mardi 1 avril 2008

初めての内科検診 ― フランスで哲学とは・・・ "Etudier la philosophie en France, c'est fantastique!"


こちらに来て初めての内科検診に出かけた。数週間前にネットでランデブーの予約をしたところ、すぐに電話がかかってきて診察日を確認するという手順であっ た。当日は全身状態と血液検査を希望している旨を伝え、日本ではこのところやられたことがなかった聴診、打診、触診などの全身検査と血圧測定などをされ る。臨床検査はこちらでは病院とは別にあるラボラトリーでするシステムのようで、検査項目が書かれた処方箋を受け取る。丁度絶食状態 (à jeun) だったので、院内にあるラボラトリーで採血をしてもらって帰ってきた。この結果は後日先生のコメントともに郵送されてくるとのこと。細かい話になるが、私の場合保険がきかない状態で、診察が約100ユーロ、検査もほぼ同額であった。医療の現場を少しだけ覗いたという感じだろうか。

ところで問診の最後に、先生が「こちらではお仕事を?」と聞いてきたので仕事はしていませんと答えると、すぐに「それは素晴らしいですね」と返してきた。何もしない状態が素晴らしいというよりは、ここでも何度か取 り上げている仕事の持つ意味を理解している様子が伺えた。私がさらに、今大学で哲学を勉強していると伝えると、「フランスで哲学を学ぶなんて最高ですね」 というコメント。彼が本当にそう感じているのがはっきりとわかったので、これを聞いた時には不思議な(ほんの少しだけ感動が混じった)感覚が押し寄せてい た。フランス人が自らの哲学を取り巻く文化を冷静に評価し、その状態を客観的に捉えている様子を垣間見たと感じさせる言葉だったからだろうか。フランス哲学に誇りに思っているようにも、自分でもやってみたいと考えているようにも受け取れた。そこには浮ついた印象が全くないのである。そしてこう付け加えるの を忘れなかった。「しかもあなたのようなお年で・・・」

帰り道、私が彼と同じ立場にいて、私のような外国人が来た時に「日本で(・・・)を学ぶなんて最高ですね」の空白に何と入れればよいのだろうかと考えていた。

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少し前までは午後6時を過ぎると薄暗くなっていたのに、夏時間の影響で一気に春が巡ってきたという感じで、8時過ぎても明るい。明るい夜はなぜか気分がうきうきする。これから夏まで心が開く季節になりそうである。


lundi 31 mars 2008

フーコー、あるいはわかろうとすること、使おうとすること Foucault dit...


ミシェル・フーコーがイタリアでのインタビューで語り、しばしば引用される個所がある。この言葉に力づけられる思いがした。

Dits et Ecrits, 1974
« Prisons et asiles dans le mécanisme du pouvoir. » Entretien en Italie

M. D'Eramo: ...D’une certaine façon, vos livres se créent un public aux frontières de tous ces domaines, un public à part, « à la Foucault ». Aussi, à qui vous adressez-vous?

MF: Comme tous ceux qui écrivent, je suis un malade du langage. Ma maladie personnelle, c’est que je ne sais pas me servir du langage pour communiquer. De plus, je n’ai ni le talent ni le génie nécessaires pour fabriquer des oeuvres d’art avec ce que j’écris. Alors je fabrique --- j’allais dire des machines, mais ce serait trop à la Deleuze --- des instruments, des ustensiles, des armes. Je voudrais que mes livres soient une sorte de tool-box dans lequel les autre puissent aller fouiller pour y trouver un outil avec lequel ils pourraient faire ce que bon leur semble, dans leur domaine. ....

Les Mots et les Choses, au fond, est un livre qui est beaucoup lu, mais peu compris. Il s’addressait aux historiens des sciences et aux scientifiques, c’était un livre pour deux mille personnes. Il a été lu par beaucoup plus de gens, tant pis. Mais, à certains scientifiques comme Jacob, le biologiste pris Nobel, il a servi. Jacob a écrit La Logique du vivant; il y avait des chapitres sur l’histoire de la biologie, sur le fonctionnement du discours biologique, sur la pratique biologique, et il m’a dit qu’il s’est servi de mon livre. Le petit volume que je voudrais écrire sur les systèmes disciplinaires, j'aimerais qu'il puisse servir à un éducateur, à un gardien, à un magistrat, à un objecteur de conscience. Je n’écris pas pour un public, j’écris pour des utilisateurs, non pas pour des lecteurs.

           Dits et Ecrits I, 1954-1975. p.1391-1392 (Gallimard, 2001)


彼の作品は誰に向けて書いているのかと問われて、フーコーは次のように答えている。

「私はコミュニケーションのために言葉を使う術を知らない。その上、芸術作品に仕上げる才能も天才も持ち合わせていない。私は道具や家庭用品や武器を作っていることになる。私の本は各自の領域に利用できる道具を掘り出すことができる材料箱のようなものであることを願っている。・・・・『言葉と物』はよく読まれ たが、理解されたとはいえない本である。この本は科学史家や科学者に向けて書かれたので、2000人のための本であった。残念ながら、それ以上の人に読まれたことになる。しかし、ノーベル賞受賞のジャコブのような科学者の役には立った。彼が書いた 『生命の論理』には生物学の歴史、言説、行為に関する章があるが、そこで私の本を利用したと語ってくれた。私は広い層に向かって書いてはいない。読者ではなく利用者のために書くのである」


この言葉を聞くと彼の作品が非常に近くに感じられてくる。彼の作品の解釈に追われているだけでは彼の心に反するかのようだ。自分のわかる範囲で彼の言葉を自らの思索の材料とし、自らの仕事に使い、自らの生きる糧にしなければ意味がないと言ってくれている。 この態度は彼の作品に限らず、すべての場合に当てはまりそうである。わかろうとするだけではなく、使おうとすること。この二つの心の状態の違いは少し考え ただけでも、途方もなく大きく見えてくる。

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Photo Source: Visages de la philosophie / Foucault (Louis Monier, 17-05-2001)


dimanche 30 mars 2008

バルテュスに接した人々が描いた肖像 "Balthus, portraits privés"


先日のセミナーに向かう時のこと。サンジェルマン通りを歩いていると、以前に入ったこともあるポーランド関連の本屋さんの前に差し掛かった。今回はウィンドウに並んでいる本に惹かれて中に入った。一つはポーランドの画家による作品集で、もう一つは手に入れることになったバルテュスについての新刊。写真と絵がなかなかよいのでつい手が出てしまった。アマゾンなどで手に入れた方が若干お安いのだが、出会った時に湧き上がる感覚のまま手に入れると、その本に対する思い入れが違ってくることを経験しているのでそうなったようである。やはりタイミングが重要な人間の出会いと似ているかもしれな い。

  "Balthus, portraits privés" (Les Editions Noir sur Blanc, Lausanne, 2008)

この本の最後のほうに、ヴィム・ヴェンダース、ドナータ・ヴェンダースの追悼の言葉がある。

  De temps en temps,
  Entre rêve et réveil
  Dans ces limbes entre le sommeil et la réalité,
  Une image apparaît devant votre œil intérieur
  Et vous vous dites:
  « Seul Balthus aurait pu pendere cela ! »

  L'art du vingtième siècle n'a pas connu d'autre rèveur
  éveillé aussi précis et fantastique que lui.

                (Wim et Donata Wenders, 2007)

  時として
  夢想と覚醒の間
  まどろみと現実の間の漠とした中
  あなたの内なる目の前に一つのイメージが現れる
  そしてあなたは自らに語りかけるのだ
  「それを描けたのはバルテュスだけだろう」 と

  20世紀の芸術には 彼ほど正確でしかも幻想的な
  覚醒する夢想者はいなかった


彼のことは以前ハンモックでも何度か触れているので、どこかに惹かれるところがあるようだ。どなたかが書いていた 「美の中に暮らす」 ことを実践してきたように見えるからだろうか。あるいは、思索から生まれ出た考えとその生き様の間に溝がないからだろうか。この本は自らが語った像ではな く、多くの人の中に写っていた像が記されている。折々にページを捲り、そこから浮かび上がってくる彼の姿を味わってみたい。

芸術と脳科学の対話」  BALTHUS OU LA QUETE DE L'ESSENTIEL (2007-06-23)
バルテュスの世界に遊ぶ JOUER DANS L'UNIVERS DE BALTHUS (2006-07-23)


昨日近くの広場まで出かけてみたが、このところ見たこともないほどの人出であった。春が来ているということを実感して帰ってきた。

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パソコンがもう3時過ぎを示している。時間の感覚がそろそろおかしくなってきたかと思って部屋の時計を見ると私の感覚が間違っていないことを教えてくれる。夏時間が今日の2時から始ったようである。午前2時が3時になり、これからどんどん夜が明るくなる。


samedi 29 mars 2008

吉田喜重レトロスペクティブ Kiju Yoshida "Visions de la beauté" au Centre Pompidou


3月26日から5月19日まで吉田喜重監督の作品がポンピドー・センターで紹介されている。

  Kijû Yoshida "Visions de la beauté"

相当大掛かりなレトロスペクティブになっている。彼の作品はまだなので、この機会に少し見ておきたいものである。ポンピドー・センターのページに彼の言葉が出ている。そのタイトルには最近ここでも話題になった他者性を表す altérité が出てくる。彼は映画芸術をそう捉えていたようだ。その最後に、このようなレトロスペクティブは普通であれば作者が死んでから行われるものだが、生きてそ こに参加できる喜びが語られている。

  "Le cinéma comme altérité --- ce qui ne m'appartient pas..."
   (他者性としての映画 --- 私には属さないもの)

詳 しくフォローしているわけではないが、彼の映画自体が日本では余り顧みられなくなっていたようにも感じる中、このような催しが行われるパリ。芸術に対する態度の成熟度とでも言うのだろうか。日本での受容との差を感じざるを得ない。今自分の置かれた立場から見ると、確かに日本では芸術に対するレンズが濁りがちになっていたように感じる。自らの意思とは関係なく、個人を取り巻く社会がどこに価値を置いているのかという基本的なところが、目に見えない形で私の感受性を侵食していたかのようである。忙しさのためばかりではなく、われわれはそこにあるものさえ見えなくなっている可能性がある。

いずれにしても芸術家がこのような形で報われることは喜ばしいことである。


vendredi 28 mars 2008

フィリップ・キッチャーという哲学者 Philip Kitcher, philosophe des sciences


今週のセミナーでこの方が話すというので出かけた。ロンドン生れで、現在はアメリカのコロンビア大学哲学科で John Dewey Professor のポジションにある科学哲学者である。

  Philip Kitcher (né en 1947)

セミナーのタイトルは "Ethics after Darwin"。彼がこの20年ほどの間書き続けているテーマとのこと。ジョン・デューイの言葉に同意し、倫理の問題は一生考え続けなければならない問題で、終わりがないものとして捉えている。まさに生きることは哲学すること、問を発し続けることというここでの営みとその精神を一にする。彼は、遺伝子の選択により人間の行動が進化してきたとするごりごりのダーウィニズムに基づく社会生物学 sociobiology の立場を批判的に捉えているようである。倫理の問題について考えたことがないという状態での聴講になったので、専門家のご教示を仰ぎたいところである。

倫理を取り巻く哲学的問題は歴史の光の下で理解される、との言葉。この世のものすべてに当てはまりそうである。そして、この問題をジョン・スチュアート・ミルが言ったという "experiments of living" を5万年前から辿ってくる。最初は face-to-face のコミュニケーションが可能なグループ (30人くらいとしていた) で生活するようになり、そこで生物学的な利他主義 (自らの繁殖を犠牲にして他の人の繁殖の利益になるように振舞う) の傾向が現れたのではないかと考える。それから心理的な利他主義 (例えば、机の上にケーキがのっていてそこには誰もいない場合には一人ですべて食べてしまうが、他の人がいればすべてを食べることは差し控え、他の人もご相伴に預かれるようにする心理などを生み出すもの) も原始の社会を維持するために必要だったと考えている。

2万年から8千年前になると、その社会も1000人単位になり、社会のために道具を遠くから運んでくるようになり、そのためのネットワークも出来上がっていたのではないか。そこでは、倫理が交通手段などのテクノロジーや共同作業、さらには豊かな人生を味わうという新たな人間的な価値を生み出す動力になり、5千年ほど前にはそれまで 排除されていた異邦人、奴隷、女性などもグループのメンバーとして迎えられ、新しい人間の生活パターンが生れたと想像している。

