フランス語の達人でもご存じないフランス語に溢れていると思い、上に掲げてみた。
お忙しい方がこれを機会に空に目をやる余裕が生れることも願いながら・・・
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喉に引っ掛かっていた筆記試験が終った。気分が晴れたせいか、これまでとは違う経路で帰路についた。メトロを降りて歩き始めると道の外に飛び出したカフェでワインとおつまみを横にして一心に本を読んでいる中年の紳士が目に入った。歩を進めたが、その佇まいに何とも言えない雰囲気があったのでそのカフェに戻り、そこに入ることにした。空いている席が丁度その方の横になった。しばらくして、少し前のクールで聞いて理解できなかったフレーズがなぜか思い出された。そのフレーズは
「フランスの哲学者カンギレムにとって、デカルトはしばしば(・・・)であった」
というもの。そこに入っていたのが "tête de Turc" である。そこで、その意味を横の紳士に聞いてみることにした。そこからフランス哲学談義でも始まるのではないかという期待もあったかもしれない。しかし、いくら言っても話が通じないのである。途中から英語になり、彼がイギリス人であることが判明。もともとはケンブリッジ大学で遺伝学の研究をやっていたが、途中から役人になり今はOECDで働いているという。スタッフの中にはやる気満々の日本人2人(農水省と経産省から派遣されている)もいる国際的なチームを率いているとのこと。私がこれまでの経過を話し始めるとすぐに、その話はよくわかるというように何度も頷いた。彼がこれまでに一番幸せに感じたのはもう20年前のこと。分子生物学のような機械的なことをやる意味を教授に質問した時に回答に困った教授がそれならお前がその意味について講義せよとのことになり、哲学の歴史を振り返り科学との関連について考えを巡らせていた時だという。
本題に戻ると "tête de Turc" は "être en butte aux plaisanteries, aux railleries de qqn" ということで、「誰かの冷やかしや揶揄の対象になる」の意味らしい。心身二元論のデカルトが人間を全的に捉えようとするカンギレムに皮肉っぽく書かれてもしようがないということだろうか。カンギレムの文章に対するコメントとしては奥ゆかしい表現だなと思いながらそのクールを思い出していた。
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