jeudi 30 avril 2015

シンポジウム 「メチニコフの遺産・2008年」から L’héritage de Metchnikoff en 2008 (II)

30 avril 2008

今日で3日間に亘った会議が終った。今回の会議には日本から京都大学のN教授が招待されていた。N氏は細胞死の研究の第一人者で、死に陥った細胞を食細胞が貪食する過程に関わる分子についての新しい知見を発表されていた。感想を伺ったところ、哲学的な含みのある発表がこれまでになく多い会とのことで少々驚いておられた。遺伝子、蛋白質を相手に、確実に証拠がつかめたことについてだけが発表の対象と考えている多くの研究者と同じく、想像や形而上のお話にはつい ていけないという印象であった。私の方は、そちらの話を拒絶するというこれまでの態度が緩んでいることをはっきりと感じることができた。今までであれば聞こうともしないようなお話に反応するところがあったからだ。少なくともこのようなお話をする日本の学者はいない、という点では一致した(どこかにいるのかもしれないが、少なくとも学会での発表の機会はない)。最近の私の目から見れば、このような視点を持つ学者を抱えていること、またその声を聞こうとする雰囲気があることは、文化としての科学の幅を広げているように思えるのだが、いかがだろうか。

そのような学者の一人として、フランスには Jean-Claude Ameisen 教授がいる。最初は気がつかなかったが、話を聞いているうちにどこかで接点があることに思い当たった。実は、昨年こちらに来てネットで彼の講演を聴いていたのだ。

Conférence Marc Bloch (EHESS) を聞く (2007年 09月 23日)

今回もパワーポイントを一切使わず30分話し続けた。終ってから若い人に印象を聞いてみたところ、予想通り映像がないとわかり難いとのことであった。私の方はこちらに来てからパワーポイントなしのお話で鍛えられているのでそれほど感じなかったが、現役の科学者はパワーポイントを使うのが義務くらいに考えているかもしれない。ノーベル賞をもらっているシドニー・ブレナー氏くらいになると許されるのだろうが、、。

休憩時間にこれまでの経過をAmeisen教授にお話し、私の蓄えが増えてきた段階でディスカッションの時間を持つことに同意していただいた。また、今回は私にとって懐かしい方がニューヨークから来られていた。私がボストンにいた時のテーマが食細胞に絡むもので、その背景がなかったためこの方の論文をよく読んでいたのである。現在はマンハッタンのコーネル大学で研究を発展されているCarl Nathan教授。当時の話をすると、それは随分時間を浪費させましたねと恐縮し、現在パリにいることを伝えると、あなたはまさにtravelerですね、との正確なコメント。何が本当の科学的発展なのかについての冷静な意見を聞き、私とほぼ同じような考えの持ち主であることがわかった。

それから意外なところから、かつてわれわれの研究室に在籍していた者の消息が明らかになった。大学に移った後留学しているところまでは掴めていたのだが、その先を確かめていなかった。今回ミシガン大学にいることがわかった。発表の中に彼の立派なデータが紹介されていたからである。後で確かめたところ間違いな いことがわかった。

今回も予想もしなかったいくつもの出会いやこれまで欠けていたピースが見つかるという不思議な経験をした。久しぶりに多くの人に会い少々疲れたが、このような会はこれまでとは違った意味で興味深い場所になりそうである。

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(5 mai 2008)

ミシガン大学に留学中のY君からメールが入った。私のことを教授が話してくれたとのことで、その英語の文面から彼の方も驚いている様子が伝わってきた。




mercredi 29 avril 2015

シンポジウム 「メチニコフの遺産・2008年」から L’héritage de Metchnikoff en 2008

29 avril 2008

イリヤ・メチニコフがノーベル賞を受賞して100年を迎えたのを記念したシンポジウムが2008年4月28日から30日までの予定でパスツール研究所で始った。初日は歴史的にメチニコフの仕事を振り返るもので、アメリカ、ジョンス・ホプキンス大学のアーサー・シルヴァーシュタイン(Arthur Silverstein)教授とボストン大学アルフレッド・タウバー(Alfred Tauber)教授がそれぞれの立場から語った。

イリヤ・メチニコフ Elie Metchnikoff (15 mai 1845 en Ukraine - 15 juillet 1916 à Paris)


シルヴァーシュタイン氏は現在名誉教授で、もう少しで完全に引退するとのことであったが、もともとは眼科学教授でありながら医学の歴史についても研究をされ、免疫学の分野では古典と言ってもよい "A History of Immunology" (1989年)を著している。私も初版本を持っており、これまでよく読んできた。今アマゾンを見ると、お値段が¥15,485 となっている。これほど払った記憶がないので価値が出てきているのかもしれない。

シルヴァーシュタイン氏は有名なメチニコフの写真を背景に、ゆったりとした調子で話を進めた。当時、炎症という現象が生体にとって害になると考えられていた。彼はヒトデで見出した貪食という現象を基に、炎症は宿主の受身の対応ではなく、積極的に対処している宿主にとって有益な反応で、その中心に貪食細胞があると考えた。

この考え方はドイツ学派には受け入れられず、彼が求めていたドイツでの就職は遂に成らなかった。1888年、彼が43歳の時にパスツールに呼ばれて創設されたばかりのパスツール研究所で仕事を開始し、1916年、71歳で亡くなるまで研究を続ける。

この間20世紀を跨ぐ20年に亘って、免疫は細胞によるとするメチニコフの細胞学説と免疫の主体は抗体であるとするポール・エーリッヒ(Paul Ehrlich)の液性学説とが、フランスとドイツに別れて争った。それは不毛の争いではなく、むしろお互いが刺激し合い、新しい実験データ、新しいアイディアを生み出した実り多いものだったと結論している。その結果、エーリッヒとともに1908年にノーベル賞を手に入れる。

その後、貪食細胞には特異性がないということ、細胞の実験が非常に難しいこと、それから相手方のエーリッヒの提示した抗体産生のメカニズムを示す側鎖説の図の説得力、さらに決定打になったエミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring)による血清療法の成功などが相まって、彼の説は次第に省みられなくなる。しかし、1世紀を経て彼の唱えた食作用、自然免疫という考え方が、再び息を吹返してきている。

シルヴァーシュタイン氏は最後に次のようなことを話して講演を終えた。

「1960年代から70年代にかけて細胞性免疫の研究が盛んになった時に、メチニコフのことを持ち出す人はほとんどいなかった。また、1950年代のニールス・イェルネ(Niels Jerne)やマクファーレン・バーネット(Frank Macfarlane Burnet)が自然選択説やクローン選択説を提唱した時、エーリッヒに対する賛辞(tribute)を捧げることはなかった。歴史を忘れないということは重要なことである」




タウバー氏はもう少し若い世代のせいか、テンポ良く攻撃的に話を進めた。彼が示したメチニコフの絵はクリスティーの競売にかけられたものとのことで見たことがないだろう、という調子であった。

メチニコフの生年1845年が重要で、1859年に発表されたダーウィンの「種の起源」の影響を同時代で受けており、進化論の信奉者になっている。彼の求めた問は、どのようにして生体はその同一性・独自性(identity)を保っているのか、というものであった。そして外界と協調関係(harmony)にあるのではなく、むしろ disharmony が正常の状態であるとし、その監視役として貪食細胞があると考えていた。当時としては全く独創的な考えであった。タウバー氏自身は、免疫学が自己・非自己の認識に終始するある意味で閉ざされたシステムとしてあるのではなく、外界の他のシステムとも交わるオープンで全的な(holistic)システムとして捉えるべきではないのかと考えている様子が伝わってきた。

話の中で、メチニコフに纏わるエピソードをいくつか紹介していた。パスツール研究所での年収が1フランだったこと。紹介した研究経過でもわかるように、実際にドイツ人は彼のことを嫌っていて、研究所では両者が話もしない時期があったという。またノーベル賞授与に際して財団があげた理由がエーリッヒについては短いのだが、メチニコフについては度を越えて長いものであったという。当時、非特異的な貪食細胞についての理解がスマートな抗体による免疫には追いついていなかったということかもしれない。




それからもう一つ興味を惹いたのは、メチニコフとトルストイとの出会いである。1909年5月30日、ヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイの家で2人は会う。この日は哲学的問題や社会問題について話が進み、メチニコフと彼の2度目の妻オルガにとって深い印象を残すことになる。しかし、それぞれの印象が異なっていた。

神秘主義的哲学者のトルストイは言う。

"J'ai consulté un dictionnaire, devinerez-vous combien de genres de mouches ont été classifiés par les savants ? 7000! Où trouve le temps de s'occuper dans ces conditions des questions de l'âme ?"

「私は事典を引いてみた。どれだけの蠅が分類されているのか当てて御覧なさい。何と 7,000 もあるのだ。そんな状態で精神の(本質的な)問題について考える時間がどこにあるのだろうか」

科学精神の持ち主メチニコフはこのように考えていた。

"La science est la seule issue pour l'Humanité souffrante."

