vendredi 29 février 2008

いよいよ本格的に



週末を迎える気分は何とも言えないものがある。今日は、今週最後で今月最後のクールが11時から2時間あった。これは現代哲学のクールで、前期もそうだったが人気がある。いつも床や窓の出っ張りに坐っている学生がいるので登録している人は50を超えているのではないかと思われる。講師の先生はおそらく40代のエネルギッシュな女性で、女性問題や人種差別などの問題にも積極的に発言している方のようである。という訳で、最後まで突っ走る。久しぶりに椅子に足を掛けて講義をする女性を見た。元気が出るクールと言ってもよいだろう。

昨日のクールもそうだったが、もう後期をどのようにまとめるのか、という話が出ていた。昨日のクールは4月早々に中間の筆記試験をやるとのことであった。こちらの最終試験は口頭試問という話も出ていた。じっくり時間を掛けてやるミニ・メモワールの方が自分には向いているのだが、、、。いずれにせよ、いよいよ本格的な学生生活の幕開け、という印象である。先生の年齢と話す速度、厳しさにはある相関関係がありそうである。



jeudi 28 février 2008

知のあり方


Pr. Anne Fagot-Largeault
(Collège de France)


あるクールを聞きながら、知のあり方などということを考えていた。海外に出てみると、とにかく人間の可能性の幅が広いことに驚かされる。それは20年以上前のアメリカでの生活の一つの結論でもあったが、今その経験を別の角度から広め深めているかのように感じている。少なくとも、そうありたいと願っていることだけは間違いがない。

今この世にある人だけではなく、歴史に少しでも足を踏み入れただけで、これほどまでにいろいろな頭の使い方があるというダイナミズムに感心したり、時にはそれぞれの微妙な差を辿り直さなければならなくなったりする。どんなところに力を入れてものを観るのか、本当に人さまざまである。私の営みには単にいろいろな事実を知るという喜びだけではなく、それ以上に人間というものの凄さを体感しながらその思考の跡を自らも歩んでみるという醍醐味が溢れているような気がする。そこに尽きることのない魅力がある。

進化の光の下でものを観なければ生物の真の理解はできないという言葉がある。その生物という言葉を人間に置き換えてみると、歴史の視点を持たなければ人間の真の理解はできないということになる。そこには真理があると考えたい。そしてこのことを本当に理解しているかどうかで、その人間やその人間の属する社会の価値が決まってくるような気がしている。


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今日の休憩時間のこと。隣の教室から男子学生が飛び出してきて、まずゴミ箱を、それから廊下に備え付けられていた消火器を思いっきり蹴り上げ、両手を挙げ大きな叫び声を発しながら階段を駆け下りていくという出来事があった。事の詳細はわからない。


今日の講義時間中には大学事務の方が数人 (消防署の人?) を連れて入ってきた。木の枠に歪んだガラスの入った窓の閉まり具合などをチェックし、取っ手の辺りの写真を撮っていたようだが、事の詳細はわからない。



mercredi 27 février 2008

久しぶりに



今日は久しぶりに外に出たことになる。午後から研究所へ。これからの仕事に関連する資料に目を通す。その度に思うのは、なぜ普段から頭を働かせていないのかという疑問であり、少しは前に進めたらどうなのかという苛立ちでもある。もう旅行者は卒業したはずなのだが。

科学関係の論文のコピーを頼みにカウンターに行く。受付の方が親切で、カウンターの中に来て論文を自分で選んでやってみたら、というのでトライしてみた。ここは一枚20サンチームとのことなので両面印刷をしようとしたのだが、いつもの場所にそれが見つからない。彼女がやっても駄目。ということで片面になってしまった。学生の身、料金がかさむので困っていたが、片目を瞑って計算してくださいね、と言ってみたところ、彼女が大きな声で笑い出し、結局両目を瞑ってくれた。明日以降に両面印刷をすることにした。

閉館間際、同じ建物でやっていた会議が終わり見かけたので来てみたと言って、いつもお世話になっているMD氏が寄ってくれ、来月の記念行事の案内を渡してくれた。丁度都合がよかったので、先日ある方との会話の中で私が "La culture fraçaise me galvanise" と言ったところ、その方が噴き出していたのは一体どうしてだろうかと聞いてみた。それは (お前さん、とは言っていないが) 少々表現が強過ぎるのでは、との含み笑いを伴ったコメントが返ってきた。皆様、お気を付け下さい。

夕方郵便局に寄り、30分ほど待ってやっと guichet に辿り着く。いざ切手を注文すると生憎ありませんと言う。やはりフランスなのだろうか。



mardi 26 février 2008

雨の日は



今日は曇りで雨交じり。
読んでいるうちに時間が経っていた。
とにかく時間の流れが速いという、こちらに来てからの感想を確認していた。


朝のうちは La philosophie des sciences au XXe siècle (20世紀の科学哲学) という専門の本をざっーと流していた。前期に講義を聞いたアヌーク・バルベルス (Anouk Barberousse) さんも書いていて、現在私が興味を持っている点について詳しく書かれている。これからじっくり読みたいものになった。

それから Penser la médecine (医学を考える) という医学を哲学的に扱っているアンソロジーに移り、その最初のエッセーの最初のページに出てきた "une personne souffrante ....., destinée à mourir." (死の運命にある...病める人) という文章に出会った時、死を前提にして考える哲学者はある意味では病める人ではないか、という思いに至る。それは不健康と言うよりは、その意識でいると日々が生き生きしてくるという逆説が含まれているように感じていた。

また、トマス・マンの 「魔の山」 (Der Zauberberg : La Montagne magique : The Magic Mountain) が出てくる。小説はどうしてもいずれになり、まだ読んでいないが、この本では病気との関連のみならず、多くの哲学的主題に溢れているようだ。いずれ本当に読んでみたいと思わせるものがあった。若い時に読んでいれば、その時との比較ができてさらに面白いのだろうが、、。

ということで、相変わらず興味が一所に留まらない一日となった。



lundi 25 février 2008

そうは問屋が



数日前からクシャミが出るようになってきた。私の場合は疲れが溜まると風邪を引くことがわかっているので、風邪を引いたら逆に疲れが溜まっているな、と思うようになった。今回もぼんやりとそう思っていたところ、昨日の散策の後、妙に鼻がムズムズするのだ。早々に出した結論を修正しなければならなくなった。この結論を出した背景には、昨年3月にこちらを訪れた時にそれまでの花粉症が治まったという経験があったからだ。併せて考えると、パリでもスギ花粉は飛んでいるが、2月後半から3月中旬くらいの一月足らずの間だけではないか、ということになる。今はこの楽観的な推測が当たってくれることを願うばかりである。

現在、マスター1年目のメモワールの計画を練り直しているところだが、新たにミニメモワールについてのコメントが一つだけ戻ってきた。提出の時にお願いしておいたのだが、すべてについてコメントが戻ってくる可能性は少ないと思っている。学生の多いクールではそんな余裕はないだろうと考えられるためだ。ただ、あと一人の先生は必ずコメントを返してくれるとのことだったので、楽しみにしているところである。と言うのも、今回のコメントも当然のことながらツボを突いていて、自分でも弱いなと思っていたところについて、さらに言及するとより幅が出ますよ、と言うもので、非常にためになると同時になぜか嬉しくなるのだ。

本日はお休みのため、その気持ちのままお昼の散策に出た。いつもの鄙びたセーヌに挨拶をしてから向かったお店が閉まっていたので、歩を進めているうちに本屋に入っていた。目に入ったのは、今年HIVウイルス発見から25周年を迎えるリュック・モンタニエ氏の新刊書 Les combats de la vie : Mieux que guérir, prévenir (Luc Montagnier) 「命の戦い : 治療より予防を」 と、昨日の記事で触れたフランスの17世紀後半の哲学者ピエール・ベール (Pierre Bayle) の名前がその中に見えたアクセル・カーン氏とクリスチャン・ゴダン氏の対談集 L'homme, le bien, le mal (Axel Kahn, Chrisitian Godin) 「人間、善、悪」、さらに哲学関係の本1冊を買って帰って来た。


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dimanche 24 février 2008

スピノザと日本



このところ本当に不思議な繋がりが続いている。この前身であるハンモックは、今もいろいろな方に訪問していただいている。メールも送られてくるがほとんどすべてがジャンクなので、たまに寄せられる貴重なコメントまでも削除しかねない。昨日はそういう日になるところであった。昨年夏にこちらに来て書いたスピノザについての記事に、山石水皮様からの興味深いコメントが寄せられていたからである。


そのコメントにはこう記されていた。

「スピノザは神学・政治論で日本について書いていると聞きました。何からどのようにして日本を知ったのでしょうか。スピノザは江戸日本からどのよ うな影響を受けているのでしょうか。17-18世紀のヨーロッパの変化について関心があり調べています。お分かりでしたらお教え願えれば幸いです。」