倫理は人間の基本的なところに由来するもので、利他主義の精神はすでにそこにある。さらに、倫理は人間社会の破綻の危機に反応するために生かされてきたのではないかと考えている。倫理に纏わる問題は、ある原理のようなものに基づいて、例えば人はこうすべきではないとかこうあるべきだ、というように大上段に構えるのではなく、歴史をじっくり観察しながら考えを深めていく対象ではないかという考えの持ち主とお見受けした。すべてを受け入れた上で何が見えてくるのかという柔軟で、しかもそれをやり続けるという執拗な姿勢である。この点では遺伝子の自然選択だけを基に議論する立場とは明らかに異なっている。


実は、このセミナーがあるとの連絡が入った復活祭の休日、ネットをサーフして調べていたところ、科学をテーマにしたインタビューを流している Point of Inquiry というサイトに行き当たった。ここは科学と非科学や宗教との境界、超自然現象、代替医学など、謂わば純科学そのものではなく、その周辺との関連に焦点を合わせて各界の人に考えを聞くという場所のようである。そこに彼のインタビューがあった。

Philip Kitcher - Living with Darwin (July 13, 2007)

流 して聞いた印象では、アメリカのような厳しい競争社会では宗教のような人の心に平安を与えるものが必要ではないのか。それが必要のない人にとってはどうでもよい問題かもしれないが、それを必要としている人がいる、またコミュニティにおいてもある役割をしているという認識のようである。この点は以下の 「利己的遺伝子」 の著者リチャード・ドーキンスの話と聞き比べてみると、その違いがはっきりしてくる。アメリカの進化主義に反対する勢力の強硬なことは夙に聞こえてくるが、具体的にどうしたらよいのだろうか。進化主義は無神論に結びつくのか。教室でのダーウィンをどうするのか。彼の考えは、ダーウィニズムは生物学の授業ではなく、社会や歴史の授業で比較社会学、比較宗教学的視点で教えるべきではないのかという。つまり、すべての宗教は同じ考えを持っているものではなく、またダーウィニズムだけが神に抗う ものではないということを教えないとこの問題は解決しないと考えている。彼の発言を聞き、この問題の根が私の想像を超えた深さにあることを思い知らされ る。
  
Richard Dawkins - Science and the New Atheism
(December 7, 2007)

宗教の問題でも倫理の問題でも上から鉈を振り下ろすのではなく、問題を抱え込んで考え続けようとする姿勢に好感を持った。彼がドーキンスやダニエル・デネットなどと相容れないのがよくわかってくる。彼らの売らんかなの姿勢にも批判的なようだ。



jeudi 27 mars 2008

アン・マレー Anne Murray


先日、ネットをサーフしている時に、いつもはうるさく感じる宣伝の中にあったこの絵が目に留まった。その中にあるビデオが流れ出した途端、アメリカ時代によく耳に入っていた彼女の歌声が懐かしく飛び込んできた。頭の中だけでの生活に外から 健全な(?)風がそよいで来たと印象だろうか。最近女性だけによるデュエットのコンピレーション・アルバムを作ったことを知る。

  Anne Murray (born Morna Anne Murray on June 20, 1945 in Springhill, Nova Scotia, Canada)
    CD : "Anne Murray Duets: Friends & Legends"

彼女の歌声には刺激的なところはなく、特に何かの主張を強く訴えるということもなく、自然体で正直な人柄が表れていると感じていた。ただ心地よく耳に入って くるというタイプの歌手ではあるが、意識して聞こうというところまでは行かなかった。彼女のようにゆっくりした歩みを続けている人の中に、残る人が出てくるのかもしれない。以前より声に深みが増し、より魅力的にになっている。若い歌手に大きな影響を与えていることが、宣伝用とは言えそのビデオから伺える。 久しぶりに英語の歌を意識して聞いてみることにした。


mercredi 26 mars 2008

立ち去った後に Après être partie


大学の教室の前の掲示板に新規登録の案内が出ている。それを見た時、こちらに学生として来ることを最終的に決めてからもう1年も経ったのか、という思いが浮かぶ。振り返ってみると、昨年の3月にはこちらに来て模索の日々を過ごしていたことがわかり、ハンモックからは運命の出会いの記事が出てきた。すべての書類を4月15日までに、などという日付を見ると、去年必死に書類を集めていたことも思い出す。早いものである。そして、当時がまるで別世界のように感じられる。そんな時間を過ごしていたなどとは信じられないくらいだ。

以前、ハンモックで寺山修司の次の言葉を引用したことがある。

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 人には 「歴史型」 と 「地理型」 がある。歴史型は一ヶ所に定住して、反復と積みかさねの中で生を検証し、地理型は拠点をかえながら出会いの度数をふやしてゆくことによって生を検証してゆくのであった。
 従来の日本人の魂の鎖国令の中で、春夏秋冬をくりかえす反復性を重んじたが、私はそうした歴史主義を打破して、地理的、対話的に旅をしながら問い、去りながら生成したい、と思ったのである。
 
                     - 旅の詩集 -
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確かに、立ち去った後に見えてくるものがあり、立ち去った後にしか見えてこないものがあるようだ。 「さよならだけが人生」 という言葉に異常に反応した寺山。おそらく身近な意味での 「さよなら」 に対する彼の反応だったのかもしれない。去らなければ見えないものがもしあるとすれば、より広く長い視点からの 「さよならだけが人生」 の中には真理はあるように見えるのだが、、


先日、これからパリで学ぶために準備をしているという20代前半の方から丁寧なメール (お手紙と言った方がよいだろう)をいただいた。数年前からブログ読んでいただいているとのことで、若い方にも通じるものがあることを知りそれだけでも充分な言葉なのに、その上ここにある文章に力付けられることもあったと書かれてある。私の独り言が人を促す力を持っているなどとは想像もしていなかったので、深い満足感が訪れていた。

このところ話題にもなっていた他者との関わり。このブログを書き続けている訳を問い詰められれば、ここで起こる読者とのやり取りの中で誤解を正し、自らを考えさせ、育てたいという想いがあるのではないか、と答えるかもしれない。



mardi 25 mars 2008

イディール Idir とコリューシュ Coluche


メトロにガンジーと並んでこの人の写真が大きく出ている。その顔に馴染みがなかったので、横に坐って待っていた方に聞いてみる。Idir という名前を綴ってくれた。

Idir (1949- ) site officiel

アルジェリアの北部、カビル Kabylie で生れたベルベル人と 紹介されている。ベルベル人としての誇りを持って、その文化を紹介する人生をこれまで送ってきたようだ。同じ出身であるジダンの中にもその誇りを見る思いがする。この芸名はカビル語で « Il vivra » (生き延びる) という意味があるという。今は立派な体躯に恵まれているようだが、生まれた時の状態を想像させる名前である。早速YouTubeを見てみたが、民族色の強 い音楽で懐かしさと底から湧き上がってくるような生命力を感じる。マグレバンへの思慕をさらに強めてくれるかのようだ。

YouTube : 1, 2, 3

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この話にはその後が待っていた。賢犬様からこの写真の人物は喜劇役者のコリューシュColucheではないのかとのコメントが入ったからだ。私も実際にイディールさんの映像を見て違和感を持っていたが、いつもの癖でそのままにしておいた。今しがた明日の写真を選ぼうとしてファイルを見ていると、このポス ターを撮った時のものがいくつかあり、その中に彼のことを説明している文章が写っているのが見つかった。写真の主は賢犬様のご指摘の方と言って間違いなさ そうである。フランス人であれば知らない人がいないと言われている方のようなので、私が聞いた相手はひょっとするとフランス人ではなかったかもしれない。 先日の論理学の話ではないが、一人からの情報だけでは真実に辿り着かないことがあるという教訓だろうか。いずれにしても賢犬様のお陰で私の方もすっきり し、しかも新たに二人の方を知ることになった。

  Coluche (28 octobre 1944 - 19 juin 1986)

wiki によると、下劣・野卑にはならないぎりぎりの芸で社会のタブーやモラルを攻撃した挑発者だったようだ。1970-80年代には映画にも出演するようにな り、1984年にはセザール賞の最優秀男優賞を受賞。1981年の大統領選にも出馬したが、側近が暗殺され選挙戦から退く。その年の暮れには離婚。酒と薬に溺れ、鬱が襲うようになる。

彼をさらに有名にしたものに、貧しい人に食事をという Les Restos du Cœur心のレストラン) の運動がある。彼の言葉、« Je ne suis pas un nouveau riche, je suis un ancien pauvre » (私は成金ではなく、元貧乏なのだ) にその根を忘れない気持ちが表れているようだ。その立ち上げをした数ヵ月後にカンヌ近くでバイク事故のため亡くなっている。41歳の若さであった。



lundi 24 mars 2008

存在と沼?  "l'être et l'étang" ?


先週の論理学のクールでのこと。

  「これまでに見た (1-->n 羽の) コルボーはすべて黒い」

ここから 「n+1 番目のコルボーも黒い」、あるいは 「すべてのコルボーは黒い」 と言えるか、という典型的な帰納 induction の問題を話している時だった。学生の一人が、その例は余り適切ではないのではないかとコメントを発した。その理由を聞いて、先生はじめ学生の皆さんがにんまり。この例はすでに知っていたので、私もその中に入っていた。

彼は corbeau (烏) を corps beau (美しい体) と解釈していたのだ。これを聞いた時、フランス人でも聞き間違えがあるのだと思い少し嬉しくなっていた。その理由を聞いた先生は、それはハイデッガーにこう聞くのに似ていますね、と言って今日のお題の例を出した。

ハイデッガーに 「存在 (Sein)」 と 「存在するもの・存在事象 (Seinde)」 という概念があるらしい。それを 「存在」 と 「沼」 だと思い、それは一体何のことですかと聞くのに似ているというのだ。

 "l'être et l'étant" --> "l'être et l'étang"

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先日の Lunettes rouges 氏と若い学生に混じっての生活について話している時、彼らが奇怪な動物 animal bizzare でも覗き込むようにして見ないかと聞いてきたことを思い出した。これは以前にMDからも聞いていたので、同年代の人はまずそういう疑問を持つようだ。彼らの心の中はわからないが、外からはそういう様子は感じ取られないというのが私のいつもの答えになっている。

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その後、質問の主はスペインからの留学生であることがわかった。わたしの耳には外国人のフランス語には聞こえなかったということで、そのレベルが明らかになった。



dimanche 23 mars 2008

なぜ人を殺してはいけないのか Pourquoi ne faut-il pas tuer l'homme ?