「科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものである」

メチニコフがトルストイに対して尊敬の念を抱いていたのに対して、トルストイは科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間として捉えていたようだ。現在にも通じる視点の対立と言えなくもない。


講演の後で、シルヴァーシュタイン氏とタウバー氏と言葉を交わすことができた。シルヴァーシュタイン氏のところには日本人(すべて眼科医)が沢山来ていたようで、その過程で囲碁に興味を持ち日本棋院に初段の認定を受けに行ったこともあると話してくれた。お二人の著書を持っていたことを思い出し、翌日サインを もらうため会場に持参した。シルヴァーシュタイン氏は「敬意を込めて」という言葉を添えて、またタウバー氏のサインには「われわれのクラブへようこそ」と書かれてあり、これから話していきましょうとの言葉をかけていただいた。タウバー氏の本は今年になってから手に入れた以下の2冊である。

"Metchnikoff and the origins of immunology: From metaphor to theory" (1991年)
"Immune Self: Theory or metaphor ?" (1997年)

このような形で、これまで読んできた本とこれから読むであろう本の著者に接することになるとは思ってもいなかった。非常に満たされた気分で帰路についた。




mardi 28 avril 2015

ジャン・コマンドン Jean Comandon

28 avril 2008
 
Jean Comandon (1877-1970)
 

パスツール研究所でのメチニコフ・ノーベル賞受賞100周年記念シンポジウムで出会った。

シンポジウム初日の最後に、顕微鏡写真の開発者である彼の人生と実際に撮った映像が紹介された。今やフランスでも余り知られていないという。簡単にその人生を振り返ってみたい。

1902-1906年、リサンスでは科学を勉強。
1904年にはパスツール研究所で微生物学のコースとをる。
1906-1909年、医学を学ぶ。そこで顕微鏡に触れ、ダストゥル(Dastre)の元での学位研究では梅毒の病原体であるトリポネーマを取り上げ、その動きを捉えるために毎秒12-15コマで撮影することを思いつく。
1909-1914年、シャルル・パテ(Charles Pathé)の力添えで、ヴァンセンヌの顕微鏡撮影の会社に勤める。
1909年、科学アカデミーにおいて、彼の上司ダストゥルが各種病原体の顕微鏡フィルムを紹介した際にコマンドンの名前を出す。その場にいたパスツール研究所所長のエミール・ルー(Emile Roux)は、彼にパスツール研究所での上映を頼む。
1910年、科学アカデミーでトリポネーマの貪食の映像を紹介する。
1914-1918年、戦線に出る。
戦後、再びヴァンセンヌで仕事を始める。
1926-1929年、そこを辞めた後、アルベール・カーン(Albert Kahn)のところで仕事を続ける。
1932年、エミール・ルー等の誘いで、パスツール研究所のシネマトグラフィー室長に就任。 1966年、89歳で引退するまで映像を取り続ける。

彼は、メチニコフと同じくパリ郊外のセーヴル(Sèvres)に住んでいたという。その地で93歳の生涯を閉じている。医学そのものの研究から離れ、映像家としての道を最後まで歩んだ人生と言えるだろう。いいお顔を拝むことができた。

紹介された映像は今では珍しくないが、当時としては画期的なものだったに違いない。植物が花開く様、細胞や病原体の動き、寄生虫が貪食される様子など、今見ても古さを感じなかった。最近の研究ではそれまで忘れられていたかに見える時間的、空間的な観察が取り入れられ、このような動画を見る機会が増えている。 ある意味では1世紀を経て、彼と同じ発想が蘇っていると言えるのかもしれない。

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アルベール・カーン美術館 le musée départemental Albert Kahn
14 rue du Port, 92100 BOULOGNE-BILLANCOURT





dimanche 26 avril 2015

宗教は科学の脅威か? Débat : La religion vs la science

26 avril 2008

電力会社(EDF)からの清算書を見て驚いた。私の予想の3倍になっていたからだ。そして、自らの生活態度を振り返ってみて、すぐにその原因に思い当たっ た。こちらに来てから朝からリビングの電気を点けっ放しにしていたのだ。なぜか白熱電気の明かりが心地よく、初日からそうしていた。幸か不幸かEDFには半年ほどお目溢しをいただいていたので、これほどの電力を消費していることに気づかなかっただけの話にしか過ぎない。これから改めなければならないだろう。

ところで先日ネットサーフの折、ガーディアン紙のサイトにあった科学と宗教との視点の違いがよく現れている対論に出くわした。科学を代表するのが一方の極にいる ダニエル・デネット氏(アメリカ、タフツ大学)なので、その違いがより鮮明に出ている。その全文は以下のタイトルをクリックしていただければ出てくるので参照願いたい。ここではその要点を掻い摘むことにする。

Is religion a threat to rationality and science? (The Guardian; Tuesday April 22, 2008)

対論のテーマは宗教が理性や科学にとっての脅威になるのか、という問題で、科学代表デネット氏と宗教代表ウィンストン卿(インペリアル・カレッジ・ロンドン、名誉教授)が真っ向から対立している。

まず、宗教が理性や科学の脅威にならなくて一体何がなるのか、と主張するデネット氏。

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それはアルコール、テレビ、ビデオゲームだろうか、と自答している。これらはわれわれの判断力や批判的な能力を鈍らせる圧倒的な力があるが、宗教はそれらの 力を無力化するだけでなく、それを歓迎するところがある。そして人は夢の世界に、知の世界から心を避け、彼らを毒する頭の中の声に耳を傾ける人生を送る。

以前は酔払い運転をする者を、アルコールの影響があるということで大目に見る傾向があったが、今や自らを無責任な立場に置くという大きな罪として捉えてい る。宗教についても同様のことを考えるよい時期ではないのか。社会を破壊するようなすべての宗教に基づく行為やその宗教指導者は運転する者に酒を勧める バーテンダーや取り巻きの人などと同じように罪深いという態度を取る必要があるのではないか。われわれのモットーは、友よ、友人を宗教に基づく生活に導く なかれ、である。

今現在、アフガニスタンで宗教冒涜の罪で死刑を待っている学生がいる。考えてもみてほしい。この21世紀の解放されたアフガニスタンで宗教冒涜の罪が死刑なのである。しかし、世界のほとんどの人が一言も発しない。どこかでデモがされただろうか。それともイスラム教徒を傷つ けたくないのだろうか。宗教以外のことにはすぐに反応するのに、宗教に関わることになるとその判断が自らに跳ね返るためか、躊躇するのだ。

この決断をどのような枠組みで捉えるのかにバランスを欠く点があるのだが、ウィンストン卿の場合は最悪である。彼は終りなき作業をしながら多くの問題を処理 しなければならないが、その間にも一つの狂信的な行為によりわれわれが大切にしていたものが灰燼に帰すことも起こりうるのである。確かに、宗教を信じるこ とと狂うこととは関係はないが、その一因にはなるだろう。最悪なのは、宗教的信仰は過大な自信を人びとに与えることだろう。それによって普段考えられないような非人間的な過ちを起こすかもしれないということを全く気に掛けなくなるのだ。

この理性への鈍感さが、宗教に対して最も恐れていることなのである。例えば、スポーツや芸術でも同様の非理性的な側面はあるが、社会的には隔絶されている。しかし、宗教だけはそれを神聖な義務として要求し、地上のすべての生活に関わってくるところが問題なのである。

よりよいものは最善の敵である。宗教は多くの人をよりよくする可能性はあるが、最高の状態であることを妨げるものである。その敬意、忠誠心、そして真剣な献身を、想像上の存在(神)からわれわれとわれわれの祖先が創った善き世界という実在するものに向かわすことができれば、素晴らしいのだが、、

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これに対して、ウィンストン卿はこのように反論する。

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デネット氏はパスカルの有名な賭けに応じることはないだろう。パルカルはこう言っている。

「あなたが神を信じると言ったところで失うものは何もない。なぜな ら、神が存在しないとしても失うものはないし、存在すれば死後の世界で恩恵を得ることができるのだから」 

デネット氏は神なきものとして世界を理性的でよりよい場所とするように生きるのがよいと主張している。教会を建て、教会に通うのは資金と時間の無駄だと指摘している。

彼の進化論に基づ くと思われる信仰についての見方には、信者の信仰や感情に真剣に向き合うところがないように見えるという問題がある。彼は異なる考えにも真摯に向かうと繰 り返し主張しているが、彼の頭の中では人間を「優秀な者」と「信者」に分けている。つまり、あなたが優秀でなければあなたの考えには同意しかねる、なぜな らあなたは知的に劣っていて、心が閉ざされ、過度に恐れているからだ、と考えるのである。

ある意味では、彼はリチャード・ドーキンスと同じ罠に嵌っている。彼は宗教について知っていると思っているが、真摯な研究をしたように見られない。例えば、ユダヤ教の姿勢やイスラム教の習慣など。

宗教は人間の意識に埋め込まれていて、その整合性については多くの証拠がある。有史前のわれわれの祖先の生存に果たした役割は置くとして、最近でも人知を超えた力が絶望的な状態に置かれた人間をいかに駆り立てるという例がある。ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの極限状況の中で唯一生き残ったのは、必ずしも信仰というわけではないが、ある精神性を持った人たちであったという観察をしている。

デネット氏は科学は真理であると信じているように見える。優秀な私の科学者仲間の多くと同様に、科学こそ確実性を意味するという考えを広めている。彼の著書 "Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon" でミームに対する彼の見解を支持するとして Eva Joblonka を引用しているが、彼女がドーキンスの進化に関する見方には批判的なことを忘れている。"The Book of Job" を再読された方がよいだろう。

問題は、今や科学者がこの本で扱っているような問題、われわれがどこから来て、どこに向かっているのか、われわれの宇宙を超えたところには何があるのか、というような生命の謎に迫るような問題について答えることができると信じていることである。しかし、科学を用いて研究すればするほど、理解できないことが増えている。現実には宗教、科学ともに人間の不確実性を表現しているのである。確実性はそれが科学であれ宗教であれ、危険なものであるという逆説であろう。 デネット氏の主張する比較的穏やかな確実性には、われわれの社会に亀裂を生むという危険性がある。科学と宗教の両者が硬直した立場を取ると、確実性が理性と科学にとって最も大きな脅威になるであろう。

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samedi 25 avril 2015

仏版 「ハンモック」を読んで En visitant "Dans le hamac de Tokyo"

25 avril 2008

昔の記事を参照するために仏版「ハンモック」(DANS LE HAMAC DE TÔKYÔ)を訪れてみた。そして、その記事もそうだが私が書き残しているコメントを読んで驚いた。ほとんどがそんな事を書いていたのか、というくらい覚えていないのだ。このサイトのほとんどの記事にスペルミス(fautes d'orthographe)があったことについては以前に触れた。 視覚的にどこかおかしいという認識がすぐにできないのとフランス語を書いた途端に満足してしまい見直すことがなかったこともあるのだろう。今度のコメント に関しても事情は同じで、ある文型に言葉を当てはめながら文章を造り、それが終った途端に忘れていたようである。中にはよくこんな文章を書いていたな、と 感心するようなものもある。それと、至るところに今は薄れているかに見える熱いものが溢れているのを感じることがある。どこかわからないが、どこかに向か おうとしていたその熱かもしれない。若き日の自分を見る思いである。わずか数年前のことにしか過ぎないのだが、、、




vendredi 24 avril 2015

哲学の国フランス La France : Le pays philosophique ?