スピノザ (Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)

私自身はスピノザに興味を持ってフランスの雑誌記事について触れたのだが、スピノザを読んでいる専門家でもなければ哲学に広く通じているわけでもない。したがって、この疑問には答えられないので、その旨の返事を書いた。そして、その返事を送ろうとする時、指摘されている不思議なつながりに異常な興味が湧いていた。少し調べてみようという気になりネットをサーフすると、上智大学が発行している雑誌に載っている、まさにこの問題をテーマにした論文に行き当たった。ラテン語とその訳としてドイツ語が出てくるフランス語で書かれたこの論文を頼りに、両者の関係を探ってみたい。

Henri Bernard "Spinoza et le Japon"
Monumenta Nipponica, Vol. 6, No. 1/2, pp. 428-431, 1943

スピノザの死後20年にあたる1697年に、彼に敵対していたピエール・ベール Pierre Bayle (18 novembre, 1647 - Rotterdam, 28 décembre, 1706) というフランス百科全書派のさきがけと言ってもよい哲学者が Dictionnaire historique et critique 「歴史と批判精神辞典」 を出版した。この膨大な辞書はネットで読むことができるが、スピノザの項だけでも70ページが割かれている。その中でスピノザを 「古今のヨーロッパや東洋の哲学者の影響を受けているが、全く新しい体系と方法を持つ無神論者」 と規定した上で、中国の哲学、さらには日本の哲学と同一視しているという。

私がざっと目を通したところでも、無神論を構成する要素が中国人の間には一般的に広まっているという指摘があり、別の書の引用がされている。そこには、中国人は世界の至る所に精神が宿っていると考えており、それは星であり、山、河、植物であったりする、という記載もある。

1649年、スピノザ16歳の時にはベルンハルト・ヴァーレン (ラテン名:ベルンハルドゥス・ヴァレニウス) の Descriptio Regni Japoniae という日本伝聞記がアムステルダムから出版されていた。この著者は地理学にも興味を持っていたドイツの医者にして数学者で、仕事の慰みに日本についての情報をハンブルグの政治家などに提供していたという。28歳の若さでこの世を去っている。



Descriptio Regni Japoniae


1663年には、日本に初めて足を踏み入れたというオランダに移住したフランス人 François Caron の "A true description of mighty kingdoms of Japan and Siam" という書も出版され、日本に関する情報には触れることができたであろう。余談だが、この書はあらゆることに興味を持っていたスウェーデンのクリスティーナ女王にも献呈されている。幸いなことに、同志社大学のケーリ文庫で読むことができる。

その上で、この論文の著者アンリ・ベルナール氏は、Tractatus theologico-politicus 「神学・政治論」 で日本に言及されているのは第5章だけで (日本におけるキリスト教の儀式について) 、実際のところ、スピノザの哲学思想が日本の儒教思想に影響された可能性は低いだろうと考えている。

他の論文に当たっていないので科学的な正当性は保証できないが、この方面への第一歩にはなったように感じている。


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思わぬところから歴史への旅をしたことになるが、過去の書に触れる瞬間にはそれがネット上であっても不思議な興奮が襲ってくることを発見していた。山石水皮様には改めて感謝したい。




samedi 23 février 2008

Liguea 様からの再びの便り



2年程前にこのブログの前身であるハンモックの仏版に届いたコメントは、私にとっては衝撃的であった(2006-04-28)。Liguea 様の言葉は、今となってはその後を予言しているようにも感じている。そのコメントの中で、私と関係のある芸術家・哲学者として、ハイデッガー、フッサール、そしてカンディンスキーを上げていた。その意味は未だによくわからないが、ずーっと気になっている人たちである。今日、週末のせいもありのんびりしていたせいか、ハンモックにアクセスのあった記事を読み直していた時、彼からのコメントが届いた一月後にカンディンスキーについて書いたものがあった(2006-05-28)。その中で、カンディンスキーが自らの芸術を生み出す時に、「自分の内から真に湧き出るもの、それだけを頼りに描くこと」 という考えを基にしていたことを知り、自らに重ねているところが見つかった。同様の考えや見方が仏版ハンモックのどこかに顕れていたのだろうか。それを指摘していただいたことで私の目は大きく開かれたように感じている。さらに、昨年こちらに来る前にも心を打つメールをいただいたことも大きな力を与えてくれており(2007-05-27)、いつも感謝の気持ちを込めて難解な文章を読んでいる。


そして再び Liguea 様からメールが届いた。哲学の専門家だけあり、今回も複雑な文体と豊富な語彙が溢れるそのメールには、次のようなことが書かれてあった。
「昨年メールを出してからご無沙汰していましたが、私自身取り込んでおりパソコンに向かう時間もありませんでした。大変失礼いたしました。

今回あなたがフランスに来られたということに深く心を打たれております。もはやフランス人でさえ、このフランスの地に立ってフランス語やフランス文化を学ぼうとするあなたに比する愛情を自らの文化に持っているとは言えないように思います。フランスは今大きく変わろうとしております。そのすべての精神性とは関係のない世界になっています。私は心底フランスには幻滅しております。自らの運命を自らの手で決めることを止めてしまった国には全く魅力を感じません。あなた自身の存在にとって意義のあるフランスから目覚めを得ようとするあなたの試み、それを支える迸り出る生命の躍動と勇気が与えられますよう願っておりま す。

ところで、われわれの道行きが交錯していることにお気付きでしょうか。あなたは科学の世界から科学哲学という抽象的な世界へと向かわれています。つまり、あなたは「存在」の新しい理解につながる最も多様な基盤へと向うために、具象の世界から旅立った人です。あなたの年齢でそのような道に入られることに深い尊敬の念を覚えると同時に、私自身を広い思索に導いてくれます。反対に私の方は、抽象的な場所から現実に戻ることを決めました。ある意味では逃避の世界から具体的なものを作る仕事に就くことになります。それは私の青春時代の夢でもあったのです。私は40歳を前に哲学を辞め、具象の世界に生きる成熟を得たと思っています。

人生は不思議で驚きに溢れています。われわれの道行きの方向は重要ではありません。われわれがどんなに些細なことでも自らの最善を捧げて実現していくというその心の在り様こそ重要なのです。フランスがあなたに捧げてくれる最善のもの、そして私が移住することを決めたスイスが私にもたらしてくれる最善のものを期待したいと思います。

最後になりましたが、もしあなたがフランスに長く滞在されるのであれば、あなたを私の未来の祖国に招待したいと思っております」


ピエール・ベール Pierre Bayle


Pierre Bayle
(près de Pamiers, 18 novembre 1647 - Rotterdam, 28 décembre 1706)


スピノザと日本の関係を調べている時、この方に出会った。百科全書のさきがけとも言える、引用を本文中に囲い込むような記載が現在のハイパーテキストを思わせるという指摘もある彼の Dictionnaire historique et critique (1697) で、スピノザの50ページを超える項に触れてみた。当時の人の仕事を凄さを思い知らされるようであった。

プロテスタントの家に生まれ、父親からギリシャ語、ラテン語を学ぶ。家庭が貧しかったため、兄が学校終えるまでは行けなかった。22歳でトゥールーズのイエズス会の大学に入り、そこでカトリックに改宗。しかし17ヵ月後には再びプロテスタントに改宗、ジュネーブに逃げる。そこでデカルトを学び、神学の勉強に取り掛かる。

数年後にフランスに戻り、ルーアンやパリで家庭教師をしながら執筆を始める。28歳の時にセダンの哲学教授になる。34歳で大学が閉鎖になったが、ロッテルダムの哲学・歴史学の教授で迎えられる。・・・・・

この Dictionnaire はそれまでの辞書の誤りを正すのが目的だったようだ。彼は、この世界が単純な善悪二元論 manichéisme には決して還元できず、相対立する見方や意見が永久に交錯していると考える懐疑主義者であった。

1906年には、永い忘却の償いとしてパミエ Pamiers の町に彼の像が建ったという。




vendredi 22 février 2008

織姫と彦星?



