ミニメモワールが進まない時、散策の折に近くの本屋に入った。最初哲学セクションで時間を使っていたが、少し目をそらすとこの表情が飛び込んできた。その迫力とタイトルが気に入り買ってきた。
この本は早朝にヴォージュ公園のルイ13世の騎馬像の前で人に会った時の逸話から始っている。それは自分が触れたことのある風景とも交錯し、すぐに惹き込まれる。もう数年前になるだろうか、同じ騎馬像の横のベンチで朝ではなく夕方になるが、会社員のスイス人とジャーナリストのオランダ人と待ち合わせをして食事に行ったことがあるからだ。
それからすぐに、これもハンモックで触れたマルク・ブロックが 出てくる。この人の名前を日本語でブロッホと訳していたために、その人がどういう人なのかしばらくわからないままであったが、Lys 様からのご指摘でブロックであることが判明。そのあとすっきりした記憶が蘇ってくる。この本では、ブロックが銃殺される前に、銃殺隊に向かって叫んだ言葉 が出ている。それは彼自身の叫びでもあるが、その立場になってそんなことができるだろうか、そんな勇気があるだろうかと自問している。
" Vive les prohètes d'Israël, vive la France ! "
それから Sekko 様にいろいろと教えていただいた共同体主義 (communautarisme) の話が "Communautés, et alors ?" と題するエッセイですぐに続く。そこでの発言から、いくつか。こういう声を聞くと、確かに私が誤解していたことがわかる。
● この言葉はまだ辞書 Le Robert にも出ていない (調べたが、確かに載っていない)。
● 昨日のテレビではまるでエイズが絶対悪のように扱われていた。
● 教科書では、国の歴史や文化へのそれぞれの共同体の貢献をぼかすようになっているが、いざ歴史上の人物の話になった途端にその出自、系譜、共同体が顔を出す。
ソドム Sodome、ゴモラ Gomorrhe などの言葉も見える。そして、mondialisation の現在において、国の豊かさはその文化的、人種的多様性によるのだとし、愛ではなく個人の自由と法律に対する敬意を求めてこのエッセイを終えている。
この中にフランスとアメリカの社会の成り立ちの違いを窺わせる面白い記述があった。1816年に John Pickering が書いているところによると、アメリカでは広く共通の言葉が話されているのに対して、フランスの教会の記録によると1794年のフランスでは2700万人 のフランス人の中で600万人はフランス語を全く話せず、フランス語だけで生活している人は300万人を超えることはなかったという。
この本ではイスラム教、ユダヤ教、キリスト教などの歴史と現実がその中にいる人の口から生々しく語られている。宗教間の融和などありえるのだろうか? 国と宗教との関係は? 人種差別は? 国の中に存在するグループが異物として見られるのか? 認知されるのか? などなど。まだつまみ読みの段階だが、彼の怒りや疑問を朝の公園でいろいろな人を相手にぶちまけるという構成になっているようで興味が尽きない。
彼の語りには今まで知らなかった視点からの話題が溢れているので、覚醒させられることばかりである。さらにそこで出会う言葉にある種の懐かしさを感じることがしばしばであった。当事者としては懐かしさなどという言葉では済まされないとは思うが、、、。その感情は個人的なものも少しあるが、それよりも彼の視点に歴史的なものが組み込まれているためか、大きく言えば人類の歩みに対する懐かしさと言った方が正確とさえ思えるものだ。その感情とともに、あることを確認していた。
これまでの経験から自分の中に言葉としては溜まっているが、その意味がよくわからないものばかりではないのか。私の言葉の捉え方はまずその音で残るが、しばしばそのまま意味もわからずに、確かめずに口に出していることがほとんどではないのか。それらを一つひとつ取り出して、あるいはより現実的には、それら一つひとつが何かの機会に飛び出してきた時に、そこで立ち止まって深入りしてみる作業、言ってみれば棚卸し、総ざらいをやってみてはどうか。それをほったらかしにしたままでゆきたくはないだろう。
その思いはパスカルの "peu de tout" とも重なっていることを以前に見つけ、気を強くしたこともある。ただ、それをやるには時間的・精神的余裕が必要になる。そこで初めて仕事の意味を考えるようになったのだろう。
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昨日の余韻がまだ残っているようである。
昨日の余韻がまだ残っているようである。
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