24 avril 2008

最近よくあることだが、一日置いて昨日のランデブーで出ていた話を思い出した。フランスが哲学の国かどうかという話題である。日本にいる時に講読していたフ ランスの雑誌に Le Point があり、このブログの前進「ハンモック」ではよく取り上げていた。その雑誌を見て最初に新鮮な驚きを感じたのは、すでに触れているが哲学者という肩書きを持った人がよく出てくるということだった。それからさらに進むと、雑誌の特集で哲学者が取り上げられることがしばしばあり、確かに日本とは違うと確信した。という背景があったので、ドイツからの留学生にも印象を聞いてみた。

彼の感想も私と同様で、このような現象はドイツでも見られない し、ヨーロッパの特徴というわけではないと言っていた。さらに続けて、フランスでは哲学が大学などに閉じ込められているのではなく、社会の中に出ている印象があり、ある意味ではモード化しているのではないかとの観察であった。確かに雑誌を扱う店では哲学関連のものが必ず目に付く。ドイツではむしろ文学を背景にした知識人が引っ張るような傾向があるとのことで、日本で知的にリードしているのはどのような人なのかと問いかけてきたので回答に困ってしまった。

日本の場合、すべてがスパンの短いものに終っていて、ある意味では消耗品のようになっている印象を拭えない。インテリといわれる人が軽くなり、マスコミで踊 るようになってしまったことも大きいのだろう。それは多数の人が求めているための結果にしか過ぎないのかもしれない。今、そんな流れには関係なく、自らの思索を深めている人がどこかにいそうな気もする。そういう人こそ、時を経て発見され、生き残る可能性が高いのではないだろうか。

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" La vérité ne se décide pas à la majorité des voix. La vérité est la vérité, elle se reconnaît. Mais cette vérité-là ne peut pas elle-même être reconnue dans le monde hyperpolitisé et hypermédiatisé où nous vivons et où toute valeur disparaît au profit du nombre. "

「真実は多数派の声では決まらない。真実は真実であり、自ずとわかるものである。しかしその真実は、すべての価値が数のために失われている極度に政治色を帯び、過度にメディア化されたわれわれの世界では認識できなくなっている。」

     "Le néo-libéralisme, ça n'existe pas !"
     Pascal Salin (né le 16 mai 1939 à Paris)
     professeur à l'université de Paris IX Dauphine





jeudi 23 avril 2015

外と繋がる Je me sens connecté avec...

23 avril 2008

今日は朝から研究所に出かけ、ミニメモワールの準備をする。自宅でやろうとしてもつい怠けてしまうので、久しぶりに外に出ることにした。それから夕方には ENSのクールでいつも私の横に坐る学生とお茶をすることになっていたこともある。彼はドイツからの留学生で、ドイツの医大生でもある。ENSで哲学のマスター(M2)に登録していると同時にパリ第5大学の医学部にも所属しているという。かなり忙しそうだ。詳しくは聞いていないが、そういうことがヨーロッパでは可能なようだ。最終クールに春休みにどうですかとの話になり、それが今日実現した。

ENSのカフェの後、中庭(今日の写真)で2時間ほどのランデブーとなった。メモワールや哲学の話から始ったが、年齢の違いのせいか哲学に対する態度が少し違うように感じた。生きることは哲学すること、などと言ってもそれだけでは味気ないのでは、という感触である。それから彼が声をかけてくれた大きな理由の一つが、どうして私がここにいるのかという不思議であることがその後わかった。つまり、これから先ゆったりした老後があるはずなのに、なぜよりによって哲学だったのか、しかもなぜパリだったのかというはっきりした疑問だった。よく聞かれるので、このブログでも書いているようなことを交えて説明する。私の話を聞き、"J'admire..." というフレーズを何度も発するので少々面映かったが、口だけではないように聞こえた。私としては全く自然な流れなので、他の人が驚くのがよくわからないのだが、、。それからいつも感じることだが、こちらの若い人の年齢の差を感じさせない態度には感心させられる。そんなに年の離れた人と話をしているということを意識させないものがあるのだ。日本の若者とはこうはいかない。彼とはメモワールが終ってから場所を変えて話をすることになった。

日本との違いで思い出したことがある。私が日本を出る時には、多くの人から優雅でいいですね、羨ましいとの反応をいただいたが、こちらの研究者に同じ話をする と、ほとんどの人が "Vous êtes courageux!" と返してくる。どうしてこのような違いが生れるのかわからないが、面白く感じている。私の実感を反映しているのは、もちろんこちらの人の言葉である。

今日はパリ市内、日本、アメリカとのメールのやり取りもあり、外の世界と繋がっているという感覚が戻った日でもあった。




mercredi 22 avril 2015

読み方を学ぶ Ce que je fais maintenant, c'est apprendre à lire

22 avril 2008

書くために読んでいる最中である。それにしても何度読んでもわからない文章があるものだ。先日、免疫学が研究対象としている自己と非自己について哲学している方と話をした。その時、科学論文を読むのは易しいが、どうして哲学論文は時間がかかるのだろうかという話になり、フランス人でもそう感じていることを知 る。私のフランス語の問題だけではなさそうだ。

論理学など純粋に知的な学問の場合には自然科学に近く、文章がわからないというよりもその論理や数式がわからないことが多い。しかし、いわゆる哲学的思考に基づいて書かれた本の場合には、事情が全く違うようだ。一つひとつの言葉の意味がわから ないこともあるが、それ以上にそれぞれの言葉が織り成すその宇宙が掴めないことが多い。すべてを言葉にしていないこともある。その言葉の背景にどんな事実 が埋もれているのかを探らなければならない。さらに、その人の頭の中でどんなことが起こっているのか、そこから何を言いたいのか、なぜそのような表現を 使っているのか、などなど問は尽きない。そして万策尽きた時、それに迫るには知的ならびに体力的なエネルギーだけではなく、情熱(passion)と言っ てもよい異次元のエネルギーが求められていることに気付く。つまり、こちらでやっていることは文章を如何に読むのかということを学んでいるのではないか、という一点に辿り着くことになる。

以前にこのブログでも触れたが、文章を書くことを意識的にしたと感じたのは、アメリカで英語で文章を造っている時のことである。そして今回、読み方を学んでいると意識的に感じたのがフランス語の中であった。不思議なものである。このあたりにも外国語を学ぶ意味があるのかもしれない。

ところで、「読み、書き、そろばん」という言葉があるが、そろばんはどうなるのだろうか。日本では全く興味がなく開発されなかったそちらの感覚。投資のような危ない道に入らないと学ぶことができないのかもしれない。学生の身としては叶わないことのようである。



mardi 21 avril 2015

春休みの過ごし方 Les vacances de printemps commencent

21 avril 2008

この週末から何十年振りかの春休みが始った。2週間だが、固まった時間を自由に使えるという魅力は大きい。ただこの間に、ミニ・メモワール2つ、宿題となっているdissertation一つ、それから口頭試問のための150ページの資料のまとめ、もう一つの口頭試問のための準備として本の3-4章を読まな ければならない。ということで、本当に処理できるのだろうか。勢いバルザック風の日課にも魅力を感じる。夜中の方が集中力が増してくるような感じがするからだ。

とりあえずお昼の散策に、気になっていた本を携え出かける。いつもその姿を眺めに行くセーヌの向こう岸の木々がこんもり豊かになっ ているのにまず気付く。流れるセーヌは汚いが、なぜか気分が落ち着く。この道はこれからも歩くことになるのだろう。それからカフェに入り、気になっていた その本を1-2時間読み、さらに散策。公園のベンチでさらに読み進む。そして夜。気分が乗ってくるまで様子を見る・・・・

この休みが明けるまでにどのような混沌を経験するのだろうか。もしそこから抜け出すことができれば、一皮剥けたような錯覚が襲ってくるのではないかと思うだが、、。学生生活は体力頼みのこの繰り返しだろうか。





lundi 20 avril 2015

リュトブフ Rutebeuf

20 avril 2008
 
 
仏版ブログへのコメントの中で出会った。フランソワ・ヴィヨンとともに中世のこの詩人が好みだというFからのもの。時として、私の知らない人を紹介してくれるのでありがたい。

Rutebeuf (v.1230 - v.1285)

Wiki の記述によれば、彼に関する資料はほとんど残っていないという。この名前は本名ではなく、彼の態度や作品からの連想で付け(られ)たnom de guerre(芸名:日本語と同じ音になる?)ではないかと想像している。その元は、rude boeuf、rude oeuvre。例えば、こういう詩があるという。

  「私は1261年1月2日結婚した。持参金も愛嬌もない年増の醜い女と」

おそらくシャンパーニュ生まれで、大人になってからはjongleur(吟遊詩人)をしながらパリに住んでいたようだ。彼の作品は、聖人伝、戯曲、時の権力への風刺を含んだ詩や人生の悲惨さを歌ったものと幅が広い。