本当に人生は不思議である。織姫と彦星のお話を遥かに通り越した再会が実現した。私が彦星を名乗るのは少々おこがましいが、話のついでだと思っていただきたい。織姫は現在アメリカの大学で活躍する研究者。滞米10年くらいになるのだろうか。その彼女から突然メールが入った。今日アメリカを出てパリに行くのでお茶しませんか、というものだ。パリ大学でお話をするとのこと。こういう唐突さは彼女らしさが出ていて好ましく思っているところだが。そこで思い返してみた。とにかく、いつどのような切っ掛けで知り合うようになったのか、始まりがはっきりしないのだ。最初は彼女が大学を出て数年の時ではないかと思うが、溌剌とした快活さと涼しげな印象が強く残っている。それから彼女がアメリカに渡り、私が出張に行った時に会ったのがほぼ10年前のことになる。大雑把に言えば、10年に一度会えることになっている関係とでも言えばよいのだろうか。その3回目のランデブーが実現したということになる。

観光名所での1時間半ほどのお茶になったが、いろいろなことを話した。すべては思い出せないが、いずれ暗闇に入った時に出てくるかもしれない。一つだけ上げるとすれば、社会の枠がわれわれに及ぼす影響が話題になった。その枠に入るのかどうか、入って違和感を感じないのかどうか。彼女も含めて、キャリアを求める若い女性は結婚というものを成功への条件のように考えていて、とりあえずその条件をクリアしようとするらしい。ここまでは一般論として語っていた。それから人によっても違うのだろうが、時間が経ちキャリアを求めれば求めるほど、その関係が大きな負担になり始めることもあるという。つまり、その過程で自らの内なる声を聞くうちに、それが必ずしも自分の求めていたものではないのではないかと気付くことになりジレンマに陥るという。これは彼女自身の経験のようにも感じたが。この話を聞きながら、人間関係の難しさを考えていた。また、彼女は海外での生活が長く、研究を生業とされているので、枠の中でどうするかだけではなく、枠の外から考えることの大切さを語っていたが、それが日本社会では乏しいのではないかという印象を持っているようであった。その点は先日も触れたが、私もほぼ同意見である。

私の方は学生生活に至るまでの偶然に次ぐ偶然の出来事を話したが、彼女の反応はそれを必然と言うのですよ、とのこと。変に納得していた。それから学生生活の現実へと進んだが、老後とは程遠いその生活ぶりをどのように聞いていたのだろうか。とにかく半年後1年後のことも解らないという状態をどう受け止めるのか。銀行での性格判断の話 (アメリカでは当然行われているとのこと) と絡み合わせて、彼女が offensive であるのは言うまでもないだろうが、offensive であれば楽しめるのではないか、ということになった。私の方はどうなってもよい立場なのだが、これからがある彼女には真の成功を手に入れてほしいと願っている。

ということで不思議な縁を感じながら、10年後の4度目の再会を約してクールに向かった。


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ランデブーの前に周辺を散策中、これまで使っていた私の肖像画が彫刻になっているのを発見。以前から目には入ってはいたが、気に掛けていなかったようだ。その写真に変更した。




jeudi 21 février 2008

アンリ・サルヴァドールさん追悼 Henri Salvador



メトロの座席に残っていた情報誌をめくっている時、彼が90歳で亡くなっていたことを知る。


Henri Salvador (18 juillet 1917 - 13 février 2008)
un chanteur, compositeur et guitariste de jazz français


もう数年前になるだろうか。どういう切っ掛けか忘れたが、"Jardin d'hiver" が入った "Chambre avec vue" というCDを仕入れて聞いたことがある。最初のうちは全くピンと来なかった。それまで聞いていたアメリカの歌のように人生に向かっていくという力強さを感 じなかったからだろう。しかし、聞いているうちに人生に向かうのではなく、じっくり眺めながら寄り添っているような、肩の力が完全に抜けたその歌に惹かれ 始めていた。この手の歌手はアメリカには余りいなかったように思い、新鮮に感じるようになっていた。同じような経験はムスタキと出会った時にもしている。











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賢犬様からアンリ・サルヴァドールが最高と考えていた歌を教えていただきました。
以下に紹介致します。








mercredi 20 février 2008

エネルギー戻る



昨日は待望の電気が戻る日であった。先日の連絡ではインターフォンで連絡できますよ、と言っておいたのだが、よくよく考えてみると電気がないのでそれができないことに気付く。いつものようにこのタイミングで。仕方なく15分ほど前から外で待つことにした。予定の時刻になっても人が来ないので電力会社 (EDF) に電話すると、4時間の幅で現れることになっているという。そんなことであればこの日にはしなかったのに、と食い下がっている時にタイミングよく2人が現れてくれ、お互いの声の調子が一気に和やかになった。そして彼らのお陰で6日間に及ぶ問題が一瞬にして解決した。ほっとした、というのが本当のところだろう。

それからフランス語のクール (FLE) のためにTolbiacへ。ここは教養学部のようなところで、他の校舎からは感じられない猥雑さとエネルギーが溢れている。今日の写真はそこで目に入ったもので、フランスでなければありえないような (日本では考えられないような) 学生寮を求めるポスター。実は先週土曜に登録してあった教室に行ったのだが、これがキャンセルされていた。折角なので丁度やっていた別のクールに顔を出し、条件法の復習をやってきた。その時に、火曜に別のクールがあることを知り、出かけたという訳である。おそらく私より少し若いくらいの女性教授が担当。始る前に登録用紙が配られ、専攻と生年月日を記入して手渡すと、彼女は何ともいえない顔で、にやっとしていた。私の年齢を見た時の先生の反応を見るのがこちらに来てからのひとつの楽しみになっているようだ。ちなみに、この日のテーマは接続法であった。その中で、接続法を用いて嘆願するという設定の下に作文するという課題が出された。それを隣の2-3人とグループを作って共同作業でやるのだが、私の隣はラテンの国から来たおそらくリサンスの女子学生さん。なぜか楽しい時間となった。彼女たちの作文する様を見ていると、自分たちの言葉に少しだけ手を加えているという風情で、何とも羨ましい限りであった。ただ、彼女たちにしても街に出て店員などと話をするとすぐに英語で答えが返ってくると言って不満気であった。私などはいつも経験していることだが、、、

夜には指導教授とのランデブーがあった。先日提出したメモワールの中間報告についてのディスカッションのためである。この機会にその原稿を読み返してみたが、ざっと見ただけでもいくつか単純な文法的な誤りが見つかったりする。やはり、終了直後だと客観的な視点を持てないようだ。次回からは締め切り1週間くらい前に一度終えてから時間を置いて見直すということをしないと駄目だろう。今回はあれで精一杯だったので、致し方ないような気もしているが。ランデブーではいくつかの問題点を指摘されたが、それは自分でも充分にわかっていることなので反論の余地はないであろう。コメントを考慮に入れて校正することになった。さらに、私が持っている基本的な疑問についても話をしたところ、その点についても1週間くらいでまとめるようにとの話になった。これは1週間というような短期間ではなく、年単位のことで考えていたので少々驚いたが、今はどんなことも苦痛に感じない不思議な精神状態になっている。

仕事の話の後雑談になったが、その中でフランスの大学人の考え方に触れたように思った。これは先日の記事とも関連するので、一教授の考えではあるが紹介しておきたい。まず驚いたことに、フランスの大学の状態を見ると dépressif になるというのだ。フランスでは大学自体が特別な存在、選別された、そのためやや差別的な(くらいに優遇された状態にあるという意味だろうが) 立場にあるため、保守的な傾向が非常に強く、変化や活力に乏しいと見ているようだ。それを強く感じたのは、アメリカで生活してアメリカの大学に貫かれている平等の精神を体験した時だという。それは大学のシステムを平等精神で動かすように努めているという意味と、フランスに比して大学が外に開かれているという意味が含まれているのだろう。そして、その考えをフランスの大学にも導入したいような意向を持っているように見受けた。私がフランスの大学のクラシックなスタイルが気に入っており、活力と霊感を得ていると言うと、少し驚いた様子であった。そして、私のように退官してまでこのような道に入る人がいるということは、大学にいる人間にとっても何らかの影響があるのではないか、という言葉をかけてくれた。ご本人の退官後は音楽に打ち込みたいとのことであった。話をしているうちに、これから何かが始るのだという感触を強く持つことができた、よいランデブーであった。



mardi 19 février 2008

パスカル・ロワゼルを観る Pascale Loisel, scuplteur



1949年生まれ

医学教育を受けた後、1990年から彫刻を始めたこの方

 "Silences et conversations" と題する展覧会を見るために、ブローニュの Espace Landowski へ

彼女が尊敬している芸術家の像がロビーに並べられていた

例えば、


Rodin
Camille Claudel
Balthus et sa première femme Antoinette de Watteville
Paul Léautaud
Alberto Giacometti et son frère Diego Giacometti
Egon Schiele et sa soeur Gertrude Schiele
Francis Bacon
Lucian Freud
Georges Dyer
Marcel Duchamp
William Blake
Zoran Music



しっとりと迫ってくる印象に残る展覧会であった




lundi 18 février 2008

すべて英語で?