朝起きて部屋を歩いている時に、何年か前にマスコミで頻繁に取り上げられていたこの問のことが頭に浮かんでいた。詳しくフォローしていたわけではないので大雑把にしか言えないが、私の中では子供が発したこの問に対して大人は誰も答えられない、というような流れではなかったかと思う(詳細をご存知の方には訂正をお願いしたい)。それが浮かんだ訳を考えてみると、このところいろいろな方にお会いして自分がよくわかるようになり、あるいは違った側面が見えてきていて、大きく言うと人間として存在する時にそのことが非常に貴重に思えたことと関係があるのではないか、とすぐに思い至った。つまり、お題の問に対する一つの答えがそこにあるように思った。

われわれが生きていく上で、さらに言えばより善く生きるためには他者が必要であるということを意味していると考えた。われわれは他者の中に、あるいは他者の中にしか自分を見出せないのではないだろうか。最近も触れたが、 自分の姿は自分では見えないか、自分の見ていると思っている姿が必ずしもそのすべてではない可能性があり、常に他者の鏡を必要としていると言うことかもし れない。われわれはそこに映る自分を眺めて、初めて自分の新たな一面を確認することになる。したがって、よく映る鏡を沢山持っている方がよいだろう。サル トルの言葉を待つまでもなく、他者はわれわれの善き教師ということになる。ある意味では自分自身と言ってもよいだろう。考えがそこに至ると、他者の消滅は自らを消滅させることと同義になりはしないだろうか。


そんなことを考えながら、朝から前期の先生から連絡のあったセミナーに出かける。テーマは宗教的経験、神秘主義(神秘体験)についてで、講師はアメリカの大学で現象学を研究している Anthony Steinbock さん。フランス語で話していたが、込み入った議論になると英語に移っていた。神秘体験については、われわれが普段生活している世界を水平な (horizontal) 世界とし、そこから垂直に別の状態に移行する、あるいは落ちる (chute という言葉を使っていた) 過程として、verticalité という概念を持ち出していた。またこの精神状態が正常なのか病的なのかという問題もあるようで、興味深く聞いた。

彼が最初に話していた中で、すべての神秘体験は宗教体験だが、すべての宗教体験が神秘体験というわけではなく、人様々なものを見ると言っていたので、もし神秘体験が病的状態だとすると論理的には宗教体験のある部分 (神秘体験が占めている部分) は病理現象になるのではないかと聞いてみたが、その点には気付いていなかったようだった。彼はむしろ神秘体験をポジティブに捉えていて、正常の範囲を逸脱 したものだが正常を超えるもの hypernorme であると言っていた。それを聞いて、カンギレムの「正常と病理」の底にある考え方 (例えば、正常と病理の境界の問題、病的状態に入るということは新たな、以前よりもよい状態に至ることを意味している) を思い出していた。


2 時間に及ぶセミナーの後、研究所に向かうもPâques(復活祭、イースター)の休日でお休み。過去に生きていると現世のことに疎くなるようだ。帰ってく る途中、Presse の看板のある店で雑誌に目を通していると、朝考えていたテーマを扱っている人文科学の雑誌が見つかる。このところ、こういう繋がりがよく目に付くように なっている。そこでの哲学的問は "A-t-on besoin d'autrui ?" (われわれは他者を必要としているか) というもので、昨日話題になった他者性 altérité とも関連し、本日の問とは同質のものだろう。その中によく知られた逸話が紹介されている。この例は、現象としては生れてから野性の中で生きていた人間がど のようになるかを示しているが、さらにわれわれは他者をモデルとして初めて人間になることができることを教えてくれる。ルネ・スピッツ René Spitz という人の研究によると、言葉と愛情を奪われた子供は歩くこと、話すことができないのは言うに及ばず、しばしば死ぬにまかせるところまで行ってしまうという恐るべき結果が出されているという。

この記事の最後にモンテーニュの言葉が引用されている。朝考えていたことを的確に捉えてくれていると感じ、嬉しくなっていた。

"Si on me presse de dire pourquoi je l'aimais, je sens que cele ne se peut exprimer, qu'en répondant : 'Parce que c'était lui ; parce que c'était moi."

(私がなぜ彼(女)を愛していたのかを問い質されれば、次のように言うしかないように感じる。「なぜならそれが彼(女)であったからであり、それは取りも直さず私であったからです」 と。)




samedi 22 mars 2008

3年振りの再会、あるいはミロスラフ・ティッシー Retrouvailles avec Lunette rouges ou Miroslav Tichý


今年の2月初めのことになるだろうか。3年ほど前にこちらに来た時に不思議な糸に導かれるようにして会うことになった、ル・モンドで Amateur d'art という芸術ブログをやっている Lunettes Rouges 氏からメールが入った。私の仏版ブログを見たものと思われるが、パリで学生をやっているのだったら、また一杯やりませんか (on reprend un verre ?) というものだ。当時はメモワールで忙しかったので、それが終ってからであれば問題ありませんと返事を出しておいた。そして、ほとんど忘れかけていた今週初め、街を歩いている時に携帯が鳴り、昨日セーヌ沿いのカフェで会うことになった。

話し始めてすぐに学生生活の話になったが、何と彼も今はマスターの1年目だというので驚いてしまった。2年ほど前にロンドンでやっていた仕事を止め、1年間聴講生をした後にその先を模索している時にブログで知り合ったパリの大学院大学の教授の助言で芸術史を学ぶことにしたという。今は私と同じように、分野違いのことをやる楽しさについて、昔と変わらない早口で話していた。彼の場合、もともとエコル・ポリテクニクで理系の教育を受けた後、MITで経済の勉強をしているので文系の素養もあると思った。しかし、経済は科学と余り変わらない頭の使い方をするようで、芸術関係はほとんど素人に近いと見ているようだ。具体的には写真について興味があり、テーズを書くところまで行きたいとのこと。その話の中で、チェコの写真家を紹介していただいた。

ミロスラフ・ティッシー Miroslav Tichý (né le 20 novembre 1926 à Nětčice, Moravie)

とにかく、波乱の人生を送っている人のようで、プラハの芸術大学で絵画を学び将来を約束されていたが、入ってきた共産主義に抵抗。監獄で8年ほど暮らす。その後、アルコールに溺れたりして社会から遠ざかるようになる。そして彼独自のカメラを隠し持って街を歩き、人間と言ってもほとんど女性 (femmes dans la rue と言っていた) を撮ることになる。その写真が最近になり評価されるようになっているという。ティッシーの展覧会が6月24日からポンピドゥー・センターで開かれる予定 で、彼はその責任者とのこと。さらに、それにあわせて出る本の一章も書いているとのことで、すでにテーズの題材は揃っているようだ。

彼はティッシーのことを「この世から引き篭もった隠遁する遊歩者」 (flâneur retiré du monde) と表現するのがよいと考えていたが、このキーワードは私が求めている姿にも近いので驚きながら聞いていた。それはさておき、今しがたティッシーの写真を眺めていたが、何とすんなりと入ってくることか。是非ポンピドゥー・センターには足を運んでみたいと思わせてくれた。彼の話では日本でも展覧会がやられたとのことだったので調べてみると、昨年秋に東京で開かれている。

ミロスラフ・ティッシー展

ところで、私を10歳以上若く見ていた彼に、3年前のランデブー以後に起こったことを話したが、ほとんど完全に理解できるという反応だった。よくよく聞い てみると、そのランデブーに前後して病気になり、人生を別の視点から考え直したという。終わりを意識すると哲学的になるようである。彼の場合、仕事が終ったら綺麗さっぱりそこから去り、全く新しいことをやりたいと五十になった辺りから考えていたようだが、その点は私とは異なっている。そして、これまでしっ かり働いたので、これからはそれをすべて使うだけだ!という計画。私の住処を聞いて、郊外などに住んでいないで街の真ん中に出てこないか、とでも言いたげな様子であった。たっぷりエネルギーをいただいた嬉しい再会になった。


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(23 mars 2008)
昨日、彼がカフェに入ってきた時、3年前とは別人に見えたので一瞬確信が持てなかったことを思い出した。向こうが私を確認しているようだったので、初めて分かったのである。彼の話によれば、当時は手術をした後だったかもしれないとのこと。昨日の生命漲る姿をやや弱々しく見えるハンモックの記事に掲げた写真と比較すると、やはり別人の印象がある。病気を経て新たな段階に入ったのではないかと想像していた。





vendredi 21 mars 2008

自分を語るということ Parler de soi-même


前の記事にヨーロッパの国々が陸続きにあると書いたことが頭に残っていたのか、朝起き掛けに島国に生きるということとの関連を考えていた。言葉の上では特に新しいことではないと思うが、実感しているので書いてみたい。

以前にどこかに書いた記憶もあるが、私が最初にアメリカに行って困ったことは、言葉の問題を超えて自分のことを彼らにうまく紹介できないということだった。 全く自分の背景を知らない人に対してどのように説明したらよいのか、そのやり方を知らなかったのだ。それまで日本で生きる中で自己紹介のようなことはして いたと思われるが、それでは到底理解されないということに気付いたのだ。同時にそれは、全くの他者という存在を考えずにそれまで生きてきたことを意味している。それが島国に生きることの意味なのかとも考えた。そして、他者に対して自らを語る術を覚えると、急速に世界が広がってきたことを思い出す。その術とは、この広い他者に溢れる世界の中に自分を置き直しその存在を考える、言い換えれば自分をこの世界に存在する他者として見直すという作業になるのだろう。

翻っ てこちらの若者の様子を見ているとそれがすでにできていて、心を開く術(自分を他者として見ることから始るか?)を知っているように見える。そこが大きく違っているようだ。おそらく、今こちらに来ている日本の若者も私と同じような経験をしているのではないかと想像している。そこで再び内向きになり(日本の 目に戻り)彼らに対するのではなく、自らを外に開くような視点が得られると素晴らしいと私からは見えるのだが、いかがだろうか。これは若者だけの問題ではなく、われわれすべての問題、延いては今の日本にも顕れている問題なのだろうが、、。


エクスポゼ始まる


フランス語のクールでエクスポゼとディスカッションの時間が始った。現在この世界で起こっている問題についてそれぞれが10分間、毎週3-5人が発表し、討論するというもの。

普段頼りなさそうにしていたり、冗談ばかり言っていたりする彼らが、急に見違えるようになる。中にはやや頬を赤らめながら発表している者もいるが、皆さん立 派で、世界の問題を身近な問題として考えようとする姿勢がはっきり見える。われわれには想像できない、他国が陸つながりにあるという感覚。ヨーロッパにい るとそれが実感でき、頭の中がわれわれと明らかに違うことがわかる。さらに、自らの主張をしっかりと言い、それ通そうとする姿勢がはっきり出ている。彼らの存在そのものがそこに顔を出す。この辺りが日本の学生との大きな違いになるだろう。日本の場合には、それを知っていればいいのでしょうとでも言うのか、 知識の所有を教養と考えている節があり、それを体で生かそうとする姿勢に乏しいように感じている。これはわれわれも含めた日本人全体に共通する問題で、それが単に若い人に顕れているだけなのかもしれない。類似のことを先日の日仏会議でも感じていたが、こういうところにもヨーロッパ精神なるものの一端を見る思いでいた。さらに好感を持てたのは、形には余りこだわらず素直な気持ちが前面に出ている点で、アメリカとの違いのように感じながら聞いていた。

哲学の方でもエクスポゼをやらせるクールが出てきている。こちらはもっと専門的な、落ち着いた香りがする。昨日は一人で30分というところを1時間たっぷり やっていた。なかなかしっかりして、内容の新規性はわからないが発表のやり方はプロと変わりがなかった。皆さんがこの程度できるわけではないだろうと思う が。中休みに話したところによると、彼は哲学を天職にしようと考えているようだ。先生にとってはエクスポゼは比較的リラックスできる楽しい時間なのかもし れない。


Radio Classique では、私も日本で一度だけ聞いたことがある鈴木雅明氏率いる Bach Collegium Japan の特集が流れている。



jeudi 20 mars 2008

初めての歯科


このところ2月の方が暖かいと思われるくらい冷たい風が吹いている。昨日は紹介していただいた歯医者さんに出かけた。日本にいる時に描いていたフランスの歯科のイメージは、なぜか旧式の機械や道具を未だに使っているというもので、できれば日本で治療したいと思っていたのだ。しかし、以前に治療してもらった歯が崩れてきたので、思い切って見てもらうことにした。

メトロを乗り継いで出かける。こちらでよく見かける住所の番号がつながっていない建物だったので困っていた。そこに、私もよくはわからないのですが、と言ってご婦人が話しかけてきて、目的地に着くことができた。これもよくあることだが、外見は古い建物だが中は趣のある作りになっていて機具も最新式、非常に気持ちよく受診できた。虫歯が悪くなりつつあるのでしっかりやってしまいましょう、そうすれば歯をきっちり磨くだけで一生歯科に来る必要がなくなります、との非常に楽観的なご宣託をいただいた。来月再度出かけて治療方針と見積もりを見比べることになった。

昼から研究所へ。何かの拍子にサンテグジュペリの飛行機を撃ち落としたという元ドイツ兵の本が出るとのニュースを数日遅 れで目にする。数時間過ごした後、夕方のクールへ出かける。 クールの後、台湾からの留学生と一緒になり、メトロまで話してきた。彼女はリサンスから来ていて今年で2年目になるが、いずれはドクターまで行きたいようであった。大学近くの映画館でやっている溝口健二の 「祇園の姉妹」 を見てから帰るとのこと。大学生活を楽しんでいる様子が伝わってきた。

*Saint-Exupéry abattu par l’un de ses lecteurs (彼の読者に撃墜されたサンテグジュペリ)
*Horst Rippert, l'homme qui a abattu Saint Exupéry raconte pour la première fois, le secret du Petit Prince dévoilé... (ホルスト・リッペルト、サンテグジュペリを撃墜した男が初めて星の王子さまの秘密を明かす・・・)


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(14 mai 2015)