1874年に出版された彼の全作品集の紹介では、彼の名前が最初に出てきたのは1581年出版の "Origine de la langue et poésie françoises" とのこと。その中で、同時代人が彼のことを口にしなかったということに注目し、そこには嫉妬があったのか、今でも見られる文学者間の感情の対立によるのか、その真偽は問わない。しかし、今でも見られる吟遊詩人とライバルとの間の沈黙については触れておかなければならないだろう、としている。
彼の詩にジョルジュ・ブラサンス(Georges Brassens)やレオ・フェレ(Léo Ferré)が触発されていて、実際に歌っている。例えば、
Leo Ferré - pauvre rutebeuf 

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Que sont mes amis devenus
Que j'avais de si près tenus
Et tant aimés
Ils ont été trop clairsemés
Je crois le vent les a ôtés
L'amour est morte
Ce sont amis que vent me porte
Et il ventait devant ma porte
Les emporta

Avec le temps qu'arbre défeuille
Quand il ne reste en branche feuille
Qui n'aille à terre
Avec pauvreté qui m'atterre
Qui de partout me fait la guerre
Au temps d'hiver
Ne convient pas que vous raconte
Comment je me suis mis à honte
En quelle manière

Que sont mes amis devenus
Que j'avais de si près tenus
Et tant aimés
Ils ont été trop clairsemés
Je crois le vent les a ôtés
L'amour est morte
Le mal ne sait pas seul venir
Tout ce qui m'était à venir
M'est advenu

Pauvre sens et pauvre mémoire
M'a Dieu donné, le roi de gloire
Et pauvre rente
Et droit au cul quand bise vente
Le vent me vient, le vent m'évente
L'amour est morte
Ce sont amis que vent emporte
Et il ventait devant ma porte
Les emporta

Rutebeuf

Adaptation en Français moderne de la Griesche d'Hiver.


 
 
 

dimanche 19 avril 2015

モンタニエ氏語る Luc Montagnier parle de la médecine d'aujourd'hui

19 avril 2008

先日、水の記憶で話題にしたモンタニエ氏のインタビュー記事を少し読んでみることにした。出ていた雑誌は Enjeux-les-Echosで、以下のタイトルのもとにこれまでの研究から固まってきた彼の考えを語っている。

" La médecine du XXe siècle a épuisé ses ressources"
「20世紀の医学はその蓄えを使い果たした」

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われわれの平均寿命は、まだ毎年3ヶ月の伸びを見せている。しかし、ガン、白血病、心血管系、神経系の原因不明の病に侵されている。老化にしても同様である。今日、長生きする人は増えているが、骨や関節の問題、ガン、アルツハイマー病、パーキンソン病などで老後が必ずしも豊かなものにならない場合がある。 入院期間が延び、効果のない高価な治療を続けることになり、健康保険も赤字に陥っている。

なぜ慢性の病気をなくすことができないのか。一つには、その原因が単一ではなく複数絡み合っているからだ。それから一つのもの、例えば酸化ストレスと呼ばれる現象はDNAに変異を起こし、脂質や蛋白を変化させ、われわれの免疫系を弱めるという複数の効果を持つ。またある種の病原体は免疫系と折り合いをつけ、われわれの中に住み続けるということも起こっている。

私は、エイズは老化が急速に起こるようなもので、老化はエイズがゆっくり進行するようなものであると言っている。老化に伴い免疫系をコントロールしている胸腺はほとんどなくなるが、エイズの場合はそれが急速に起こる。胸腺の退化は生物学的にプログラムされている。それは食料 が限られていた太古に老人が退場することが種の保存に必須だったという厳しい自然選択の結果である。しかし、その後の文明、文化の発達に伴い、今やそれは存在理由がなくなっている。

医学もその自然選択に抗する役割を果たしてきた。それは本来早く亡くなるべき人たちを救っているからである。そのことにより、遺伝的欠陥を後世に引き継ぐことになるだろう。これは事実で、これから遺伝病が増えるという事を考慮に入れて、われわれはこの新たな状況に対処しなければならない。

したがって、遺伝子治療に関しては賛成である。ただし、自然がわれわれの体に生殖細胞と体細胞を分けて与えて いることの意味を考えなければならないだろう。体細胞の遺伝子を操作することには問題を感じないが、われわれの遺伝子構成を変えることになるような操作には相当の慎重さが求められるだろう。幹細胞ですべてが解決するという立場にも私は慎重である。

私はずっと理性的であるが、偏見も持たない。植物エキスを治療に使ったわれわれの祖先の智慧をまだ科学的に検討できていない。分子生物学は多くの成果を上げたが、ほぼ限界に来ていて、すべてを説明することにはなっていない。ホメオパシーはまだ謎のままである。

パ スツールは微生物には何の意味もなく、その場がすべてだと言っている。われわれの体は常に細菌と接触している。免疫系が働いていれば、微生物の増殖は抑えることができる。ある種の植物エキスは酸化ストレスへの効果で免疫系を活性化する。エイズウイルスに感染している人の5%は発症しない。細菌やウイルスがガンに関与しているとすれば、例えば、弱い化学療法と抗生物質による治療の併用などのアプローチを取ることができるだろう。免疫系の賦活化による治療が発展することを願っている。人間は120歳まで生きるようにプログラムされているのだから。

酸化ストレスが老化などに関与している。植物に由来する薬剤の有効性を試すのがこれからの目標である。祖先の経験を拒否するのではなく、現代医学と結びつける試みが大切だろう。

フ ランスの研究は、第二次大戦と占領でイギリスやアメリカの科学と隔絶してしまった。ドゴール大統領はこのことに気づき、若い研究者をアメリカやイギリスに送り出した。それは、特に分子生物学において重要な役割を果たした。しかしそれ以来、その方法と概念を用いることに満足してしまった。エイズウイルスの発見は、すでに知られていた手法を単に用いた基礎研究によるものであった。その後多くの優秀な研究者が研究を進めているが、大きな技術革新を生み出すには至っていない。国による研究システムの整備が全くされていない。それからソ連崩壊後に優秀な研究者を呼び寄せることに失敗した。彼らはアメリカに流れてしまった。

さらに研究費も不十分である。日本は国内総生産の3%を研究に当てている。それから中国やインドも続いている。このままの状態でいると、世界におけるわれわれの占める位置は縮小していくだろう。この状況を抜け出すためには、突破口となる技術革新と概念の転換が必須になるだろう。フ ランスの経済的な発展と国民の安寧は偏にこの点にかかっている。

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来月にはエイズウイルス発見25周年を記念したシンポジウムがパスツール研究所で開かれる予定になっている。

   25 ans de VIH (du 19 au 21 mai 2008)





samedi 18 avril 2015

Wifi 修復と専門のフランス語 Réparation de Wifi et le français spécialisé

18 avril 2008

1 週間ほど前から、自宅のwifiが全くつながらなくなった。フランスで買ったパソコンはつながるので、日本から持ってきたLet's noteのどこかがおかしくなったのだろう。仕方なしに外でこのブログを更新するか、ワードで書いた文章をネットにつながっているフランス語用パソコンに貼り付けるという面倒なことをやっていた。このやり方にも少々疲れてきたので、今朝テクニカル・サービスに電話してみた。

勧められたのは、システムを何日か前に遡って復元すること。これは結構時間がかかった。それから再度アクセスして下さいとのことで試したが、やはり駄目。とりあえずケーブルをつないで使うように指示され、ひとまず切り上げた。実はこの間の会話が大変であった。専門用語が容赦なく飛び交うのでなかなか理解できない。相手の人は笑いながらの説明。英語でも込み入った日常のやり取りや文学的な内容、あるいは専門が変わるとほとんど通じなくなることを経験する。英語で不自由を余り感じないと言っても、所詮それは自分の専門だけの話で、しかも自分の言いたいことを言う場合に限られることが多い。ましてや今回はフランス語。ほとんどお手上げ状態であった。ここから私を取り巻く状況に頭の中が移っていた。

今マスターの学生としてこちらにいるが、学ぶべき内容が自分のこれまでカバーしてきたところと離れているので、それでなくても難しいフランス語がさらに難しくなる。メモワールの方がよいというのは、自分の言いたいことをいかに表現するかに集中するだけでよいからだ。筆記試験や口頭試問になると、それが叶わないので大変である。当然のことだろう。それは同時に、その先の選択肢が多いこと、あるいは選択肢の多い人を対象にしているということも意味しているのかもしれない。リサンスになるとそれがさらに拡がり、逆にM2やテーズに進むと狭まってくる。まさに木の枝と同じで、先に行くほど選択の幅が狭まり、最後は一本になり先が見えてしまう。このような道に入った心の底には、もう少し前に戻って先が見えない状況に身を置きたいという願望があったのかもしれない。しかしそれが現実となると、楽な方に目が行ってしま う。もしこれからの方にアドバイスを聞かれるとすれば、おそらくこう答えるだろう。私のようにフランス語と同時に少し広く学びたいという方にはM1から、 もっと時間に余裕のある方にはリサンスからがよいのではないか、そしてフランス語に自信があり専門の背景もある方はM2やテーズから入るのが楽ではないかと思う。

脱線した話を戻すと、これまでカフェなどでは問題なくつながっていたのが、今日研究所で使ってみたところ無線の表示に×印がつい ている。その状態で右クリックをして状態を見ても接続していませんの表示。しかしブラウザを立ち上げてみるとつながっているのだ。ということで、少々混乱 している。どこかがおかしくなっているのだろうが、表示はどうであれ使えるので使っているが、、。詳しい方のご教示をお願いしたいところである。

ところで、今日のクールが終わり、2週間の春休みが始った。やるべきことが山ほど溜まっているが、今度はやる気になるだろうか。先日、部屋を整理した後、なぜかすべてが片付いたような錯覚に陥って、マグマのようなものがどこかに消えてしまったかのようだ。あの混沌の中の苦悶の日々に戻ることはあるのだろう か。




vendredi 17 avril 2015

mai 68 --- Marc Riboud

17 avril 2008 

大学はもう休みに入っているような雰囲気

春休みを前に今週で終るクールがある

どことなく去りゆくものを見送るもの悲しさのようなものを感じる

それは時が流れていることに対する感情かもしれない

大学前の広場にはこの方の40年前の写真が展示されていた

Marc Riboud (24 juin 1923 à Lyon - )