夜は窓を開けて星空を眺めるしかない生活もあと1日となった。暗い中でぼんやりしていると、それまで浮かばなかったことが思い出される。日常の動きが、目に見えるものがどこかで浮かび上がるのを阻害しているようにみえる。この脳は意外にいろいろなものを受け止めてくれていることがわかる。

浮かび上がってきたのは、先日大使館のK氏との話の中で出ていたことになる。それがなぜか暗闇の中で思い出されたのだ。フランスの大学の話になった時に、これまでの私の外から見た経験から、こちらの教育スタイルは非常にクラシックで、オーディオ・ヴィジュアルを使うこともなく、学生に阿るように体系化されているところもなく (例えば、マニュアルのようなものはないのではないだろうか)、先生の評価なども行われているような気配もない (確かめたわけではないので正確さに保証はないが)、つまり、グローバル・スタンダードからすると落第になるようなシステムになっているというようなことを話した。その時に、ENSのようなところもこれから講義を英語にして留学生を意識的に受け入れようとする動きがあるということが話題に上がった。おそらく自然科学の領域に限ってのことと思われるが。しかし、フランスの大学がそこまでする必要があるのだろうか、というのが私の率直な感想であった。

もしこの流れが文系にも及ぶとすると、フランスの魅力は大きく低下するだろう。それぞれの国が独自に持つ文化、言語、ものの考え方を英語でやり始めることによって失われるものの大きさは、今現場に身を置いている者として痛いほど感じる。もしフランスの哲学を英語でやっているとした場合、私はこちらで哲学をやろうとしただろうか。英語にすることにより、その国の文化に対する真の思い入れが失われるように感じられるからだ。外から、あるいは上から論じるようにも感じられ、フランス語から現在受けている霊感など思いも寄らなくなるだろう。解らないながらも、その国の言葉で聞き、読み、感じることで得られるものは想像を超えるものがあるように感じている。フランスよ、どうかこの道だけは歩まないでほしい、と星の動きを見ながら願っていた。



dimanche 17 février 2008

イグナーツ・ゼンメルヴァイス Ignace Semmelweis


Ignace-Philippe Semmelweiss
(1er juillet 1818 - 13 août 1865)


ドイツ生まれ。後にアメリカで活躍した科学哲学者、カール・ヘンペル Carl Hempel の著書の中でこの方に出会った。

ハンガリーの医者で、ウイーンの病院に勤めていた1847年に産褥熱の原因と予防法を明らかにした。この本の中では、彼が産褥熱の原因を明らかにするまでに使った論理について紹介しながら、論理や真理に至る過程を解説している。それだけではここに取り上げる気にはならなかったのだが、この人について調べている時に思わぬつながりを見つけたことでその気になったようだ。

何と、"Voyage au bout de la nuit" 「夜の果てへの旅」のセリーヌ Louis-Ferdinand Céline がこの人についての研究 「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」 で博士号を取っていたのだ。こういう何気ない繋がりが、なぜか嬉しく気分をもたらしてくれるのである。

なお、ゼンメルヴァイスが産褥熱の原因を明らかにする過程は興味深いものがあるので、ヘンペルの解説をもとにいずれ紹介してみたい。



新しい場所 「出会った過去人」



今回新たに、「出会った過去人」 というブログを始めた。私の不定期の外付けメモリーになる。これまでは現在起こっている、あるいは人工的に起こさせた現象を観察し、その中から何らかの原理原則が見つからないか、ということを生業にしていた。今は、歴史の中に埋もれている人物を掘り出して、その考えを浮き上がらせる作業をしていることになる。

その意味では、新しいブログをそのままの意味に解釈すれば毎日膨大な人で埋まることになるだろう。ただ、ここでは専門とは少しずれるような人についてメモしておこうという程度のものである。お閑の折にでもお越しいただければ幸いです。

ところで、この機会にブログを総ざらいしてみた。すでに終っているものや休眠中のものも含めると10にも及ぶことが明らかになり、少々驚いている。閑の成せる業だろう。

Blogs en français
* Une vie philosophique à Paris (9 juin 2007 -)
* Dans le hamac de Tôkyô (10 septembre 2005 - 3 juillet 2007)

Blogs en japonais
(+ un peu de français/anglais)
* A view from Paris (1 mars 2007 -)
* Dans le hamac de France (16 février 2005 -)
* 出会った過去人 Les gens que j'ai rencontrés (2 février 2008 -)
* 老子を読む Lire "Tao Te King" (25 janvier 2007 -)
* マルセル・コンシュを読む Lire Marcel Conche (13 octobre 2006 -)
* フランス哲学メモ Mémento philosophique (27 septembre 2006 -)
* 科学哲学事始 Qu'est-ce que l'esprit scientifique? (22 septembre 2006 -)
* パスツールからのメッセージ Les messages de l'Institut Pasteur (23 mai 2006 -)


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(20 février 2008)
休眠中の 「マルセル・コンシュを読む」 をもともとの場所 「フランス哲学メモ」 に戻すことにした。一つのまとまったものしようとした途端に肩に力が入りその意欲がなくなるという、私の典型的な状態を改めて理解したためである。大きなものの一部としてのんびりとやる方が読み進むことになるのではないかという期待とともに。

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(28 mars 2008)
始めたばかりの新しい場所 「出会った過去人」 だったが、余りにも拡がりすぎるので気分的に落ち着かなくなり、このブログAVFPに組み込むことにした。始めた時も止める時も発作的であった。カテゴリに新たに 「出会った過去人」 を作りました。



samedi 16 février 2008

まさかこんなことが



木曜の夜、大学から帰って部屋の明かりをつけるためスイッチを押すが、全く反応してくれない。すぐに電球が切れたのかと思ったが、一月前に替えたばかりだ。すぐに20年以上前のマンハッタンでのブラックアウトを思い出したが、外からは明かりが漏れている。キッチンや他の部屋も全く死んでいる。そこでやっと大本が切られたことを悟る。そして、このアパートに入った時のことを思い返してみた。

不動産屋の懐かしくも愛すべきダヴィッドと昨年8月に部屋を見た時や9月に入居後の検査に来た時も電気は入っていたのでどうなのか聞いてみたが、入っていればそのままでいいんじゃないの、という感じの返答だったので、そのままにしておいた。ここの家賃は電気代コミなのではないかと勝手に思っていた。そしてこの時期になって突如電気が・・。早速電力会社に電話すると、契約するためには前の借家人の名前が必要だ言う。もう半年も前のこと、ダヴィッドから教えてもらったような気もするが、覚えていない。一度電話を切り、書類をひっくり返してみると、本当に何気ないメモとしてやっと見つけることができ、再度連絡して来週火曜日にランデブー成立。再び明かりのある生活の目途が立った。この会話中、私の携帯の使用可能時間が超過して切れるというおまけまで付いていた。

ということで、6日間ほどの電気のない生活を始めて今日で3日目になるが、夜は6時くらいから暗くなるので、部屋の中では何もできない。自分が眼鏡をかけているのかどうかさえわからなくなる始末。手探りでキッチンに行き、トイレに行き、シャワーを浴びる。原始的な感覚が蘇るかのようだ。パソコンのバッテリーも底を突いている。仕方なく近くのカフェで数時間の読書をした後、10時ごろの就寝という日課になっている。少々寝すぎの感もあるが、少し休んだ方がよいですよ、とのメッセージと受け取っている。

それにしてもなぜ今頃、という疑問は残る。もし電力会社が気付くことがなければ、延々と電気は流れてきていたことになる。そしてこの間の電気代はどう考えればよいのだろうか。請求の仕様がないようだ。物事、最期にはトントンになると思っているので心配はしていないが、、、日本ではほとんどありえないようなことがすぐそこで起こるこの緩さ加減が、フランスの愛すべき一面にも思えてくる。



vendredi 15 février 2008

コンラート・ゲスナー Conrad Gesner




昨年のクールでこの方に出会った。スイスの博物学者については次のようなメモがノートに残っていた。

● Histoire des animaux (Historiae animalium) 4 vols (1551-1558)
   efforts monstreux : discussion serrée : frontière disciplinaire
● polymath, tous les domaines
● humanisme
● retour dans l'Antiquité
● philologue

「動物誌」 : 人間業とは思われない、信じられないような力作。彼の記載は緻密を極め、研究の最前線を行くものであった。しかも彼の興味が幅広く、しかもそれを極めている。文献学者でもあり、「書誌総覧」を物したのみならず、「植物誌」、さらに医学、神学までも。私の好きな言葉、polymath そのもののような人。それから古典への回帰にも惹かれるものがある。



jeudi 14 février 2008

まさかそんなことに



昨日のこと、あるメールを受け取った。メールの主は、同じ研究分野で仕事をしているBN氏。昨年ハーバード大学からカナダの研究所の所長で移った、この分野では知らない人のいない第一人者である。彼の理解力の素晴らしさ、興味の広さ、真理に迫ろうとする透明な頭脳、そしてその饒舌。彼のような精神には日本では出会ったことがないのでいつも感心し、刺激を受けていた。会合ではほとんどあらゆる人の発表にコメントや質問を浴びせるため、彼の質問が来なかった時には自分の研究が無視されたような気になると漏らす人もいたくらいだ。