この歯医者さんには今でもお世話になっている

確かに、この時に治したところは問題がない

しかし、それ以外にも沢山ある

時の経過が齎すものは、受け入れなければならないのだろう

これからもお世話になりそうである






mercredi 19 mars 2008

遠くを想う熱


この週末、ハンモック (このブログの前身 「フランスに揺られながら」) の記事を読み直すことがよくあるのに、このブログを読み直そうという気には全くならないことに気付く。現在進行中のものなので、振り返る余裕がないという ことなのだろうか。まだ振り返るだけの歴史がないということも一因だろう。ハンモックでは遠くを想いながら熱く語っている印象が強いが、このブログではその遠くが現実になり、再び 「現在」 だけに目が行っていることを意味しているのかもしれない。AVFP を読み返そうなどと思うのは、おそらく時間が経ち精神的に余裕が出てきた時、あるいは次の段階に入った頃になるのだろう (そういう時があればの話だが)。ところで、未だハンモックを訪れる方が後を絶たない状態が続いている。遠くを想う、その熱のようなものが表れているのだろうか。あるいは単に Google/Yahoo のお陰なのか。いずれにしても命を紡いでくれていることは嬉しいことである。

バルコンに出てみると、鳥の囀りに混じってどこからともなくトランペットを練習する音が流れきて、懐かしさを誘う。かなりの腕前のようである。


mardi 18 mars 2008

長崎からのお客様


昨日は、長崎大学のM先生がこちらの研究所との共同研究のために来られたのでお会いすることになった。いつからお知り合いになったのかわからなくなっていたのでお尋ねしたところ、8年ほど前に福岡であったシンポジウムで言葉を交わしたのが始まりとのことであった。先生が10年ほど滞在されたアメリカから帰国 されてまもなくの頃ではないかと思う。それから私が所属していた研究所でも超満員の講堂で講演していただいたことがある。それ以来ということになるから不思議なご縁である。

今回はホテルで推薦されたレストランがお休みだったため、思い切ってカルチエ・ラタンまで出て、1906年開店という由緒あるレストランに辿り着くことができた。日本では年度末で忙しい時期でもあるためか、こちらの時間がゆったり流れているのに感激されていた。また、こちらの人の応対を見ていて、人当たりが優しい、柔らかい感じがするという印象を持たれたようで、アメリカよりは日本人に合うのではないかとの観察。私もこの観察には同意したい。

忙しい日本では哲学的な思索に時間が取れないので、今回のようにその場を離れる時間が貴重であるとのお話であった。長崎は西洋との接触が古く、学問的にも古い資料が沢山あるのではないかと期待していたが、大学が爆心地にあったためほとんど残っていないようだ。大学での教育、例えば最近興味が沸いている医学の歴史や倫理が教育されているのか、されている場合にはどのように行われているのか伺ってみたところ、歴史などは大学に入ってすぐ、倫理の面はその後も週に一コマ程度の時間は割いているとのお話であった。帰国した折には是非とのお話であったので、現場で直接お話を 伺ってみたいという希望が芽生えていた。

今回は遠路日本酒を持参していただいたので、やっと日本から持参したお猪口が使えることになった。次回は長崎でワインの乾杯をしたいものである。

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今朝、メトロの中でフランス語のクールの資料にあった、特にBRIC (Brésil, Russie, Inde, Chine) への投資に関するル・モンドの記事を読んでいる時、長崎という土地柄もあり、中国や韓国とも連携を深めているという話の中で、あの広い中国に時差がないと いうことが指摘されていたことを思い出した。北京は時間の流れまでもコントロールしているということだろうか。




lundi 17 mars 2008

最も美しいもの

  
 

 日曜の午後、近くのビブリオテクに紛れ込む

そこで開いた一冊の中からこの言葉が飛び込んできた

17世紀デンマーク生れの解剖学者にして地質学者の言葉としてあった


« Beau est ce que l'on voit;
      
plus beau est ce que l'on sait;

et de loin le plus beau : ce qui demeure impénétrable. »
             

Discours sur l'Anatomie (1673)
Nicolas Sténon (1638-1686)



「美しいもの、それは目に見えるもの
        
それより美しいもの、それは理解しているもの

そして圧倒的に美しいもの、それは説明不能であり続けるもの」

                      ニコラウス・ステノ
                             『解剖学講義』 (1673年)



dimanche 16 mars 2008

ウィリアム・シーリー・ゴセット William Sealy Gosset

ウイリアム・シーリー・ゴセット
William Sealy Gosset, 1876-1937


ENSのクールの中で出会った。その日、2つの実験群の平均値間の有意差を検定するためにこれまでの研究生活で使っていた Student t test が彼の作品であることを初めて知ることになり、新鮮な風が頭の中を駆け抜けていった。

彼はオックスフォード大学で化学と数学を学んだ後、1899年にギネスビール社のダブリン醸造所に就職。統計学を醸造と大麦の改良などに応用しながら研究を重ねる。1906年から1907年にかけてカール・ピアソンの研究室で研究し、1908年に少ないサンプルについて正確な答えを得るための方法を "The probable error of a mean" (平均値の誤差の確率分布) という論文にする。それが有用なのは、次のような理由による。まず必ずしも多くのサンプルが得られるとは限らない実験がある。その場合、ある集団の代表で はなく外れのところを見ている可能性が出てくるため、同じく少ないサンプルからはじき出した他の集団の平均と比較しても、それが二つの集団の間の真の差を 意味する保証がない。そのため、その意味を明らかにする方法が必要になるということになる。

この論文は、ギネス社が企業秘密の問題で社員が論文を出すことを禁止していたため、Student というペンネームで発表された。ピアソンはその意義に気付かなかったようだが、統計学の大家ロナルド・フィッシャーがその重要性を認識し現在の形にした。しかし、この本質はゴセットが見出したものとして彼の名前が付けられ、スチューデントのt検定(Student's t-test)として現在でも広く使われている。



再び険しい山々が


近くまで買い物に出る前にボワットー・レットゥルを開けると、注文していた本の包みが2つ見つかる。それを持ったまま出かける。目的の店が閉まっ ていたので、お昼の散策に切り替える。これまで行ったことのない道に入り、小さな緑の場所にあったバンクに坐り、先ほどの本に目を通す。図書館よりは外で読む方がよく頭に入ってくるようだ。おまけに声に出して読んでも誰からもお咎めがない。気持ちよい小一時間を過ごす。

帰ってから、週末にたまに触るだけの大学からもらった学生用のメール・ボックスを開けてみると、哲学科のオフィスからメールが入っている。マスター1年目のメモワールの締め切りが5月中旬とあるのを見て驚く。後期のミニメモワールはこの時期でも、メモワールの方は6月か9月くらいではないかと高を括っていたからだ。再び険しい山々が眼前に現れてしまった。しかも2ヶ月でこのすべてを登らなければならないことになる。徹底的にお勉強させられるという印象だ。その山を登り終わると素晴らしい景色が見えるのだろうか。とりあえず、学生の場合には3ヶ月に及ぶ夏休みが待っているという仕掛けなのだろう。しかし、まだテーマも決まって いない今度の登山は落石や転落も覚悟の上で行くしかなさそうな予感がする。



samedi 15 mars 2008

アドルフ・ケトレーと平均人


不思議なつながりを感じることがある。先週土曜にランデブーがあり、その時に私の生き方がいわゆる正規分布から外れるものであることを指摘されて、妙に納得したことについてはすでに触れている (2008-03-09)。ところで、今週最初のクールがその話から始ることになるとは、誰が予想したであろうか。そのクールのテーマは計量的研究で、その中にケトレーという統計学的な手法を持ち込んだベルギーの研究者が颯爽と登場してくるのである。

アドルフ・ケトレー Adolphe Quételet (7 février 1796 à Gand - 17 février 1874 à Bruxelles) 

彼は当時天文学に用いられていた統計学を社会科学に持ち込み、「社会物理学」 を提唱している。この手法で集団におけるある現象の分布状態を明らかにし、その正規分布の中央に来る平均的な人間について "l'homme moyen" 「平均人」 なる概念を持ち出している。この概念を中心に、結婚、犯罪、自殺、社会における行動規範のようなものを解析しようとした。集団を解析する彼の方法は医学の分野にも影響を与えたとあるが、より広く人間の考え方に大きな影響を残しているように感じられる。私から見るとそれは管理する側の発想で、一人ひとりに とっては悪い影響があるとしか思えないのだが ・・・ もちろん、ほとんど聞こえないような声で独り言を囁くように講義するそのフランス人教授 (今までに見たことがないタイプ) も私と同じ考えを持っているように受け取った。しかし、先週のお話ではどうもほとんどの人 (少なくとも日本人?) はそうは考えないようである。

彼の業績に身近に触れることができるのは、体重 (kg) を身長 (m) を2乗した数字で割って計算する BMI (Body Mass Index; Indice de masse corporelle) だろう。日本語ウィキには彼の名前は出てこないが、ケトレー指数 (l'indice de Quételet; Quetelet index) とも言われているもので、太り過ぎ・痩せ過ぎを数値で私たちに教えてくれる。


同じこの日、これまでの研究生活で使っていた、2つのグループの平均値の間に有意差があるのかどうかを検定するための Student t test という方法に出てくる "Student" の背景を知ることになり、あの嬉しい感覚が再び訪れた。ひょとすると、「・・・とは実はこういうことだったのか」 とわかった時に訪れる爽快な感覚を味わうために今歩んでいるような気もしてくる。

Student = イギリスの統計学者 William Sealy Gosset (June 13, 1876–October 16, 1937) のペンネーム。詳しくはこちらを。



vendredi 14 mars 2008

サンテックスと私



ある時が経ってから思い出されることが最近よくある。

先週土曜のランデブーで話題にしたことを思い出した。


先日トルビアックのクールを受 けた後、近くのFNACを散策する。そしていつものように哲学コーナーに入った時、「星の王子様」 を哲学するというようなタイトルの本を見つけ、この本が哲学の対象になっていること知る。まだ原作に触れていないのでこの有様である。サンテックスについては、2年ほど前にハンモックに記事を書いている。その記事を読み直してみると次のような言葉が見つかった。
« Dans la vie il n'y a pas de solutions ; il y a des forces en marche : il faut les créer et les solutions suivent. »
 
「人生に答はない。あるのは前に進む力だけだ。その力を生み出すのだ。そうすれば答は後からついてくる。」
これはハンモックでも触れ、ここでも最近も触れた、 私が若い時から意識していた 「モーター」 のことではないかと気付くと、急に彼のことが近く感じられるようになってきた。最近コメントにも書いたが、マグレブを訪れるという以前からの願望も年内には実現したいと思っている。またこちらに来た遠い理由の一つに、この北アフリカの地を日常感覚で訪れてみたいということがあったようにも感じている。

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私のように "Le Petit Prince" が未だの方は、Wikilivres で。
  
video はこちらです。




jeudi 13 mars 2008

Semaine Japonaise à l'ENS



昨日ENSのクールに向かうとこの景色が現れた。

今日3月13日から20日まで日仏交流150周年を記念して日本週間ということになるようだ (プログラムはこちらから)。

それに関連して (?) 以下のコロックも予定されている。

 Colloque franco-japonais
 Genèse, édition, interprétation. Les brouillons de Proust
 21-22 mars, salle Dussane

時間が取れればどれかには顔を出してみたいと思っているが、、




最後の Poilu、亡くなる



1月に 「Poilu 毛深い人?」 で第一次大戦の生き残りの方が亡くなり、最後の一人ラザール・ポンティセリさんだけになったことを書いた。その最後の方が水曜に110歳で亡くなった。以下、AFPの記事から。

歴史に残る過酷さだった第一次大戦のフランス兵士850万人の最後の一人ラザール・ポンティセリ (Lazare Ponticelli) が娘さんの家で110歳で亡くなった。1月20日にルイ・ド・カザナーヴ (Louis de Cazenave) がやはり110歳で亡くなっているのでその僅か7週後ということになる。

サルコジ大統領は国民を代表して、深い哀悼と限りない悲しみを表明した。近日中に大統領出席の下、ポンティセリさんはじめ戦争で亡くなったすべての人のための国葬が執り行われるとの発表があった。ポンティセリさんは国葬には反対であったが、亡くなる前にすべての戦友に対するものであればという条件でこの提案を呑んだ。これで第一次大戦を戦った兵士は世界で8人だけになった。