この40年という時間に思いを馳せる人も多いことだろう









jeudi 16 avril 2015

ガレノス 「私はなぜ書くのか」 Galien -- " Pourquoi j'écris "

16 avril 2008

町の図書館で出会った。好奇と遊び心を宿したその目が印象的である。

ガレノス Claude Galien (129 ou 131, Pergame - 201 ou 216)

彼の言葉から。

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親愛なるユーゲニアノス様

かなり前にヒエロン様のために私の「治療法」の執筆に取り掛かりました。しかし、この方が突然旅立たれ少ししてから亡くなったことを知らされましたので、この本の執筆を諦めました。あなたもよくご存知のように、この作品も他の作品も有名になりたいがために書いたことはなく、友人を喜ばせ、自分自身を磨くために書いてきました。それは現在にとって有用なだけではなく、プラトンの言葉を借りれば「忘れっぽい老年」を見越しての記憶の倉庫の役割を果たすものです。

実際のところ、大衆の賞賛はしばしば生きている者にとって役に立つ代物でしょうが、死者には何の役にも立ちませんし、一部の生きている者にとっても同様です。哲学を拠り所とした静かな生活を選び、その身を養うだけの蓄えを持っているすべての人にとって、有名人になることは非常に大きな障害になるでしょう。 それは度を超えて最も美しいものを遠ざけることになるからです。あなたもよくご存知のように、わたしも厄介な人たちにしばしば悩まされてきました。時として本を読むこともできないくらい長期に亘り休みなく。

私は若い時からなぜか大衆受けする有名人を酷く軽蔑してきました。そこには神からの霊感があるのか、あるいは狂気のようなものなのか。何とでも呼んでください。同時に、私には真理と科学への渇望がありました。なぜなら人間はそれ以上に美 しく神聖なものを獲得できないと信じていたからです。私の名前をどの著作にも付けなかったのはそのためです。ご存知のように、あなたがよくされるような公衆の面前での極端な賞賛をしないように、そして私の著作に名前を付けないようにお願いしてきました。これらすべての理由から、私の「治療法」の執筆を断念 しました。

私の短い論文に私の発見の重要な点を書き留めましたが、まだ完全な形にはなっておりません。しかし、あなたやわれわれの多くの仲間が、私が患者に対して実践していたことを著作の中に見出したいと望んでいるので、まだ不足しているところを現在の論文に加えようと思います。

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Mon très cher Eugénianos, j'ai entrepris, il y a longtemps, d'écrire ma Méthode thérapeutique, pour faire plaisir à Hiéron. Mais comme celui-ci fut subitement obligé de partir pour un long voyage et que sa mort nous fut annoncée peu après, j'abandonnai alors la rédaction de mon ouvrage. Tu sais parfaitement que je n'ai écrit ni ce traité ni aucun autre par désir de me rendre célèbre auprès des foules, mais bien pour faire plaisir à des amis ou pour m'exercer moi-même, d'une manière qui le soit à la fois très utile dans le présent et qui me permette de me constituer une réserve d'aide-mémoire en vue de la "vieillesse oublieuse", selon l'expression de Platon.

En effet, l'éloge que décernent les masses est parfois, pour les vivants, un outil d'une certaine utilité, mais il n'aide en rien les morts, pas plus du reste que certains vivants. Tous ceux qui ont choisi de mener leur vie dans la tranquillité, en s'appuyant sur la philosophie, et qui ont assez de ressources pour subvenir aux besoins de leur corps, pour ces gens-là, la célébrité auprès des masses constitue un obstacle de taille, puisqu'elle les détourne des choses les plus belles, au-delà des limites du convenable. Moi aussi, tu le sais bien, les fâcheux m'ont souvent importuné, parfois même longtemps et sans discontinuer, au point de me rendre incapable de toucher à un livre.

Je ne sais trop pourquoi, dès mon adolescence, j'ai éprouvé un mépris profond pour la célébrité auprès des masses. Y avait-il là une inspiration divine; ou une sorte de folie ? Qualifie mon attitude du nom que tu voudras ! En même temps, j'avais soif de vérité et de science, car je croyais que les hommes ne peuvent rien acquérir de plus beau et de plus divin. C'est pour cela que je n'ai inscrit mon nom sur aucun des ouvrages que j'ai écrits. Je vous exhortais aussi, comme tu le sais, à ne pas faire de moi en public des éloges exagérés, comme vous en aviez l'habitude, et à ne pas non plus mettre mon nom sur mes traités. Pour toutes ces raisons donc, j'abandonnais la rédaction de ma Méthodes thérapeutique.

J'avais noté pour moi-même, dans de brefs mémoires, les points principaux de mes découvertes, mais sans en procurer encore un exposé complet et détaillé. Pourtant, maintenant que toi et beaucoup de nos camarades désirez retrouver dans des ouvrages écrits ce que vous m'avez souvent vu pratiquer auprès des malades, je vais ajouter au présent traité ce qui lui manque encore.

(Galien de Pergame. Souvenirs d'un médecin)






mercredi 15 avril 2015

町の図書館 La bibliothèque dans ma ville

15 avril 2008

日本にいる時には町の図書館に足を運ぼうなどとは考えもしなかったが、こちらでは少し違うようだ。昼間に自由時間があるのと学生という立場が影響しているとは思うが、しかしそれ以上にその場が心地よいということが大きい。また、先日触れた雑誌や新聞などの切抜きがテーマごとにファイルになっていて、こちらの状況を捉えるのに役に立つ。これはある意味ではそのための秘書を雇っているようなものではないか、と思えるものであった。こちらに来てからはテレビをつ けていないので映像にほとんど触れていなかったし、雑誌や哲学歴史関係の本も充実しているこの場所を積極的に利用してはどうか、と考えるようになってき た。ということで、先日その会員になった。以下、参考までにその情報を。

町の住人であると割引があるので、証明する書類を持参した。会員には3段階あり、本だけ借りられるもの(tarif 1)、それに音楽CDが加わったもの(tarif 2)、さらにビデオ、DVDが借りられるもの(tarif 3)となっている。tarif 1は登録するだけで無料。tarif 2は年会費約17ユーロ(14歳以下は8ユーロ、60歳以上は13ユーロ)。tarif 3は44ユーロ(14歳以下、60歳以上ともに29ユーロ)。1回に20の資料が借りられ、借りられる上限は本が7冊、雑誌3冊、漫画5冊、CD6枚、 VHSやDVDはフィクション、ドキュメンタリーとも2つなどとなっている。貸し出し期間は3週間(但し、語学ものは4週間)で、予約がなければさらに3 週間は借りられる。月曜は休みだが、週末もやっていて夜の6時(木曜だけ8時)まで開いているのでありがたい。この中央図書館とも言うべき所のほかに、3 つの図書館がそれぞれの地域に散らばってあるようだ。









mardi 14 avril 2015

イブン・ルシュド Averroès -- Ibn Rushd de Cordoue

14 avril 2008

先月、長い空白の後に再会を果たしたSu氏のメールで知ることになった。日本のテレビでこの方が紹介されたとのこと。私の瞑想の対象に、というご配慮だろうか。この絵を見ると、日本にも多くのそっくりさんがいそうなお顔である。

イブン・ルシュド Ibn Rushd de Cordoue 
(latinisé en Averroès; né en 1126, à Cordoue en Andalousie - 10 décembre 1198, à Marrakech)

彼が生れたコルドバがフランス語ではコルドゥー(Cordoue)となることを知る。何度か触れてい るが、この落差が私にとっては外国語学習の一つの魅力になっている。時代を遡ると精神に枠ができあがっていない人間によく出会うが、この方も例外ではない。哲学者にしてイスラム神学者、法律家にして数学者、そして医学をものしたpolymath。若き日の教育は、コーランの暗誦、文法、詩、算術、文章術から始まり、宗教教育を受けた後に科学、哲学へと進む。科学では、物理学、天文学、医学。1166年、彼が40歳の時、その後30年にも及ぶことになるア リストテレスの作品に注釈を加える仕事に取り掛かる。中世における最も忠実なアリストテレス学者。

医学の面では、自ら手を下すことはな かったようだが解剖を推奨し、性的機能不全を見出しその治療に当たっている。また、パーキンソン病や視覚における網膜の役割を想定していた。さらに、宗教と哲学は相対するものではなく、真理へ至る異なる道だと考えており、われわれの精神は個人特有な部分とすべての人に共通する神性な部分の二つからなると信じていたようである。やがて彼の開かれた精神、論理的な思考がイスラム教の正統派を苛立たせ、異端(hérétique)として排斥され、彼の書籍は焚書に付される。1197年にはアンダルシアのユダヤ人の住む小さな町Lucenaで暮らした後、翌年にはモロッコで名誉は回復される。しかし、再びアンダルシアの地を踏むことなく、その年の冬にマラケシュで亡くなっている。

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Averroïsme
Al-Andalus





lundi 13 avril 2015

「水の記憶」 の科学者たち La mémoire de l'eau : Hahnemann, Benveniste, Montagnier

13 avril 2008

この週末、久しぶりにゆっくりしたのか、第三者の目で部屋を眺めると、足の踏み場もないくらい本や資料が散らばっていることに気付く。横に寝ていた本を縦に立てることでかなりのスペースができたので、少しすっきりした。こちらに来てから仕入れたそれらの本の数をざっと数えてみたところ、200冊程に なっている。もちろん、目を通している方が少ないのだが、どうしてこんなに手に入れていたのかわからない。おそらく、どうしてよいのかわからないために、 とにかく何でもよいから読んでおきたいとでも思っていたようである。日本ではこんなことはなかったので驚いている。バルテュスの「わたしは常に格闘してきました。それはどうすればよいのかわからなかったからです」という言葉を一瞬思い出していた。