ところでそのメールには研究材料の問い合わせが書いてあった。もちろん私がこんなところで (?) こんなことをしているとは想像もしていない書きっぷりである。とにかく今の私にはどうしようもないので、材料にありつくための情報とともにこちらの状況を添えてメールを出しておいた。夕方には返事が来ていた。驚きが溢れるそのメールには次のようなことが書かれてあった。そんなことになっていることなど、全く (!) 知らなかった。去年のヨーロッパの会議に顔が見えないので驚いていたが、特に考えを進めずそのままにしておいた。それにしてもパリとは、素晴らしい。新しい道での活躍を祈っている。

昔の研究仲間からこのような励ましをいただき、まだ糸がどこかでつながっていることを知らされる思いでいた。それは、静かに訪れる満たされた気分とでも言い換えることができるものであった。






mercredi 13 février 2008

偶然の中に



昨日は研究所まで出かけ、先日話題に上がったD氏を訪ね食事をともに取った。今年初めての顔合わせになる。お話はいつものように人生のことになる。私はその意味を知りたいと思っていると言うと、彼はすべては偶然の成せる業で、意味などないと言う。そういう点では私も同じような考えだが、それでも意味を知りたいということには変わりない。それを問い続けるという意思に変わりはない。ただ、彼はこう付け加えた。その偶然の中に何かを見つけることができるのかどうかはその人の力による、自分の中で思っていることとそれを実現させることとの間には天と地ほどの開きがある、と。

それからフランス哲学のお話になった。これまでも触れているように、フランス哲学に対する私の見方、特に功利主義的考えがないのではないか、ということを話すと、彼も認めているようであった。フランスには一般的にその傾向があって、科学の分野においては、まさにそれが問題になっている。功利主義的考えがなくて科学の発展に貢献できるのか、という見方である。現場の中心にいるとそういう考えにならざるを得ないのはよく理解できる。私もつい最近までそのような考えの影響を受けていたからだ。知るために知る、何かのために知る、この両者の対立は永遠のものなのかもしれない。そして、多くの人が理解しやすいのは後者であるということも容易に理解できる。

もう一つは、すでにここでも紹介しているが、研究所の記念行事のひとつ、メチニコフのノーベル賞受賞100周年記念シンポジウムの責任者でもある彼が、メチニコフの骨が研究所に保管されているのを知っているか、と聞いてきた。パスツールが博物館地下に眠っているのは知っていたが、メチニコフの方は初耳であったので、帰りにその場所に案内してもらった。メチニコフもまた博物館内で時を過ごしていた。それは大講堂の本棚の上で、本当に何気なく置かれているので、説明されなければ容易に見逃すだろう。丁度記念行事の準備をしている博物館の研究員の方がおられたので、しばらくお話を伺ってきた。これから展示会もあるようで、メチニコフの大きな肖像画2点やメチニコフの2度目の奥さんであるオルガさんが創ったという銅像などを見ながら、メチニコフの人となりやその仕事について思いを馳せていた。これなどは、まさにD氏が言うように、偶然の成せる出会いであった。

日々、その日の予定を書き込んだ紙を持ち歩いている。人は多かれ少なかれ、そのようにして予定をこなし日常を送っているのだろう。そして、そこに書かれてある予定は、あたかも自らの前で繰り広げられる偶然に至る扉のようなものではないだろうか。人はその扉を毎日開け、偶然に出会う旅をしているのではないだろうか。その偶然の中に何を見出し、そこにどのような意味を与えるのか、それはその人に掛かっているのだろう。彼との別れ際、そんなことを考えていた。そう考えるとこの道行きが驚きに満ちたものにもなるだろう。



mardi 12 février 2008

枠組みの外から



先週の今日は生命とは何かについてのコロックに顔を出したのだったが、もう遥か彼方に退いている。もう一週間経ってしまったなどとは想像もつかない。しかしそれが時の流れなのだろう。

昨日の夜は、昨年11月頃からのお互いの予定がかみ合わず実現しなかったランデブーが実現した。日本にいる時に友人のY氏からパリに行ったら会うように勧められていた人に会うことができた。大使館に勤めておられるK氏である。パリやフランスの情報もさることながら出身が仏文とのことなのでそちらの方面からも貴重なお話が伺えるかと思い、出かけた。

今年が日仏文化交流の150周年とのことで、相当にお忙しいようであった。いつものように話題は飛ぶのだが、特に日本を襲った大学改革についての話が何度か出てきた。日本の制度を実際に動かしているのは30代半ばくらいの若い人たちである。戦前、戦中の例もあるが、この世代のいわゆるエリートといわれている人たちがどれだけ深い考え、哲学のもとに事に当っているのかということに大きな疑念を持たざるを得ない。それはK氏の思いとも重なるものでもあるのだが、、。政治の力は大きい。その辺りの人たちの考えで日本が簡単に変わってしまう可能性があるからだ。しかし、その過程でどれだけの幅広い、奥深い思索がされていたのだろうのか。大きな疑問符がつかざるを得ない。そしてそれを受け取る側は、、、。

今回のことも彼らがアメリカに留学し、その考えをそのまま日本に移植しようとしたと疑われても仕様がないようなことになっている。実際にそうであった可能性も高く、日本独自の考えなど微塵も見えないものであった。本当にあれでよかったのだろうか。そういう疑念が浮かび上がる。フランスも日本に遅れて同じような道を歩もうとしている。せめてフランスくらいはこれまで通りのクラシックなやり方を貫いてほしい気がしないでもないが、歩みを始めてしまった。

日本の行政の現場では、それは一体どういう意味があるのか、要するにそれはどういうことなの、と立ち止まることなく、事を急ぐ姿勢に溢れているというお話を伺った。ここでも取り上げていることだが、それは考えることを止めてしまった人の姿勢に過ぎない。そういう風潮が日本の官庁で日常になっているということは、他は推して知るべしなのだろう。では、そこでどうするのか。それが大きな問題になる。結局は各自がそれぞれの頭で考えていなければならないことになるのだろうが、枠組みの中でではなく、枠組みそのものを考えるという姿勢が求められるということだろう。それはすなわち、外から考えるということ、哲学するということになるはずなのだが、、、。



lundi 11 février 2008

そう言えば、そんなことが



昨日ある方のブログを読んでいる時、そう言えば今頃は戦々恐々としている時期だったな、と遥か彼方の出来事を思い出していた。もうそういうことなどきれいさっぱりと忘れていたからだ。何のことはない、私を毎年3ヶ月に亘って悩まし続け、その挙句にフランス語に導いてくれた花粉症である。花粉症がなければ今の私はないという点では、大きな意味のある病気であった。病気と言うことができれば、だが。いずれにしても、こちらでは杉花粉の方は心配ないのではないかと思っている。他の花粉の影響がいずれ出てこないとは言えないが、しばらくは天国になる。天国の要素が余りにも多いので、そのまま天国へという可能性もないわけではないが、大学がそのバランスをうまく取ってくれているようだ。

昨日はこれ以上望めないほど快晴の中、お昼の散策をする。さりげない景色の中に何かを感じるようになっているのがわかる。そして首を思いっきり直角に後ろにやり目を開くと、そこには何という色の空が広がっているのだろう。その形容しがたい色の中に暫しの間惹き込まれてしまっていた。何気ない日常のすぐ横に予想もしない世界が転がっていることに驚いていた。冬の最中にこのような散策ができるなど、やはり天国だろうか。






dimanche 10 février 2008

「ええ、M1 は特に」



大学に登録する時に、前期のみならず後期のクールも選択しなければならなかった。コンピュータで一括管理されているようである。後期が始る前に何を取っていたのか見てみたところ、その半分は変更したくなっていた。早速先週初め、その変更が可能かどうか確かめるために担当の秘書さんを尋ねてみた。幸いなことに、希望するクールに変更することができた。

このことは、大学に入る前と前期が終った段階で見方が変わってきていることを示す一つの例かもしれない。あるいは興味に焦点が見え始めているとでも言えばよいのだろうか。日本を出る時には、古代ギリシャから芸術、宗教、現象学、、、の哲学について聞いてみたいなどと考えていたことを思い出す。こちらに着いてからもしばらくはそう思っていたが、実態に触れると時間的にも体力的にも不可能であることがわかってきた。実際、比較的自分に近いと思われる分野でもあの苦しみ方だったのだから容易に想像できるだろう。学問的に何かをする場合、どうしても範囲を狭めなければできないということだろうか。その狭い範囲にも膨大なものが詰まっているのである。