1914-1918年戦争では140万人の兵士を含む1000万人が犠牲になっている。1914年8月1日から1918年11月11日の51ヶ月の間、一日平均900人が亡くなり、1914年8月22日にはロレーヌだけで2万人が殺されている。140万人の死亡の他に300万人が負傷、多数の未亡人、孤児が生れた。

この戦争の後、"Plus jamais ça" (もう二度とない)、あるいは "la der des ders" (最後の最後) になると言われたのだが、、、



mercredi 12 mars 2008

ファニー・メンデルスゾーン Fanny Mendelssohn



ラジオから流れるメンデルスゾーンの曲が "Réformation" (宗教改革) との説明を聞き、調べているうちに出会った。ウィキをもとに再構成してみたい。

Fanny Mendelssohn (November 14, 1805 – May 14, 1847)


ファニー・メンデルスゾーン。ドイツのピアニスト・作曲家、アマチュアの指揮者。作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの姉としてよく知られているが、近年、彼女自身の作曲家・ピアニストとしての業績が見直され評価が上がってきている。19世紀前半において、フランスのルイーズ・ファランクLouise Farrenc, 31 mai 1804 - 15 septembre 1875)と並んで女性作曲家のパイオニアとなったことにより、女性作曲家およびジェンダー研究の対象として再認識されている。

ファニーとフェリックスは、ピアノと音楽理論、指揮という共通の音楽教育を受けた。弟と同じく幼少の頃より並外れた音楽的才能を披露し、作曲も始めた。フェリックスは姉の才能を理解し、高く評価していたが、職業芸術家として活動することに積極的に同意することはなかった。父親の姿勢は 「お前は弟の天才が理解できるのだから、それで満足しなさい」 と明快に言い切った。ファニーとフェリックスはその一生に膨大な往復書簡を残しており、その中でファニーはしばしば弟の作品に助言と批評を与えている。

1829年、何年かの交際の後、宮廷画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚。ヘンゼルはメンデルスゾーン家の音楽サロンや文芸サロンに出入りしており、ファニーとのなれ初めもそこだった。ファニーが身分にふさわしいとされた貴族や知識人ではなく、当時まだ職人階級と見なされていた画家と結婚したことについて、ジェンダー研究者は父親への反抗を見出している。

結局、ファニーは結婚して実家を離れてから久しい1838年にピアニストとしてデビューする。デビュー曲はフェリックスの≪ピアノ協奏曲 第1番≫であった。この頃にはファニーの作曲活動も再び活発になっている。夫ヘンゼルはファニーの音楽的才能の最大の理解者であり、自作を公表・出版するよう根気よく説得した。世を去るまでの数年間、ファニーが意欲的に作品の創作・出版に取り組んだ。ファニーは出産後、夫の任務に従ってヨーロッパ各地を転々とした。プロイセンに帰国し音楽活動に再び意欲的に取り組み始めた矢先の1847年5月14日、弟フェリックスの≪ワルプルギスの夜≫をリハーサル中に突如脳卒中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

姉の急逝が弟フェリックスに与えた衝撃は測り知れず、わずか半年後の1847年11月4日、姉と同じ脳卒中に倒れ、そのまま急逝した。



この私とは



昨日の記事に書いた私が学生時代に言っていたという 「私は良い日本語を研究しているのです」 が私の中に波紋を作っている。 私自身には全く身に覚えのなかった言葉なので、それを見た時には驚いた。一体、何歳の時で、その時何を考え、何をやっていたのか、興味が沸いていた。と同時に、そこに私の知らない、私が忘れた私を見る思いで、何とも言えない不思議な感覚が襲っていた。この感覚は、ブログを始めて注意深く観察するようになり何度か経験しているが、私の好きな感覚の一つである。

この経験はこの私とは何なのか、ということを考えさせてくれる。この世に存在している私は、街中で見られる街路樹や建物や路上の石などと同じく、物として他の人の目に曝されている。しかし今回のような経験は、それを見る人がそれぞれの中で全く異なる像を結んでいることを教えてくれる。自分の中でぼんやりと描いている自画像とはかけ離れた姿が、それぞれの中に存在しているはずである。自画像にどれだけの真実があるのだろうか。私の接触した方々の頭の中にあるものをこの空に描いてもらい、それを眺めてみたいものである。怖いもの見たさの心境だろう。

この経験は、この世の真実、真理とは何なのかについても教えてくれているようだ。そこにある街路樹や建物や石がどのようなものなのか、人により、その時により、大きく変わっているはずである。このことは写真を意識して撮るようになってからも感じていることである。写真の中に作者がこの世をどう見ているのかが表れていて、その姿が如何に人様々であることか。真理を究めることの意味を考えさせられる小さな出会いであった。



mardi 11 mars 2008

30年ぶりの再会



昨日の朝、ラジオからは リチャード・ロジャースとオスカー・ハマーシュタイン2世の名コンビが生んだ Oklahoma! から "Oh, What a Beautiful Morning" が流れている。期待してシャッターを開けると外は嵐。この世はそういうものかもしれない。

午後から外出し、オデオン近くの本屋で歴史関連の本を5-6冊仕入れる。それから、先週土曜に学生オーケストラで音楽を一緒にやっていた同期に当るSu氏から電話が入り、ご家族でフランスを旅行中とのことで再会することになったホテルまで出かける。実に30年ぶりのことである。2年前に会ったS氏の時とは異なり、学生時代と余り変わっていないようで驚きはなかった。最近、学生オーケストラの同期の連中が集まったとのことで、それこそ学生時代以来の寄せ書きなるものをいただいた。その中に、オーケストラの練習場で 「私は良い日本語を研究しているのです」 などと私が発言したのを覚えているというT氏の言葉を見つけ、自分の思いもよらない過去の姿を垣間見ることになった。一体何を考えて生活していたのだろうか。こういう瞬間には、そういうことを言っている人に会ってみたくなるのだ。

ホテルを出て、モンパルナスの辺りを散策後、レストランで食事となった。この間、彼が10年ほど前に患ったおそらく脳血管の病気の話が出ていて、単に身体的苦痛に留まらず、精神的にも相当に苦労された様子であった。話を伺いながら、そもそも病気とは何なのか、その上で患者のみならず医者、さらに言うと社会が病気をどのように捉えるのか、捉えるべきなのか、今の医療の中で患者さんが癒されることはあるのか、もしそれがないとしたら今の医学は何をやっているのか、患者と医者の関係は?、さらに今の医学教育はこれらの点に目をやっているのか、、、などなど、病気や今の医療を取り巻く問題についての疑問が頭を巡っていた。そして、これらの問題は広く深く考えるに値するという想いを強くしていた。

海の幸を食した後、ホテルに戻り再会を期して別れた。



lundi 10 mars 2008

Salon du livre et papiers anciens



昨日の午前中は日本から送られてきた論文原稿に目を通し、若干の校正をする。

それからゆっくりしていると、雨音が聞こえてきた。

バルコンに出てその音と景色を味わっていると、先日メトロで見た古本市のポスターのことを思い出す。


調べて見ると9日が最終日になっているので、早速 Champerret まで出かけることにした。これまで足を踏み入れたことのないカルティエになる。会場は天井が低く、本やポスター、プリントにはがきなどが所狭しと並べられている。いつものように何かが飛び込んでこないかと2時間ほど見て回ったが、残念ながらこれというものには出会わなかった。ただ、美術、科学、歴史に関連して、もう少し気分が乗っていれば手に入れていたのではないかと思われるものは何冊かあった。出足が遅く、傍観者の気分が強かったせいだろうか。この会はテーマを変え、場所を変えて古いもの、新しいものの展示をしているようである。


荷造りをし始めた会場を出ると、しばらく止んでいた雨が再び降り出していた。

近くのカフェで暖を取ってから帰って来た。





dimanche 9 mars 2008

どこか危険なもの



国際女性デーの昨日は、2年ほど前に初めてお会いした方と何ヶ月ぶりかのディネとなった。鄙びたセーヌを望む (と言っても暗くてよく見えないのだが) レストランで、気がつくと5時間にも及ぼうかという時間が経過していた。前回もそうだったが、この方と話しているとなぜか時間の流れが消えるようである。今回は私の生き方 (私という人間) が完全に日本の枠組みの外にある、あるいは少しずれているとはっきり指摘していただいた。もう少し詳しく説明していただくと、こういうことらしい。普通はベルの形をした正規分布を意識し、できるだけその中央に入ろうとするのだが、その正規分布を意識している気配さえ感じられないというのだ。まともだと思っているのはどうも本人だけらしいということがわかりつつある。ここ数年薄々感じていたようだが、こうもはっきり断言されるとそうなのかと思うしかない。同時にそれは、私の中に全く別の正規分布が存在していることの裏返しかもしれない。

こう書きながら思い出したことがある。それは、学生時代から卒業後しばらくの間にかけて父親が口を酸っぱくして言っていた、簡単に言ってしまえば、お前のようにやっていては日本では生きていけないよ、というものだ。なぜそうなのかをいくら言われても理解できなかった。今よりももっと理論的に考えていたはずなので、そこにはそうだからそうなのだ、という程度の理屈しかなかったのではないかと思うが、、。日本社会の中でしっかり生きた父親が私の中に見ていたどこか危険なものの正体はわからないが、振り返るとそれは私のなかでは生きる上でのモーターのようなものではなかったのだろうか。そして、そのモーターが非常に貴重なものに思えてくるこの日曜の朝である。

今日は予想もしないところに落ち着いてしまった。



samedi 8 mars 2008

国際女性デー Jounée internationale des femmes




今日3月8日は国際女性デーである。今週初めからパンテオンにこの景色が現れ、今回初めてこの日のことを知った。外に出ている一つの効果だろうか、日本では関心が薄くなる傾向があるように感じている。



ちなみに、ここに掲げられている人は以下のような方々である。拡大していただければわかるのだが、私自身も知らない方がいるので書き出してみたい。こちらにそれぞれの紹介がまとめられている。

中央にシモーヌ・ド・ボーヴォワール
上段左から、シャルロット・デルボ、ソリチュード、オランプ・ド・グージュマリー・キュリー
下段左から、コレット、マリア・ドゥレスメ (?)、ジョルジュ・サンド、ルイーズ・ミシェル

Simone de Beauvoir (9 janvier 1908 - 14 avril 1986)
 このポスターでは « On ne naît pas femme : on le devient » 「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」 が引用されている。モンパルナス墓地にサルトルとともに眠る。

Charlotte Delbo (10 août 1913 - 1er mars 1985) 
 レジスタンスに参加、アウシュビッツを経験したフランスの作家。

Solitude (1772? - 1802)    
 グアダループに奴隷の娘として生まれた。1794年に奴隷制が廃止され自由の身を信じる。しかし、ナポレオン一世が1802年から奴隷制を再び掲げ、自由のままであることを望んでいたグアダループへ軍を派遣。彼女は身重でありながら最後まで身を挺して戦い、お産の翌日絞首される。

Olympe de Gouges (7 mai 1748 - 3 novembre 1793)
 フランスの作家、女優、フェミニズム運動の先駆者。
 
Marie Curie (7 novembre 1867 - 4 juillet 1934)                                 

Colette (28 janvier 1873 - 3 août 1954) 
 性の解放を掲げ、自らも華麗な人生を送った。
   
Maria Deraismes (17 août 1828 - 6 février 1894) 
 フランスのフェミニストにして作家。初めてのフリーメーソン女性会員。
       
Georges Sand (1er juillet 1804 - 8 juin 1876)  

Louise Michel (29 mai 1830 - 9 janvier 1905) 
 パリコミューンの中心人物で、アナーキスト。昨年春にモンマルトルを散策中に彼女の広場を見つける。






vendredi 7 mars 2008

Mini-mémoires


Yves Farge (1899-1953) et Frédéric Joliot-Curie (1900-1958)


ミニ・メモワールについては、これまで何度も触れてきた。私の前に立ちはだかっている険しい山のように見えていたからである。私が書いたものは以下の4つとマスター1年目のメモワールの中間報告の5つになる。

"L'idée de Canguilhem et la médecine contemporaine"
 「カンギレムの概念と現代医学」

"Explication et la tâche du philosophe dans la science"
 「説明するということ、ならびに科学における哲学者の使命」