ところで、その中にあった本を読んでいる時に以前から不思議に思っていた疑問に一つの答えが与えられたような気がするところに出くわした。その疑問とは、「記憶する水」 (2007-07-14) と題してハンモックでも取り上げたことのある現象を見出すに至った精神の運動についてである。簡単に振り返ってみたい。

  ジャック・バンヴェニスト Jacques Benveniste (12 mars 1935 - 3 octobre 2004)

このフランスの免疫学者は次のような実験をした。アレルギーを起こす元になる抗体 (IgE) を含む血清をどんどん薄めていき、その中に抗体の一分子も含まないところまでもっていく。その上でこの希釈された血清を用いてアレルギー反応が起こるかどうか調べたところ、彼の手によると反応が見られたとして、1988年に雑誌 Nature に発表した。マスコミは、この現象を水には記憶する力があるとしてセンセーションを巻き起こしたが、その後の公開実験などで再現性は見られず、バンヴェニ スト事件として記憶に留められている。

この話をパリを訪れた時に友人MDから聞いた時に、うまく説明できないが不思議な気分が私を襲っていた。こういう実験は偶然驚くべき事実を見つけたというよりは、最初に水には記憶があるはずだという想定のもとにこのような実験をやったとしか考えられな かったからだ。つまり、彼がなぜそのような考えを抱くに至ったのかに強い興味が湧いていたのである。

今回、医学思想史の本(Maurice Tubiana "Histoire de la pensée médicale")を読んでいる時に、18世紀に新しい考えを実践したドイツ人医師に関する記述が出てきて、思わず膝を叩いた。
  
  Samuel Hahnemann (10 avril 1755 à Meissen, Allemagne - 1843 à Paris)

すでにご存知の方も多い領域だとは思うが、私はこれまでよく考えることもなく避けてきたところである。陶器の名産地で絵付師の息子として生れたサミュエル・ ハーネマンが考えたホメオパシーという療法。一般の治療がアロパシーと言われ、ある症状を抑えるにはそれに抗するもので対処する(熱を下げるには解熱剤な ど)のに対して、ホメオパシーは"loi de similitude"という考え方を用いる。つまり、健康な人に症状を起こす物質こそ病気を治すのに使えるというものであるが、その毒とも言える物質の濃度を極端に薄め、出来上がった液体の中に毒が1分子も含まれないという条件のもとに・・・という件を読んだ時、これはまさにバンヴェニストがやったことと同じだとわかる。彼のアイディアはヨーロッパに根付いているハーネマンの思想に基づいていたのである。ホメオパシーがどの程度の科学的根拠を持っているのかわからないが、リブレリーに行きその方向に足を伸ばしてみると関連の本で溢れている。信奉者が多いのかもしれない。

この話はそこで終らなかった。先日、近くの図書館に行き新聞・雑誌の切り抜きファイルを何気なく捲っていた時のこと、エイズウイルスの発見者として有名なリュック・モンタニエ(Luc Montagnier)氏 のインタビュー記事が目に入ったので早速読んでみた。その中で、彼がバンヴェニストの「水の記憶」の仕事を再検討しようとしていることを知る。最近彼は 「水の記憶」の仮説だけが説明できる現象を見つけたとして、この現象を否定するところから入っていくと何も起こらないだろう、むしろその存在を厳密に確かめる態度が必要なのではないかと語っている。病を持つ人がいる時に、現在説明ができないからといってそれを退けてしまってよいのか、という態度だろうか。 さらに、細菌やウイルスの間でも「水の記憶」と同様に電磁波による情報交換が行われているのではないかと推測している。この生物学と物理学の交差するところに新しい分野があるのではないかと考えている。そして、この点に焦点を合わせた新しい概念に基づく研究所の設立を考えていて、中国やイタリアは興味を示 しているがフランスはまだのようだ。

彼の新著”Les combats de la vie”(生命の戦い)の中では、この話をカール・セーガンのこの言葉で締めくくっている。

  “Absence of evidence is not evidence of absence” (Carl Sagan)


この話を読んで、晩年にビタミンCによるがん治療を唱えて正統派の科学者としては晩節を汚したと見られているライナス・ポーリングを思い出したが、彼の場合はどのようなことになるのだろうか。この研究の行方を見守りたい。

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(14 avril 2008)

モンタニエ氏によると、フランスでは5人に一人がこの療法の信奉者(adepte)で、ホメオパシーの医師(médecin homéopathe)が1万8千人もいるとのこと。日本との違いを思い知らされる。





dimanche 12 avril 2015

久しぶりの週末 Un véritable week-end ou presque

12 avril 2008
街路樹にも緑が戻り 街行く人の歩みにも春を感じるようになった

大学の教室にも 休みを前にした期待が溢れているようにみえる

空ゆく雲も 穏やかな姿を見せ始めている


久しぶりに 張り詰めていたものを緩めてみては、、

そんな声が聞こえるかのような週末 ・・・






samedi 11 avril 2015

霧が晴れるランデブー、そして新たな展開 Un rendez-vous intéressant et de nouveaux développements

11 avril 2008

メモワールのことやこの分野についての感触を得るためにランデブーをお願いしていた方がいるが、お互いの都合が合わず実現しなかった。指導教授から会うこ とを勧められていた方で、ここの大学で学位をとった後リヨンで職についているので、タイミングを合わせるのが難しかったのだ。今回セミナーのためパリを訪 れたので、やっと実現に至った。

自己紹介もそこそこに、私の考えていることを話し始める。実は、すでに書いているように、 M1の論文としては余り狭い領域に絞らず、全体を俯瞰するようなやり方がよいのではないかと指導教授に言われていたので、その方針で計画を書き直してい た。ところが少し拡がりすぎて収拾がつかなくなり困っていたところだった。例えば、歴史を辿ってみてみたいと話した時に、それは一体古代なのか、18世紀なのか、現代なのかと彼女に問われて、初めて焦点が絞られていないことがわかる。漠然としていた場合、膨大な仕事になりますよ、ということである。あるいは、ある現象に前・中・後があり、自分はその全体の概念に興味があるという話をすると、私の話す内容を聞いていて、あなたの興味は概念ではなく後に当たるところではないですかと指摘され、それまでぼんやりしていた頭の中がすっきりと晴れ上がるのを感じる瞬間もあった。さらに、基礎文献やそれぞれの哲学者の 特徴(その難易も含めて)、これから実際に会った方がよい人などを紹介されたりと、非常に実り多いランデブーとなった。

さらにもう一つ、 私にとっては有難いニュースが入った。先日、メモワールを5月中旬までに仕上げなければならないと書いたが、それを9月まで延ばすことが可能だというのだ。取り上げる問題についてもう少しじっくり読み、考える時間が与えられたことになる。これで長い夏休みをある緊張感を持って過ごすことができそうだ。今の私にとっては非常に嬉しいシステムで、天の恵みと言ってもよいほどのニュースであった。

しかしこれが人生だろう。そう旨い話ばかりではない。それと相前後して、他のクールのvalidationの情報が入ってきた。必修が4クールのうち3つがミニメモワールだと思っていたのだが、実際には2つ。それで喜ぶのは少し早く、他の2つの最終試験は口頭試問だという。これは先日の筆記試験とともに全く初めての経験になる。しかもそのうちの一つがどのように行われるかを確かめたところ、クールで使われたA4で150ページほどの資料をもとに先生が問題を出し、それについて15分程度で準備して15分ほどエクスポゼをした後、先生との質疑応答になるようだ。

これはミニメモワールよりもある意味では大変かもしれない。自分の興味ではなく、相手に合わせなければならなくなるからだ。同時に、これがフランスのやり方なのかという思いで聞いていた。これはまさに、DALFの口頭試問と同じである。違いは、DALFの場合には問題が出される資料を見ることができるが、こちらはそれを予め頭に入れていかなければならないというところだろう。いずれにしても、夏休みまでの道は遠そうだ。





vendredi 10 avril 2015

ある日のフランス語クール Au cours de français langue étrangère

10 avril 2008

先日のフランス語のクールでのこと。フランス人は想像力が乏しいので(もちろん自虐的な意味合いを含めているのだろうが)、発音をしっかりしないと全く通 じませんよ、と先生。ある学生がエクスポゼでトルコ人がドイツで殺された事件について触れた時、トルコ人をトゥークと英語風に発音していたのに対しての言葉。私もそうなりがちだが、Turcはテュルクでなければ通じないですよとの注意。

その後、学生から出た質問(コメントか)がこの事件と「ドイツの」資本主義との関係を指摘したものだったので少々荒れる。それに対する方は、なぜドイツと特定するのか、どこの国の資本主義とも変わらな いのでは、ということだろう。ドイツの学生はなぜか顔を赤らめ困ったような顔をしていたが、、先生が少ししてから間に入った。もし日本からの若い人がいて、中国の学生が「日本の」帝国主義が、、、などという話を始めたらどのような反応をするのだろうか。残念ながら、私の取っているクールには中国人はいるものの日本人はいない。


以下に、クールで出ていた表現をいくつか。

日本では使ったことも習ったこともなかった対比"opposition"や差異"différence"を表す"si"や"autant... autant...."の使い方が面白かった。

"si"については、仮定や否定疑問文に対する肯定の答え、"si bien que"のような結果の使い方は皆さん馴染みがあるようだが、これは意外に盲点ではないだろうか。"si"の節と後の節との間に因果関係がないのである。例えば、ルソーはこう言っている。

 " Si la vie et la mort de Socrate sont d'un sage, la vie et la mort de Jésus son d'un Dieu. "
  (ソクラテスにとっての生と死は智慧から来るが、キリストの生と死は神のものである)

一方の"autant ...autant...." はこのようになる。

 " Autant il est charmant avec elle, autant il est désagréable avec nous. "
  (彼は彼女に対しては優しいのに、われわれに対しては感じが悪い)

学生の皆さんも"autant que"と口を滑らすことがしばしば。すぐに先生の鞭が飛んできた。それからそれほど珍しくはないと思うが、出ていた口語表現を。

 ● C'est pas sorcier. = C'est pas difficile.