マスター1年目は、幅広くカバーすることを求めていて、その基礎の上により専門的な領域に入っていくのが2年目ということになるのだろう。秘書さんに、「それにしてもM1は厳しいですね」 と語りかけると、「ええ、M1は特に」 との返答であった。専門が進んでいくと幅広い視野が失われやすいので、できるだけ幅広くやっておきましょうか、というのが今の心境である。



samedi 9 février 2008

パラケルスス Paracelsus; Paracelse

(11 novembre ou 17 décembre 1493 – 24 septembre 1541)
un alchimiste, astrologue et médecin suisse


先日の 「生命を定義する」 と題するコロックでフランソワ・グロさんが人間の考え方の変遷を語っている中でこの方に出会った。お話の中では、人間の体は化学工場だと見ていたスイスの医者にして錬金術師として紹介されていた。帰ってからウィキを見て、飛び込んできたこの顔に惹き込まれる。そこには強い何かが宿っているように感じたからだ。20代後半から30代前半にかけて、アリストテレスの考えに基づく当時の医学の現状を批判。大学を追われ放浪の中、新しい医学の確立を訴える。


彼の引用を読んでみる。

● « Mes écrits dureront et subsisteront jusqu'au dernier jour du monde comme véritables et incontradicibles. »

 (私が書いたものは、本物で反駁の余地のないものとしてこの世の最期の日まで残るだろう)

● « Chaque heure apporte avec elle du neuf, de sorte que rien ne demeure identique à soi. Car, s'il en était ainsi, le malade demeurerait malade et ne connaîtrait ni amélioration, ni aggravation; et l'homme bien portant demeurerait bien portant. »

 (瞬間瞬間が新しいものを齎しているので、同じ状態に留まるものは何もない。そうでなければ、病人はいつまでも病人でなければならないし、回復もなければ、悪化もない。そして健康な人は健康のままということになる)

● « Tout est poison, rien n'est poison, tout dépend de la dose. »

  (すべてが毒であり、いずれも毒ではない。すべては量に依存するのだ)

● « La nature ne suit pas l'homme c'est l'homme qui doit la suivre. »

  (自然が人間に従うのではない。従わなければならないのは人間の方だ)


彼の思想はその顔に表れていたことを確認する。






混沌の中から



昨日は、今週最後のクールのために出かけたが、どういうわけか休講。こういう時にはいつも気分が解放され、人と話したくなる。幸いにも教室にひとりだけ残っていたパリジエンヌとお話をする。彼女は美術史、美術哲学専攻で、哲学をその横で勉強しているマスターの学生さん。ミシェル・フーコーなどを読んではいるが少し難しいので聞きに来たという。何とも感じのよい学生さんだったためか、雲ひとつないその空を切り取っている飛行機雲のせいか、calvaire が終ったためなのか、久しぶりに爽快な気分になっていた。

その勢いでリブレリーに入ると、ミシェル・セールさん (Michel Serres をセレスと訳し、kn様からご指摘を受けたことがあった) の本が飛び込んできた。パラパラ捲っていると、前日のクールで聞いたばかりの Translatio studii なるラテン語に目が留まる。こういう瞬間は心躍るものがある。今週から始ったクールを通してみても相互に関係するお話が出てきたり、前期で聞いたままになっていたテーマが再び取り上げられたり、いくつもの絡みが見えてくる様子には軽い興奮を覚えていた。昨年10月に始ったこの営みの初期の混沌の中に少しだけ関連する糸が見え始めてきたと言ったところだろうか。しかし、それはその全体が私の体だとすると、原子の大きさにしか過ぎないだろう。

フランス語を始めた当初の1-2年ほどの間、目の前に壁があって中を覗こうにも叶わないというあのもどかしさを思い出す。しかし、今回はその時の一方向の障害ではなく、本当に立体的な混沌の中を漂っているという感じがする。これがさらに進むとそこから何かが醸成され、その霧のような混沌の中からとんでもないものが噴き出してくるのだろうか。そういう日が来るのではないのかという期待感を抱かせるような今日の心境である。今年の夏のことを考えただけでも、その時にどのような心持ちでいるのか、思い描くこともできない。

  Translatio studii : refers to the the transfer or translation (translatio) of culture or knowledge (what one studies: studium) from one civilization to another.

(知の中心・覇権が移っていくこと。中世、ルネッサンス期に生れた見方のようで、主に書かれた知がエデンの園から始まり、エルサレム、バビロン、アテネ、ローマ、パリ、アムステルダム、ロンドンへと移行していき、ジョージ・ハーバートという人はその後その中心はアメリカに行くだろうとすでに予言していた、とウィキにある。)


今ハンモックへアクセスのあったページを眺めていた。その中に、昨年の正月の記事が出てきた。偶然の一致だが、昨日のクールの前に時間があったので去年の手帳の1月のメモを読んでいた。その頃にはこちらに来ることを決めていたような気配がある。そして、一体どのような形で来るのか、生活はどうなるのか、など不確定なことが多すぎで、年が明けて数週間は体の芯から冷え上がるような状態であったと書かれてあったりする。もう記憶の彼方なのだが、、。去年の正月の記事を読んでみると、仕事場で地震にあった初夢が書かれ、「今年がこれまでに経験したことのないような年になりそう」 だと予想している。まさにその通りの1年になった。正月がやっと明け、少し昨年を振り返ってみようという心境になっているようである。



vendredi 8 février 2008

calvaire 終わり、そして新たな



昨日は大学の実質2日目。ソルボンヌまで出かけ、2時間のクールを back-to-back (こういう場合、dos-à-dos と言うのだろうか?) で聞いてきた。今期最初の講義とあって、分厚い資料を持参していたり、参考文献のリストの紹介があったりした後、全体の計画が説明され、早速始った。参考文献に目を通すと、今回もすべて読んでみたいものばかりであるが、前期の流れを見てみるとおそらく不可能だと思われる。学習意欲が高ければ高いほど、未達成感が残るという困った状況に陥るのである。

2クールの4時間にも睡魔が襲う瞬間があった。それがこのところの睡眠不足のせいだと思いたいのだが、それだけではないことは自分がよく知っている。ただ、前期との違いも感じていた。これまでは、手探りで鬱蒼とした茂みの中をとにかく掻き分けながら進むという、ハードでスリリングなものだった。しかし、今回はクール全体を上から捉えている、とでも言うべき感覚が生れていて、ノートも前期よりは自然に取れているようだ。これは時間の単純な流れもあるだろうが、苦しみながらのメモワール作成が大きな効果を及ぼしているのは間違いない、と確信していた。それから、後半のクールでは眠気を覚ますには質問するに限るということを数回試してみたが、これは効果覿面であった。こういうことをしようと思うところなども前期との違いになるのかもしれない。

研究所の友人からは、新年のメール交換で近いうちに昼食でも一緒に、と言ったきり連絡がないのを心配してメールが入っていた。こちらの状況を説明すると、それが "calvaire" でないことを祈っている、との激励の言葉がすぐに返ってきた。この言葉、辞書によると 「キリスト磔刑の像」 と 「長く苦しい試練」 という意味がある。驚いたことに、そこにはすでに "la fin du calvaire" なる書き込みがあった。その時の叫びが聞こえるようである。

calvaire = Succession d'épreuves difficiles et de souffrances

こちらでの学生生活、一つ越えるとまた別の calvaire が待っているという生活を意味しているのかもしれない。



jeudi 7 février 2008

一学徒として



少々古い言葉が出てしまった。自分の中では全く古くはないのだが、この言葉が出てくるのは、学生時代に 「きけ わだつみのこえ」 を自らに引き付けるようにして読んだ印象が残っているためかもしれない。昨日、後期最初のクールにENSまで出かけた。こちらに来てから若い学生さんに混じって行動しているが、全く違和感を感じない。そのことに驚き、ずーっと不思議に思っていた。環境は大学や研究所なので日本にいた時とは変わりないが、その環境に全く別の立場で入った時にはそれを受け取る精神状態に大きな変化が生れるのが普通ではないだろうか。しかし、そうはなっていないのだ。

そこで思い当たった理由は、今の精神状態は実は昔と何も変わらないためではないか、というものだ。つまり、これまでの研究生活を通して、いつも学生のつもりでやっていたのではないか、ということである。専門家になるのではなく、あるいはその道を無意識のうちに拒否し、いつもアマチュアでいることを欲し学ぼうとしていたのではないか、ということに気付いたのだ。そう考えると、違和感など感じようがないのである。そのことは、学問の世界で専門家として一家言持とうとするよりは、大きく言えばこの世界から何かを学ぼうとして歩んできたということにつながるのかもしれない。そしてその世界がほとんど無限に拡がっていることを意識する時、一学徒として生きるのは至極自然な行いのような気がしてくる。

ただ、ひとつ忘れてはならない重要な点は、そういう人間を受け入れる側のソフトだろう。彼らの態度を見ていると自らがどのような格好をしているのかを全く感じさせないのだ。先日の Marek Halter さんの怒りの源泉にもなっている異物として対処するという姿勢よりは認知されているという印象が強いためかもしれない。そうでなければ、いくら一学徒としてなどと言ってみても違和感で溢れかえることになるのは眼に見えている。まだ半年も経ってはいないが、今のところ私の生き方に合う環境にいることだけは言えそうである。

今期最初のクールの前、おそらく同年代のフランス哲学の伝統を自負しているような印象のある教授がよく来てくれたな、という気持ちが溢れ出る態度で迎えてくれた。



mercredi 6 février 2008

ロバート・フロスト Robert Frost

(March 26, 1874 – January 29, 1963)



THE ROAD NOT TAKEN

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;
Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim,
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that the passing there
Had worn them really about the same,
And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I kept the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way,
I doubted if I should ever come back.
I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I-
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.