"'Qu'est-ce que la vie ?' de Schrödinger et l'approche transdisciplinaire"
 「シュレディンガーの 『生命とは何か』 と超学際的アプローチ」
 (この場合の transdisciplinaire とは、いわゆる学際的 interdisciplinaire とは少し違い、それぞれの専門性を超えて新しいものを創り出すという意味合いが強い)

"Expliquer la fonction immunologique"
 「免疫の機能を説明する」


日仏会議から帰ると大学の担当秘書さんから、ある先生がまだ成績を送ってきていないので私の方からも連絡してみてくれないかというメールが入っていた。丁度翌日クールがあったので話してみようと思っていたところ、中休みに先生の方からまだメモワールが届いていないのですが、と丁重に話しかけてきてくれた。数週間前に送っているはずなのだが、どこかで手違いがあった可能性が高い。再度送った後にすぐに連絡が入ったようだ。また、それとは別に中間報告の結果が届いていないというので昨日大学に確かめに行ったところ、こちらは9月に再度成績をもらうことで落ち着いた。

その時に久しぶりにオフィスがある方に足を運んだところ、何と廊下の壁にリサンスからマスターに至るまでの学生の成績が貼られていることに気付く。こんなことは高校時代にあったような気もするが、それ以来である。私のところを見てみたところ、def (おそらく、まだ結果が入っていないという défaillant の略だろうか) とされているもの以外は7割を超える高い成績が付けられていた。フランス語の語法も含めて中学生の感想文くらいにしか思っていなかったので、心底驚いてしまった。この道の専門家にとりあえずマスター1年目としては理解されたようで、ほっとしたというのが正直なところである。時間を掛けていろいろなものを参考にし、考えながら書き進むメモワール形式だったのでよかったのだろうが、これが例えば2時間の筆記試験とか口頭試問になると想像するだに恐ろしくなってくる。それがこれから待っていることになる。



jeudi 6 mars 2008

修道院生活で



日仏会議の初日が終わり、雨の中、他の方は農場が宿になっていたのになぜか私だけが中世の Abbaye に戻ってくる。その時、現世から精神生活に戻って行くような感覚が襲う。夕食の時、隣になった日本の方から 「日本の方ですか」 と問いかけられ、いつものように不思議な感覚が襲う。これらの感覚の中で、今の生活がどこかに属しているというのではなく、もはや精神だけの生活になっているのではないか、という想いが浮かぶ。まさに、今回のような会に出かけ、以前から知っている人に会うと、どこか現世に戻ったような気分になるから不思議だ。

この生き方は、以前ハンモックでも触れた古代・中世の専門家にして御年87歳の哲学者のリュシアン・ジェルファニョンさん (Lucien Jerphagnon, 1921- ) の生き方に近いものがあるような気がしてくる。今、ハンモックの関連記事を読み直してみたところ、普段は過去の中に身を潜め、用事のある時だけ現世に戻ってくるという彼の生き方に憧れを持っていた節もある。ひょっとすると、その時の気持ちのままに歩みを始めているということなのかもしれない。中世の修道院の夜、そんなことを考えていた。


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(12 février 2012)

ジェルファニヨンさんは、2011年9月に90歳で亡くなられた。

今回この記事を読み直し、今まさにジェルファニヨンさんの生き方の中にいることを感じる日々が続いている。




mercredi 5 mars 2008

英語を話そうとして



今回の会議である戸惑いを感じていた。フランス語を始めた当初は、いくらフランス語で話そうとしても英語が出てきて困った記憶がある。その時に、頭の中では日本語を話すところと外国語を話すところは別なのだと感じたものである。外国語を話す時には全く違うところにある部屋に入るという感じである。そしていつになったらフランス語で話そうとする時に英語が浮かばなくなるのだろうかなどと考えていた。

今回は基本的に英語が共通語ということになっていたが、フランス人とはフランス語で話すようにしていた。そのせいか、いざ英語に切り替えて話そうとする時にフランス語が頭に浮かんできて困った。特に、ワインの影響下では英語とフランス語のスイッチが全く作動しなくなり、とんでもないチャンポンになっていた。困ったとは思いながらも、以前では考えられない状態なので、この半年足らずの間に浴びたフランス語の影響が実際に現れ始めているのではないかと考えていた。これはフランス語が話せるようになっているということではなく、話す時にまずフランス語で表現しようと無意識のうちに思うようになっているということであろう。こちらに来た当初、フランス人Fから聞いた日本の1年はこちらの1ヶ月だという言葉を改めて思い出していた。

日本にいた当時の自分の状態を思い出すこともできないし、自分がその状態を客観的に見ることもできないだろうから現在と比較はできないが、少しは前に進んでいるものと思いたい。道遠しの印象に変わりはないが、、、



mardi 4 mars 2008

科学の現場を遠くから



日仏会議に参加するため、久しぶりに郊外へ足を伸ばしての2日間となった。また私にとっては昔の分野で活躍する現役の方々にも会うことができ、貴重な時間にもなった。会場は La Ferme となっているから農場。私のホテルは中世の僧院を改装したもので独特の雰囲気があり (今日の写真)、部屋も広く、水辺に寄って来る水鳥の鳴き声を聞きながらのプティ・デジュネ。一つの経験となった。

日本からの方の話では、研究を取り巻く環境も変わりつつあるとのこと。例えば研究費をどのように配分するのか、それはどのような研究をこれから支えていくのか、国として研究の体制をどの方向に持っていこうとしているのかということにも繋がる問題なのだろうが、そこのところを上からの視点で深い議論がされているのか疑問を持っている方もおられた。言ってみれば哲学的な課題でもあり、その点こそ真剣な議論が必要になると思うのだが、それがされないまま行政からの方針の単なる微調整に終始してきたように見えるが、いかがだろうか。

会議では多くの考えが誘発された。例えば、日本の若い方もよい研究をされているが、こちらの人との違いも強く感じた。これは今回に始ったことではないが、おそらく科学に対する姿勢の違いから来ているのではないかという印象を持った。ある研究をする時にどのような意図で向かっているのかが形としては見えるのだが、それが形に留まり、その人間の底からの叫びのようには響いてこない、訴える力が弱いのだ。これは単に言葉の問題ではなく、日本の科学の現場の文化、科学と日常との乖離、さらに個の自立のような問題とも繋がっているように感じていた。大きく言うと、科学の歴史の違いになるのかもしれない。





会議は和やかな雰囲気の中で進められていた。会議場が農場なので、発表者が回答に窮していると珍客が現れて大きな鳴き声を発した時には会場が爆笑の渦に巻き込まれていた。また以前に私のボストン時代に時間をともにしたフランス人について触れたが、彼が当時所属していたところから来ている人がいたので所在を調べてもらうことにした。よい返事が戻ってくることを願っている。

ところでこの方は5-6年前までENSで研究と教育に携わっていたとのことだったので、こちらの大学の様子を聞いてみたところ、意外な返事が返って来た。フランスでも科学史や哲学について科学者の卵が学ぶ機会は少ないという。彼もその重要性を指摘しているのだが、その上で最近の若い人を見ていると高級テクニシャンにしか見えないらしい。ひょっとするとこの現象は現代の科学のやり方に伴う内在的な問題の表れなのかもしれない、という考えが頭をもたげていた。その話の中で彼の気に入っている人物が私の顔になっているディドロであることがわかり、意気投合することになった。

それから以前に直接のコンタクトはなかったが遭遇していた方もいた。ひとりは数年前にこちらの病院で話をしたことがあるが、それを聞いていたと言う方。彼は別れ際に、ホテルに帰って科学から哲学に移って本当によかったと思うのでしょうね、とどちらにも取れる言葉を残していた。もうひとりはアメリカの方で、向こうの学会で何回も見かけているので顔は覚えていると話しかけてきてくれた。共同研究や研究所のアドバイザーをしているとのことで、日本にも年に1回は行っているようである。今回もいろいろな出会いがあった。まだすべてをまとめ切れていないが、今日はこんなところだろうか。



lundi 3 mars 2008

僧院出発までに



この1週間ほどメモワールの計画を修正・補充する作業に当たっている。この間、こちらに来てからミニ・メモワールを出すまでの過程を改めて振り返っていた。残されたメモを見ると、当初考えていたものとは全く別物に仕上がっていることがわかる。とにかく最初はどのような対象を選ぶのか、その対象をどのように捌くのかという基本が全く掴めていないため、霧の中を行くが如しであった。そして締め切り一日前になり、自分が何をやろうとしていたのかがわかるという曲芸のようなことになっていた。それはメモワールに向かう今も変わらない。これまで味わってきた苦しみが始っているようで、これからそれをたっぷりと味わうことになるのだろう。

ある意味では、この混沌の状態は対象もその料理法も完全にオープンであることの裏返しになるのだろう。ゼロから考えることができるという点では、醍醐味満点のような気もしてくる。それはさて置き、現実には中間計画を仕上げなければならないのだが、これまで同様書こうという気がさっぱり起こってこない。自分でも理解に苦しんでいる。仕方なしに夕方から散策に出て、その勢いで書き上げようということになった。僧院に出発するまでには仕上げなければならないのだが、、、



dimanche 2 mars 2008

あるご老人のこと



大学の教室前の廊下にベンチが備え付けられている。まさに板だけのベンチで、クールが始るまでそこで待つのが日課になっている。そのペンチでいつも見かけるご老人がいる。白髪で髭がたっぷり伸びている痩せ型の方で、その場の景色にぴったりなのである。ベンチに新聞を置き、屈み込むようにして手にした鋏みでその中の記事を切り抜いている。最初はクールが始るまでのことかと思っていたが、どうもそれ以外には何もしていないようである。哲学科の廊下には霊感を与える何かがあるのだろうか。それは生きている証としての作業なのだろうか。いつも不思議に思っていて一度話をしてみようと考えてはみたが、一喝されるのではないかとの怖れからまだ直接話をするところには至っていない。その景色が日常の一駒になってしまったのか、大学を出ると記憶の彼方に消えていたが、なぜかこの日曜の朝に思い出され、書き留めておこうという気になった。


明日から3日間、パリ郊外の僧院で日仏の科学関連の会議がある。私は大学の関係もあり最初の2日間だけ出席する予定にしている。日本からは5-6人が参加するとのことなので、久しぶりにいろいろなお話が聞けるのではないかと楽しみにしている。



samedi 1 mars 2008

週末の解放感



昨日、金曜のクールが終ると何ともいえない気分が襲うと書いたが、その正体について考えてみた。これまでであればそれは解放感と言ってもよいもので、のんびりと終日音楽を聴いて過ごしたり、街中を歩き回るなどしながら過ごしていた。しかし、最近では週末の捉え方の質が変わってきているようだ。一つには週に起こる出来事の圧力と言ってもよいものがかなり弱まっていることが大きいのではないだろうか。つまり、クールを経験することが非日常的だったものが少しずつ日常の一部になりつつあるということだろう。だからと言ってそこで起こっていることを充分に捉えているかと言えばそんなことは全くなく、以前と同様処理能力を超えた情報の山に押しつぶされそうになっているのが現状である。そのせいか、その週に溜まった情報をゆっくりとした時間の中で反芻することができる悦びを味わえるという期待感に近いものがその正体ではないか、ということになった。それにしてもなかなか追いつかないものである。いつになったらすんなりと入ってくるようになるのであろうか。

今日も午後から研究所へ。まず入った辺りに置かれてある本を何かないかと思いながら一瞥するのが習慣になっているが、たまにこちらの注意を惹くものが見つかる。今日も哲学と科学に関連して新しくシリーズで出された本に目が行った。係の人に尋ねてみたところ、それ以外のものを購入する予定のようなので、他の図書館に行くか自分で仕入れなければならないだろう。予定を変更してその本を読んでいるうちに時間が経っていた。これも解放感の成せる業だろうか。ということで、クールのおさらいなどはなかなか実現しそうにもない。




vendredi 29 février 2008

いよいよ本格的に



週末を迎える気分は何とも言えないものがある。今日は、今週最後で今月最後のクールが11時から2時間あった。これは現代哲学のクールで、前期もそうだったが人気がある。いつも床や窓の出っ張りに坐っている学生がいるので登録している人は50を超えているのではないかと思われる。講師の先生はおそらく40代のエネルギッシュな女性で、女性問題や人種差別などの問題にも積極的に発言している方のようである。という訳で、最後まで突っ走る。久しぶりに椅子に足を掛けて講義をする女性を見た。元気が出るクールと言ってもよいだろう。