 ● faire gaffe à qqch = faire attention à qqch

 ● faire une gaffe = gaffer = mettre les pieds dans le plat (へまをやらかす)
   上と同じgaffeだが、全く違う意味になる。
    gaffe = action, parole maladroite
    へまをやらかす人 = gaffeur, gaffeuse
   
 ● casser les pieds à qqn = ennuyer qqn (誰かを煩わす)

そして最後にモンテーニュの次の言葉が出ていた。

  " Les voyages forment la jeunesse. "

旅に関するモンテーニュの言葉で気がついたものをいくつか。

   " Je réponds ordinairement à ceux qui me demandent raison de mes voyages que je sais bien ce que je fuis, et non pas ce que je cherche. "

  " L'homme fait le voyage, le voyage fait l'homme. "

  " Il faut voyager pour frotter et limer sa cervelle contre celle d'autrui. "


  あと1週間ほどで2週間の春休みである。





jeudi 9 avril 2015

ボールペンから万年筆へ Du stylo à bille au stylo à cartouche

9 avril 2008

日本ではその辺にあるボールペンですべてを処理し、どうしても万年筆を使う気にはならなかった。しかし,、こちらではボールペンを使う気にはならず、クールのメモも含めてすべてを万年筆で処理している。もちろん、来た当初はボールペンを使っていたが、ひと月くらい経った時だろうか。なぜか落ち着かなくなってき たのだ。心がしっとりこないとでも言うのだろうか。今ではボールペンに戻ることは考えられない心境になっている。私を取り巻くすべての要素がそうさせたのかもしれない。コンビニや文房具店で売っていた4ユーロと15ユーロの品だが、次第に愛着が湧いてきている。

mercredi 8 avril 2015

4月の雪、あるいは鬼束ちひろ La neige en avril ou Chihiro Onitsuka

8 avril 2008

4月に入っているというのに、とにかく寒い。2月のあのほんのりした穏やかさはどこに行ったのだろうか。そう思っていたところ、今朝の出掛けに雪が降ったことを確認。陰になった芝生や車の上に残っている。こういう時にはなぜか鬼束ちひろの歌を聞きながら歩きたくなる。

2006 年の年の瀬、パリに来てこれからのことを模索していたことがある。その時、厳寒のパリの街を彷徨いながら、彼女の張り詰めた歌を聞いていたのが体に染み付いているのだろうか。そのCDを手に入れた時には全くピンとこなかったのだが、あの年の瀬の記憶が何かを変えてくれたようだ。この寒さとこれからどこかに乗り出すのだという精神状態が結びついた今朝、彼女のことを思い出した。





mardi 7 avril 2015

ハンモックの思想、あるいはピエール・アドーとゲーテ La pensée dans le Hamac ou Pierre Hadot et Goethe

7 avril 2008
 

研究所の帰り、散策をしてみたくなり、散策の後にはカフェに足を伸ばしたくなっていた。束の間の解放感が確かにそこにある。その後、リブレリーを覗く。新しいものなど今は読む気もしないのに。しかし中に入ると何かないかと探している目があるのを確認する。そこに飛び込んできたのがこの本であった。

  Pierre Hadot : N'oublie pas de vivre : Goethe et la tradition antique des exercices spirituels 

御年86、ピエール・アドーさんの「生きること忘れるなかれ」である。副題にゲーテがあったので、今はそれどころではないとは思いつつ手に取っていた。実は2006年の暮れ、こちらに様子を見に来た時に彼の本 La Philosophie comme manière de vivre 『生き方としての哲学』に触れ、その中にある言葉に心が震えたことがあるからだ。その言葉はハンモックにも書いている。

副題にあるもう一つのキーワード "exercice spirituel" という言葉。霊性を伴った精神の活動とか働かせ方というニュアンスだろうか。これは私がフランスの哲学者などが書く文章を読みながら浮かんだ言葉、「精神運動」とも通じるものがあり、興味を持ったということもあるのだろう。この言葉は、Louis Gernet (1882-1962)、Georges Friedmann (1902–1977) や昨年94歳で亡くなったJean-Pierre Vernant (1914-2007) らがすでに使っているという。ヴェルナンさんについても3年前にハンモックに書いている。

この言葉には宗教的な含みはなく、知性、想像、意志による活動で、それによって世界の見方の変更を迫り、自らを変えることになるもの。つまり、知を得るためのものではなく、自らを築き上げる活動を意味している。この "s'informer" と "se former" の間の大きな違いに彼との最初の出会いで気付き、それをはっきりと理解できたことが、その後につながる大きな理由になっている。その意味では、彼には借りがあるということになる。この精神のあり方が古代には生き生きとしてあり、それがゲーテの中にも見られるというのだ。そのあり方はこう言い換えることもできるだろう。

  "la concentration sur l'instant présent, qui permet de vivre intensément chaque moment de l'existence sans se laisser distraire par le poids du passé ou le mirage de l'avenir"
  (過去の重みや未来の幻影に惑わされることなく、存在の一瞬一瞬を激しく生きることを可能にする現在という瞬間への集中)

さらに、私の状態を説明するのに日頃使っている表現 "le regard d'en haut" (上からの視点)が出てくる。それは今そこにあるものや出来事から距離をとり、より広い立場から見ようと自らに迫ることである。さらにさらにである。ゲーテが変わることなく持ち続けたという "l'émerveillement devant la vie et l'existence" (人生や存在を前にして感嘆する心)。そこにはゲーテの人生への深い愛があり、"Memento mori" (N'oublie pas le mourir) ではなく、スピノザに霊感を得た "Memento vivere" (Gedenke zu leben / N'oublie pas de vivre) を見るという。畳み掛けるようにこのような言葉が入ってきて、気が付いた時には出たばかりのその本を手に入れていた。こういうつながりでゲーテにも大きな興味が湧くことになる。この世には汲み尽くせぬものがあるということだろう。アドーさんにはまた借りが増えることになるのかもしれない。

一夜明けたブランチの時、ハンモックでの活動により、ひょっとするとある思想が出来上がっていたのではないか、そして時に確認しながらその思想を実践しているのが今の生活ではないのか、という思いが浮かんでいた。AVFPを読み返す気にならないのは、その歩みが進行中であり、まだ何も特徴付けるものがそこにはないという証かもしれない。不思議な感覚が訪れた日曜の朝となった。


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(10 mai 2015)

この記事にある 「いまへの集中」 という考え方は、わたしの中にもあるものだ

そうであるからこそ、反応したのだろう

この考え方について、エッセイなどで公表したことがある

その時に頂いた反応の中に、禅の思想に近いものを見たというのがあった

最近、禅語の中に 「即今 当処 自己」 という言葉があることを知った

「今この瞬間、今いる処、そこに自己を打ち込む」

 そんな意味だという

東西に通じる真実があるということだろうか

ただ、どちらの言葉でその真実に気付くのかは、人それぞれになるのだろうか

その思想がどのように噛み砕かれ、肉付けされているのか

その様と受け取る側の感受性が、結果を決めるのだろう

わたしの場合、西からの声に強く反応したことになる

「それは言葉では説明できない」 というところに逃れがちな東の思想

言葉以外では理解し合えないとでも言うかのように、言葉を尽くそうとする西の思想

そのあたりが関係しているのだろうか

これからも注意していきたい点になる







lundi 6 avril 2015

パリ管の40年 L'Orchestre de Paris a 40 ans

6 avril 2008

学生時代に知った通称パリ管。その定期会員募集のポスターがメトロで目に付いた。今までであれば目もくれなかったであろうポスターだが、試験後の解放感からかそのサイトを覗いてみた。パリ管ことパリ管弦楽団 (Orchestre de Paris) は1967年に創立されているので、2007-2008年は創立40周年のシーズンになる。興味深い映像があるので、いくつか紹介してみたい。

創立時の興奮が伝わる1967年の映像には、フルートのミシェル・デボスト(Michel Debost, 1934-) のオーディション風景があったり、初代の主席指揮者になったシャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891-1968)のインタビューと初回のリハーサルから燃え盛るような (解説には totalement enflammé とある) その指揮振りが出てくる。インタビューで、以前にボストンで仕事をされていましたが、と聞かれた彼は、日本人であれば胸でも張るところだろうが、「ええ、15年もいましたよ」と何ともいえない様子で答えている。そしてフランスの音色について熱く語っている。彼が亡くなる1年前の76歳の時の貴重な映像である。彼の語る生の声を捉えることができるようになった今、急に近い存在に感じ始めるから言葉の力は恐ろしい。

  Munch et la création de l'Orchestre de Paris (17/11/1967)

それからこれも懐かしいカール・ベーム(Karl Böhm)によるドボルジャークの新世界のリハーサル風景がある。こちらもどういうわけかベームが亡くなる1年前の86歳の時のもの。ここにもミシェル・ドゥボストがインタビューに答える姿が出てくる。このような形で直接の声を聞くことになるとは、これもフランス語のお陰だろう。そしてベームのフランス語が何ともかわいらしく聞こえてくる。

  Karl Böhm répète la Symphonie du Nouveau Monde
  Répétition de l'Orchestre de Paris (13/03/1980)
  
もう一つは、ミュンシュの後を継いで音楽顧問を務めた当時63歳のベルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908-1989)が今主席指揮者になっているクリストフ・エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach, 1940-)と演奏している姿が見られる。よもやあのような変身を遂げるとは予想もできなかった若き日のエッシェンバッハの映像である。