生命を定義する  Définir la vie



大学は今週から新学期が始っている。私は月曜、火曜と講義がないこともあり、今日のお題をテーマにしたコロックに顔を出してきた。ここでもこれまでに触れてはいるが、 「・・・とは」 という問は大きな問で、いかようにも定義でき、その答えがはっきりしないことが多い。昨日のセッションを聞きながら、それぞれの人の定義に共通するところを探っていた。ある共通項は見えてくるが、それにしてもしっくり来ない。昨日の段階での率直な総括は、これは科学の領域の問題ではなく、哲学の問題ではないのか。さらに言うと、これは哲学者ではなく科学者が哲学的思考を持って事に当る方がより具体的な成果が出るのではないか、というものだった。今日、全く同じことを言っているウイルス学者がいたし、私の考えは今日も変わらない。この学者とはこれからも連絡を取り合うことにした。

今回は化学、生化学、物理学、遺伝学、ウイルス学、人工生命、天文学、哲学など領域を超えた研究者が一堂に会し、それぞれの立場から、「生命とは・・・」 という問に答えを出そうとしていた。そもそも生物と無生物の間に線引きなどできるのか、その必要があるのか。また、どのような定義をするかによって、あるものが生物になったり無生物になったりすることもある。ただ、宇宙に生命を探す動きがあり、人工生命などこれまでにはなかった生命を扱うようになると、その定義が必要になるという考えもある。

会の性格もあるのか、このような抽象的なテーマについて皆さんよく考え、奥行きのある話をしていた。いつもながら、ヨーロッパ精神を見せつけられる思いで、感心して聞いていた。中には、あなたは生きていますか、これまで出された定義を基に考えてあなたは本当に生きていますか、などと真面目に演者に質問する人も混じっていたりして面白かった。これはうまくかわされていたようだが、、、

少々疲れる話もあったが、ほとんど無限に拡がる時間と空間を思考が飛び回る様に触れ、久しぶりに心躍る瞬間もあった。満足すべき2日間だったと言えるだろう。このような答えが出ないような問を持っていること、それを考えていること自体に大きな意味があり、その人に深みを与えているようにも感じた。さらに、生命の存在こそこの宇宙における驚くべき出来事であることにもっと心から驚いてもよいのではないか。このような謎を社会や若い世代にはっきりと示し、サイエンスに興味を持たせるという実利的な意味でも、答えが出ない問にも向かい合わなければならないだろう。そうしていないと一般の人にそれが伝わらない、というようなところで会はお開きになった。


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プログラムの詳細は別ページに掲載しました。
なお、もう少し細かいお話を少しずつ再現して行こうと考えております。
興味をお持ちの方は下のサイトを訪問ください。





mardi 5 février 2008

News in 1910s and 1930-40s



アメリカ Library of Congress にある映像のスライドショウをLudovic Maillard さんのサイトで知る

ほとんど永遠に続くため異時空間に迷い込むには最高

お閑の折にどうぞ 

そして無事の帰還を

                    


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jeudi 7 février 2008

1930-40年代のスライドショーをゆっくり見てみた。まずカラーの美しさに驚いた。これが戦前のものだとは思えないくらいである。以前に大戦末期の沖縄や戦後の日本の様子をアメリカの兵士が撮影したものを見て、余りの鮮明さに驚いた記憶と重なる。そのためか、このスライドショーがとても70-80年前の景色には思えず、まさに現在どこかにある風景を見る思いで眺めていた。その意味では異次(時?)元に迷うことにはならなかった。



lundi 4 février 2008

Marek Halter、あるいは棚卸し



ミニメモワールが進まない時、散策の折に近くの本屋に入った。最初哲学セクションで時間を使っていたが、少し目をそらすとこの表情が飛び込んできた。その迫力とタイトルが気に入り買ってきた。


この本は早朝にヴォージュ公園のルイ13世の騎馬像の前で人に会った時の逸話から始っている。それは自分が触れたことのある風景とも交錯し、すぐに惹き込まれる。もう数年前になるだろうか、同じ騎馬像の横のベンチで朝ではなく夕方になるが、会社員のスイス人とジャーナリストのオランダ人と待ち合わせをして食事に行ったことがあるからだ。

それからすぐに、これもハンモックで触れたマルク・ブロックが 出てくる。この人の名前を日本語でブロッホと訳していたために、その人がどういう人なのかしばらくわからないままであったが、Lys 様からのご指摘でブロックであることが判明。そのあとすっきりした記憶が蘇ってくる。この本では、ブロックが銃殺される前に、銃殺隊に向かって叫んだ言葉 が出ている。それは彼自身の叫びでもあるが、その立場になってそんなことができるだろうか、そんな勇気があるだろうかと自問している。

   " Vive les prohètes d'Israël, vive la France ! "

それから Sekko 様にいろいろと教えていただいた共同体主義communautarisme) の話が "Communautés, et alors ?" と題するエッセイですぐに続く。そこでの発言から、いくつか。こういう声を聞くと、確かに私が誤解していたことがわかる。
 
  ● この言葉はまだ辞書 Le Robert にも出ていない (調べたが、確かに載っていない)。
  ● 昨日のテレビではまるでエイズが絶対悪のように扱われていた。
  ● 教科書では、国の歴史や文化へのそれぞれの共同体の貢献をぼかすようになっているが、いざ歴史上の人物の話になった途端にその出自、系譜、共同体が顔を出す。

ソドム Sodome、ゴモラ Gomorrhe などの言葉も見える。そして、mondialisation の現在において、国の豊かさはその文化的、人種的多様性によるのだとし、愛ではなく個人の自由と法律に対する敬意を求めてこのエッセイを終えている。

この中にフランスとアメリカの社会の成り立ちの違いを窺わせる面白い記述があった。1816年に John Pickering が書いているところによると、アメリカでは広く共通の言葉が話されているのに対して、フランスの教会の記録によると1794年のフランスでは2700万人 のフランス人の中で600万人はフランス語を全く話せず、フランス語だけで生活している人は300万人を超えることはなかったという。

この本ではイスラム教、ユダヤ教、キリスト教などの歴史と現実がその中にいる人の口から生々しく語られている。宗教間の融和などありえるのだろうか? 国と宗教との関係は? 人種差別は? 国の中に存在するグループが異物として見られるのか? 認知されるのか? などなど。まだつまみ読みの段階だが、彼の怒りや疑問を朝の公園でいろいろな人を相手にぶちまけるという構成になっているようで興味が尽きない。


彼の語りには今まで知らなかった視点からの話題が溢れているので、覚醒させられることばかりである。さらにそこで出会う言葉にある種の懐かしさを感じることがしばしばであった。当事者としては懐かしさなどという言葉では済まされないとは思うが、、、。その感情は個人的なものも少しあるが、それよりも彼の視点に歴史的なものが組み込まれているためか、大きく言えば人類の歩みに対する懐かしさと言った方が正確とさえ思えるものだ。その感情とともに、あることを確認していた。

これまでの経験から自分の中に言葉としては溜まっているが、その意味がよくわからないものばかりではないのか。私の言葉の捉え方はまずその音で残るが、しばしばそのまま意味もわからずに、確かめずに口に出していることがほとんどではないのか。それらを一つひとつ取り出して、あるいはより現実的には、それら一つひとつが何かの機会に飛び出してきた時に、そこで立ち止まって深入りしてみる作業、言ってみれば棚卸し、総ざらいをやってみてはどうか。それをほったらかしにしたままでゆきたくはないだろう。