昨日のクールもそうだったが、もう後期をどのようにまとめるのか、という話が出ていた。昨日のクールは4月早々に中間の筆記試験をやるとのことであった。こちらの最終試験は口頭試問という話も出ていた。じっくり時間を掛けてやるミニ・メモワールの方が自分には向いているのだが、、、。いずれにせよ、いよいよ本格的な学生生活の幕開け、という印象である。先生の年齢と話す速度、厳しさにはある相関関係がありそうである。



jeudi 28 février 2008

知のあり方


Pr. Anne Fagot-Largeault
(Collège de France)


あるクールを聞きながら、知のあり方などということを考えていた。海外に出てみると、とにかく人間の可能性の幅が広いことに驚かされる。それは20年以上前のアメリカでの生活の一つの結論でもあったが、今その経験を別の角度から広め深めているかのように感じている。少なくとも、そうありたいと願っていることだけは間違いがない。

今この世にある人だけではなく、歴史に少しでも足を踏み入れただけで、これほどまでにいろいろな頭の使い方があるというダイナミズムに感心したり、時にはそれぞれの微妙な差を辿り直さなければならなくなったりする。どんなところに力を入れてものを観るのか、本当に人さまざまである。私の営みには単にいろいろな事実を知るという喜びだけではなく、それ以上に人間というものの凄さを体感しながらその思考の跡を自らも歩んでみるという醍醐味が溢れているような気がする。そこに尽きることのない魅力がある。

進化の光の下でものを観なければ生物の真の理解はできないという言葉がある。その生物という言葉を人間に置き換えてみると、歴史の視点を持たなければ人間の真の理解はできないということになる。そこには真理があると考えたい。そしてこのことを本当に理解しているかどうかで、その人間やその人間の属する社会の価値が決まってくるような気がしている。


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今日の休憩時間のこと。隣の教室から男子学生が飛び出してきて、まずゴミ箱を、それから廊下に備え付けられていた消火器を思いっきり蹴り上げ、両手を挙げ大きな叫び声を発しながら階段を駆け下りていくという出来事があった。事の詳細はわからない。


今日の講義時間中には大学事務の方が数人 (消防署の人?) を連れて入ってきた。木の枠に歪んだガラスの入った窓の閉まり具合などをチェックし、取っ手の辺りの写真を撮っていたようだが、事の詳細はわからない。



mercredi 27 février 2008

久しぶりに



今日は久しぶりに外に出たことになる。午後から研究所へ。これからの仕事に関連する資料に目を通す。その度に思うのは、なぜ普段から頭を働かせていないのかという疑問であり、少しは前に進めたらどうなのかという苛立ちでもある。もう旅行者は卒業したはずなのだが。

科学関係の論文のコピーを頼みにカウンターに行く。受付の方が親切で、カウンターの中に来て論文を自分で選んでやってみたら、というのでトライしてみた。ここは一枚20サンチームとのことなので両面印刷をしようとしたのだが、いつもの場所にそれが見つからない。彼女がやっても駄目。ということで片面になってしまった。学生の身、料金がかさむので困っていたが、片目を瞑って計算してくださいね、と言ってみたところ、彼女が大きな声で笑い出し、結局両目を瞑ってくれた。明日以降に両面印刷をすることにした。

閉館間際、同じ建物でやっていた会議が終わり見かけたので来てみたと言って、いつもお世話になっているMD氏が寄ってくれ、来月の記念行事の案内を渡してくれた。丁度都合がよかったので、先日ある方との会話の中で私が "La culture fraçaise me galvanise" と言ったところ、その方が噴き出していたのは一体どうしてだろうかと聞いてみた。それは (お前さん、とは言っていないが) 少々表現が強過ぎるのでは、との含み笑いを伴ったコメントが返ってきた。皆様、お気を付け下さい。

夕方郵便局に寄り、30分ほど待ってやっと guichet に辿り着く。いざ切手を注文すると生憎ありませんと言う。やはりフランスなのだろうか。



mardi 26 février 2008

雨の日は



今日は曇りで雨交じり。
読んでいるうちに時間が経っていた。
とにかく時間の流れが速いという、こちらに来てからの感想を確認していた。


朝のうちは La philosophie des sciences au XXe siècle (20世紀の科学哲学) という専門の本をざっーと流していた。前期に講義を聞いたアヌーク・バルベルス (Anouk Barberousse) さんも書いていて、現在私が興味を持っている点について詳しく書かれている。これからじっくり読みたいものになった。

それから Penser la médecine (医学を考える) という医学を哲学的に扱っているアンソロジーに移り、その最初のエッセーの最初のページに出てきた "une personne souffrante ....., destinée à mourir." (死の運命にある...病める人) という文章に出会った時、死を前提にして考える哲学者はある意味では病める人ではないか、という思いに至る。それは不健康と言うよりは、その意識でいると日々が生き生きしてくるという逆説が含まれているように感じていた。

また、トマス・マンの 「魔の山」 (Der Zauberberg : La Montagne magique : The Magic Mountain) が出てくる。小説はどうしてもいずれになり、まだ読んでいないが、この本では病気との関連のみならず、多くの哲学的主題に溢れているようだ。いずれ本当に読んでみたいと思わせるものがあった。若い時に読んでいれば、その時との比較ができてさらに面白いのだろうが、、。

ということで、相変わらず興味が一所に留まらない一日となった。



lundi 25 février 2008

そうは問屋が



数日前からクシャミが出るようになってきた。私の場合は疲れが溜まると風邪を引くことがわかっているので、風邪を引いたら逆に疲れが溜まっているな、と思うようになった。今回もぼんやりとそう思っていたところ、昨日の散策の後、妙に鼻がムズムズするのだ。早々に出した結論を修正しなければならなくなった。この結論を出した背景には、昨年3月にこちらを訪れた時にそれまでの花粉症が治まったという経験があったからだ。併せて考えると、パリでもスギ花粉は飛んでいるが、2月後半から3月中旬くらいの一月足らずの間だけではないか、ということになる。今はこの楽観的な推測が当たってくれることを願うばかりである。

現在、マスター1年目のメモワールの計画を練り直しているところだが、新たにミニメモワールについてのコメントが一つだけ戻ってきた。提出の時にお願いしておいたのだが、すべてについてコメントが戻ってくる可能性は少ないと思っている。学生の多いクールではそんな余裕はないだろうと考えられるためだ。ただ、あと一人の先生は必ずコメントを返してくれるとのことだったので、楽しみにしているところである。と言うのも、今回のコメントも当然のことながらツボを突いていて、自分でも弱いなと思っていたところについて、さらに言及するとより幅が出ますよ、と言うもので、非常にためになると同時になぜか嬉しくなるのだ。

本日はお休みのため、その気持ちのままお昼の散策に出た。いつもの鄙びたセーヌに挨拶をしてから向かったお店が閉まっていたので、歩を進めているうちに本屋に入っていた。目に入ったのは、今年HIVウイルス発見から25周年を迎えるリュック・モンタニエ氏の新刊書 Les combats de la vie : Mieux que guérir, prévenir (Luc Montagnier) 「命の戦い : 治療より予防を」 と、昨日の記事で触れたフランスの17世紀後半の哲学者ピエール・ベール (Pierre Bayle) の名前がその中に見えたアクセル・カーン氏とクリスチャン・ゴダン氏の対談集 L'homme, le bien, le mal (Axel Kahn, Chrisitian Godin) 「人間、善、悪」、さらに哲学関係の本1冊を買って帰って来た。


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dimanche 24 février 2008

スピノザと日本



このところ本当に不思議な繋がりが続いている。この前身であるハンモックは、今もいろいろな方に訪問していただいている。メールも送られてくるがほとんどすべてがジャンクなので、たまに寄せられる貴重なコメントまでも削除しかねない。昨日はそういう日になるところであった。昨年夏にこちらに来て書いたスピノザについての記事に、山石水皮様からの興味深いコメントが寄せられていたからである。


そのコメントにはこう記されていた。

「スピノザは神学・政治論で日本について書いていると聞きました。何からどのようにして日本を知ったのでしょうか。スピノザは江戸日本からどのよ うな影響を受けているのでしょうか。17-18世紀のヨーロッパの変化について関心があり調べています。お分かりでしたらお教え願えれば幸いです。」

スピノザ (Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)

私自身はスピノザに興味を持ってフランスの雑誌記事について触れたのだが、スピノザを読んでいる専門家でもなければ哲学に広く通じているわけでもない。したがって、この疑問には答えられないので、その旨の返事を書いた。そして、その返事を送ろうとする時、指摘されている不思議なつながりに異常な興味が湧いていた。少し調べてみようという気になりネットをサーフすると、上智大学が発行している雑誌に載っている、まさにこの問題をテーマにした論文に行き当たった。ラテン語とその訳としてドイツ語が出てくるフランス語で書かれたこの論文を頼りに、両者の関係を探ってみたい。

Henri Bernard "Spinoza et le Japon"
Monumenta Nipponica, Vol. 6, No. 1/2, pp. 428-431, 1943

スピノザの死後20年にあたる1697年に、彼に敵対していたピエール・ベール Pierre Bayle (18 novembre, 1647 - Rotterdam, 28 décembre, 1706) というフランス百科全書派のさきがけと言ってもよい哲学者が Dictionnaire historique et critique 「歴史と批判精神辞典」 を出版した。この膨大な辞書はネットで読むことができるが、スピノザの項だけでも70ページが割かれている。その中でスピノザを 「古今のヨーロッパや東洋の哲学者の影響を受けているが、全く新しい体系と方法を持つ無神論者」 と規定した上で、中国の哲学、さらには日本の哲学と同一視しているという。

私がざっと目を通したところでも、無神論を構成する要素が中国人の間には一般的に広まっているという指摘があり、別の書の引用がされている。そこには、中国人は世界の至る所に精神が宿っていると考えており、それは星であり、山、河、植物であったりする、という記載もある。

1649年、スピノザ16歳の時にはベルンハルト・ヴァーレン (ラテン名:ベルンハルドゥス・ヴァレニウス) の Descriptio Regni Japoniae という日本伝聞記がアムステルダムから出版されていた。この著者は地理学にも興味を持っていたドイツの医者にして数学者で、仕事の慰みに日本についての情報をハンブルグの政治家などに提供していたという。28歳の若さでこの世を去っている。



Descriptio Regni Japoniae


1663年には、日本に初めて足を踏み入れたというオランダに移住したフランス人 François Caron の "A true description of mighty kingdoms of Japan and Siam" という書も出版され、日本に関する情報には触れることができたであろう。余談だが、この書はあらゆることに興味を持っていたスウェーデンのクリスティーナ女王にも献呈されている。幸いなことに、同志社大学のケーリ文庫で読むことができる。

その上で、この論文の著者アンリ・ベルナール氏は、Tractatus theologico-politicus 「神学・政治論」 で日本に言及されているのは第5章だけで (日本におけるキリスト教の儀式について) 、実際のところ、スピノザの哲学思想が日本の儒教思想に影響された可能性は低いだろうと考えている。

他の論文に当たっていないので科学的な正当性は保証できないが、この方面への第一歩にはなったように感じている。


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思わぬところから歴史への旅をしたことになるが、過去の書に触れる瞬間にはそれがネット上であっても不思議な興奮が襲ってくることを発見していた。山石水皮様には改めて感謝したい。




samedi 23 février 2008

Liguea 様からの再びの便り



2年程前にこのブログの前身であるハンモックの仏版に届いたコメントは、私にとっては衝撃的であった(2006-04-28)。Liguea 様の言葉は、今となってはその後を予言しているようにも感じている。そのコメントの中で、私と関係のある芸術家・哲学者として、ハイデッガー、フッサール、そしてカンディンスキーを上げていた。その意味は未だによくわからないが、ずーっと気になっている人たちである。今日、週末のせいもありのんびりしていたせいか、ハンモックにアクセスのあった記事を読み直していた時、彼からのコメントが届いた一月後にカンディンスキーについて書いたものがあった(2006-05-28)。その中で、カンディンスキーが自らの芸術を生み出す時に、「自分の内から真に湧き出るもの、それだけを頼りに描くこと」 という考えを基にしていたことを知り、自らに重ねているところが見つかった。同様の考えや見方が仏版ハンモックのどこかに顕れていたのだろうか。それを指摘していただいたことで私の目は大きく開かれたように感じている。さらに、昨年こちらに来る前にも心を打つメールをいただいたことも大きな力を与えてくれており(2007-05-27)、いつも感謝の気持ちを込めて難解な文章を読んでいる。