  Concerto pour trois pianos de Mozart  (25/12/1972)






dimanche 5 avril 2015

最後の最後、あるいは電動歯ブラシ Le dernier moment de ma vie, ou brosse à dents électrique

5 avril 2008

筆記試験が終わり、これからは後期の最終日5月中旬を目指してメモワール(約50ページ)と3つのミニメモワール(各10-20ページ)を仕上げなければならない。朝の天気がよかったせいか、もう体当たりで行くしかないという吹っ切れた気分でクールに向かった。その後は4ヶ月にもなろうかという夏休みが待っている。自らそういう餌を目の前に置く余裕も少し出てきているようだ。

金曜のクールは中休みが必ず入るので、外の回廊に出て向かいのユーゴーとパスツールに視線を投げた後、建物に囲まれている空を眺めるのが最高の気分転換になっている。後ろから先日のフランス語のクールで見かけたと言って、男女の学生が追いかけてきた。イタリアとブラジルから法科に留学しているという。その時はエクスポゼがあり、私がいくつか質問をしたために覚えていたのかもしれない。一体どういう人なのか、という興味だろう。話をしていて、ひょっとして彼らは私を20歳近く(少なくとも10歳は)若く見ているのではないかという疑念が浮かんでいた。日本ではそういうことはありえないのだが、、。若く見られるのがよいとは限らないが、私の場合は精神年齢と相関がありそうである。こちらで勉強しているうちに、少しは深い顔になることを願うばかりである。

先日、ある逆回しの映像が浮かんできた。それは引き出しに入っていたものを床に投げ捨てるという映像で、それが逆に回って終るのである。とにかく何かよくわからずにいろいろなものを食い散らかして進んでいたのだが、最後にそれらすべてが引き出しに戻るという図である。言い換えると、未熟のまま、意味を掴もうとするのではなく、いろいろなものの中に身を置き感じ考えていくが、最後の最後にそれまでやってきたものが一点に集まり、すべての意味が一気に明らかになるというシークエンスである。そういう歩みをしたいという思いがどこかにあるのだろうか、ある朝この映像が現れた。


ところで先日見てもらった歯の方であるが、昨日虫歯を抜いてもらった。この間、歯を磨くのに使おうと思ったこともない電動歯ブラシなるものを勧められ試していたが、私にとっては革命的な品であった。それまで私の中にあった歯を磨くという行為が、単なる儀式に過ぎないことが明らかになったからだ。言い換えると歯を磨いていなかったことになる。未だの方は一度試してみる価値があるのではないだろうか。これも何を今更、の範疇に入るとは思われるが、、。これから先の方針はまだ告げられていないが、ひょっとすると相当にお高い治療になるような予感がしている。






samedi 4 avril 2015

雲の名前、そしてカンギレム Le nom des nuages et Georges Canguilhem

4 avril 2008

フランス語の達人でもご存じないフランス語に溢れていると思い、上に掲げてみた。

お忙しい方がこれを機会に空に目をやる余裕が生れることも願いながら・・・

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喉に引っ掛かっていた筆記試験が終った。気分が晴れたせいか、これまでとは違う経路で帰路についた。メトロを降りて歩き始めると道の外に飛び出したカフェでワインとおつまみを横にして一心に本を読んでいる中年の紳士が目に入った。歩を進めたが、その佇まいに何とも言えない雰囲気があったのでそのカフェに戻り、そこに入ることにした。空いている席が丁度その方の横になった。しばらくして、少し前のクールで聞いて理解できなかったフレーズがなぜか思い出された。そのフレーズは

   「フランスの哲学者カンギレムにとって、デカルトはしばしば(・・・)であった」

というもの。そこに入っていたのが "tête de Turc" である。そこで、その意味を横の紳士に聞いてみることにした。そこからフランス哲学談義でも始まるのではないかという期待もあったかもしれない。しかし、いくら言っても話が通じないのである。途中から英語になり、彼がイギリス人であることが判明。もともとはケンブリッジ大学で遺伝学の研究をやっていたが、途中から役人になり今はOECDで働いているという。スタッフの中にはやる気満々の日本人2人(農水省と経産省から派遣されている)もいる国際的なチームを率いているとのこと。私がこれまでの経過を話し始めるとすぐに、その話はよくわかるというように何度も頷いた。彼がこれまでに一番幸せに感じたのはもう20年前のこと。分子生物学のような機械的なことをやる意味を教授に質問した時に回答に困った教授がそれならお前がその意味について講義せよとのことになり、哲学の歴史を振り返り科学との関連について考えを巡らせていた時だという。

本題に戻ると "tête de Turc" は "être en butte aux plaisanteries, aux railleries de qqn" ということで、「誰かの冷やかしや揶揄の対象になる」の意味らしい。心身二元論のデカルトが人間を全的に捉えようとするカンギレムに皮肉っぽく書かれてもしようがないということだろうか。カンギレムの文章に対するコメントとしては奥ゆかしい表現だなと思いながらそのクールを思い出していた。





vendredi 3 avril 2015

滞在許可証、あるいは雲 La carte de séjour ou les nuages

3 avril 2008

昨年の9月に3ヶ月有効の学生ビザでこちらに来た。これをこちらの滞在許可証に変更しなければならないため郡庁(sous-préfecture: 区役所のようなところか)に行ったが、3-4ヶ月先まで予約が一杯で変更手続ができないのでそれを今年の1月まで延長してくれた。そしてこの1月にレセピセ (récépissé) という仮の書類をもらって帰ってきた。こちらも有効期間が3ヶ月。気が付くとあと数日で期限切れである。当局から連絡が入るとばかり思っていたが、噂通り全く連絡がなかった。

昨日の朝9時半、正式の許可証をもらうためにその郡庁に出かける。すでに90人くらいが私の前に来ている。2時間ほど様子を見たところ1時間に10人のペース。100人以上は来るというのに窓口は一つしか開いていない。これはたまらないというので、街の散策に出かけた。1時間ほど歩いて本屋に入ると、雲鑑賞協会 (The Cloud Appreciation Society) を始めたイギリス人の Gavin Pretor-Pinney さんの本が目に入る。こちらでは発売されたばかりである。

  Le guide du chasseur de nuages> (原題: The Cloudspotter's Guide

日本でもすでに訳されていて、「『雲』の楽しみ方」となっている。どのように受け止められているのだろうか。

私が雲を眺める楽しみを初めて知ったのは、僅か3年ほど前のこと。それ以前にも雲を見て美しいとは思ったことは幾度となくあるが、それを積極的楽しみにすることはなかった。3年ほど前のことははっきりと覚えている。丁度フランスに一月ほど滞在した後ロンドンに渡り、そこから学会のあるケンブリッジに向かう電車の中のこと。ぼんやりと空を眺めている時にその美しさに目が覚めたのだ。それ以来、雲を見ることが無上の喜びをもたらしてくれることを知る。この本にも bonheur という言葉が出てくるが、私の心の状態を表現するのにもってこいの言葉のようだ。今では空を見るとそこにお前がいるなという感じになっている。何時間見ていても尽きせぬものがそこにある。日本では余り見なかった飛行機雲もパリでは頻繁に見ることができ、楽しみの一つになっている。

この本のイントロには次の言葉があるが、全く同感である。

  "Rien ne peut rivaliser avec leur sublime et éphémère beauté"
   (その崇高で移ろいゆく美に比肩するものはない)


夢の世界から現実に戻り、再び郡庁に向かう。さすがに窓口が2つになっていたが、まだ10人ほど残っている。順番が回ってきたので話を聞いたところ、健康診断をする必要があるのでそちらの方に連絡をしておきます、今回はさらに3ヶ月の延長をしましょうとの返答。僅か30秒で終ってしまった。4時半のこと。これから健康診断をするところから連絡が入るので、それを待って健康診断をし、再度本物の滞在許可証の申請に行くという手順になりそうである。ひょっとすると、最後まで仮の滞在許可証ということも無きにしも非ずかな、という思いで夜のクールに向かった。





jeudi 2 avril 2015

初めての筆記試験 Le premier examen écrit

2 avril 2008

(4 avril 1876 - 11 octobre 1958)


初めての筆記試験が迫っている。このところ初めて続きである。前期にはなかった筆記試験になるが、2時間という時間の中でやらなければならないのでフランス語の蓄えが試されることになる。以前に書いたかもしれないが、私のフランス語の書き方、というよりも作り方はフランス語らしく見えるように言葉をブロックのように積み立ていくというもので、その過程で言葉の選択から全体の形の参照に至るまで時間を要するのである。自分の中に蓄えがないのでそうならざるを得ないのだ。

しかも今回の対象は、科学哲学の純粋に知的な部分と言ってもよい論理学の基礎や科学的説明についてである。想像だとか 夢だとか人間臭さとか心に触れる部分が全くない、純粋に頭だけの作業になる。味気なく、余り好きではない領域になるだろうか。私としてはもっと人間に働 きかけてくる領域の方に興味あるのだが、マスターの学生としては致し方ない。

本来であれば関連の本を通読するのがよいのだろうが、実際にはそこまで行っていない。いつものように計画は頭に浮かぶのだが、その気になかなかならないという困った状態が続いている。今回は、これまでのノートを読 みながらそこにある論理を浮かび上がらせ、それを補強するために関連の本を読むということにならざるを得ない。しかし、さっぱり捗っていない。思い出してみると、学生時代から試験が迫ると全く関係のない本を無性に読みたくなり、それを実行していたが、今まさにそれを繰り返している。

こちらに来てからは、哲学とは言いながら知識の吸収に終始している状態が続いている。確かに哲学研究者を育てるにはこれしかないのだろうが、少し物足りない。それに時間が足りない。このように追われるようにやっていてもなかなか満足がいかないのである。もっと時間を使って読み込んでみたい人も出てきている。そう いう時にはいつもM1をもう一年やろうかという誘惑が顔を出す。