その思いはパスカルの "peu de tout" とも重なっていることを以前に見つけ、気を強くしたこともある。ただ、それをやるには時間的・精神的余裕が必要になる。そこで初めて仕事の意味を考えるようになったのだろう。


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昨日の余韻がまだ残っているようである。




dimanche 3 février 2008

哲学するとは ・・・・ そして 「熱狂の日」



昨日街を歩きながら、今までも触れているこの問が頭に浮かんだ。私の中ではその答えは生きることと同義になる。具体的にどういうことだろうか。一言で言えば、このような問を出すことではないだろうか。普通に人が生きている時には疑問にもならず、生活や仕事というような箍がはまった状態では疑問にすることさえ控えるような極々当たり前のこと、その疑問に挑んだとしても生きていく上では必須ではないために適当なところで止めにしてしまうような問、そういう問に、それは一体どういうことなの?と改めて問を出すことではないのだろうか。

これは時間がなければできない。精神的な余裕もなければならないだろう。普通の人の生活を辞めて、この種の問を考えて生きましょうという選択をした人が哲学者なのだと思える。今の世、どんな世界でも役に立つことについて問を出し考えなければならないという風潮があるようだが、それだけでよいのだろうか。底の浅いお話にしかならないような気がしてしようがない。人間が本来持っているはずの機能を最初から捨てて掛かっているように思えてしようがないのだ。そのような風潮で塗りつぶされている社会から奥深い文化が生れてくるだろうか。人間はもっと凄いことができる存在のような気がしているのだが、、、その可能性を探ることにも自ら扉を閉じてしまっているように思えてしようがないのだ。

なぜかウィトゲンシュタイン (Vienne, 26 avril 1889 - Cambridge, 29 avril 1951) が言ったという言葉が浮かんでいた。

     「哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくり走ることのできる者。つまり、ゴールに最後に到着する者だ」

そして、先日のある教授の表情も。

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数日前、Radio Classique で René Martin さんと Michel Corboz さんの声が聞こえた時、数年前に参加したこの音楽祭のことを思い出した。

「熱狂の日」音楽祭2006

調べて見ると、今年はシューベルトがテーマで、本場ナント Nantes の音楽祭は1月30日から今日2月3日までであった。東京では5月2-6日に予定されている。

La Folle journée de Nantes



ホセ・マルティ José Martí



パリ大学の学生に送信されてくる « Bulletin Cubart » の中で、キューバの政治家にして詩人のこの方に出会った。

ホセ・マルティJosé Martí, 28 janvier 1853 à La Havane - 1895)


Il est certainement l'homme le plus glorifié par le peuple cubain, qui le considère comme le plus grand martyr et l'apôtre de la lutte pour l'indépendance.

Dès l'âge de 15 ans, il s'engage dans la lutte anti-coloniale et fonde un journal nationaliste. Il est arrêté pour trahison et condamné à six ans de travaux forcés un an plus tard. Libéré six mois plus tard et assigné à résidence, il fut déporté en Espagne durant quatre années.

Son exil se poursuivit entre la France et le Mexique. Une amnistie des prisonniers politiques lui permet de revenir à Cuba, où il fut de nouveau arrêté et de nouveau renvoyé en Espagne.

Il s'installe à New York, où vivaient de nombreux exilés cubains, et durant les quinze années qui suivirent il se consacra sans relâche à l'activité politique au sein du parti révolutionnaire cubain.

Il débarque sur Cuba en 1895, et est tué lors de sa première bataille contre les Espagnols.


wiki english



samedi 2 février 2008

この先大丈夫?



昨日は朝から雨。先日触れた学生オーケストラで一緒だったS氏 (今や先輩にしか見えないが、数年後輩か?) が会社の方とこちらに見え、午後の数時間お話をする機会があった。向こうは仕事を終えて帰国前日にあたり、こちらは論文を終えたところで気分が晴れていたので、お互い何の気兼ねもなく話が弾んだ。日本からお金が全くかかっていないお土産を持ってきたとのことで期待していたが、それは学生オーケストラの練習風景を撮った写真であった。そこにはどこかで見たことがある20代前半の若者が写っていた。痩せていて余分なものがついていないその若者を別人を見る思いで眺めていた。またこのブログもどこからかの情報で知り、たまに覗いているようで、関連のページのコピーを持参していた。ここの写真が自家製であることを確かめた上で、どこか不思議な雰囲気が漂っているとのおそらくお褒めの言葉をいただいた。

お二人ともフランスが気に入っている様子だったので聞いてみると、S氏は5-6回パリに仕事で来ているとのこと。最初に来た時には圧倒されたと話していた。彼の上司は、これまでフランスのことは頭になかったが、1週間前にこちらに着いた途端にパリの魅力に取り憑かれたとのことで、これからフランス語を本格的に始めるようであった。私の場合もそうであったが、フランスはある日突然顔を出すようだ。

今回いろいろな話をする中で、S氏は私が興味を持ちそうな、つぼを突いた本の話を持ち出してくるので感心していたが、若い時に出版業界にいたことを思い出した。そこから出張していたニューヨークで1年ほど滞在が重なったことがあることも。話題に上がっていた本をいずれ送ってくれるとのことだった。ビールやワインの影響でないことを願いながら、その到着を待ちたい。

当然のことながらこちらの大学の話もよく出ていたが、最後にはこの先大丈夫ですか、という話になった。大学の講義や論文についていけるのか、まだ伸びる可能性があるのか、これからのことをどう考えているのか、という質問である。先のことは考えていなかったので不意を突かれた感じだったが、例えば今のままでは如何ともしがたいフランス語などは、まだ上達する可能性があると思いたいところである。






vendredi 1 février 2008

ほぼ終えて



昨日は、3つのメモワールの締切日であった。前日にけりがつかなかったためか、睡眠時間が3時間で目が覚めていた。ボーットしたまま最後のまとめを始め、夕方4時過ぎになり、その3つが一気にこれで行きましょうというところに落ち着いてくれた。まだ一つ残っているとは言うものの、その時の解放感を表現するのは難しい。部屋をすべてひっくり返して、できれば自分の中味もすべてを入れ替えたくなるような感覚とでも形容すればよいのだろうか。

ミニメモワールのことは、去年の11月くらいから意識にあがっていたようだ。来る前には、1年でマスターの論文を一つ仕上げればよいのではないのか程度に軽く考えていたので、少し驚いていたことが大きい。当時を思い返してみると、まだ観光客気分が抜けず、わずか数ヶ月でそんなことをしなければならないのか、そんなことが一体できるのか、という気分が強かった。こちらでフランス語も含めて勉強しましょうという気持ちで来ている身にとって、まず講義のフランス語を聞いて驚いていた時期でもある (これは今でも余り変わらないが)。それまでに聞いていたものとは全く別物だったからだ。ただ、これまでの経験から、これは時間しか解決してくれない問題だと思っていたので、その状況に身を任せるという方針でいた。

それから年末を向かえ、まだ何について書くのかも決めかねていたので、まとめることができなければ前期で大学を辞めるか、1年目をもう一度やり直すか、それが無理であれば日本に帰るというオプションも頭に浮かんだことがある。自分の好きなようにやった方がよいのではないかという思いとともに。しかし、年が明けて気分が少し変わってきたようだ。書けない理由は、最初から立派なものを書こうとしているからだと気付いたからだ。まだ数ヶ月で、しかもその基礎もないのによいものが書ける訳がないのである。よいものではなく、自分の頭にあるものをいかにして外に形として出すのかということに頭を使えばよいのではないかと思えるようになり、少し前に進みだした。

結局終ってみると、私の場合は、締め切り前に余裕をもって出すというタイプではないことがはっきりした。与えられた時間を最後の最後までたっぷりと使い、苦しみ、考えながら、ないものを搾り出すようにしなければ書けないということがわかってきた。そして、それをするためには、今回は徹夜をするところまでは行かなかったが、朝の3-4時まで起きていることに何の抵抗も感じなくなっていることもわかった。これは日本では全く考えられなかったことである。

今回は、とにかくこの過程を経験してそれを終えることが重要だったのではないだろうか。それしかこちらの環境に慣れるための方法はないのかもしれない。イニシエーションのような儀式の一つだったようにも感じている。結果はわからないものの、とにかく今はこの数ヶ月の静かな嵐を潜り抜けることができたことにほっとしている。それから、こちらに来た当初の精神状態とは全く変わっていることもわかる。さらには、年が明けてからの状態からも変わってきていることも感じることができる。おそらく、街を歩いていても、苦しみの中でも、少しずつ、静かに、本人にも気付かれないように何かが変わっているのかもしれない。




扉を外に開け放ち、久しぶりの葉巻を味わう。しばらくご無沙汰していたラジオからは、シカゴ・ショルティでワグナーのタンホイザー序曲がゆーったりと流れ始めている。