そして再び Liguea 様からメールが届いた。哲学の専門家だけあり、今回も複雑な文体と豊富な語彙が溢れるそのメールには、次のようなことが書かれてあった。
「昨年メールを出してからご無沙汰していましたが、私自身取り込んでおりパソコンに向かう時間もありませんでした。大変失礼いたしました。

今回あなたがフランスに来られたということに深く心を打たれております。もはやフランス人でさえ、このフランスの地に立ってフランス語やフランス文化を学ぼうとするあなたに比する愛情を自らの文化に持っているとは言えないように思います。フランスは今大きく変わろうとしております。そのすべての精神性とは関係のない世界になっています。私は心底フランスには幻滅しております。自らの運命を自らの手で決めることを止めてしまった国には全く魅力を感じません。あなた自身の存在にとって意義のあるフランスから目覚めを得ようとするあなたの試み、それを支える迸り出る生命の躍動と勇気が与えられますよう願っておりま す。

ところで、われわれの道行きが交錯していることにお気付きでしょうか。あなたは科学の世界から科学哲学という抽象的な世界へと向かわれています。つまり、あなたは「存在」の新しい理解につながる最も多様な基盤へと向うために、具象の世界から旅立った人です。あなたの年齢でそのような道に入られることに深い尊敬の念を覚えると同時に、私自身を広い思索に導いてくれます。反対に私の方は、抽象的な場所から現実に戻ることを決めました。ある意味では逃避の世界から具体的なものを作る仕事に就くことになります。それは私の青春時代の夢でもあったのです。私は40歳を前に哲学を辞め、具象の世界に生きる成熟を得たと思っています。

人生は不思議で驚きに溢れています。われわれの道行きの方向は重要ではありません。われわれがどんなに些細なことでも自らの最善を捧げて実現していくというその心の在り様こそ重要なのです。フランスがあなたに捧げてくれる最善のもの、そして私が移住することを決めたスイスが私にもたらしてくれる最善のものを期待したいと思います。

最後になりましたが、もしあなたがフランスに長く滞在されるのであれば、あなたを私の未来の祖国に招待したいと思っております」


ピエール・ベール Pierre Bayle


Pierre Bayle
(près de Pamiers, 18 novembre 1647 - Rotterdam, 28 décembre 1706)


スピノザと日本の関係を調べている時、この方に出会った。百科全書のさきがけとも言える、引用を本文中に囲い込むような記載が現在のハイパーテキストを思わせるという指摘もある彼の Dictionnaire historique et critique (1697) で、スピノザの50ページを超える項に触れてみた。当時の人の仕事を凄さを思い知らされるようであった。

プロテスタントの家に生まれ、父親からギリシャ語、ラテン語を学ぶ。家庭が貧しかったため、兄が学校終えるまでは行けなかった。22歳でトゥールーズのイエズス会の大学に入り、そこでカトリックに改宗。しかし17ヵ月後には再びプロテスタントに改宗、ジュネーブに逃げる。そこでデカルトを学び、神学の勉強に取り掛かる。

数年後にフランスに戻り、ルーアンやパリで家庭教師をしながら執筆を始める。28歳の時にセダンの哲学教授になる。34歳で大学が閉鎖になったが、ロッテルダムの哲学・歴史学の教授で迎えられる。・・・・・

この Dictionnaire はそれまでの辞書の誤りを正すのが目的だったようだ。彼は、この世界が単純な善悪二元論 manichéisme には決して還元できず、相対立する見方や意見が永久に交錯していると考える懐疑主義者であった。

1906年には、永い忘却の償いとしてパミエ Pamiers の町に彼の像が建ったという。




vendredi 22 février 2008

織姫と彦星?



本当に人生は不思議である。織姫と彦星のお話を遥かに通り越した再会が実現した。私が彦星を名乗るのは少々おこがましいが、話のついでだと思っていただきたい。織姫は現在アメリカの大学で活躍する研究者。滞米10年くらいになるのだろうか。その彼女から突然メールが入った。今日アメリカを出てパリに行くのでお茶しませんか、というものだ。パリ大学でお話をするとのこと。こういう唐突さは彼女らしさが出ていて好ましく思っているところだが。そこで思い返してみた。とにかく、いつどのような切っ掛けで知り合うようになったのか、始まりがはっきりしないのだ。最初は彼女が大学を出て数年の時ではないかと思うが、溌剌とした快活さと涼しげな印象が強く残っている。それから彼女がアメリカに渡り、私が出張に行った時に会ったのがほぼ10年前のことになる。大雑把に言えば、10年に一度会えることになっている関係とでも言えばよいのだろうか。その3回目のランデブーが実現したということになる。

観光名所での1時間半ほどのお茶になったが、いろいろなことを話した。すべては思い出せないが、いずれ暗闇に入った時に出てくるかもしれない。一つだけ上げるとすれば、社会の枠がわれわれに及ぼす影響が話題になった。その枠に入るのかどうか、入って違和感を感じないのかどうか。彼女も含めて、キャリアを求める若い女性は結婚というものを成功への条件のように考えていて、とりあえずその条件をクリアしようとするらしい。ここまでは一般論として語っていた。それから人によっても違うのだろうが、時間が経ちキャリアを求めれば求めるほど、その関係が大きな負担になり始めることもあるという。つまり、その過程で自らの内なる声を聞くうちに、それが必ずしも自分の求めていたものではないのではないかと気付くことになりジレンマに陥るという。これは彼女自身の経験のようにも感じたが。この話を聞きながら、人間関係の難しさを考えていた。また、彼女は海外での生活が長く、研究を生業とされているので、枠の中でどうするかだけではなく、枠の外から考えることの大切さを語っていたが、それが日本社会では乏しいのではないかという印象を持っているようであった。その点は先日も触れたが、私もほぼ同意見である。

私の方は学生生活に至るまでの偶然に次ぐ偶然の出来事を話したが、彼女の反応はそれを必然と言うのですよ、とのこと。変に納得していた。それから学生生活の現実へと進んだが、老後とは程遠いその生活ぶりをどのように聞いていたのだろうか。とにかく半年後1年後のことも解らないという状態をどう受け止めるのか。銀行での性格判断の話 (アメリカでは当然行われているとのこと) と絡み合わせて、彼女が offensive であるのは言うまでもないだろうが、offensive であれば楽しめるのではないか、ということになった。私の方はどうなってもよい立場なのだが、これからがある彼女には真の成功を手に入れてほしいと願っている。

ということで不思議な縁を感じながら、10年後の4度目の再会を約してクールに向かった。


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ランデブーの前に周辺を散策中、これまで使っていた私の肖像画が彫刻になっているのを発見。以前から目には入ってはいたが、気に掛けていなかったようだ。その写真に変更した。




jeudi 21 février 2008

アンリ・サルヴァドールさん追悼 Henri Salvador



メトロの座席に残っていた情報誌をめくっている時、彼が90歳で亡くなっていたことを知る。


Henri Salvador (18 juillet 1917 - 13 février 2008)
un chanteur, compositeur et guitariste de jazz français


もう数年前になるだろうか。どういう切っ掛けか忘れたが、"Jardin d'hiver" が入った "Chambre avec vue" というCDを仕入れて聞いたことがある。最初のうちは全くピンと来なかった。それまで聞いていたアメリカの歌のように人生に向かっていくという力強さを感 じなかったからだろう。しかし、聞いているうちに人生に向かうのではなく、じっくり眺めながら寄り添っているような、肩の力が完全に抜けたその歌に惹かれ 始めていた。この手の歌手はアメリカには余りいなかったように思い、新鮮に感じるようになっていた。同じような経験はムスタキと出会った時にもしている。











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賢犬様からアンリ・サルヴァドールが最高と考えていた歌を教えていただきました。
以下に紹介致します。








mercredi 20 février 2008

エネルギー戻る



昨日は待望の電気が戻る日であった。先日の連絡ではインターフォンで連絡できますよ、と言っておいたのだが、よくよく考えてみると電気がないのでそれができないことに気付く。いつものようにこのタイミングで。仕方なく15分ほど前から外で待つことにした。予定の時刻になっても人が来ないので電力会社 (EDF) に電話すると、4時間の幅で現れることになっているという。そんなことであればこの日にはしなかったのに、と食い下がっている時にタイミングよく2人が現れてくれ、お互いの声の調子が一気に和やかになった。そして彼らのお陰で6日間に及ぶ問題が一瞬にして解決した。ほっとした、というのが本当のところだろう。

それからフランス語のクール (FLE) のためにTolbiacへ。ここは教養学部のようなところで、他の校舎からは感じられない猥雑さとエネルギーが溢れている。今日の写真はそこで目に入ったもので、フランスでなければありえないような (日本では考えられないような) 学生寮を求めるポスター。実は先週土曜に登録してあった教室に行ったのだが、これがキャンセルされていた。折角なので丁度やっていた別のクールに顔を出し、条件法の復習をやってきた。その時に、火曜に別のクールがあることを知り、出かけたという訳である。おそらく私より少し若いくらいの女性教授が担当。始る前に登録用紙が配られ、専攻と生年月日を記入して手渡すと、彼女は何ともいえない顔で、にやっとしていた。私の年齢を見た時の先生の反応を見るのがこちらに来てからのひとつの楽しみになっているようだ。ちなみに、この日のテーマは接続法であった。その中で、接続法を用いて嘆願するという設定の下に作文するという課題が出された。それを隣の2-3人とグループを作って共同作業でやるのだが、私の隣はラテンの国から来たおそらくリサンスの女子学生さん。なぜか楽しい時間となった。彼女たちの作文する様を見ていると、自分たちの言葉に少しだけ手を加えているという風情で、何とも羨ましい限りであった。ただ、彼女たちにしても街に出て店員などと話をするとすぐに英語で答えが返ってくると言って不満気であった。私などはいつも経験していることだが、、、

夜には指導教授とのランデブーがあった。先日提出したメモワールの中間報告についてのディスカッションのためである。この機会にその原稿を読み返してみたが、ざっと見ただけでもいくつか単純な文法的な誤りが見つかったりする。やはり、終了直後だと客観的な視点を持てないようだ。次回からは締め切り1週間くらい前に一度終えてから時間を置いて見直すということをしないと駄目だろう。今回はあれで精一杯だったので、致し方ないような気もしているが。ランデブーではいくつかの問題点を指摘されたが、それは自分でも充分にわかっていることなので反論の余地はないであろう。コメントを考慮に入れて校正することになった。さらに、私が持っている基本的な疑問についても話をしたところ、その点についても1週間くらいでまとめるようにとの話になった。これは1週間というような短期間ではなく、年単位のことで考えていたので少々驚いたが、今はどんなことも苦痛に感じない不思議な精神状態になっている。

仕事の話の後雑談になったが、その中でフランスの大学人の考え方に触れたように思った。これは先日の記事とも関連するので、一教授の考えではあるが紹介しておきたい。まず驚いたことに、フランスの大学の状態を見ると dépressif になるというのだ。フランスでは大学自体が特別な存在、選別された、そのためやや差別的な(くらいに優遇された状態にあるという意味だろうが) 立場にあるため、保守的な傾向が非常に強く、変化や活力に乏しいと見ているようだ。それを強く感じたのは、アメリカで生活してアメリカの大学に貫かれている平等の精神を体験した時だという。それは大学のシステムを平等精神で動かすように努めているという意味と、フランスに比して大学が外に開かれているという意味が含まれているのだろう。そして、その考えをフランスの大学にも導入したいような意向を持っているように見受けた。私がフランスの大学のクラシックなスタイルが気に入っており、活力と霊感を得ていると言うと、少し驚いた様子であった。そして、私のように退官してまでこのような道に入る人がいるということは、大学にいる人間にとっても何らかの影響があるのではないか、という言葉をかけてくれた。ご本人の退官後は音楽に打ち込みたいとのことであった。話をしているうちに、これから何かが始るのだという感触を強く持つことができた、よいランデブーであった。