記事がすぐ出てきた。
私がこの数年求めていた核のようなものを確認するような感じもあった。
例えば、次のような記事がすぐ出てきた。
普遍人 HOMO UNIVERSALIS (2007-02-21)
パスカルに自分を見る S'ENTREVOIR CHEZ PASCAL (2007-02-18)
この記事にあることを、彼も講演で引用している。
Daniel Barenboim vs スペシャリスト (2005-03-10)
パスカルに自分を見る S'ENTREVOIR CHEZ PASCAL (2007-02-18)
この記事にあることを、彼も講演で引用している。
Daniel Barenboim vs スペシャリスト (2005-03-10)
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● Commented by ミコ at 2008-01-04 09:47
体調のせいで家にどっぷり。ポールさんのブログを読む習慣がさらに強まり、程度の低い発言を恥じますが、お許し下さい。
「文明」の1つの問題点として、モラン氏の「連帯感の衰退」指摘はよく理解できます。わたしの所属しているMLの1つはとても仲がいいのですが、その原因は、かつてMLの中心で今は亡き男性の存在です。もめる気配があると、Fさんというその男性の以前の言葉が蘇りたちまち元の仲良しに戻ります。こんな風な小さな「連帯」でも無視出来ませんから、どこかで、誰かがマジシャンのような力を出して世界に「連帯の蘇り」が見られたらなあと空想します。
飛躍続ける中国での目下の「文明」はウオシュレットトイレの普及だそうです。
● Commented by paul-paris at 2008-01-04 18:02
ミコ様
文化と文明。今気付いたのですが、文化という場合、ものを外から見るという視点が入りうるのに対して、文明の場合にはそれ自体に自己完結性と自己増殖性があり、それこそ哲学的な(領域を問わない知の)視点を持ち込まないと非常に危ないのではないかと思います。例えば、科学や技術にしてもそれ自体には考える力はなく、ある技術が見つかると人間の好奇心に基づいてその先を際限なく求めるという性格を内在しています。この見方からすると、文明の文化的視点による批判が常に必要だということになるのでしょうか。
私のブログでさらに体調が悪化しないことを願っております。
● Commented by 冬月 at 2008-01-04 14:12
■ あけましておめでとうございます。いささか、飲みすぎの寝正月です。
「近代」を産みながら、「近代」を批判できる理知の強靭さ。そんなことを欧州人に感じることがありますね。鈴木大拙が、「人生は詩である。真実は『理』法では ない、『詩』的である」と述べていますが、モランの議論は、大拙の言う「詩」的な領域と、ある意味で、重なるところがあって、「近代」を徹底的に批判すると、最後には、「詩」になるような、そんなことも感じます。
● Commented by paul-paris at 2008-01-04 18:22
冬月様
本年もよろしくお願いいたします。それにしても新年早々飲みすぎとは羨ましい限りです。
こちらの哲学者には物事を批判する場合、その論理的な根拠を過去の知を総動員しながら自らの頭で必死に考えるという姿勢が見え、彼らの話を聞いていると大げさに言うと命がけでやっているという気迫が伝わってきます。こういう経験は日本ではなかなかなかったように思います。いつもどこかを見ていて借り物の服をまとい、自らは安全なところにいるというのがはっきりと見て取れますので、非常にひ弱な感じがします。
大拙師の「人生は詩である」という言葉で、以前に読んだマルセル・コンシュという哲学者の "poétiser la vie" という言葉を思い出しました。辞書を見ると人生を美化するという意味になるのでしょうが、それを読んだ時には言葉本来の意味で捉え、おそらくコンシュもそうだったのではないかと思いますが、「人生を詩的にする」と訳し、非常に嬉しくなったことがありました。
人生を詩的に POETISER LA VIE (2006-10-01)
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